あらすじ
地上から人が消え、最後の一人として生き残ったケイト。
彼女はアメリカのとある海辺の家で暮らしながら、終末世界での日常生活のこと、日々考えたとりとめのないこと、家族と暮らした過去のこと、生存者を探しながら放置された自動車を乗り継いで世界中の美術館を旅して訪ねたこと、ギリシアを訪ねて神話世界に思いを巡らせたことなどを、タイプライターで書き続ける。
彼女はほぼずっと孤独だった。そして時々、道に伝言を残していた……
ジョイスやベケットの系譜に連なる革新的作家デイヴィッド・マークソンの代表作にして、読む人の心を動揺させ、唯一無二のきらめきを放つ、息をのむほど知的で美しい〈アメリカ実験小説の最高到達点〉。
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Posted by ブクログ
人からのおすすめ閾値超えで年末年始読書に手を取りました。2026年初読書はこちらでした。「ジョイスやベケットの系譜に連なる…」という前情報だったので少し警戒気味(?)だったのですが、読みやすく、スイスイ読みながら、これはジョイスやベケットの系譜に連なってるわ!となっていした笑。
自分が普段認識しない意識や思考のながれをそれとなく認識させてくれる文章なのがすごい。
個人的に絵画や音楽の話がふんだんに使われているのも面白かったし。途中で時々間違えるので、こちらもアンテナを張ってないといけないわけですが。。笑(ライナー・マリア・ラスコーリニコフとかw)
自分自身が世界で1人になったら、私はどのような行動を取り、どのような文章を残すだろうか。現在も誰しも孤独な中で(若島先生の「地球最後の一人となってタイプを打つ女の物語に読者が共感するのは、書くのも読むのも孤独な営みだからだ。」というのまさに)、この文章は今の自分自身と共鳴するところがあるのではないか、ということをとりとめなく考えられるのも楽しかった。
そうして最後消えていく…フーコー今年生誕100年なので読もうと思っているのだが、言葉と物を手に取りたいと思い出した。
だから結局、ここまでの私の思索はやはり無意味ではないのかもしれない。
今の言葉の意味は私にはほとんど分からない。
考える対象となる人物がいない場合、誰かについて考えるのはほとんど不可能だ。
しかし、そんな施策をしたという事実は否定しようがない。
二日前、キャスリーン・フェリアの声を耳にしたとき、厳密には私は何を聞いていたのだろう。
昨日、絵の中で窓辺にいる人のことを考えていたとき、厳密には何について考えていたのだろう。
私は今、地図帳とブラームスの伝記が置いてある部屋に絵を戻してきた。
実を言うと、私は今、一晩眠って起きてきたところだ。
(p.70)
普段は大体、気分がいい。
でも、そうでないこともある。
しばらくすると収まる。それまで、自分ではどうしようもない。
不安は存在の根本的様態だと、かつて誰かが言った。あるいは、間違いなく言うべきだった。
しかし、本当のことを言うと、他の荷物の大半を捨てたのと同じ大昔に、私はそんな感情の大半を捨てた。
(p.92)
別の言い方をするなら、『アンナ・カレーニナ』が手元に一冊もない場合でも、やはりそのタイトルは『アンナ・カレーニナ』であり続けるのだろうか。
(p.118)
私に見えていたのは、メトロポリタン美術館のテーブルの上で眠る若い女性を描いたヤン・フェルメールの絵画だった。
またやってしまった。
マリア・カラスがサボーナに近い堤防の上で裸になっていなかったのと同様に、その若い女性もメトロポリタン美術館のテーブルの上で眠っていたわけではない。
若い女性はメトロポリタン美術館の絵の中で眠っている。
もちろん、今の分も何か妙だ。
実際には、若い女性がいるわけではなく、若い女性の表象があるだけなのだから。…
でも、いずれにせよ、私が言いかけたのは、その絵のことを考えていたのではないのに、その絵が頭に浮かんだという話だ。
ただしもっと具体的には、私が解きたい謎は、例えば、ベルリオーズ作曲の『トロイアの人々』のことを考えているのに、あるいは『アルト・ラプソディ』のことを考えているのにどうしてヴィヴァルディの『四季』が聞こえてくるのかと言う問題だ。…
(p.150)
しかし、これらの人物は皆、互いから等距離にいる。
私自身も彼らから等距離にいる。
しかし改めて考えると、ひょっとすると私は彼ら一人一人から等距離にいるとは言えないかもしれない。彼らは皆、私の頭の中の存在だから。
(p.194)
ただし、次に私が考えざるをえないのは、私の頭に存在しているのがブラームス本人なのかどうかをはっきりさせなければならなくなったらどうなるかという問題なのだけれども。
それは本物のブラームスか、あるいはブラームスの伝記に描かれたブラームスか。
そして、『アルト・ラプソディ』を作曲したのはどちらなのか。
あるいは、その区別に何の意味があるか、私に分かっているのだろうか。
(p.195)
だから要するに、結局私が見ているのは、本物ではない複製の絵であるだけでなく、本物の火でなくその反映を描いたものだということだ。
それに加え、その複製は、私の頭の中にしかないのだから本物の複製とも言えない。同じ理由でその繁反映本当の反映と言えないのと同様に。
セザンヌがかつて、ファン・ゴッホの絵は狂人が描いたもののようだと言ったのも無理はない。
この調子で行くと、私が次に尋ねるのは、薔薇は暗くなった後も赤いのかという疑問だろう。
(p.198-9)
実を言うと、それはそれなりに面白い小説になるかもしれない。
それはつまり、ある水曜か木曜に目を覚まして、世界には自分以外、誰一人残されていないようだと気づいた人を扱った物語だ。…
とはいえ、女性主人公の身になって、不安にみちたその気持ちを考えたらどうだろう。
しかも、さまざまな幻とは違って、この場合にはそのすべてが本物の不安だ。
例えばホルモンのせいなどではない。あるいは年のせいでも。
逆説的に、彼女が置かれた状況そのものがしばしば、間違いなく一種の幻のように思われるけれども。
だから当然、間もなく彼女は頭がすっかりおかしくなるだろう。…
ついでながら、遅かれ早かれその女の頭をよぎるかもしれない興味深いことは、こうしたことが起こる前から実質的には今と同じくらい孤独だったのではないかと言う逆説だ。
ある種の孤独は別の孤独とは異なる。最後に彼女が結論するのはそれだけのことだ。
それはつまり、電話がまだ通じているときにも、通じないときと同じくらい孤独になり得るということ。
あるいは、どこかの交差点で名前を呼ぶ声がまだ聞こえるときにも、聞こえた気がするだけのときと同じくらい孤独になるえるということ。
だからその小説の要点は、通じない電話でモディリアニを呼び出してくださいと言うのは、通じる電話でそう言うのと同じくらい簡単だと言うことだ。
(p.300-2)
私は以前、有名になるという夢を持っていた。
そのころもほぼずっと孤独だった。
城はこちら。そう書いた標識があったに違いない。
この海岸に誰かが住んでいる。
(p.313)
Posted by ブクログ
私には難解過ぎた。ギリシャ神話、美術史や画家、世界史の知識があれば、分かったのかもしれない。世界中に、残された生物は自分一人だけ。そんな状況で、章が分けられることもなく、くり返しになることも多く、記述が変わっておかしくなっちゃったのかと心配させられたり、ギリギリのところでタイプを打っているのか、もしくはギリギリをもう超えたところにいるのか。ひょっとして~かもしれない、が多かった。そうやって自分の存在や記憶を確認しているのかもしれない。この本は多分新聞広告で称賛されているのを少し前に見て、興味を持って手に取った本だけれど、私には難しすぎて、自分の知識や教養のなさ、感受性の鈍さを思い知ることになった気がする。