あらすじ
1995年、ピッツバーグ。O・J・シンプソン事件の裁判の行方が全米で注目され、人種間の緊張が高まるなか、混血のボビーは、黒人のアイデンティティーを隠し、白人としてやり過ごしてきた。しかし、出所したばかりの白人の親友が起こした黒人青年へのヘイトクライムに、不本意に関わってしまったことをきっかけに、親友、そして家族との関係は思いもよらぬ展開へ……人種問題の核に迫るクライム・ノヴェル。
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Posted by ブクログ
タイトルの翻訳が秀逸、原書のタイトルではアメリカ人しか分かりにくいだろうが、この翻訳で意味を理解したら、この本の趣旨がグンと伝わってくる。
アメリカ合衆国における黒人差別の根深さ、そして貧困層にはびこる薬害とアルコール依存症。チャンスをつかみ取ればのし上がれる国…とは言え、底の深淵は果てしなく、のし上がるパワーとラックは一体どれほど必要なのか。
日本だって、よその国のことは言えない。貧富の差は果てしなく広がりだし、離婚率はあがるくせに、養育費の不払いは増加し、女性の雇用は条件が悪い。生活苦の現実から目を背けるには酒が最適のツールとなり、酔った頭には自己否定とヘイトスピーチが心地よいつまみとなり、自己判断できない状況でヤバい思想に洗脳される…。
酒はアカン、自分で考えることから逃れたらアカン、そして差別はアカンということを日々意識して生きていこうと改めて心に刻んだ。
Posted by ブクログ
アルコール依存症の母とアルバイトで食いつなぐ貧しい生活を送る青年ボビー。
息子ボビーに対する愛情は嘘偽りないものだが、どうしてもアルコールを断つことができない母イザベル。
父は黒人だが、ボビーには肌の色に明白な特徴はなく、祖父の思想の影響もあり、白人としての人生を歩んできた。
物語は学生時代に唯一といっていい友人アーロンが麻薬取引の罪で服役していた刑務所から出所し、ボビーと再会するところから始まる。
以前は細面であんなに黒人への憧れを抱いていたアーロンが筋骨隆々となり、白人至上主義と成り果て昔の面影は見る影もない。
2人で立ち寄ったホットドックショップで早速暴行事件を起こし、相手を瀕死状態にしてしまうアーロン。
とっさのことでアーロンを連れて逃げたボビーだが、その日以降そのことで頭がいっぱいに。
そんな折、偶然イザベルの前に現れた父ロバート。
ボビーの人生に突如とてつもない嵐が吹き荒れ始める。
人種問題、母子家庭の貧困問題、流産による後遺症ストレス性家庭崩壊、アルコール依存症、青少年期の友人問題、様々なことが様々な角度で交じり合い、様々な葛藤、心理模様が絶妙な語りにより繰り広げられる。
まさに一筋縄ではいかない人生をぎゅっと凝縮した物語。
結末が切なすぎる。
でもこの結末だからこそ胸に残る別の人生から得られる糧がある。
Posted by ブクログ
トランプ政権の終焉とともに世界の表面にシミのように浮き出てきた<人種差別>。白人警察官による黒人青年の殴殺とそれに抗議するデモへの暴力による弾圧、それを扇動する大統領。世界は狂っている。でもそれは今急に始まったことではなく、アメリカが、世界が抱えてきて隠してきたものが、表面に浮き出して可視化してきただけのことだ。
人種間ヘイトはどの国でも存在する。これは人間が持つ特性なのだ、と言うしかないのかもしれない。でもだからこそ人間は一方でヘイトへの憎悪を覚える。やさしさと愛情に包まれて人種間の壁を越えることができる。だがゼロにはできない。
本書はそうした世界でのヘイトの真実を炙り出す作品である。人種差別というテーマを追求する直球勝負の物語である。人間の愚かさ。ヘイトゆえに陥ってゆく狂喜と暴力。秩序の否定。解体する人間関係。境界線の向こうとこちら。
1995年3月の三日間を描いた家族と友の物語だ。否、家族や友を破壊する悪について。人種間ヘイトについて。物語の軸となるのは肌は白いが黒人の血が入っているとある年齢で知った青年ボギー。
ある日ボギーのもとを三年の懲役を終えた親友アーロンが訪ねてくる。彼がその夜に犯す暴力事件によってすべてが崩れ始める。彼を育てる白人の母イザベル。離婚の危機に直面する黒人医師ロバート。白人たちの中にまぎれて黒人の血を隠すボギーと相談相手ミシェル。
すべてのアンバランスで危険な要素が、アーロンの起こした暴力沙汰により一気に動き出す。悲しきファミリー・ゲーム。白人と黒人の混在する灰色の街。世界が圧縮されたような三日間を、耐えることのない張りつめた空気の中で描き切る傑作クライム小説の登場である。
ちなみに本作翻訳は『弁護士ダニエル・ローリンズ』の訳者である関麻衣子さん。どちらも社会問題を浮き彫りにした骨太の物語。良い作品を連続して手掛けています。グッドジョブ!
Posted by ブクログ
著者はフィラデルフィア在住の気鋭の新進作家。本作が長編デビュー作。
原著刊行は2019年(邦訳は2021年)だが、物語の舞台は1995年である。
少々変わったタイトル、原題は"Three-Fifth"(五分の三)である。作中に特に解説はないが、訳者あとがきで背景に触れられている。
1789年、アメリカ合衆国憲法、第1章第2条第3項に以下の記載がある。
各州の人口(=下院議員の選出と直接税の課税基準)は、(中略)自由人以外のすべての者の数の五分の三を加えたものとする(Representatives and direct Taxes shall be (中略)determined by adding to the whole Number of free Persons, (中略)three fifths of all other Persons.)
この「自由人」というのは白人、「自由人以外の者」は黒人を指す。直接「黒人」とは言わないが、暗に、黒人の価値は白人の五分の三であると言っているようなものである。いわゆる「五分の三条項」。本作のタイトルはそれを暗示する。
もちろん、すでに廃止されている条項ではあるが、根強い人種差別はなお解決からは遠い。
本作が描く1995年は、黒人フットボールスター選手であったO.J.シンプソンが白人の元妻ニコールを殺したとする裁判の真っ只中だった。有名人の事件であり、黒人の容疑者と白人の被害者という構図もあり、アメリカでは大きな注目を集めた事件である。
主人公のボビーは母子家庭で貧困にあえぐ青年である。母はアル中、親子とも飲食店で働いてはいるが、働いても働いても満足に家賃も払えない。
親友だったアーロンは道を踏み外して刑務所行きになり、苛酷な経験を経て、白人至上主義者になって仮釈放されてきた。ボビーはこれに恐怖する。隠してはきたが、実はボビーには黒人の血が流れていたのだ。母は白人だが、父は黒人。そのことを知ったのは中学生の頃だったが、ボビーはそれを誰にも言えずにいた。
かつてはアーロンをボビーが守ってやる役回りだったが、刑務所帰りのアーロンはすっかり粗暴になっており、立場は逆転していた。仮釈放されたその日、アーロンはボビーを伴ってピザをテイクアウトした先で、小競り合いを起こし、黒人青年を激しく殴打する。アーロンの勢いに押されて、ボビーは車を急発進させてしまい、結果的にアーロンの逃走に手を貸す形になってしまう。
黒人青年を見殺しにした罪の意識。
アーロンに自分の出自を知られたらどうなるかという恐怖。
ボビーの逡巡を軸に、自暴自棄になっているアーロン、貧困層から抜け出せない母イザベル、実はボビーの父である黒人医師ロバート、ボビーの店で働き始めた新人ミシェルらの人生が交錯する。
一応、クライム・ノヴェルという括りなのだが、犯罪ものというよりも、白人と黒人の血を引く普通の青年の心理を丁寧に追う作品である。同時に、生活苦に喘ぐ酒浸りの母や、比較的裕福ではあるがいつも黒人である負い目を感じているロバート、そして黒人と白人という区別に苛立つさばさばしたミシェルなど、さまざまな立ち位置の人物が配されて、立体感のある作品となっている。
著者自身が学生時代を過ごしたピッツバーグの貧困地区の荒廃は痛ましく、かつては栄えた街の無残な姿を映し出す。
悩み迷い傷つくボビーの姿は、1995年もそして今も変わらずに米国が抱える、出自とアイデンティティの問題を突きつける。
何とか難事を切り抜けてほしいとはらはら見守る読者の願いとは裏腹に、物語の結末は甘くない。登場人物の1人が最後に慟哭する。その涙は何かを浄化するのだろうか。
苛酷な現実。変わらない事態。それでもどこかに希望は見えるのか。物語が幕を閉じても、問いは巡り続ける。