あらすじ
怒り・悲しみ・憎しみ・恐れ……どんなネガティブな感情も、丁寧に解きほぐすと、その根源に「愛」が見いだせる。不安で包まれているように思える世界も、理性の光を通して見ると、「善」が満ちあふれている。中世哲学の最高峰『神学大全』を、教師と学生の対話形式でわかりやすく読み解き、自他を肯定して生きる道を示す。
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Posted by ブクログ
【世界は善に満ちている】 山本 芳久 著
またまたPodcastからの情報で恐縮です。トマス・アクィナスを扱っており、その参考文献として紹介されたものです。彼の思想を哲学者と学生による対話形式で明らかにし、「哲学講義」とありますが、とても読みやすく仕上がっています。
トマス・アクィナスは神学者で『神学大全』を記述したという知識しかなかったのですが、ものすごい「ポジティブ思考」ということがわかります。「神」「愛」「善」などが登場するので、ここでの紹介は憚られるのですが、いわゆる現在の「ポジティブ・シンキング」ではなく、理論を突き詰めてこうしたものが実在することを証明しています。また、直接、本論とは関係はないのですが、ラテン語のpassio(受動)は、passion(感情)の語源となっており、感情が受動的なものであり、これによって人間の心に「刻印」ができるというのは面白い発見でした。
個人的には、久しぶりに眼を開かされた思いでした。Podcastを聴いた上で読むと分かりやすいと思いますが、読後は世界が一気に明るくなった気分になれる一冊です。
Posted by ブクログ
悲しみや怒りといった感情の根底には、愛があるのではないかとぼんやり思っていたところに、この本と出会いました。まさに私が今欲していた答えを、この本がくれました。
感情は、自分の外界の事物から影響を受けて受動的に起こる。さらに、善なるもの(道徳的な意味合いだけでなく、便利だったり快楽的だったりするものも含む)に魅力され、それが心に刻印されるような形で、愛が生まれる。そう考えると、世界には現在も私を魅了する善なるものが既にあり、世界はこれから私が魅了されうる可能性のもので溢れている、ということを言語化してくれました。
感情的すぎる自分に疲れ、解消するような本を探してこの本に辿り着きましたが、やはり感情は愛の表れであり、神のように完全ではない受動的な人間にとって、大切な要素なんだと気付かされました。
Posted by ブクログ
対話形式は、嫌われる勇気シリーズに触れてから割と否定的だったがこの本はかなり良い形になっていた。
善の射程を伸ばしつつ、愛の形式を輪郭立てながら具体例を交え説得力を持たせる構成はすごく読みやすい。
自己拡張性の考え方は、自身の置かれているライフステージによってはブッ刺さる内容で、自己肯定を自分自身の枠組でしか捉えられない勿体無さに気づくことができて良かった。
Posted by ブクログ
授業で指定されて読んだ本。トマス・アクィナスの感情論が分かりやすく、かつ明確に示されていた。愛があらゆる感情の根源であり、欲望されうるものの心における刻印こそが愛。欲望されうるもの=善が自分の周囲に転がっている可能性に気づくことで自分から見える世界はより豊かなものになりうる。
Posted by ブクログ
トマス・アクィナスの「神学大全」という大作のうち、感情論にテーマを絞ってトマス哲学の核心的な位置づけと見なされる肯定の哲学という観点から講釈いただけております。哲学者と学生の対話形式で綴られていますので、取っつきやすくかつ日常的な例を挙げてながら進めているので、自分の経験とリンクさせて理解が深まる。
喜びや希望といった正の感情、絶望や恐れ・忌避などの負の感情含めすべての根源的な感情として「愛」があるのだ。絶望・恐れ不安に襲われている際にも、そこには対象「欲求されうるもの」への愛所以という論理を心に留めておくことで、直面している悲惨な現状に対して少しでも拠り所として機能するのではにないか。
また、愛するということは一見能動的な動作や感情に思えるが、そこにまず「欲求されうるもの」からの働きかけがあり、その働きかけに呼応することで深まっていくもの、つまり発端はどちらかというと受動的なものとなる。これは、愛、言い換えると「善なるもの」は独断的で独りよがりなものではなく、その対象との相互的な関係性によって成り立っているのだという考え。また、「欲求されうるもの」はこの世の中に沢山散りばめられており、その出会いと深化が人生を豊かにするのだとい楽観主義的な思想が、悲観に満ちかけた時などの気持ちの支えになってくれそうとか思いますの。
以下、付箋個所をトレースしてみます。
P140
「憎しみ」の根底には「愛」があるという気づき。憎しみという負の感情に飲み込まれないための、心の錨として落としておきたい考えです。
P165
「発展的スコラ哲学」トマスが古代ギリシア哲学とキリスト教の神学を統合して洞察を深めていったように、トマスの哲学と現代の知的発展を統合してさらに発展的な知的探求を行おうという試み。トマス的な取り組みを現代でも継承していこうというこの意気込みは、「神学大全」をただのキリスト教の教義だと決めつけていては到達できない観点ですね。
P187
不倫や賄賂などのいわゆる悪に属する行いも、「性的快楽」や「拝金主義」といったある場面においては追求されることもある善を歪んだ形で発揮してしまっている所以であり、「悪」を愛しているわけではない。このように陥ることを防ぐため、「徳」が必要なのである。
P200
善に対する「実在的な一致」と「心における一致」では後者がより重要性を増している。心に喜びを伴わない場合では、実際に喜びを与えてくれる対象を手に入れていても真に愛することはできない。深いお言葉。
P220
「もう一人の自己」「相互内在」
人間が有する特徴である。自分ではない他者に対して、自分の喜ばしいことのように感じ入れる。これは、神の似姿としての人間のみに与えられた善の分与・共有の精神に近しいのではないでしょうか。
P289
神学的な観点から考察する感情論との親和性
「傷つきやすさ」をもつ不完全な人間だからこそ、受動的に善に出会うことができ、相互に感じ入れることができる。愛すべき、ビバ人間。
人テーマに絞り込み、あまり神学との絡みをあえて省いた本質的な論を展開してくれているので、自分の人生の糧となるでしょう。良本でございます。しぇいしぇい。
Posted by ブクログ
この本を読み終えると、ホントに「世界は善に満ちている」と思える。
最初はなんか偽善的?なタイトルだなぁと思った。それに「トマス・アクィナス哲学講義」というサブタイトルが付いている。ものすごく難しそうで到底読みきれないと不安に思いながら手に取る。
ページを開くと対話形式になっている。学生と哲学者。少し読むと、とても読みやすいことに気づく。時々引用されている原典の文は、全く歯が立たない、チンプンカンプンなのだが、本書にも書かれている通り、対話になった部分を読んでいくと、なんと、最初全く意味が取れなかったものが、あーそういうことか、と一応わかるようになるのがすごい。
内容は、今の私のために書かれているのではないかというくらいビジビシ納得し慰められ、もうメモをとりまくった。長すぎてアップできない。
今の私とは、全く「世界は善に満ちている」と思えず、「世界は善に満ちていない」、なんなら「世界は悪に満ちている」と思っている状況。
そういう人たちのための薬になる本だと思う。
世界は善に満ちている!
Posted by ブクログ
中世ヨーロッパの哲学者トマス・アクィナスが記した『神学大全』のうち「感情論」にフォーカスして、教授と生徒の対話形式で人間の感情に関する洞察をなぞる本。
つい先日、自分も「感性」について考察したいたこともあり、それはもうノリノリで読めた。
トマスの感情論は感覚的な説得に依らず、論理的に心の動きを分析することに特徴を持つ。
導入で「希望」という感情の要件を
①善であること
②未来を対象とすること
③獲得困難なものであること
④獲得可能なものであること
とし、もし④が不可能であるならばそれは「絶望」の要件となると示す。「希望」と「絶望」、対極に位置する感情が紙一重の要件境界をまたぐことによって鮮やかに塗り変わることを示され、ここでいきなりトマスの思想にぐっと引き込まれてしまう。
まずトマスはあらゆる感情のベースには「愛」が存在するとし、愛の定義と愛によって躍動する心について説いていく。
「愛」はなにものかの存在により心に働きかけを受け、励起させられることにより生じる受動的な感情であるとし、そのものを手に入れようと「欲望」が生まれ、それを手にした時に「喜びが」生じると考える。
このような手法で、負の感情である「憎しみ」「忌避」「悲しみ」などについても整理していく。 うおぉ…と思わされたのは、「憎しみ」は単体で生じることなく自身が「愛」を持った存在を害された時に生じる感情であり、「憎しみ」の根底には必ず「愛」が在るという話。
確かに例外は全く思いつかず、今後自分が「憎しみ」を覚えた際に自分は何に「愛」を持っているのかを問うことが出来るだろう。
あらゆる存在は人を欲求させ得る可能性を有し、人はそれらの内で「気に入ったもの」を浴びて生きている。この視点は自分が「感性」や「素直さ」を重要視している感覚と一致する。、つまらない世界だと感じても、世界はそのような「善」を持つもので満ちているという感覚は豊かに生きる上で重要だろう。
このような感情論に対しキリスト教からの視点を混じえた解説も面白かった。
感情は受動的活動であるが、神は完全な存在であるため影響を受け変化することは無い、故に神は感情を持たないと考える。など、宗教に関しても一貫した説明を与えることに成功し、その強固なロジックに対して感銘を受けた。
自分の思想と突き合わせながら読み、本を閉じた時には「自分、トマス・アクィナスと会話できてるな…」と思え、それがとてもよかった。
対話形式で具体例を用いて解説が進むので、前提知識がない人でも哲学の面白さを十二分に浴びれる本なんじゃないか。オススメすぎる本、是非読んでみてください。
Posted by ブクログ
「その意見は感情論だ!」と言う時、あなたはそれを理性や客観性を失った発言として、少し見下しているかも知れない。トマスアクィナスは、その感情論さえ、論理的に分析できるというのだ。その分析にどんな意味があるのか。どんな景色が見えるのかー この「不思議な哲学と本の世界」に飛び込んでみる。
手始めに、トマスのいう「希望」とはー という解説をしようと思い、本書にピタリと沿って説明する面倒臭さを感じてしまったので、少し捻ってみる。
我々は、毎朝目を覚まして、日々を暮らしている。これは、程度の差こそあれ、自己を肯定し人生に「愛と希望」をもっているからだ。人生はこのように程度で対比されるようなポジティブな感情とネガティブな感情により構成される。
更にこれを、直感的な感情「欲望的な感情」は、愛、憎しみ、欲望、忌避、喜び、悲しみの六つ。それらを二次的に処理するための「気概的な感情」は、希望、絶望、大胆、恐れ、怒りの五つに分ける。
我々はこの直感的な感情に影響を受けながら、気概により自らを操作しようとする。そうして、少しでも多くの〝気に入ったもの“で暮らしを構成しようとしている。
しかし、この「ポジティブ」が強ければ強いほど、「ネガティブ」も強くなる。例えば、猫に対する私の「愛」が弱いほど、猫をいじめる男に対する「憎しみ」も弱くなる。全く無関心になれば、それに対しても無関心になる。こうした反作用がある。
ー 誰かが何かを欲望しつつ愛するさいには、そのものを、自らが善く在ることに属するものとして捉えているとトマスは言っています。たとえば、私が、私自身のために、「欲望の愛」に基づいて、哲学書を愛しているさい、私は哲学書を「自らが善く在ることに属するもの」として理解している、ということですね。「善く在ること」というのは、「幸福であること」と深く繋がるものです。「幸福」は「幸運」とは異なります。「幸運」は外から個然的な仕方で舞い込んでくるものですが、それだけでは「幸福」にはなれない。「幸福」になるためには、「幸運」を生かすことができるような堅固な人柄の持ち主であることが必要だし、「不運」にさいしてもそれを乗り切ることのできるような内的に安定した力を有していることが必要ですね。そういう意味で「善く在ること」、つまりその人の存在全体が充実していてこそ、はじめて「幸福」になることができるとトマスは考えるのです。
つまり、感情とは理性に従属するものでも、理性の敵でもない。それは人間が「善く在ろう」とする意志の動きであり、「希望」である。希望とは、単なる慰めではなく、困難の中でなお「神(あるいは善)」を信じて前へ進もうとする理性的な力。それが前提にあるから、ネガティブが生まれる。
今日という日をもう一度始めようとするその意志にもこの「希望の構造」が宿っていて、恐れを抱きながらも一歩を踏み出すー それがアクィナスの言う「気概的な感情」の働きであり、そこに理性と感情の調和がある。
つまり「感情論」とは、思考を放棄した叫びではない。むしろ善を求める理性と、そこへ向かう感情とのあいだに生まれる葛藤の軌跡ではないか。我ながら〝偽善“に満ちたレビューだが。
Posted by ブクログ
感情が受動的なものであるという点、東洋哲学や心理学と共通の何かがある気がする。
感情が生まれる過程を微分し解きほぐす説明に、感情の嵐に巻き込まれないヒントがありそうだ。
心理学やらが新たな発見だと言っているようなものと近いのではないか。心の本質的なところは、すでに遠い昔に観想されていたのだなあ。
印象的な言葉
・感情passioは英語のpassive受動的の語源。passioは外界の影響を受動して生まれてくる心の動き全般のことを指していてそれをここでは感情と呼んでいる(p38)
・トマスの感情論を手がかりにすることによって、恐れと絶望は対象を異にした根本的に異なる感情だということがわかってきます。恐れについて言えば、差し迫った未来の困難な悪を自分は恐れているのだということに気づきます。他方、絶望について言えば、未来の善がもはや達成不可能だと思い、既に自分が失望絶望していることに気づきます。
感情の倫理学を踏まえた上で自らの感情を振り返ってみると、何がそうした感情を呼び起こしているのか、と言うことに改めて気づくことができるようになります。絡まりあって混乱しがちな自らの感情をうまく腑分けし整理するための手がかりを与えてくれるのです(p42)
・私たちは「欲求されうるもの」からの働きかけを「受動」しうるからこそ(受容しうるからこそ)能動的に活動しうる。
受動すること、この世界のなかの魅力的な美点によって心打たれることは、真に充実した人生を送っていく前提条件とも言えるでしょう。
確かに自分からやみくもにに何かを愛そうとするより、何らかの対象の方から自分への働きかけがないかどうか、目を凝らし耳をすませ、心を開いておくことが愛を引き寄せる第一歩なのかもしれませんね(p77~78)
・欲望的な感情passio concupiscibilis
対象が困難なものであるか否かに関わらない。魅力的なものと関わりたい嫌なものと関わりたくないと言う人間の心の最も基本的で自然な運動によって生まれてくるもの
愛、憎しみ、欲望、忌避、喜び、悲しみ。
気概的な感情: passio irascibilis
自然な運動の達成を妨げる困難との出会いによって生まれてくるもの。欲望的な感情があって初めて生まれてくる二次的な心の動き。
困難なものを対象とする。
希望、絶望、恐れ、大胆、怒り。(p81)
・「自らのうちに有り余るほどに豊かな善が存在していてそこから他者へと分かち与えるcommunicareことができるほどだ。」
communicareという動詞は、文脈に応じて、分かち与える、共有する、伝達するなどと訳すことができます。
例えば太陽は自らの有する光や熱を独占したりはせず、おのずと周囲の者にも光や熱を分け与えていきます。また、泉も、こんこんと湧き上がる水を自分だけで独占したりはせず、おのずと周囲の者もいるをしていくわけですね。そのように、優れたもの、充実したもの、すなわち善いものは、自らの卓越性や充実を自らのうちのみに独占することなく、おのずと周囲へと拡散させていく。
この原理は、善は自己拡散的であるbonum est diffusivum sui、と言う形をとってトマスの思考体系の様々なところに登場します。善の自己拡散性、善の自己伝達性、と言う言葉でまとめることができます(p252)
・富であれ権力であれ快楽であれ、自分だけで何かを独占したいと言う心の動きは誰にでもあるわけですが、でも人間にとっての喜びはそれだけではない。それだけで心が完全に満たされる言うような事はありえない。自分の豊かさを他者と分かち合う、そういう喜びも人生にとって大切なものとして存在するのだ、とトマスは述べているのです(p258)
・人間は善の自己拡散性がある。
この世界の真相をありのままに認識することによって人間は理想的存在としての自らの可能性を十全に開花させることができ、大きな喜びを感じ取ることができる。そしてその喜びは自己閉鎖的なあり方へと人間を導いていくのではなく、真理を他者と分かち合い共有すると言う仕方で、より大きな喜びに満ちた他者との共鳴へと人間を導いていく、とトマスは述べているのです。(p259)
・人間が愛と言う感情を抱くのは、外界の善(欲求されるもの)の働きかけを受け、その刻印が心に刻まれていることだ、と言う話をこれまでしてきましたが、それを言い直すと、人間は不完全な存在であるからこそ、自分とは異なる善(欲求される者)の働きかけを受容し、より豊かな存在になっていることができると言うことになります。(p266)
・今自分に見えているものがこの世界の全てではない。この世界の内には、まだ自分には見えていない様々な価値、様々な善が存在している。ある種の訓練、例えば味覚の訓練を積むことによって、または徳を身に付けることによって、もしくは自分の心にふとした機会に訴えかけてくる何らかの善との出会いによって、より多様で豊かな善の世界へと自らが開かれていく。私たちの生きているこの世界には未知なる善が計り知れないほど埋もれているのだ。そういう感覚を持って生きることができれば、人生の奥行きというか、広がりというか、そういうものが随分と変わってくるのではないかと思います。それが肯定の哲学。
良質なワインのおいしさがワインを飲み慣れていく中で徐々にわかってくるのと同じように、この世界の素晴らしさと言うものも最初から全て把握できるようなものではありません。そうではなく、それぞれの人生を生きていく中で徐々に明らかになっていくものなのです。(p283)
Posted by ブクログ
情動の根源は愛であり、愛がなければ感情が無くなり、世界に対して無関心になってしまう怖さを感じた。適切な情動は、どんなものであれ、善い感情であるという考えは勉強になった。悲しいという感情も、適切なものであれば、善いものなのである。