あらすじ
気まぐれな女王が真冬に4月の花マツユキソウをほしいといいだし,国じゅう大さわぎ,継母の言いつけで吹雪の森に分け入った少女は,12の月の精たちに出会います.有名な児童劇.
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Posted by ブクログ
大晦日の夜、1月から12月までのそれぞれの月をつかさどる神様が一堂に集まる、というスラブの伝説をもとにした物語だそうで。
ストーリーはシンプルなんだけど、とってもわくわくさせてくれます。
4月にしか咲かないマツユキソウを真冬にほしがる女王。
国中におふれを出し、マツユキソウをもってきたものにはかごいっぱいの金貨を与えるといいます。
それに目がくらんだ老婆とその娘が、主人公の継娘(ままむすめ)を無理やり森へ追い立てる。
ままむすめが凍えそうになっていたとき、ふしぎな12人の兄弟に出会い・・・。
雪が降り積もった森の描写が、もう鼻の奥がツンとしてくるくらい寒そうで、そのぶん、「シューバ」(外套)がいかにもあたたかそうで。
銀ぎつねの裏のシューバ、なんていうひびきもステキです。
12か月の神様たちの姿も、想像するとたのしいし、彼らの歌も詩的で美しい。
舞台は真冬の森ですが、春、夏、秋の森の営みもそれぞれいきいき描かれていて、森のめぐみがとてもゆたかなものであることが伝わってきます。
それらは女王の宝物よりもずっと価値のあるもの。
つまり人間の世界の最高権力者の女王でも、自然の一部にすぎない、っていうテーマ、こう言っちゃうとなんだか説教くさいんだけど、真冬のスーパーにトマトやキュウリが並んでる今の世の中、あらためてこういう自然からのめぐみ、っていう当たり前のことを意識するのも大事じゃん、と思いました。
これに「森は生きている」って題名をつけた訳者の方の仕事、すばらしいっす。
Posted by ブクログ
この物語の Review をエントリーとして書くのは初めてだけど、実は再読です。 それも初読が子供の頃だったというわけではなく、大人になってから初めて読んだ物語です。 実は KiKi はLothlórienと名付けたブログを開設する際に「岩波少年文庫全冊読破企画」なるものをぶち上げたんですけど、それより何年か前からこの企画自体は細々と遂行していました。 そしてその初期の段階に手にした中の1冊がこの本でした。
戯曲ということもあるんだろうけれど、とにかく情景描写がダイナミックで美しいんですよ。 いわゆるト書き部分の情景描写もさることながら、登場人物たち(時に森の動物たちも含む)が語る言葉の端々からもロシアの冬の森の厳しい情景が目に浮かぶようです。 特にダイナミックさと美しさを感じさせるのは12人の月(month)の精たちが、季節外れの命令を出した女王のために冬の真っ只中にマツユキソウを探し当てなくちゃいけないことになった少女のために季節を早送りするところの描写です。 よくネイチャー系の番組で定点カメラの映像を早回ししているのがあるけれど、それに音と空気感が合わさったような感じで、これを舞台上で再現する演出家の方は大変だろうなぁと思わずにはいられません。
さて、初読の際は戯曲ということもあり、民話に題材をとっている物語ということもあって素朴な美しい物語だなぁ・・・・というぐらいの感想しか抱かなかったのですが、今回の読書ではかなり色々なことを考えさせられました。 今日はそのお話をしてみたいと思います。
まず第一に、この物語に登場する「とんでもない女王様(・・・・と言ってもまだ14歳の子供だけど)」に関してです。 この女王様、とにかく我儘だし(大晦日に4月にならなければ咲かないマツユキソウを所望したり、それが手に入るまでは年は明けないと宣言したりする)、怠け者だし(勉強嫌いのうえ、誰かの処罰を決める書類に「しゃくほうせよ:釈放せよ」と「しけいにせよ:死刑にせよ」のどちらかを選ぶ際、文字数の少なさで「しけいにせよ」を選ぶ)、初読の際には「何て奴!」というぐらいの感想しか抱かなかったんだけど、今回の読書では別の感想を抱きました。
彼女はムチャクチャなことをたくさん言ったりしたりするんだけど、所望していたマツユキソウが手に入った途端何を言うかと思えば、決して趣味が良いとは言えない冗談を言った後でこんな発言をするんです。
「わたくしは冗談を言ったの。 4月1日(KiKi 注釈:エイプリル・フール)ですからね。 (中略) マツユキソウが咲いたからよ。」
12月にマツユキソウは咲くわけがないとそこまでで多くの人たちが進言しても、頑としてそれを受け入れようとしなかった女王様がそんな発言をするんですよ。 しかもこの女王様、マツユキソウを所望した際に「わたくし、マツユキソウをほんとに見たことは、一度もないのよ。」と言っていた割には、いざそのマツユキソウが目の前に現れたらそれを「水のはいったコップに入れたほうがいいわ。」な~んていう道理にかなったことまで口にするんです。 ここを読むと何だか女王様は本当の意味でのおバカさんではなく、肝心なことは実はわかっているけれど、ある種のSOS発信みたいな形で我儘を言い続けていたんじゃないか?と思わせます。
そしてもっと考えさせられるのは、雪に閉ざされた森から脱出するためにはあのマツユキソウを取りに行かされた娘の好意にすがるしかないという状況に立たされた際に女王様が口にする以下のセリフです。
「でも、なんてあの子にたのんだらいいの。 あたしはまだ一度も、人にものをたのんだことがないわ。」
このセリフを読むとこの女王様は人に命令を下すという形でしか他者と人間関係を結べない、実に孤独で淋しい女性だったのではないか?と思わずにはいられません。 そうであればこそのここまでの「我儘」にしか見えない言動、「怠け者」としか思えない言動だとするならば、彼女は決して性格がひん曲がっているわけでもなく、ましてや単なる意地悪な娘ということではないような気がします。 実際、物語の中でこの女王様は決して改心することもなく、罰があたるわけでもなく、そういう意味では勧善懲悪の埒外に存在しています。 本当の意味で罰を受けるのは(まあ「雪に閉ざされた森の中に取り残されるようになった」というだけでも罰は受けたとも言えるのですが ^^;)、あのマツユキソウを取に行かされた娘の継母と異母姉(この2人は本当の意味で意地悪だった)だけなのです。
そしてもう1つ感じたこと。 それは現代人の生活ぶりは実はこの女王様とさして変わりはないのかもしれないということです。 女王様は季節外れの「マツユキソウ」を所望し、そのためには籠いっぱいの金貨と暖かい衣類を報酬として支払うと言います。 私たち現代人は1年中スーパー・マーケットの棚から「本来夏野菜であるはずのトマト、キュウリ、ナス」を買い、「本来冬野菜であるはずの白菜」を対価を払うことで得ています。 私たちはそのことに何ら「悪意」を抱くこともなく、ある意味で「当たり前」のこととして、「対価を支払う当然の権利」としてそうしているわけだけど、冬にトマト、キュウリ、ナスを食べられること、夏に白菜が食べられることの背景に何があるのかについて滅多なことでは考えようとはしません。
物語の中で女王様の教育係である博士の口から、更には12の月の精霊の口から「自然の、季節の摂理から外れることがどんなに理不尽で愚かなことか」が語られているのですが、私たちは「モノ言う消費者」という立場からかなり我儘なことを言い続けています。 「育ちすぎた野菜はイヤ、曲がったキュウリやナスはイヤ、クタッとしたり虫食いの葉物野菜はイヤ。」 そんな消費者の声を反映して、農協に出荷される野菜には厳密な審査基準があって、野菜ごとに大きさは決められているし、曲がっていたり虫食いだったりする野菜はそもそも農協経由で出荷されることもなく、物によっては廃棄処分されています。
この物語の女王様が「人に命令を下すという形でしか他者と人間関係を結べない人」だとすると、ひょっとすると私たち現代人は「人に要求を出すという形でしか他者と人間関係を結べない人」への道をまっしぐらに突き進んでいるのかもしれない・・・・・・。 そんなことを感じた読書となりました。
因みにこの物語に出てくるマツユキソウは別名スノー・ドロップと呼ばれる早春に咲く可憐な花です。 我がLothlórien_山小舎の庭にも植えてあるのですけど、春の訪れを告げる花として、地味ながらも存在を際立たせています。 でも早春に咲くということは、時に開花後に降雪に遭うこともあり、小さな草丈で雪の重みに耐えている姿を見ると、可憐なだけではない芯の強さのようなものを感じさせます。
さて、最後に・・・・ この本の宮崎駿さんの推薦文は以下のとおりです。
この本は劇の脚本ですので、読むのにちょっと工夫がいります。 自分で、広くて奥行きのある舞台を想像しましょう。 森の木々や雪もちゃんと作ってあります。 王宮の中はもちろん、まま母の家の中もしっかり、本物よりちゃんと作ってあります。 登場人物の衣装も思い浮かべてください。 きっと、美しくてドキドキする舞台にちがいありません。
ぼくは、舞台美術が好きで、クラスで劇をやる時はいつもすすんで美術を担当しました。 この本で、時間をかけて、しっかりした舞台の美術ができたらなあって今も思います。
さすが日本が誇るアニメーターの宮崎さん。 頭の中でこの舞台演出のプランができちゃうんですねぇ・・・・。 「これを舞台上で再現する演出家の方は大変だろうなぁ・・・・」と他人事みたいにしか考えられない KiKi とはやっぱり人種が違うみたい・・・・・(笑)