あらすじ
96の季語から広がる、懐かしくて不思議で、ときに切ない俳句的日常。
俳人でもある著者による初めての「季語」にまつわるエッセー集。散歩道で出会った椿事、庭木に集う鳥や虫の生態、旬の食材でやる晩酌の楽しみ、ほろ苦い人づきあいの思い出、ちょっとホラーな幻想的体験など、色彩豊かな川上弘美ワールドを満喫しながら、季語の奥深さを体感できる96篇。名句の紹介も。
「蛙の目借時」「小鳥網」「牛祭」「木の葉髪」「東コート」。それまで見たことも聞いたこともなかった奇妙な言葉が歳時記には載っていて、まるで宝箱を掘り出したトレジャーハンターの気分になったものでした。(中略)それまで、ガラスケースの中のアンティークのように眺めてきたいくつもの季語を、自分の俳句にはじめて使ってみた時の気持ちは、今でもよく覚えています。百年も二百年も前につくられた繊細な細工の首飾りを、そっと自分の首にかけてみたような、どきどきする心地でした(本文より)。
●春 日永/海苔/北窓開く/絵踏/田螺/雪間/春の風邪/ものの芽/わかめ/針供養/すかんぽ/目刺/朝寝/木蓮/飯蛸/馬刀/躑躅/落とし角/春菊/入学/花/春愁
●夏 薄暑/鯉幟/そらまめ/豆飯/競馬/アカシアの花/新茶/てんとう虫/更衣/鯖/黴/こうもり/ががんぼ/蚯蚓/業平忌/木耳/李/半夏生/団扇/雷鳥/夏館/漆掻/雷/青鬼灯
●秋 天の川/西瓜/枝豆/水引の花/生姜/残暑/つくつくぼうし/燈籠/墓参/瓢/月/良夜/朝顔の種/新米/案山子/鈴虫/夜長妻/濁酒/柿/秋の空/蟷螂/小鳥/きのこ狩/文化の日/花野
●冬 時雨/神の留守/落葉/大根/切干/たくわん/銀杏落葉/冬鷗/河豚/枯枝/ストーブ/炬燵/冬羽織/おでん/鳰/蠟梅/つらら/探梅/春隣
●新年 飾/去年今年/歌留多/福寿草/初鴉/七草
感情タグBEST3
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Posted by ブクログ
まず、ブックデザインが好き。
カバーデザイン、カバーをとった本のデザイン、
折々に挟まれた、トレーシングペーパーのデザインが
そこはかとなく「和」のテイストを感じられ。
季語も知らないものが多く、
それに伴う作者の語り、エピソードも好き。
眺めても、読んでも味わいのある本。
手元に置いて、四季折々、開いていきたい。
Posted by ブクログ
川上さんのあたたかいお人柄が感じられる本。幼少期の思い出から最近の小話まで、身近な話と季語の融合がよかった。
北窓開くーー冬の間締め切っていた北に向かう窓を、春が来たのでひいらく、という意味をもちます。ずっと耐えた冬がゆるみ、ようやく明るくあたたかい空気が北側の部屋にも入るようになった喜びを表しているのです。
春愁(はるうれい)ーー小説内では、ひとはしばしば恋に落ち恋に敗れ友と別れ大切なものをなくし、人生を憂え、深い哀愁を覚えるものなのです。
鯖ーー鯖の目が、大きくてつぶらだったこと。油がよく乗っていて、包丁が油まみれになったこと。内臓も豊かだったこと。などなど、お店で買ったのでは実感できないことを、たっぷりと味わいました。
蚯蚓ーー大蚯蚓空に桃色たなびけり(磯貝碧蹄館)
空に桃色がたなびく。きっと、夕方なのでしょう。夕焼けにもいろいろありますが、桃色にたなびいているのは、いかにも初夏の感じです。そこに、大みみずガイル。一抹の寂しさも感じてしまうのは、私の個人的な、みみずへの思いのためなのかもしれませんね。
木耳(きくらげ)ーームースーロー(卵、木耳、春雨、豚肉、長ネギを炒め合わせる中華のお惣菜)が食べたくなった。(食べたことない)
半夏生(はんげしょう、はんげしょうず)ーー
愉快系季語ー浮いてこい(お風呂の中などで遊ぶおもちゃ。中に空気が入っていて水に浮いてくることから、この名がある)・木の葉髪(晩秋から初冬の時期は、髪の毛が抜けやすいので、まるで木の葉が散るよう)・蛙の目借時(かわずのめかりどき:春に蛙がなく時期は、なんとなく眠い。蛙に目を借りられているようではないか)
素敵系季語ー春うれい、夜半の秋(よわのあき:秋の夜の中でも、いっそうふけわたった雰囲気である)・淑気(しゅくき:お正月の、和やかでめでたい感じ)
半夏生は、七十二候で言うと「夏至の末候」に当たる期間のことです。ちょうど梅雨が開け、田植えも周期になる時期ですが、同時に、その頃に生えるドクダミ科の植物のことも、「半夏生」と言うのです。時期と、植物と、両方の意味を持つ季語なのです。植物の半夏生は、水辺に生える、60センチほどの高さになる多年草。明るい色のは、白い穂のような花、名前の通り、素敵な植物です。ーー昨日まで、「全くどんどん増えて、邪魔だなあ」ちお思っていましたが、今日は折り取ってガラスの容器に刺し、一つ、愛でてやることとしましょうかね。
新米ーー歳を食ったなあと思う機会、川上さんが思うのは、「お米をやたら食べたくなったことと、お醤油味を求めるなったことです」。以前は、ご飯よりも、麺類が好き。ところが、あるときはっと気づくと、買い置きしておいたパスタが、ちっとも減っていないではありませんか。鳥や豚をフライパンで焼くときには、いつの間にか最後に必ずお醤油を十と鍋肌に滴らせるようになっているし、肉じゃがは以前のような白っぽい色ではなく茶色に染まっています。 ああ、ようやくアジアの、日本の人間になることが、できたんだ、と思いました。
案山子(かかし)ーー案山子は、神様の依代だという説を、随分前に聞いたことがあります。新生児は、神様が運んできてくださった命だとすれば、友達の細君のお里の、真夜中の田んぼに立っているカカシの一つに、今しもその命を運んできてくださった神様が休んでいらっしゃるのかもしれないな、なども思ったりして。
時雨(しぐれ)ーー「時雨」という言葉が、冬の間の寒い時期の、降って速水、病んではふる、物寂しい飴を刺すことを、はっきりと知ったのでした。しぐれ、という音の響きも美しいのですが、時雨、という感じも美しい。時折ふり、時折やむこの雨を、ずばり「時雨」と当てたのは、一体いつの時代の誰だったのでしょうか。
やがて、「時雨」が季語であることを知り、派生季語にも出会いました。「夕時雨」は、冬のすぐにくれる夕刻の時雨。灯った明かり越しに時雨をみている光景が目に浮かびます。「小夜時雨」は、夜の時雨。夜時雨、ではなく、小夜時雨であるところが、いいのです。ちなみに、「小夜」の「小」は言葉の調子を整えるための窃盗ご。「村時雨」は、少し強めの時雨が通り過ぎる様を表します。元々は「郡時雨」だったそうですが、現在は「村」の字を当てています。以前は、村に時雨が降っている光景なのかなと勘違いしていたのも、懐かしい記憶です。「片時雨」はあるところは降っているけれど、あるところは晴れている様。狐の嫁入り、という言葉もありますが、これは一年中使う表現。冬のこの時期だけは、片時雨、と呼びたい。狐だって、冬に寒い日に嫁入りするのは、躊躇うかも、と思うからです。
神の留守、大根
たくわん(祖母がなくなり、おばあちゃんのたくわんが食べられなくなった、と嘆いていたところ、お母さんが漬物をつけるのがうまかったことに対抗心を燃やして「漬物入門」に乗っていたレシピでつけたもの、ということを伝えたエピソードが好き)
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む(金子兜太)ー兜太のこの句、先の太平洋戦争のことを読んだものでしょうか。母と祖母の間にもあった、小さな「戦い」。葬儀の日、常々姑を煙たがっていた母は、さぞサバサバしているかと思っていたのですが、意外なくらいしょんぼりしていました。おばあちゃん、亡くなっちゃったね。ささやいた母の声は、少し震えて、しめっていました。
枯枝ーー枯木。枯蔓。枯芝。枯尾花。「枯〇〇」という季語が、俳句にはたくさんあります。冬になると、たくさんの植物は、歯を落とし、しぼみ、しんと静まりかえります。その姿を、「枯〇〇」と表現したわけですが、ここで注目すべきは、「枯」とついているからといって、マイナスイメージの季語である、というわけではないということです。青々としたときには、その勢いを。そして、茶色く枯れたときには、その寂寞とした静けさを。それぞれの持ち味を、差別せずに、ただありのままによしとする。それが、季語の精神なのだと、俳句の専売に教わりました。確かに、青々と茂っていたあたたかい季語のものに比べ、冬の景色の中にある植物は、茶色じみているし、水気をなくして小さくなってしまったように思えます。けれど、その姿をも愛でよう、というのが、俳句の心意気なのです。どんどん歳を食ってきて、精神の老化が身に降りかかってきている今改めて考えると、「その精神、素晴らしいですぜ」と、手を叩きたくなります。どうも最近、「人はいつまでも若くなければ」という風潮が強いような気がするのです。せっかく時を重ねて、それなりの侘び寂びを醸し出していい年齢になってきたのに、いつまでもツルツルはりはりとしていなければ女にあらず、という圧力を感じるような。
こたつーー「廃れつつあるもの」としてわかり人はかなり、姿を消しつつあることを寂しく思っているようなのです。「エアコンがあるから、いいんじゃないの?」と聞いたのですが、若い人は首を横に振り、「温まるためだけじゃなくて、こたつにはこたつの空間があるんです。あの一種、やる気を全て削ぐ空間。グダグダになっちゃうこたつの空間が、ものすごく恋しいです」とのこと。
炬燵出ずもてなす心ありながら(高浜虚子)わかる…。一度入ったら、2度と出られないこたつ。たとえお客がきjたとしても。炬燵は魔と快楽の暖房具。忙しない現代にこそ、残しておきたい道具ですよねと、若いひとと頷きあったことでありました。
春隣(はるとなり)ーー春を待ちかねる冬位頃よりも、もう少し春に近くなった頃の季感といえばいいでしょうか。すぐそこまで春は来ていて、その気配があちらこちらに感じられるのです。半分凍っていた小川の流れが、サラサラと軽い音に変わったり、木の根が膨らんできたり。冷たい一方だった風が、ほんの少しだけ何かの匂いを含むようになったり。窓越しに刺す日の光が、前よりも力強くなったり。でも、まだ春じゃない。この感じが好きです。やがてくる柔な金物を待つ、安心感。けれど、どこか頼りない心細さも少しあって。小さい頃から私は、楽しい時そのものよりも、その時を待っている間の方に、心弾みを感じることが多かったのです。