あらすじ
「笛吹川」の現代版
庶民の無常の世界を独特の語りで描いた世捨て人の文学
明治末から大正、昭和と三代にわたる日本近代の歩みが、笛吹川のそばに住む貧しいオカア一家を舞台に展開する一大ロマン。生糸の暴落と農村の貧窮、明治天皇の崩御、関東大震災、戦争と出征、空襲と食糧難、敗戦とヤミ商売――その間には息子・徳次郎の二十年近くのアメリカへの出稼ぎがあり、薄情者となって帰国した息子とその一家をオカアの眼差しから描く。土俗的な語りによる時代批判。
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Posted by ブクログ
山梨の農村からアメリカに出稼ぎに出て財をなし、戻ってくる長男を中心にした一家の、母から見た戦前戦後の年代記。
田舎の村の感じがこれでもかと書かれていて怖い。文体も独特で、冗語を多用してキレがないところが、田舎の雰囲気をバッチリだしている。
主人公や主体といったものを軸にドラマが展開する近代の小説とは全然趣きが違う感じがする。もっと集団的、集合的な田舎の人々のあり方が、じわじわと描かれている。
その点、マルケスの百年の孤独とおんなじような読後感。とってもいいけれど、ただ、あちらのドキドキ感に比べると、面白さでは一歩落ちるか。
Posted by ブクログ
「笛吹川」「千秋楽」などと同様に、延々と流れ続ける無窮の川のような趣の、深沢七郎作品。
土俗的な「庶民」の生活をたいした起伏もなく描き続けるが、つまらないわけではない。退屈はしない。しかしクライマックスとか、見事着地、といった感の結末もない。
冒頭、笛吹川岸辺に住む貧乏家族の徳次郎がアメリカへの出稼ぎを決意しているところから、徳次郎が主人公で、彼の視点から語られていくのかと思ったら、彼がアメリカに行ったとたん、視点は彼の母親(オカア)に切り替わる。アメリカでの出稼ぎ生活が具体的にどんなものなのか、最後まで謎のままだ。
そしてアメリカから徳次郎が戻ってくると、まもなく彼の視点に語りの座は移り、またふらふらとオカアに戻って、終わる。
ここに生きているのは底辺にちかい辺りの「庶民」で、戦争が起こると「お国のために死ぬなら仕方がない」などというように、決して権力への抵抗を見せない。彼らには理念も主張もない。論理構造は無化されており、「生活」のひたすらな実感だけが、ある。
こうした泥まみれの「生」のリアルな質感が、直視されているのであり、それは「意味」を拒絶しつつ、大地の上での死をめざして淡々と歩むだけだ。
川村湊氏が「『時間』の流れのない小説」という題で解説を書いているが、これはもちろん、歴史家の語るような「歴史」という観念世界が存在しないことを言うのであって、この小説には「時間の流れ」は存在すると思う。むしろ、延々と変節を繰り返してゆく生の「時間」が主人公となっているのだ、とも言えるだろう。
この「生の時間」は無限の反復のように繰り広げられるかもしれない。それは輪廻転生によって、ふたたび何度も何度もやってくるのかもしれない。これが深沢小説の「不気味さ」だ。
それは「意味」の意匠をまとわない、生という川の流れの、不気味なうごめきそのものなのだ。
Posted by ブクログ
相変わらず、自分がこれをどう捉え、どう感じているのかを言い表すことが難しい作品です。
土俗的な語りと言われているが、素朴とか純真さはあまりなく、登場人物たちはどこまでも現金だ。人々の身も蓋もない本音の部分を包まず見せるからだろうか。母親の息子をみる眼が、最後まで子への無償の愛などからはかけ離れ、何を考えているのか分からない他者としてみているのが印象的だった。
また、太平洋戦争時に田舎の百姓がどう振舞ったか、一つの補強資料になった。