あらすじ
第二次大戦終戦直後のパリで行われた講演をまとめた本書は、私たちが自由でなければならいことの意味と、思索し続けることの意義を、未来への希望とともに語りかける。本書に込められたサルトル哲学の本質を、代表作『嘔吐』や盟友ボーヴォワールとの仕事や関係にも触れながら、混迷を深める21世紀世界にこそ必要な視座として、わかりやすく提示する。
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Posted by ブクログ
サルトル“実存主義”を知る入り口になる本で、わかりやすく書かれていて、役に立った。
最近読む本には、普通に“実在”“実存”という言葉が説明もなく頻繁に出てきて、小説の内容を深く理解する上で、どうしても無視できなくなってきていた。1960年代に流行だった思想なのかな。
自分が世界に向けて積極的に“アンガジェ”できているかというと、実際してないと思う。
また、自分の本質は自分の意思で自由に決められる(他人の自由も含めた上で)とは言っても、いい方に自分を作っていくのは、やっぱり努力が必要。
なので、自分はどうしても偶然性の生き物でしかいられないなと思う。
個人の視点から始まり、他人が存在する社会に参加して、相互に影響を与え合い、それが発展していって民主主義にまで広がっていく考え方がすごいし、口だけじゃなくちゃんと体現するサルトルさんが、市民から慕われていたのも納得。
こういう考え方を知ることによって、少しでも今の自分の生き方を見つめて、アンガジェできる努力をしたい。
Posted by ブクログ
サルトル、という名前をよく聞くが、何を考えた人なのか、はあまり理解できていなかった人。
彼の思想や考え方を知りたいと思い、本書を手に取った。
この本は、実存主義とは何か、を入り口にして、サルトルの実存主義の原点とも言える小説嘔吐を中心に、哲学書存在と無など他の作品も紹介。加えてサルトル自身の人生や、その思想と行動の変遷についても触れながら、実存主義がいかにして希望の哲学を語るようになっていったかを多角的に探っていく。
冒頭、原子爆弾が、人類全体を破滅させうる技術であることを示唆し、「もしも人類が存続し続けていくとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするが故に存続しうるということになるだろう」という言葉、印象的である。我々は原子爆弾の管理者となった共同体にいる。
人類はそれ自体を終わらせる能力をすでに手にしており、それでも人類が存続しているのは、人々の中に生きたい/生きよう、という決意があるからなのだ、と考えさせられた。
実存主義とは何か?の中での、実存主義の定式
1.実存は本質に先立つ
2. 人間は自由の刑に処されている
が示された。
実存とは、この世界に現実に存在するということ。他方本質とは、目には見えないもので、物ならばその物の性質の総体。ペーパーナイフは、職人が本質を想いながら実存を作っているので、本質が実存に先立っている。人間も、もし神という存在を認めるならば、神が意図して作っていて本質が実存に先立つが、神は存在しないので、実存が本質に先立っているのが人間である、という話。これは無神論と同時に現れた話かというとそうではなく、実際18世紀以降の無神論でも、ルソーなどに見られるように自然を重視し、「人間は人間という本性を持っている」と捉えられ、人間の自然な本質がここの人間の実存に先立っている、とされていた。ただ、サルトルは、「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿を現し、その後で定義されるものだ」とし、「人間は後になって初めて人間になるのであり、人間は自らが作ったところのものになる」とした。
ここから主体性の概念が登場する。
自らを作るということは、自らかくあろうと「投企」(projet)することだと。
「主体性」や「投企」という概念、そこから何かを「選択」する「自由」という概念、あるいは自分で選ぶということに伴う「責任」、そのことへの「不安」、また自分一人で決めることへの「孤独」、と、一連の概念が繋がり、実存主義を成している。
サルトルが学校の教師だったというのは私に取っては嬉しいニュースであり、振り返ってみると哲学者には教師をやっている人が多いようにも感じる。
有名な「嘔吐」は小説であった。意外と知らなかった。
嘔吐の中では、ものも人間もあらゆるものは偶然の産物であり、不条理であり、根拠がない。その実存というのは偶然性でしかなく、存在することの必然性とは相反するものである。
人間は自由の刑に処されている。
嘔吐の中で、ロカンタンは、旅、歴史を学ぶ、恋人のアニーは演劇を、そして後半音楽を聞いて、嘔吐という感情がない状態が描かれているが、これは、旅・歴史・演劇・音楽・映画には、必然的な秩序があり、それが偶然性に囲まれた日常と対比的であり、その偶然性に悩んでいる人間からすると心の安寧を得られる場所であるということが書かれていた。
ロカンタンにおける、投企は、最終的には、偶然に只見を委ね食って眠ってダラダラ生き延びることではなく、未だこの世にない芸術作品を作り出すことで新たな自分自身を作り出そうという行為。偶然的な実存の世界をさる事はできないが、世界の中で必然的な秩序を持ったものを作ろう、とする試みである。
自分自身も芸術作品を作ろうとしているものとして、その姿勢に共感するが、それは偶然的な世界の中で必然的な秩序を持ったものを作りたい、という思いから来ている、というのは意外性もあった。
サルトルの男女関係
ボーヴォワールとは自由を行使し合う関係であった。起きて、10:00~14:00まで仕事、そのあと女性と遊んで、また17:00~21:00まで仕事、そのあとボーヴォワールと軽い夕食を取る、みたいな日々。ボーヴォワールも男女問わず遊んでいた。
アンガジュマン
アンガジュマン(engageの変化系):自分を参加させる、自分を拘束する、自分を巻き込むこと。参加の対象は結婚や政治。
サルトル哲学に対して、「人間を個々の主体性に閉じ込めている」という批判があったが、そういうわけでもない。サルトル自身は、実存主義の出発点は、個人の主体性(主観性)である。それはデカルトの「我考う、故に我あり」すなわち意識による意識の自己把握を絶対の真理と考えるからである。しかしそれは厳密に個人の主体性(主観性)ではない。デカルト哲学とは反対に実存主義は「われ考う」によって、「他者の面前で我々自身を捉える」と。つまり「われ考う」によって自己を捉える人間は、「すべての他者をも発見する。しかも他者を自己の存在条件として発見するのである」このようにデカルト哲学を批判的に継承しながら、我と他者との関係を「相互主体性」という世界の中に位置付けています。
とのこと。
chatgptとともに解釈してみると。。
① 実存主義は「個人の主体性」を出発点にする。
② その点ではデカルトの〈われ考う、ゆえに我あり〉(コギト)を受け継いでいる。
③ しかし実存主義の〈われ考う〉は、デカルトとは違って「他者の前にいる自己」を同時に発見させる。
④ したがって実存主義は、
・自分だけの確実性に閉じこもるのではなく
・「相互主体性(互いに主体である関係)」の世界へ出ていく学説である。
なぜ、「他者の前にいる自己」を同時に発見させるのかというと、
サルトルは他者を「デカルト的=論理的に証明済みの自明な真理」として扱っているわけではないが、、私たちの生きた経験の中で他者が「逃れられない事実(現存在の構造)」として現れると考える。
これは現象学的な思考法である。デカルトのゴールが、絶対に間違わない“土台”をつくり、そこから世界を説明したい(=確実な知識づくり、決定論的な世界観、確実な世界というものがあるという考え方)というのに対し、サルトルは、人間にはそういう確実な世界とかはそもそもない(∵実存は本質に先立つから)→私たちが“どう生きるか”を説明したい(=自由と責任の哲学)というそもそもの立脚点の違いがある。
とくに「恥」「誇り」「見られている感覚」といった感情体験が、他者の存在を推論でなく即時的に“経験させる”現象学的与件になる。
他者は経験されるのだからいるものだろう、という感じ。
サルトル存在と無における他者論。
まず、存在は、即自と対自に分けられる。即自存在は世界とか事物。対自存在は意識みたいなイメージ。即自はそれがあるところのものであるので、存在として充実している。対自である意識は、それがあらぬところのものであり、あるところのものであらぬ、という感じで無によってしか定義されない。
chatgptと「それがあらぬところのものであり、あるところのものであらぬ」をステップでかみ砕く
①「あるところのもの である」=既に確定した事実
石は石、自分を変えない。
これは即自存在のあり方。
②「あるところのもの ではあらぬ」=自分を固定しない意識
私はたとえば「会社員」という事実を持っていても、その瞬間 “もっと自由になりたい” と感じれば、既に自分に距離を取っている。
だから “いまこうだ” という事実にピタッと一致しない。
③「あらぬところのもの である」=未来・可能性が私を形づくる
「作家になりたい」と思った瞬間、まだ作家じゃなくても、その可能性が私の行動・感情を左右する。
“まだ叶っていない姿” が、すでに私の一部 になっている。
→→もし私が“今の事実そのもの”と完全一致していたら、変わる余地=自由はない。
「無」=“ズレ” があるからこそ、私は選択しうる。
みたいなイメージ。
で、さらに、この世界との関係は、即自と対自だけではない。他人というのがいる。他人というのは私がみている対象だが、他方では私をみている主観でもあり、その時私は相手の対象になる。「対他存在」とは、この他者から見られた対象としての私を指す。自分の意識の中に、自分に対する存在としての「対自」だけではなく、他者に対する存在としての「対他」があるということ。
こうした対他存在を作り出すのは、他人の眼差し。他人というのは、自分に眼差しを向けている人、ということになる。
そして、存在トムの中では、まなざしを向けられること自体が、「他有化」であると考えられている。
他有化とは、アリエナシオンで、疎外と訳される、意味が広がり、自分が作ったものの中に自分が認められない、自分が作り出したものに逆に支配される、というような意味になっていく。
なぜ眼差しを向けられることが他有化かというと、私はまなざしを世界に向けることによって世界に意味を構成し、所有していたのに、他人の眼差しが登場すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界が盗まれ、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものでなくなってしまう。しかし他人がいる限り、そして他人が自由であるならば、そうした他有化を被るのは当然のことでもある。
疎外ー他有化からどう抜け出すか?
まなざしを向けるものと向けられるものとの間に「葛藤ー相克」がおこり、その相克は他者に対する二つの態度ー極端な態度はマゾヒズムとサディズムーとして分析される。
chatgptによると。。。
① サディズム:相手を“モノ”化して支配しようとする
ねらい:相手の自由(相手が私をどう評価するか)に振り回されるのが怖い → ならば相手を主体でなく“対象(モノ)”にしてしまえ。
やり方:支配・監視・命令・身体的/制度的な拘束などで、相手を“扱える物”に落とす試み。
なぜ破綻?:私が本当に欲しいのは相手の“自由な”承認(自発的な「あなたが好き」)。でも相手をモノにしてしまうと、その承認は自由でなくなる→ほしいものが消える、という自己矛盾。
② マゾヒズム:自分を“モノ”化して相手に委ねようとする
ねらい:相手の視線にさらされ不安(恥・評価)になる → いっそ自分を相手の手の中の“対象(モノ)”にしてしまえば、揺れないはずだ。
やり方:相手に判断・価値づけ・ルール設定を委ね、「あなたの言う私が“私”です」と自己を明け渡す。
なぜ破綻?:私は対自存在=つねに超え出る自由なので、完全に“モノ”にはなりえない。自分の自由を消そうとするこの企ては**自己欺瞞(悪い信仰)**になり、いずれ反動的な怒りや空虚を生む。
→
・どちらも「相手の自由(まなざし)に振り回される不安」から出る短絡的な解決。
・しかしサディズムは相手の自由を殺し、マゾヒズムは自分の自由を殺す。
・結果、欲しかった“自由な承認”や“安定した自己”は手に入らない—構造的に失敗する。
では「疎外—他有化」からの“抜け出し”は?
・『存在と無』の結論は厳しく、完全な解決はない(自由と自由は本質的に緊張する)というトーン
ただ、後年、相互の自由を目的として選ぶ倫理(互いの自由を増やす関係)へと構想を深めます。要するに、“相手も自分も主体”であることを前提に、支配でも服従でもない関係を選び直すことが、実存的に取りうる最良の方向だという感じ。
本によると、ジュネの話。泥棒だと言われた少年が実際に泥棒になることによって、相手に泥棒と決めつけられたという対他と、それでは泥棒になるのだという対自の決意にズレがあって、そのズレの部分に自由がある、と思われる。
「自由とは、全面的に条件づけられた社会的存在を、一個の主体的人間にならしめていく運動、ということになるかもしれない。」←←確かにね!!
話を個人から集団に広げ、集団の連帯意識(特に抑圧された集団)はどのように作れるか?に関して、たとえば労働者であれば、単純に仕事が辛いとか生活水準が低いということだけではダメで、彼らを被抑圧階級にするのは、ブルジョアや資本家の眼差しである。連帯が成立するのはその主人から向けられる眼差しによる他有化を積極的に引き受けることによってのみ行われる。
なんか一種の開き直りなのかわからないけど、庶民だから!みたいな感じの政治の主張を見ると、庶民が、、とかっていう自己認識をあえて強く主張することで、大企業が利権で〜〜とかを強く主張することで、連帯してる感じって確かにあるよなあ、と思う。
第四章
サルトルは、恵まれない階級、社会的弱者を支援する、そういう政治参加をしていた。
サルトルの実存主義の発展
1. 社会変革のイデオロギーになる
マルクスは労働は、労働者を疎外-他有化するものであると主張している。ただ、サルトルは、労働という行為の中に自由という可能性を読み取ろうとする。労働者がものを作るということは、作る人間の自由を発揮していることであり、その生産性の自由がプロレタリアートの主体的なエネルギーになるはずだ、という考え。そして大量生産のオートメーションの時代においては、労働者の持っている欲求(e.g. 空腹)自体が革命的であると。欲求を欲求として意識することが労働者の自由の表現であると考え、欲求のヒューマニズムとしてまとめられる。
2. 文学におけるアンガシュマン理論を作ろうとした
文学を想像するということは、自分自身を文学に投げ込むことであり、それ自体アンガシュマン、また作品を読む側の人間も、読者の自由がその作品を引き受けるか?アンガジェしてくれるかが重要になるという考え方。
3. マルクスが歴史の法則とした史的唯物論を基礎付ける
弁証法的理性批判に詳細。結局完成していないので試みとしては失敗。
4. 人間存在を解釈する方法を構築
他者との葛藤は、前述のまなざしとかだけではなく、制度や法、慣習、言語なども全て他者が作ったものであるから、個人はそういう広大な他者製の網目の中にいるという認識に後期はなっていく。
これらはサルトルのヒューマニズム思想の発展とも取れる。嘔吐の中で批判的に書かれたヒューマニズム(人間を最高の価値として考える)ではなく、人間が自らを作り上げていく、という考え方を実存主義的ヒューマニズムとして記述した。
最後の筆者の感想、恐ろしいのは人間の欲求自体も市場に作り出されていくこと、自分で自分を管理する力を奪われ、将棋の駒のようにされていくのではないか。本来の自由を抑圧することで新たな欲求を作り出し、それによって市場発信の別の自由を作り出しているのではないか。そして人間は、自分では自由だと信じているロボットのように知らずに主体性を奪われ、非人間化されているのかもしれない。
だとするなら21世紀の課題はあらためて人間とは何か、を問い、人間的領域を確定して人間的なものの破壊に抵抗することではないか。というの、確かになあ、と思った。
私自身、今自分は自由だと感じているが、それも思わされているだけなのかもしれない、と思った。
アンガシュマンをしていたサルトルのように、もし現代でも社会に対して怒りの声をあげたりするのだろうな、と思う。ただ、なぜそこまで政治にしっかり参加しよう、みたいな方向になれるのか?みたいなところはやはり少しわからないままのようには思われる。
chatgptと話した
なぜサルトルは「アンガジュマン(社会参加)」を重視したのか
1実存主義の内的必然(自由=責任)
「実存は本質に先立つ」→私たちは選ぶことで自分を作る。しかもその選びは「自分だけ」のものではなく、人間とはこう選ぶものだという普遍化を帯びる。よって、**不参加もまた世界への関与(責任ある選択)**であり、静観は“無垢”ではない。だから“価値を実現する行為=アンガジュマン”が不可欠になる。
2歴史的文脈(戦争・占領の経験)
第二次大戦期の占領と抵抗は、「沈黙は共犯たりうる」ことを露わにした。戦後、サルトルは『レ・タン・モデルヌ』を創刊し、しゃべる/書くことを政治的行為として引き受ける「エンガジェした知識人」の型を提示する。作家の言葉は現実に介入しうる、という確信がここで固まる。
3他者論からの要請(相互主体性の倫理)
『存在と無』では、他者のまなざしは私を他有化する。他者関係の極端な解がサディズム/マゾヒズムで、どちらも破綻する。ではどうするか――後年の倫理では、互いの自由を目的として選ぶことが要請される。これは抽象的な善意ではなく、制度・慣習・経済など“他者製の網目”を変える実践(=アンガジュマン)としてしか具体化できない。
4文学論(言葉は行為)
『文学とは何か』で、散文は行為だと言う。書くことは世界を露わにし、読者の自由に呼びかけて共同で意味を立ち上げる。ゆえに作家は状況から超然できない。作品は読者の“選び”を促す装置であり、作家はその責任を負う(プロパガンダではなく、「見えるようにする」責務)。
5自由の社会的条件への自覚(後期の拡張)
後期サルトルは、個人の自由が**欠乏・慣性的構造(プラクティコ=イナート)**に縛られる事実を分析し、**個から集団への変換(連帯の形成)**を構想する。自由を実地で拡げるには、集団として状況を変える関与が要る――これもアンガジュマンの理路。
Posted by ブクログ
サルトルの思想である実存主義の二つの定式「実存は本質に先立つ」と「人間は自由の刑に処されている」をサルトル自身の小説から引用したり、彼の生き方に触れて解説してもらった。
また、後半にはアンガジュマン(自分自身を参加させる(拘束する)の概念や戦争時代のサルトルが感じていたこと、政治などへの参加していた歴史について語られていた。
ボーヴァワールとの自由契約も興味深かったが、サルトル自身のド派手な生き方にも驚きが走った。
実存に先立ち、自由の刑に処されているからこそ、
人間はどうあるべきか?現代に置き換えて思考し、その上で来る未来に向けて準備すること(時代がどう移ろいでどのように捉えていくべきか?→AIが革新的に進み、ロボットに代替されることが当たり前になってくる→途上国も発展し、現在の先進国では、高齢者過多になっていき、労働力が低下していく。→その先に待っているものは?)
先人達の知恵を知り、その上で自分で人間とは?の解をもっていくことが大事だと感じた
Posted by ブクログ
未来-目的-希望。
これまで実存主義のヒューマニズムを誤解していた。
20世紀にこんな力強く希望を持った哲学者がいるとは知らなかった。
21世紀、がんばろう、と思える一冊。
Posted by ブクログ
この本は、サルトルの「実存主義とは何か?」について書かれた本です。
「本質は実存に先立つ」とは、サルトルの有名な言葉ですが、サルトルの考えがとてもよくわかる言葉だと思いましたー!
過激な思想等にも使われた哲学という感じも、ありますが内容的にはとても理解できるものでした!
サルトルの考えの概要がわかりやすく掴めて参考になりましたー❗️
Posted by ブクログ
無知過ぎるんだけど、実存主義は結構古くからの思想かなと思ったら、戦後からだったのか。
読むと解放と不安の時代だからこそ生まれたのだと納得。
「実存が本質に先立つ」というのは何となく分かっていたけど、
「人間は自由の刑に処されている」というの実存主義からなのね。
改めて諸々を神様のせいに出来ないから、自分で決定し、理由を見い出さなければならない…「人間って面倒くせえ」って事を噛みしめてしまった。
あと、私と物の関係だけでなく、他者からのまなざしによって自分の存在が規定されるとあったけど、
そういう意味では神はいないけど世間という神の逆鱗に触れないように生きているなと思った。
ただ、他者のしがらみで留まってもしょうがないので、自己完結して逃げずに他者を巻き込んで行動していくのが「アンガジュマン」という概念のように見えた。正しい理解じゃないかもしれないけど。
実存主義ってなんとなく「虚無」っていうイメージだったけど、
その要素もあるけど、希望的な側面も見受けられた。
Posted by ブクログ
シンエヴァを見た後に、実存主義を知ろうと思い呼んでみた。
サルトルについて1冊でよくわかるようになっており、全体的には良かったが、途中説明不足に感じるところがあったので星4。
「実存主義」が元々フランスにおいてはみ出しものの「若者」(第二次対戦前後)を表していたということは、世の中への不審を抱く現代人にも通ずる。
「アンガジュマン」と「自由の受難」の概念は、逃げたってどうしようもなく、それならば主体的に生きようという立ち直りであり、なるほどと感じられた。
Posted by ブクログ
意外と魂には響かなかった。
実存主義といえば、サルトルといえば、本質などなく自分で選択し、それを引き受けて生きていくんだという熱いメッセージを期待していたが、期待してしまったがゆえにあまり響かなかった。
眼差しや嘔吐、そして実存についてはサルトルの半生とともによくまとまってはいると思う。
Posted by ブクログ
サルトルの実存主義とは何かの解説本。他の書籍も引用しながら、サルトルの思想を述べている。
以下、自分用のメモ。
サルトルは実存主義を以下のように定式している。
第一の定式が、「実存は本質に先立つ」。
第二の定式は、「人間は自由の刑に処せられている」。
実存とはこの世界に存在することであり、本質とはどのように作られたかや、その存在理由といった総体。
仮に全知全能な神が存在すれば、本質が実存に先立つ。しかし、神がいないのであれば、人間は存在が先にあり、その後に本質がわかる。つまり、人間は、後天的に作られていく。
ここに主体性や投企、自由が絡んでくる。サルトルが希望にこだわっているのも、こういうことなのかもしれないと感じた。
人間が後天的に作られていくのであれば、いつでも自分を良くも悪くも変えることができる。
Posted by ブクログ
サルトルの解説自体は素晴らしいのに特別編コラムで全部台無しだよ。「現代はサルトルを履き違えた活動家が跳梁跋扈してるよな」と思いながら読んでたら著者が見事にその落とし穴にハマっていたというどうしようもないオチが付いた。SEALDs礼賛とかアホかと。「3つの籠に5個の卵を詰め込むやつには、早めに風穴を開けるべし」サルトル自身が遺したこの言葉を著者には送りたい。
それはさておき、サルトルの哲学を理解するための入門書としては悪くないと思う。自らを社会に投げ込むことで知られる実存主義者がなぜできあがったのか、そのプロセスを丁寧に説明している。それだけに最後の蛇足が非常に残念。
Posted by ブクログ
最後の加筆した部分が上滑りしていて、残念。
サルトルそのものの人生と思想の紹介はよくまとまっていた。
「実存は本質に先立つ」
「対他的」
読んでいたら、既視感が。やはり、すでに読んでいた。2024/8/4