あらすじ
2020年2月から3月のイタリア、ローマ。200万部のベストセラーと物理学博士号をもつ小説家、パオロ・ジョルダーノにもたらされた空白は、1冊の傑作を生みだした。生まれもった科学的な姿勢と、全世界的な抑圧の中の静かな情熱が綾をなす、私たちがこれから生きなくてはならない、コロナウイルス時代の文学。
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静謐な文章だ。しかし、訳者あとがきであるように著者あとがきの「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」にはかなりの熱量が込められている。コロナウイルスが過ぎ去った後には、「いったい何に元どおりになってほしくないのか」を考えている。元どおりになってほしいことではない。元どおりになってほしくないことだ。この視点はとても重要なことだと思う。
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感染症とは僕らの様々な関係を侵す病だ…
この災いに立ち向かう為に
僕らは何をすべきだったのだろう
何をしてはいけなかったのだろう
そしてこれから何をしたらよいのだろう
コロナ時代を生きる人々へ
イタリアを代表る小説家が送る
痛切で、誠実なエッセイ集
何を守り 何を捨て 僕らはどう生きていくべきか
2020年春ローマにて
非常事態下で綴られたイタリア作家の叫び
今読むべき傑作エッセイ
物理学を専攻した作家パオロ・ジョルダーノ氏は
この危機を「忘れたくない」と繰り返す
ウイルスの不安や驚きに満ちた
緊急事態の今だから
ヒリヒリと感じる事を…
落ち着いた私たちはたちまち
忘れてぼんやりとしてしまうと
著者は予測し警告する
力強い言葉で語りかける
私も忘れたくないリストを作ろうと思う。
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ウイルスは変異するもの。ウイルスが変異した責任を問える相手はどこにもいない。ウイルスはただ変異するものなんだから。
ただ……科学が万能だと信じられていた時代は過去のものだとわかってたけど、どう対応したらいいか、どの情報が正確なのか、どの意見が妥当なのか、そもそも耳を貸すべき専門家が誰なのかもわからず、身動きもできない状況に陥るとは……
私にはもとから日常と呼べる日々は無かったけれど、それでも日常を手に入れるべく、どうにかやっていくしかない。
新コロナは全生態系の危機
未だ新コロナの感染が拡がる状況の中で、グッド・タイミングの出版です。物理学出身である著者の数学的な説明も簡潔で判り易く、しかしあまり数学的、或いは統計的なデータの解析を展開する事無く、人類史的・文化的・文明的な洞察に溢れています。今回のパンデミックが国境を超えた全人類の危機というだけでなく、地球上の全生態系の危機と捉えなければならないと考えさせられます。
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コロナ禍(2020年の流行初期)のイタリアにいる著者のエッセイをまとめたもの。
大学での専攻は素粒子物理学とのことで、冷静に、数学的に今回のコロナ禍を見つめているような文章。
このようなウイルスは、人間の行う環境破壊や今までにない生物の乱獲などが原因でまわりまわって出現してきたと書かれていて、そんなことは考えてもみなかったので驚いた。
自分が生きている間はもう、このような世界的ウイルス流行はないと勝手に思っていたけれど、全くそうではない可能性があると知り危機感を覚えた。あまりに表面的なことしか見ていなかったなぁと反省…
全ては人間の行いに繋がっているという側面で、コロナ禍が過ぎたあとに、何に元に戻って欲しくないかを今のうちに考えておこうという言葉で締め括られている。
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今から2年も前の出版物とは思えないほど、現在の私たちに当てはまることが多く、この2年で随分変わったように思えても、結局は同じことを繰り返しているのだと気付かされた。
見えないものとの戦いは私たちを疲弊させる。痺れを切らした私たちは、自粛や感染症対策についての「甘い」情報を理由にして規制を緩めてしまう。一方で「厳しい」情報もあり、なにが正しくてなにを信じたらいいのか定まらない。
科学は日進月歩だから、情報には新しいものも古いものもある。それを私たちはどう見極めればよいのかというと、なかなか難しい。
この作品はわかりやすい比喩と、わかりやすい数字を用いて私たちの行動や気持ちに訴えてくる。
また、著者あとがきとして掲載された新聞記事の文章では、コロナによって起こった全ての事象を「僕は忘れたくない」の言葉で何度も訴えかけてくる。次に起きてしまう可能性のあるパンデミックや混乱に対して、私たち一人ひとりが考えていかなくてはならないということ、そしてゆくゆくはみんなで考えなければならないことも強いメッセージで訴えている。
この作品は過去の作品ではなく、現在にも必要とされている作品であると思った。
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自分の損得勘定だけにもとづいた選択はベストな選択とは言えない。真のベストな選択とは、僕の損得とみんなの損得を同時に計算に入れたものだ。(41ページ)
感染症の流行に際しては、僕らのすること·しないことが、もはや自分だけの話ではなくなるのだ。(44ページ)
今回のウイルスを季節性インフルエンザと勘違いして語る者も多かった。感染症流行時は、もっと慎重で、厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。なぜなら言葉は人々の行動を条件付け、不正確な言葉は行動を歪めてしまう危険があるからだ。(103ページ)
僕は忘れたくない。家族をひとつにまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを。(113ページ)
今のうちから、あとのことを想像しておこう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。(116ページ)
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昨年4月に緊急出版。2021年7月時点で、日本では、まだコロナ禍のまっただなか。本書あとがきの「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」が、自分にとって何かを考えて、生きていたい。
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この本が、2020年3月26日に原書で刊行されていた、こう事実がお見事だな、と思いました。そして、日本語版は2020年4月24日の刊行。うむ。迅速である。お見事ですね。
今、この感想を書いているのは、2021年5月24日ですので、自分はほぼ一年遅れでこの作品に出会ったのだ。うーむ。もったいないことしたな。と思うのが正直な感想です。あの、一年前の、新型コロナウイルス禍がまだどれほどのものか分からず、恐れとともにほぼ家から出なかった、あの時期に、読みたかったな。真にリアルタイムで、と思いました。
一年経つと、状況は、やはり変化しているものです。まさに「あの時」の、あのリアルタイムな雰囲気。あの時にこそ、やはり「まさに今」のリアルタイムで、この本に出会いたかった、という残念さが、どうしても強い。
いやしかし、良い本です。「あの時」の段階で、ここまでシッカリとした事を書いている、というのは、いやもう、お見事ですね。
作者のパオロ・ジョルダーノ氏は、作家でありながら、出身畑は物理学、ってえのがね、凄いな、って思いました。ガンガンの理系畑の人やんか。何故にそっちを学んでから、作家になろうと思ったの?という興味深さよ。このエッセイでも、キッチリと数学の観点から、伝染病について、新型コロナウイルスについて話している。そして、とても分かりやすい。お見事でした。かえすがえすも、一年前にリアルタイムで、読みたかった。その方が、感動は、大きかったと思うので。
あと、ちゃんと見通してるな、って思ったのは「これ(新型コロナウイルス禍)に似たようなことは、またいつか、必ず起こる」と喝破しているところ。これほどの全人類規模の災害が、次に発生するのは、自分が生きている間なのかどうか、それは分かりません。が「また必ず起こる」のは、うむ。間違いのない事だ。そこから目を逸らしてはいけないな、と。
また、必ず起こる、のである。その時に、私は、この今の気持ち、今の経験を、どう活かすことができるだろうか。それはとても大事なことだぞ、とね。思うのです。
なんらかの現象は、必ず、起こるのである。それが、悲劇だった場合は、繰り返さない方が良い。それが再び起こりそうになった場合、そして実際に再び起こった場合。自分に何ができるのか?そこはホンマに大事だな、と思った次第ですね。過ちを繰り返すな。このことは、考え続けねばならない。生きている限り。そう思うことができたこと。考えさせてもらえたこと。いやはや、良書でした。
Posted by ブクログ
イタリア人作家にして、素粒子物理学専攻の博士課程修了という著者による、2020年3-4月頃、つま新型コロナの感染がイタリアでも拡大し始めた頃の病名COVID-19、ウィルス名SARS-CoV-2の感染症に向き合い、コロナ後も忘れたくないことといった視点での科学者・数学者的なエッセイ集。
CoV-2には、まだ感染させることができる感受性人口が(当時で75億人近くと)大きいことから、感染を避ける生活行動でアールノート(R0:基本生産数)を1より小さくすることが大切であること、そして感受性人口から感染を経ずに(もう感染させることができない)隔離人口に移行させることなど、感染症対策の基本的な精神が伝わってきた。
デマ、歪められた情報がセンセーショナルに目につく世の中で、正しい情報に基づいてまだまだコロナ対策の生活が必要だと感じた。
21-12
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単にコロナ禍でのイタリアの状況を述べたものでなく、コロナ感染拡大の中で、個人の内面と向き合い、そこから人類全体が抱える問題にまで思索を巡らしている点が良かったです。
また後書きが素晴らしく、コロナ収束後の「忘却」について触れている部分は皆が読むべきでしょう。
Posted by ブクログ
この「まさかの事態」を忘れないために。
誰が何を言って、誰が何を言わなかったのか。すでにもうかなりのことを忘れかけている。間違いなく世界の歴史に重大な出来事として刻まれるだろう、新型コロナウイルスによる感染症の全世界的な拡大。それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの日々を生きている。その、イタリアの一人の作家の声。
著者の声は極めて冷静で、真面目。楽天的すぎず、悲観的すぎない。わからないことに対して、性急な結論を求めない。書かれた時期もあるのかもしれないが、ひたすら待つ姿勢だ。
考えよう、家にいよう、自分を見つめよう。この「まさかの事態」に耐え、この経験から学ぶために。それがよりよく生きること。旧約聖書の詩篇第90篇にあるように、日々を数えて、知恵の心を得よう。
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この本は2020年2月、3月のイタリアで書かれ、4月に日本で出版された本である。
そこから1年近くが経過し、まだ私たちはコロナの時代の渦中にいる。終息の目処さえ立っていない。
忘れたくない、とコロナ禍の初期段階で終息後の私たちに投げかける言葉を記した著者。
コロナ疲れなんていう言葉が生まれる私たち、にだ。
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不謹慎かもしれないが、人類史の中でこういった特殊な出来事に遭遇できたことはある意味貴重な経験だと思っている。この騒動が収まったあとに、渦中の出来事を記しているものは自分にとっても、家族にとっても価値が出るだろと思って購入。
公的なデータを引用していたり、事実と推測はある程度分かるように明言されていたり、印税の一部を医療従事者に寄付することが明言されていたり、随所で作者の思慮深さを感じることができた一冊だった。
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いろいろあってあんまり読書が進まずで感想文もサボってました。ということで話題になったこれ、読んでみました。作者は素粒子物理学の博士課程をでているイタリアを代表する作家さんだそうな。コロナがかなりきついタイミングのイタリアで書かれたエッセイだけどページ数も少なくてさらっと読めてしまう。内容に特に目新しい言説もなくだいたい世間で言われている内容のど真ん中、という感じではあった。ではどこが優れているのかというと日本語版に特に収録されたという「あとがき」が良かった。noteの早川書房のサイトでまだ公開されているみたいだから興味持たれた方は一読されても良いかもしれない。(リンクつけときました)特に自分が感銘を受けた箇所はちょっと長いけれど”コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。”というところ。環境破壊の結果生まれたウィルスであり初期にそれを見くびったため今の蔓延を招いた、というのが作者の立場。個人的には作者の見解には完全に同意はしないもののコロナのお陰で見えてきたものもあると思うので今後に上手く活かしていこう、という主張には全面的に賛成したい。
Posted by ブクログ
これが書かれた2020年4月から11月の今までの間に、それでも、かなりの進展があったのだなあと思いながら読んだ。イタリア的なものと、科学への揺るぎない信頼と。
Posted by ブクログ
免疫が必要なのは身体システムだけじゃない。社会システムも、感染症に対する免疫が必要だ。
リモートワークが定着し、業務システムが急速にDXを推し進め、世界は
狭くなったと感じる人も多いだろう。しかし、僕は全く逆の視点から、世界は狭くなったと感じる。(対面営業じゃないと成約率が悪いと危惧する部長、オンライン会議だと議論が活発化しないと危惧する部署が例)コロナ化を通じて、逆に人は目の前の人や物事にしか本当に向き合うことはできないのだと感じた。家族との時間が増え、自宅の環境が整い、休日はいつもは通り過ぎていた公園に本とコーヒーを持って出かけるようになり、近場の飲食店で食事を済ませるようになった。公園の景色も、そこでのんびりする時間も悪くないし、近所の飲食店も意外においしい。コロナによって世界はむしろ狭くなった。そして、家族や恋人、少ない友達との時間を大切にするようになり、自宅が居心地のいい場所になり、身近な景色を愛せるようになった。
・…そして気づけば、予定外の空白の中にいた。多くの人々が同じような今を共有しているはずだ。僕たちは日常の中断されたひと時を過ごしている。
それはいわばリズムのとまった時間だ。歌で時々あるが、ドラムの音が消え、音楽が膨らむような感じのする、あの間に似ている。学校は閉鎖され、空を行く飛行機はわずかで、博物館の廊下では見学者のまばらな足音が妙に大きく響き、どこに行ってもいつもより静かだ。
僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。予兆を見守り、今回の全てを考えるための理想的な方法を見つけるために。ときに執筆作業は重りとなって、僕らガチに足をつけたままでいられるよう、助けてくれるものだ。p8-9
→空白の時間ね、確かにそうだ。しかも世界中がそれを共有している。その中で、物を書く作業は頭の整理に最適だよね。
・ただし希望はある。「アールノート」は変化しうるのだ。変化が起こるかどうかはある意味、僕ら次第だ。僕たちが感染のリスクを減らし、ウイルスがひとからひとへ伝染しにくいように自分達の行動を改めれば、アールノートは小さくなりら感染拡大のスピードが落ちる。これこそ僕たちが最近、映画館に行かなくなった理由だ。必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあればついにはアールノートも臨界値の1を切り、流行も終息へと向かうはずだ。アールノートを下げることこそ、僕たちの我慢の数学的意義なのだ。p19-20
→個人的には、こーやってわくわくするような学術的知識で理論化して、外出自粛の意義を唱えてくれた方が身に沁みる。
・…何かが成長する時、増加量は毎日同じだろうと考える傾向が僕らにはある。数学的に言えば、僕たちは常に線形の動きを期待してしまうのだ。この本能的反応は自分でもどうにもならないほどに強い。
…(しかし)現実には、そもそも自然の構造が線形ではないのだ。自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている。自然は生まれつき非線形なのだ。
感染症の流行も例外ではない。とはいえ科学者であれば驚かないような現象が、それ以外の人々を軒並み怖がらせてしまうことはある。こうして感染者数の増加は「爆発的」とされ、本当は予測可能な現象にすぎないのに、新聞記事のタイトルは「懸念すべき」「劇的な」状況だと謳うようになる。まさにこの手の「何が普通か」という基準の歪曲が恐怖を生むのだ。p22-23
→コロナを通して、「正しく恐れること」の大切さを感じる今日この頃。こういう知識もあるのとないのでは心の余裕は変わってくる。でも、怖いものは怖い。その心理との中間を考慮して、集団の動きを予想しないと。
・コロナウイルスに愛する抗体は持たぬ僕らも、どんな困った状況にでも対抗できるそれならば持っている。何かにつけ、始まりの日付と終わりの日付を知りたがるのはそのためだ。僕らは自然に対して自分たちの時間を押し付けることに慣れており、その逆には慣れていない。だから流行があと1週間で終息し、日常が戻ってくることを要求する。要求しながら、かくあれかしと願う。
でも、感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。不可能なこと、または現実性の低い未来を待ち望めば、ひとは度重なる失望を味わう羽目になる。希望的観測が問題なのは、この種の危機の場合、それがまやかしであるためというより、僕らをまっすぐ不安へと導いてしまうためなのだ。p28
→人の心理まで考える。そこから生まれる希望的観測も考える。その上で何を希望することが許され、何が許されないかを把握する。間違った希望的観測はまっすぐ不安につながるなんて、恐ろしい。その転換点には必ず失望があるってことか。
・…自分の損得勘定だけにもとづいた選択はベストな選択とは言えない。真のベストな選択とは、僕の損得とみんなの損得を同時に計算に入れたものだ…。
つまり、残念だが、パーティーは次回にお預けだ。p41
→ナイスな警告だと思う笑。
・…今、僕たちが直面している状況では、ありとあらゆる反応が予見される。怒る者もあれば、パニックにおちいる者もあるだろう。冷淡な反応もあれば、シニカルな反応もあり、信じられないと思う者もあれば、あきらめる者もあるだろう。その点を心に留めておくだけで、普段よりも人に優しくしよう、慎重になろうとすることができるはずだ。さらに、スーパーの通路で他人をぶしつけな文句で罵ってはいけないということも覚えておこう。p62
→想像力が余裕を生むってことだな。
・ウイルスは、細菌に菌類、原生動物と並び、環境破壊が生んだ多くの悲しい難民の一部だ。自己中心的な世界観を少しでも脇に置くことができれば、新しい微生物が人間を探すのではなく、僕らの方が彼らを巣から引っ張り出しているのがわかるはずだ。
増え続ける食料需要が、手を出さずにおけばよかった動物を食べる方向に無数の人々を導く。たとえばアフリカ東部では、絶滅が危惧される野生動物の肉の消費量が増えており、そのなかにはコウモリもいる。同地域のコウモリは不運なことにエボラウイルスの貯蔵タンクでもある。
コウモリとゴリラ——エボラはゴリラから簡単に人間へ伝染する——の接触は、木になる果実の過剰な豊作が原因とみなされている。豊作の原因は、ますます頻繁になっている豪雨と干ばつの激しく交互する異常気象で、異常気象の原因は温暖化による気候変動で、さらにその原因は…。
頭がくらくらする話だ。原因と結果の致命的連鎖。しかし、他にいくらでもあるのこの手の連鎖は、以前に増して多くの人が考えるべ喫緊の課題となっている。なぜならそれらの連鎖の果てには、また新たな、今回のウイルスよりも恐ろしい感染症のパンデミックが待っているかもしれないからだ。そして連鎖のきっかけとなった遠因には必ずなんらかのかたちで人間がおり、僕らのあらゆる行動が関係しているからだ。
この本の序章で、僕はあえて少し大げさな表現を用いて、今起きていることは過去にもあったし、これからも起きるだろうと書いた。だからこれは、いい加減な予言ではない。そもそも予言ですらない。むしろ、あくまで客観的に、こう付け加えてもいい。コロナウイルスとともに起きているようなことは、今後もますます頻繁に発生するだろう。なぜなら新型ウイルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きているからだ。p67-69
→確かに、今回のコロナウイルスが偶然の産物としか考えられないのは危険だ。エボラがより人に感染しやすいように変質したら…と考えただけでも背筋が凍る。でも、それは十分に怒る可能性がありそうだ。コロナを通して人類が学んだことを、しっかり仕組みにしないといけない。
・…目には見えないそんな脅威に押しつぶされそうになりながら、人々は日常に戻りたいと望み、自分にはその権利があると感じている。日常が不意に、僕たちの所有する財産のうちでもっとも神聖なものと化したわけだが、これまで僕らはそこまで日常を大切にしてこなかったし、冷静に考えてみれば、そのなんたるかもよく知らない。とにかくみんなが取り返したいとおもっているものであることは確かだ。
しかし日常は一時中断され、いつまでこの状態が続くのかは誰にもわからない。今は非常時の時間だ。この時間の中で生きることを僕らは学ぶべきであり、死への恐怖以外にも、この時間を受け入れるための理由をもっと見つけるべきだ。ウイルスに知性がないというのは本当かもしれないが、すぐに変異し、状況に適応できるという一点では人間に優っている。そこはウイルスに学んだほうがよさそうだ。
現在の膠着状態は甚大な被害を生むだろう。失業、倒産、あらゆる業界における景気低迷。誰もがそれぞれの難題の山とすでに取り組み始めている。僕たちの文明が、スピードを落とすことだけは絶対に許されないようにできているためだ。ただ、今度の流行のあとで何が起きるのかの予測は複雑すぎて、僕にはとても無理だ。降参する。その時が来たら、変化をひとつずつ、受け入れていきたいと今は思っている。p96-97
・旧約聖書の詩篇第90篇にひとつ、このところ僕がよく思い出す祈りがある。
われらにおのが日を数えることを教えて、
知恵の心を得させてください。p97
(中略)でも、僕はこんなふうに思う。詩篇はみんなにそれとは別の日を数えるように勧めているのではないだろうか。われらにおのが日を数えることを教えて、日々を価値あるものにさせてください——あれはそういう祈りなのではないだろうか。苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生の全ての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか。p99
・コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。
このところ、「戦争」という言葉がますます頻繁に用いられるようになってきた。フランスのマクロン大統領が全国民に対する声明で使い、政治家にジャーナリスト、コメンテイターが繰り返し使い、医師まで用いるようになっている。「これは戦争だ」「戦時のようなものだ」「戦いに備えよう」といった具合に。だがそれは違う。僕らは戦争をしているわけではない。僕らは公衆衛生上の緊急事態のまっただなかにいる。まもなく社会・経済的な緊急事態も訪れるだろう。今度の緊急事態は戦争と同じくらい劇的だが、戦争とは本質的に異なっており、あくまで別物として対処すべき危機だ。
今、戦争を語るのは、言ってみれば恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ。少なくとも僕らにとっては完全に新しい事態を、そう言われれば、こちらもよく知っているような気になってしまうほかのもののせいにして誤魔化そうとする詐欺の、新たな手口なのだ。
だが僕たちは今度のコロナウイルスの最初から、そんな風に「まさかの事態」を受け入れようとせず、もっとも見慣れたカテゴリーに無理やり押し込めるという過ちを飽きもせずに繰り返してきた。たとえば急性呼吸器疾患の原因ともなりうる今回のウイルスを季節性インフルエンザと勘違いして語る者も多かった。感染症流行時は、もっと慎重で、厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。なぜなら言葉は人々の行動を条件付け、不正確な言葉は行動を歪めてしまう危険があるからだ。それはなぜか。どんな言葉であれ、それぞれの亡霊を背負っているためだ。たとえば「戦争」は独裁政治を連想させ、基本的人権の停止や暴力を思わせる。どれも——とりわけ今のような時代には——手を触れずにおきたい魔物ばかりだ。p101-103
→わかりやすい、しかし的を外した表現に落とし込んで、誤解を生み、余裕をなくすこともあると思う。コントロールはしやすいんだろうけど、しかも恣意的に。
・戦争という言葉の濫用について書いているうちに、マルグリット・デュラスの言葉をひとつ思い出した。逆説的なその言葉はこうだ。「平和の様相はすでに現れてきている。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある」(『苦悩』より)戦争が終わると、誰もが一切を急いで忘れようとするが、病気にも似たようなことが起きる。苦しみは僕たちを普段であればぼやけて見えない真実に触れさせ、物事の優先順位を見直させ、現在という時間が本来の大きさを取り戻した、そんな印象さえ与えるのに、病気が治ったとたん、そうした天啓はたちまち煙と化してしまうものだ。僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなるなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは。p107-108
(中略)しかし、そんな暮らしもやがて終わりを迎える。そして復興が始まるだろう。
支配者階級は肩を叩きあって、互いの見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう。自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という輩はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。一方、僕らはきっとぼんやりしてしまって、とにかく一切をなかったことにきたがるに違いない。到来するのは闇世のようでもあり、また忘却の始まりでもある。
もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。まずはめいめいが自分のために、そしていつかは一緒に考えてみよう。僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言できる。まずは進んで考えてみなければ、そうした物事はひとつとして実現できない。
家にいよう。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼み、弔おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。p114-116
・でも僕は忘れたくない。最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策に対して、人々が口々に「あたまはだいじょうぶか」と嘲り笑ったことを。長年にわたるあらゆる権威の剥奪により、さまざまな分野の専門家に対する脊髄反射的な不信が広まり、それがとうとうあの、「頭は大丈夫か」という短い言葉として顕在したのだった。不信は遅れを呼んだ。そして遅れは犠牲をもたらした。p110
・僕は忘れたくない。頼りなくて、支離滅裂で、センセーショナルで、感情的で、いい加減な情報が、今回の流行の初期にやたらと伝播されていたことを。もしかすると、これこそ何よりも明らかな失敗と言えるかもしれない。それはけっして取るに足らぬ話ではない。感染症流行時は、明確な情報ほど重要な予防手段などないのだから。p111
・僕は忘れたくない。今回の緊急事態があっという間に、自分たちが、望みも、抱えている問題もそれぞれ異なる個人の混成集団であることを僕らに忘れさせたことを。みんなに語りかける必要に迫られた僕たちが大概、まるで相手がイタリア語を理解し、コンピューターを持っていて、しかもそれを使いこなせる市民のみであるかのようにふるまったことを(移民たちのことを一切考慮せず、大切な知らせが当初、イタリア語のみで伝達されたこと、学級閉鎖にともない、いきなりオンライン授業が導入され、教育現場が混乱した状況などを指している)。p112
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『素数たちの孤独』で知られる作者のエッセイ。2020年2~3月頃のイタリアの情景。翻訳が4月に出ているのですごい勢いで翻訳→出版に至ったのだろうか。こういう記録は数十年後に過去を知るために貴重な資料になりそう。
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pp.80-81
「科学に置ける聖なるものは真理である」(『シモーヌ・ベイユ選集III』冨原眞弓訳、みすず書房)哲学者のシモーヌ・ベイユはかつてそう書いた。しかし、複数の科学者が同じデータを分析し、同じモデルを共有し、正反対の結論に達する時、そのどれが真理だというのだろう。
今回の流行で僕たちは科学に失望した。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外のかたちではありえないもので、疑問は科学にとって真理にもまして聖なるものなのだ。今の僕たちはそうしたことには関心が持てない。専門家同士が口角泡を飛ばす姿を、僕らは両親の喧嘩を眺める子どもたちのように下から仰ぎ見る。それから自分たちも喧嘩を始める。
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コロナ禍当初の空気感をそのまま表したエッセイ。
二年経ってなお振り回されているし、著者の言う「忘れたくないこと」こそ忘れようとしている、と思う。
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コロナについて書かれたエッセイと言うことで、気になって買ってみた。筆者はイタリア在住のエッセイストと言うことで、その点も気になってはいた。
エッセイを読み始めてまず感じた事は、コロナが始まってまだ2年しか経っていないと言うのにこれが始まった当初のことがすごく懐かしく思えたことだ。 それだけ、このエッセイはコロナ当初の空気感をよく切り取って表現している。
ただ文章全体がエモいのではなく、筆者の趣味として数学があるからか、文章にはどこか理系的というかロジカルな雰囲気を感じた。
印象に残ったのは、人間の視点ではなくウィルスの視点で世界を見てみること。
人間による自然破壊の結果、ウィルスが自然の中から人間の社会へと漏れ出してしまうこと。 世界人口が増えたことで、これまで食べなかったような動物を食べ始めた結果、温存されていたウィルスを人間側に取り込んでしまうこと。
そもそも現在の地球において人間ほど数が多く活発に移動している動物は他にいない。 ウィルスのキャリアとしてはこれほど適した生物は他にいない、という視点もよく理解できた。
それから、あとがきでの筆者の想いも読み応えがある。この世界的な感染症が終わってしまって、世界が全く元通りに戻っていいのか、と言う疑問の投げかけは僕らがよく考えるべきことだと思う。
コロナ初期の世界の空気感を改めて味わえる点、 ウィルスに関して新しい示唆を得られる点など、意義深さを持つエッセイだった。
Posted by ブクログ
今まさに起きている未曾有の出来事、コロナウィルスについて科学的視点からの説明があり、混沌としたものを少し理解できたように思えた。
またウィルスを取り巻く報道のあり方についても揶揄しており、モヤモヤしていたものが少しスッキリした。
動物がどんどん絶滅したり、自然破壊が進む中で、唯一発展し、大移動を常にしている人類がそもそもウィルスにとっては絶好の住処であるというのは、まさに目から鱗で印象的であった。
またコロナ禍をネガティヴばかりに見るのではなく、元に戻ってほしくないものリストを考えるなどこの機会を生かそうとしていたのは、参考にしたいと感じた。
withコロナとなり、はや2年。
人生で世界中でこんなことが起こるなんて思っても見なかった。
でもよく考えると、グローバル化である現在、ある意味なるべくしてなっている現状だとも思った。
そしてこれは「はじまり」に過ぎないかもしれないということ。
地球温暖化、異常気象、増加する絶滅危惧種…
今まさに自然環境は思わぬスピードで変化している。
こうした悲劇は、また起こってもおかしくない。
そう感じさせると共に、地球環境の問題を人ごとではなく、考えさせる本であった。
Posted by ブクログ
この本が出たのは、2020年4月。
まだまだもやもや時期なのに、的確な指摘だと思う。
コロナ禍で日常が中断された。
時間が止まったように。
コロナを止めるにはワクチンが必要。
中国武漢市の市場では様々な野生動物が生きたまま、互いに密接した状態で扱われていた。異種混合は病原体が伝染しやすい。この病原体がなぜ発生したのか?つきとめることは、重要な疫学のミッション。
秘密実験の研究室からアンプルがひとつ盗まれた説。
万里の長城は月から見えるという噂があるが、確かに巨大だが幅がひどく狭い。月から見えるはずがない。
フェイクニュースは広まりやすい。無数の憶測がさらに増えて不正確な思考の群れも無限に広がる。
考え続けること、忘れないこと。
おうちが1番。おうちが1番。
Posted by ブクログ
読んだ時期にも問題があった気がしますが、余り心には残らない感じでした^^;。ただ、日本版に特別掲載されたという最後の1章は、時間軸の違いもあってなかなか良かったです☆どうやら最後の1章以外は、コロナが流行しつつも、まだ日常的な空気が漂っていた頃のローマで書かれたものとのこと。コロナ後の約1年間で感じたいろいろな事を今後の人生の糧に出来たら良いなあ♪
Posted by ブクログ
この本が書かれてからすでに1年近く経っており、COVID-19の感染拡大は当時とは比べものにならないほど大きくなっている。
このウイルスによって人と距離を保ち、家にいることを強いられる状況を無駄にせず考える時間に使おうという言葉が印象的である。
ただ、個人的には内容がやや支離滅裂でメッセージが伝わりにくいように感じた。
「作者あとがき」の部分こそ伝えたいことなのだろう。本書を手に取る方は必ずあとがきまで読むことを強くすすめたい。
Posted by ブクログ
これはもう読むのが遅すぎた。
日本でもイタリアの状況に追いついてしまっているから。
元に戻る以上の日本に、したいね。
って糸井さんが言ってたっけ。
Posted by ブクログ
コロナ禍のイタリア。真っ只中に理系の作家が書いたエッセイ。理系特有の分かりづらさもあるけれど、今となっては分かっていることが多いので難なくよめる。感傷的な文も多い。
あとがきの「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」は、ぜひ読むべき。