あらすじ
渡辺和子の父はなぜ二・二六で殺されたのか。
昭和11年2月26日未明――。
雪に覆われた東京・荻窪の渡辺邸で何があったのか?
「非戦平和」を訴え続けた「良識派」軍人の思想と生涯が、初めて明かされる。
ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』などの著作で知られるシスター渡辺和子の父・錠太郎は、日本が戦争へと突き進む中で起きた史上最大のクーデター未遂事件「二・二六事件」で、陸軍軍人としてただ一人“襲撃目標”にされた人物だった。
戦争だけはしてはいけない――。第一次大戦後のドイツなどを視察し、戦争の実相を知悉していた錠太郎は帰国後、戦争を避けることがいかに重要かを説いて回った。
「私は戦い破れたドイツ、オーストリーばかりでなく、勝った国のイギリス、フランス、ベルギー、オランダなどもつぶさに見て来たが、どこもかしこもみじめな有様であった。日本も世界の列強にならねばならぬが、しかし、どうでも戦争だけはしない覚悟が必要である。」(評伝『郷土の偉人 渡邉錠太郎』より)
無類の読書家でもあった錠太郎は、俸給の多くを「丸善」での軍事書などの支払いにあてていたという。
「非戦平和」を唱え続け、志半ばで凶弾に斃れた悲劇の軍事エリートは、なぜ同じ陸軍の兵士たちの手で殺されなくてはならなかったのか。残された娘は、父の死に何を学び、どう行動したのか――。
第26回山本七平賞奨励賞を受賞した気鋭の歴史研究者による傑作評伝。
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【こんな人間になりたい…なんて言うのも恥ずかしい】
二・二六で凶弾に倒れた渡辺錠太郎の伝記。歴史書としてもおもしろい上に、人物伝として描かれる彼の生きざまが文句なしに素晴らしい。
まずは歴史書としての観点から。これまであまり知らなかったけど、永田鉄山とともに、もし生きていたらその後の陸軍、ひいては歴史を変えたかもしれない、日本を救ったかもしれないといわれる大人物。彼に手を下した愚か者が憎いと思った。けど渡辺和子が言うとおり、直接手を下した青年将校や下士官たちよりも、貧しい農村を思う彼らの純朴な思いを利用してクーデターを扇動し、事件を起こさせておきながら、天皇の激怒を知って知らんぷりを決め込む荒木貞夫、真崎甚三郎といった上級将校たちは決して許せない。恥を知れ。そしてその後の歴史まで変えてしまったあなたたちの罪は想像以上に重い。
次に人物伝。天皇機関説や統帥権干犯をめぐる議論をてこに皇道派が強硬に発言力を増す中、それに危機感を抱く林銑十郎、渡辺丈太郎、永田鉄山といった特定の派閥に属さない良識ある人物たち(皇道派に対し、いわゆる統制派と呼ばれる)の抵抗に手に汗を握る。永田が「小説」として書いた(書かされた)クーデター計画案をめぐって渡辺が真崎をやりこめる場面は痛快だ。理知的、冷静でありながら鬼気迫る勢い。満を持して鷹が鮮やかに舞い降り爪を現した瞬間!
人物としての渡辺錠太郎は、今の自分とはあまりにもかけ離れすぎて理想像というのもおこがましいと思ってしまうくらいの人格者。本の表装の、娘の横で幸せそうに笑う普通のおじさん写真(失礼!?)からは想像できなかった。
勤勉、努力家、高潔、自ら望まず、自己顕示欲なし、衣服や金銭に無頓着、義理堅い、正義感強い、逃げない、ぶれない、芯が強い、普段は温厚篤実、肝心なところで曲がったことは通さない、強固な意思、やるときは徹底的にやる胆力。
残念ながら自分との共通点は本好きなことくらい??比べると情けなくなるけど、自分に負けそうなとき、逃げたくなったとき、「渡辺大将ならどうする?」って自分に問いかけるくらいは許してもらおう。
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過日、旭川を訪れる機会が在って、街を歩いて常磐公園に立寄った。
公園の入口に「常磐公園」という園名が刻まれた立派な碑が在る。昭和の初め頃に出来た碑だが、文字は旭川に司令部を設置していた陸軍の第七師団で当時師団長を務めていた人物が揮毫したのだという。往時の陸軍では「師団長」は中将の階級に在る者が務めていたようだが、「常磐公園」の揮毫をしたのは渡辺錠太郎という人物だった。
「渡辺錠太郎」の名に聞き覚えが在った。彼は旭川での任務の後、大将に昇任している。やがて教育総監という陸軍首脳部の要職に就くのだが、「二・二六事件」の際に自宅に在った時に襲撃され、殺害されてしまった。その「二・二六事件で害されてしまった人物」として「渡辺錠太郎」の名を記憶していた。
そういうことでこの「渡辺錠太郎」という人物について知りたいという興味が沸いた。そういう中で本書に出逢った。
揮毫したと伝えられる碑を偶々観たという小さな出来事を通じて「気付いた」人物について、本書を通じて色々なことを知ることになった。種々の史料・資料を、読み易さを意識した形で整理して引きながら、「渡辺錠太郎」という人物の歩みを巧みに纏めている一冊である。
表紙カバーに、軍服姿の男性と、未だあどけない感じの少女との写真が掲載されている。軍服姿の男性が陸軍大将渡辺錠太郎である。少女は末っ子の娘である。年季が入った職業軍人の厳めしい雰囲気ではなく、少女が「可愛がって下さる御父様」と慕っている、強く優しい父親という雰囲気が滲む写真であると思う。少女の側も、「御父様」の傍らに在るのが嬉しく誇らしいという様子が表情から伺える。
渡辺錠太郎は結婚後に娘を授かり、間隔が少し開いて2人の息子を授かった。更に年月を経て、本人が50歳代に入っていて、旭川での第七師団長であった頃、妻から妊娠を打ち明けられた。妻は産むべきか否かを迷っていたらしい。最初の娘は既に嫁いでいて、子を授かったというような話しが出ていた頃であったのだ。そんな中、渡辺錠太郎は妻に「産んでおけ」と告げたそうだ。そこで表紙カバーの写真の娘が産れている訳だ。孫であっても不自然でもない感じの娘を授かったということになる。50歳代が現在よりも高齢であるというイメージであった時代で、渡辺錠太郎は娘と過ごせる時間は余り長くないのかもしれないとして、娘を随分と可愛がっていたらしい。表紙カバーの写真は二・二六事件の何ヶ月か前であるようだ。渡辺錠太郎は62歳で、娘は9歳であったという。
実は渡辺錠太郎が襲撃を受けて最期を遂げてしまった時、一番近くに在ったのが写真の少女、娘の和子であったという。本書は最初の方に事件で渡辺錠太郎が最期を遂げてしまう様子等が、長じた娘の和子が綴ったモノ等も引きながら詳しく叙述されている。御本人に近い側から観た最期というような感じになるであろう。
それを踏まえて、少年期からの渡辺錠太郎の歩みが、高級将校として色々と説いていた論等が詳しく紹介されるのが本書である。少し夢中になる内容だ。
渡辺錠太郎は少し独特な経歴を歩んでいる。優秀な若者を見出して登用する仕組みに乗り、内部での研修を経て昇進という経過なのだ。
陸軍将校の多くが士官学校に学ぶ。士官学校については、幼年学校からという人達も在れば、現在の有名な大学の前身に相当する様々な学校へ進むようなコースに乗っている人達も在って、そういうエリートがなかなかに厳しい試験を潜り抜けて入学していた。渡辺錠太郎はそういうエリートというコースに乗っていない。農家の出で、最低限の義務教育、小学校を卒業しただけである。そこから「誰でも受験資格が在る筈だ」ということで受験可能な年齢になってから士官学校を受験し、見事に合格した。やがて、更に上席の参謀将校となり得る人材の研修を行う陸軍大学校に進む。これも将校と名が付く全ての者が進むのでもない。その陸軍大学校に学んだ渡辺錠太郎は、首席で研修を修了して将来を嘱望されたということだ。
陸軍で将官に昇進するという人達は或る程度限られる。その将官の中でも最高位の大将というのは更に限られる。当時のエリートと呼ばれる経歴と無縁で、「小学校の後に受験年齢になった」というだけで士官学校に入り、大将に迄昇進したというのは、渡辺錠太郎以外に例が無いかもしれないということのようだ。
陸軍大学校の後、渡辺錠太郎は日露戦争に従軍するが、負傷して戦地から退いている。その後は参謀本部に勤務し、元帥山縣有朋(1838-1922)の副官を務め、ドイツへ研修に出る機会も経験している。そういうような経過であったが、第1次大戦の欧州を視察する機会を得て、戦争や軍事ということに関して色々と考え、それらの論を纏めている。この第1次大戦を受けての、渡辺錠太郎の論が本書に詳しく紹介されているが、非常に興味深い。
日清戦争や日露戦争は、陸海軍の軍人が何処かの戦場で戦っているというような感であった。第1次大戦は、各国の国民の大半を広く巻き込む様相になってしまっている。そして航空機の利用で空爆が行われるようになり、各国になかなかに難しい防衛の課題を突き付けるようにもなっている。軍備を備えても、簡単に戦端は開けないものなのだと考えるべきであろうというのが渡辺錠太郎の説だ。
渡辺錠太郎は政治的な行動に出るのでもなく、派閥のようなモノに与しようとするのでもなく、飽く迄も軍人の役目を誠実に果たすという考え方であったとされる。が、所謂「皇道派」と「統制派」との争いに関わるような形になって行ってしまう。政治的な動き、派閥としての行動が目立つような感じになった「皇道派」の突出する傾向を牽制しようとしたのである。そうした経緯の中、二・二六事件に関わった人達の怨嗟の対象というようになって行ったようだ。
やがて本書は二・二六事件の様子等に関して、もう少し多面的に描き出し、事件で最期を遂げた渡辺錠太郎の遺族である和子や、事件に携わった青年将校の家族の年月というような話しを綴っている。
旭川で公園の園名碑の挿話に触れて出くわした人物の名が、史上の少し大きな事件に関わっていることに気付き、その人物の詳しい評伝に出逢うこととなった。何か凄く好かったと思う。
長い間、「渡辺錠太郎」という名は「二・二六事件で襲撃された人達の1人」というだけに留まっていた。が、本書の御蔭で大変な努力で身を立て、世界の歴史、文明の行方のようなモノを見詰め、職業倫理を飽く迄も全うしようと心を砕き、同時に子ども達の強く優しい父親であったという人物像が眼前に迫るようになった。そしてこの人物は、何となく訪ねる機会も在る旭川に所縁の人物ということにもなる。
今般、偶々本書に出くわし、本当に善かった。こういう感じで興味深い本に出くわすことを繰り返しながら、少しなりとも、より心豊かな人生が拓けるのだと思う。「渡辺錠太郎」はもっと知られて然るべき人物であると観る。そういう意味でも本書は広く御薦めしたい。
Posted by ブクログ
二・二六事件で暗殺された陸軍教育総監渡辺錠太郎。貧しい境遇から士官学校、陸軍屈指の読書家で独自の非戦思想。歴史の狭間に埋もれた人物の実像に迫る傑作評伝。
本書の主役渡辺錠太郎の二女の名は渡辺和子。あの「置かれた場所で咲きなさい」の筆者。二・二六事件、青年将校の凶弾に父が倒れた時、8歳の娘は正に同じ部屋にいたという。53歳で生まれた娘。「長くは一緒にいられない」と孫ほどに年の離れた娘を父は溺愛。
日本の陸海軍士官は旧制高校、帝大と並ぶ当時のエリート。渡辺錠太郎の生涯、凄いのは小学校を卒業後、農業のかたわらで独学、旧制中学を経ずに陸軍士官学校に合格するところ。
二・二六事件に至る陸軍の道、そこにある皇道派と統制派の争い。本書を読む限り渡辺はどこの派閥にも属していない。その分、現代の目から見ても極めて真っ当な主張が多い。軍人が政治に意見する弊害や機関銃、航空機等の近代兵器での武装の必要性、そして総力戦による国家の疲弊と一方で非戦のためな武装論など。
渡辺錠太郎の名は知ってはいたが、本書がなければ略歴その他深く知ることはなかったように思う。歴史の狭間で名のみ残る人物。そんな立志伝中の人物にスポットライトをあてた作品。父娘二代の生涯には大きな感動が。
屈指の評伝です。
Posted by ブクログ
「渡辺錠太郎伝:二・二六事件で暗殺された学者将軍の非戦思想」(岩井秀一郎)を読んだ。
これは力作です。
見事!
渡辺の言葉で印象に残ったのが、
『それから少数の者が実権を掌握して久しきに溺れば必ずその内容が腐敗して来る』(本文より)
いつの時代においても権力が腐敗していくのは同じか。
Posted by ブクログ
渡辺錠太郎は2.26事件で非業の最期を遂げました。学者将軍と言われていた渡辺錠太郎。そんな彼は非戦思想を持っていました。
そんな渡辺錠太郎と、同じ日に殺害された高橋是清が、もし生き延びていたら、と思います。
「もしもあの時、父が青年将校たちの手で殺されていなかったら、後年キリスト教の洗礼を受けなかったかも知れないし、その結果として修道者となり、岡山に派遣されることもなく・・・」と、渡辺和子シスターは語っています。
この本ではまた、渡辺錠太郎の命を奪い処刑された青年将校の弟と、渡辺和子シスターとの交流も少し描かれていて、そのくだりにも心打たれるものがあります。
起こって欲しくないような悲惨なことが現実には起こる。自然災害や病気。人の罪が引き起こした悪事。「どうして」と問いたくなることがたくさんある。納得できないことだってある。
それでも、それを悲惨なままに放置しておく神様ではない、ということもこの本を通して思いました。