あらすじ
薬剤師や職人、木材商などの一般市民を中心に編成された第101警察予備大隊。ナチス台頭以前に教育を受け、とりたてて狂信的な反ユダヤ主義者というわけでもなかった彼らは、ポーランドにおいて3万8000人ものユダヤ人を殺害し、4万5000人以上の強制移送を実行した。私たちと同じごく平凡な人びとが、無抵抗なユダヤ人を並び立たせ、ひたすら銃殺しつづける──そんなことがなぜ可能だったのか。限られた資料や証言を縒り合わせ、凄惨きわまりないその実態を描き出すとともに、彼らを大量殺戮へと導いた恐るべきメカニズムに迫る戦慄の書。原著最新版より、増補分をあらたに訳出した決定版。
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Posted by ブクログ
その仕事はしたくないって? あのね,あなたがしなければ結局誰かがやることになるんですよ。しかもあなたがそうやってその仕事を否定すれば,頑張っている先輩や同期の努力を踏みにじり,いろんな人に迷惑がかかる。それでもいいの?
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本好きの友だち二人がお薦めしていたので購入…したあと積読になっていた。
ホロコーストについて、ドイツ警察予備大隊の隊員たちの証言をもとに客観性、信ぴょう性に重きを置きつつ、なぜそういうことが行われたのかということを検証している。
淡々と、当時の警察大隊がどういった事情で編成されたのか、そしていかなる指令系統で命令が下され、それがどのように末端隊員まで伝わり、実行されたのか。そしてユダヤ人の虐殺がどう実行されていったのが描写される。
最初の方、ユダヤ人を全員射殺することを涙を浮かべて説明するトラップ少佐。やりたくないものは名乗れという。そんななか、不器用に始まった「指令の実行」。そこには殺されていくユダヤ人と、射殺という行為を不器用ながらこなしていくドイツ人の描写が続くのである。辛い。読むのが辛い。何が辛いのか。自分だったらどうなのかということを考えると辛い。読み始めて二日目ぐらいにふと気が付いた。自分は、「自分がなんの正当な理由もなくユダヤ人であるというだけで殺されることを想像して恐いのだ。辛いのだ。」ということに気が付いた。「なんの正当な理由もなく」と書いたが理由があったらいいのだろうか。そういうことではないが、殺されても仕方がないと思えるなにかがないことへの恐怖だ。自分がそれまでの人生で積み上げてきたもの。作り上げてきたもの。得てきた能力。そんなものは命を長らえるためになんの役にも立たないのだ。いつも法話で聞いていることではないか。自分はこの本で死の表現があるだけの数、死ぬことを想像し、それを恐れた。
もう一方で気が付いた。「殺す理由があったら殺してしまうかもしれない」ということに対して理解がある自分。それはわかると思う自分。ドイツ人の中には、職務放棄に近く、殺人行為に参加することを拒否する人たちがいた。自分だったらどうだろうか。人を殺すのは嫌だ。嫌だったら申し出ろと言われる。でももともとは国の命令だと。でも申し出てもいいといわれる。男としてできないといえば臆病者といわれ、仲間外れにされる。この後どんな不利益があるかということもあるが、この仲間と集団で行動していかなければならない中で、自分だけできないという勇気があるか。
「理由があればいい」というのは、会社員としてそういう習性が叩き込まれているから。会社の方針に沿うものであり、上司が言うことであれば、従っていくべき。できないといったら無能であるということ。これは生死に関わることではないからいいが、でも基本的にこういう考え方が染み込んでいる自分に気が付く。コンプライアンスの問題があるので、法的におかしなことをさせられることなんて会社員にはない。でも自分の生き方に立ち返ったときに、こういう選択でいいのだろうかという場面に直面することはある。そのときに自分の判断基準はどうであろうか。そういうことも考えさせられた。給与をもらっている分働くだけ。でも全体のためにこうしたいという想いもある。そういう自分の気持ちに正直に行動できているだろうか。生きるか死ぬかのことを考えていたら、毎日の生活のそれくらい、真摯にやれよ!と思う自分がいた。
最初は殺人に心を悩ませていた隊員たちが、次第に淡々と業務として行うようになる。それも人間がなんでもしでかす存在であるということをまざまざと見せつけられるようだ。それは、自分。
殺す方の立場で考えたら、このようにいくらでも想像して言葉が紡ぎだされてくる。でも、殺される側を想像したとき、死の後はわからない。でも殺される自分には不条理しかない。なにも説明できるものは残らないのだ。恐ろしい、心底恐ろしいと思った。そして仏法を聞いていてもそうなる自分なのだなということを痛感する。
祖父が戦地で殺されかけた時の話を思い出した。祖父を助けるために同僚が敵兵を射殺した。祖父は助かった。敵兵は死んだ。そういうことが生々しく自分の目の前に浮かんできた。その時祖父が死んでいたら、自分は今ここにいない。正月に家族と話していた時に、自分と弟は祖父の戦争の話を最期よくきいていたが、娘である母はまったく聞いたことがなかったとのことだった。孫だから言えたのだろうかと思う。
特筆すべきはこれは”増補”であり、初版から25年後にほかの研究者の発表と批判、年月を経て新たに出た証言、検証結果などを総合して再度実態を明らかにしている。一回書いたから終わりではなかったのだ。どうしてこのようなことが行われたのか。人間は恐怖で支配されなくとも、時に残酷な集団となりえるということを社会的実験からも検証をしているところがすごい。もう二度と繰り返さないために。忘れないために。
開館間もないベルリン・ユダヤ博物館に行ったことがある。こういった書籍を読んだ後に行くべきだったと悔やまれる。
正直自分は戦争がどういうものであったのかということを歴史の授業と何冊かの本と、祖父母の話からしか知らない。そして読んだ本がどういった立場で書かれたものかも気にせず読んでいたと思う。これからは自分がこの世界をどう見ていくかについて、歴史を客観性をもって振り返る本を読むように心がけたいと思う。
ユダヤ人が、ドイツ人がということではなく、この本を読んで自分は殺され続けるのか、殺し続けるのか、ぜひ確かめてほしい。
Posted by ブクログ
ナチス政権下の人たちが隔絶して激ヤバイデオロギーに骨の髄までスポイルされて全く違う世界の別の生き物と化してしまったからこういう大量殺戮も可能になったということで「そういう社会」に生きてないわたしたちは別に安心していいんですよという話ではなくその逆、逆逆逆という本。
ホロコーストや最終解決の話になるとき思い浮かぶのはやはり絶滅収容所で、概念としてもめちゃくちゃインパクトがあるので頭に残りやすいけれど、絶滅収容所に至るまでにはもっと直接的に一斉射殺という手段が取られていたわけで、そこに関わった人たちの証言を多く読めたのはよかった えぐかったが。
いや、射殺に関する臨場感あふれる証言が最たる押しポイントというわけではなくて、まさにタイトルで、普通の人たち(別に軍人でもなく戦争前は違う仕事をしてて家庭もある中下流階層で前線には耐えられないような中年の人たち)がどう目の前の殺戮を自分の中に落とし込んでいくかという過程と考察の緻密さ、これに尽きます。
Posted by ブクログ
初刷をはじめ途中までは第4SS警察擲弾兵師団を「警察近衛師団」という意味不明な「訳語」を使っていた。第三帝国時代の研究書の翻訳にはマニア向けの知識は必要だといういい例だ。どうしてそういう「訳語」が生まれるのかは知らないけれど。
増補で記されたページで読み取れるように著者やホロコースト記念館、ヤド・ヴァシェムなどは第三帝国時代の制服について知識がなかったらしいので被写体が着ている制服が持つ意味を見抜けなかったようだ。特に399頁の写真とバー=ゾウバーの「モサド・ファイル」に掲載された写真は明らかに連続写真なのにヤド・ヴァシェムはポーランドなのかチェコなのか、映っているユダヤ人は誰なのか無茶苦茶な「写真鑑定」をしている。第三帝国時代を「制服の帝国」を評した書名の本があるようにヒトラーから強制収容所の囚人に至るまで決められた制服があり、それらがマイナーチェンジを繰り返した上に勲章や記章類が沢山あるので被写体が着ている制服がどこの所属なのか、身に着けている勲章や記章類がいつ制定されたものなかが分かれば、ある程度は時期を見分ける事が出来るものだ。
ダニエル・ゴールドハーゲンは偽書「断片」を見抜けないのでガス室のある「マイダネクにはユダヤ人の子ども向けの保育園があった」と見做しているようだ。それではゲットーと強制収容所の区別がつかないし、第三帝国時代の警察はSSと一体化している事も知らないフォーサイスの「オデッサ・ファイル」といい勝負だ。
これは行動部隊でも言える事だが警察部隊は「殺す」事が目的なので強制収容所の幹部や看守達と違って「殺される」側からは顔も名前も覚える事が出来ないので「零時」の後に英軍占領下の警察で勤務出来るのだろう。
Posted by ブクログ
何百万人ものユダヤ人を虐殺したのだから処刑に関与した人間は極悪人ばかりだと思いたいが、この本を読むとそうではないというのが良くわかる。
組織の歯車に収まってしまうとおぞましい程の蛮行も気にならなくなり、しまいには効率的で淡々とした殺戮者となってしまう。そこには順応への圧力や面子を失うことの恐れなど自分にも見に覚えのあることが関係しており、けして他人事として切り捨ててはいけない問題だと思いました。
Posted by ブクログ
原著初版1992年、あとがきを加えた第2版が1998年、更に「25年の後で」という文章が2017年追加された。
ナチスのユダヤ人大虐殺を扱った著書として非常に有名で、いろんなところで言及されており、とりわけ社会心理学系の本にはあの有名なミルグラム実験と共に、よく引用される。
普通に善良なドイツ市民が無残な虐殺を行ったというテーマで、それはハンナ・アーレントの「凡庸な悪」というテーマにも隣接しそうだが、本書を通じアーレントへの言及は全く無い。
歴史上の限定的なプロセスについてのルポルタージュになっており、中心的に記述されるのは、30代から40代の至極普通のドイツ男性の寄せ集め500名ほどで編成された「第101警察予備大隊」が、ポーランドにおけるユダヤ人虐殺を遂行する経緯である。歴史上の事実をたどりながら、考察は当然心理学的な部門にもまたがってゆくだろう。
ポーランド内の様々な街をたどってユダヤ人たちを銃殺していく。労働力になりそうな男性の一部は労務のほうに送り込まれるが、病人・老人・女性・子どもたちは即刻射殺される。隊員たちは当初殺人行為にかなりの抵抗感を持つが、作戦が重ねられるにつれ次第に麻痺してゆくようだ。より効率的に・殺戮者の心理的負担も減らすべく、ガスで一気に殺す絶滅収容所に送り込むようになるが、それでも、大量射殺行為は延々と続く。何百人、何千人と一気に殺され、その数字を見ていく内に読んでいるこちらも麻痺していく。
この大隊の司令官はヒューマニスティックな人物で、殺戮に当たって涙を流したりする。隊員の1割ほどは「こんな仕事は私には耐えられません」と申し出てそれが意外にも許され、別の任務に回されることがあったようだ。変に真面目な日本軍なら決して許されなかったろう。
大量殺戮の行われた日の夜は隊員に酒がふるまわれ、みんな大いに飲んで思考を麻痺させた。考えこむ隙を与えず、機械的な作業を続行させるのである。
著者の解釈によるとこの大隊に属するドイツ人たちはもともと、反ユダヤ思想に染め上がった人々ではないのだが、命令に従う組織集団として、黙々と虐殺を実行していったのだった。先述のように良心の責めに我慢できず作戦から外してもらうことも可能だったのだけれども、状況的に、自分が殺人に参加しなかったとしてもそれでユダヤ人の命が幾らか救われるわけではなく、単に自分の担当する殺人行為を他の仲間に押しつけるだけになるので、いろいろ計算してみて結局多くの者は粛々と虐殺をこなしていったらしい。ちなみにユダヤ人だけでなく、丸腰の一般のポーランド人も相当数射殺されている。
殺戮に嬉々として・快楽を感じつつ参加したのは、本書中ではたった一人の士官だけであり、こういう心性の方が例外である。だが、ほとんどの隊員が膨大な射殺を行ったことに変わりはない。
著者の考察によると、当時の一般的なドイツ人の多くは、反ユダヤ思想に洗脳されていたわけではなかった。ナチスによる障害者や老人、そしてユダヤ人の殺戮が始まった時、そのことに気づきながらも、多くのドイツ市民はユダヤ人たちの運命に「無関心」を決め込んだ、というのが著者の分析だ。この冷淡な「無関心」こそが、ナチスの傍若無人な悪行を支えたのである。日本人も国政選挙に当たって無関心による沈黙を守ったり、なんだかんだ言い訳をしながら敢えて投票を棄権したりするような人間が多く、それは特徴ある日本の「あきらめ」の文化傾向の現れでもあるが、このような層こそが、政治の悪を支えているのだと気づく者は少ない。「朝鮮人皆殺し」などと書いたプラカードを掲げてデモが行われても、それを全然取り締まらないのが日本である。どこかで一歩すすめば、虐殺が繰り返されるだろう。日本の近年の中央官僚たちが文書の改ざんや隠蔽を大々的に行って悔いず、一方良心が咎めて自殺した同僚に対しても平然として鉄面皮を決め込む状態も、ある意味、野蛮な時代の到来を証明している。
本編の最後に、著者はこう書いている。
「すべての現代社会において、生活の複雑さ、それによってもたらされる専門化と官僚制化、これらのものによって、公的政策を遂行する際の個人的責任感覚は希薄になってゆくのである。ほとんどすべての社会集団において、仲間集団は人びとの行動に恐るべき圧力を行使し、道徳的規範を制定する。第101警察予備大隊の隊員たちが、これまで述べてきたような状況下で殺戮者になることができたのだとすれば、どのような人びとの集団ならそうならないと言えるのであろうか。」(P.304)
史実を具体的に記述しつつ、人間性についての極めて重大な疑惑を思索させる、やはりこれは優れた書物であった。
Posted by ブクログ
あとがきの半ばくらいから皮肉キレッキレで笑った。P328「死の行進に幅広い関心をもたらしたのは、ゴールドハーゲンの著作の欠陥を補うに足る功績の一つである」この一文好きすぎる
Posted by ブクログ
ナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺。前線投入されない一般市民から成る警察大隊。市井の人々はどのように虐殺に加担したか。衝撃のノンフィクション。
Posted by ブクログ
ナチス政権下でのホロコーストの実態を理解する上で、1992年に出版された本書は2つのことを教えてくれる。一つはホロコーストに関して、我々はアウシュビッツやビルケナウ等の強制収容所ばかりをイメージするが、実際には被虐殺者の20-25%は、ユダヤ人が暮らしていたゲットーやゲットー近辺の森林での”射殺”によるものであるということ。そしてもう一つは、そうした”射殺”に関与したのが、民族浄化や反ユダヤ思想に特段染まっていたわけではない市井の人々によって構成された警察予備大隊であったということ。
ある暴力についてそれが特殊な事情(政治思想、宗教、貧困等)の影響によって、限定的に持たされるものであるという言説は、一般的に我々を安心させる。そうした状況に陥らなければ、我々が暴力に駆り立てられはしないという安心感を与えてくれるが故に。一方、本書は全く真逆の事実を提示する。中年層の職人や商人などの一般人であり、かつ年齢も比較的高い故に、若年層のようにナチスドイツの思想に耽溺したわけではない人々により構成された警察予備大隊が、なぜ3.8万人のユダヤ人らを射殺し、4.5万人のユダヤ人らを強制収容所送りにしたのか。
本書は、歴史学者とである著者が極めてオーソドックスな歴史学のメソドロジーに基づき、市井の人々が血生臭い暴力の執行者になり果ててしまうのかというメカニズムを明らかにしようとした労作であり、ホロコースト研究、ひいてはそれは暴力という行為そのものに迫る心理社会学的な側面すら明らかにしようとする。決して心地良い書物ではないが、得てして本当の事実とは人を不快にさせる。そうした優れた歴史学の一冊として、永遠に語り継がれるべき研究所である。
Posted by ブクログ
普通の人びとが、軍隊に入り、制服を着ることにより、社会的死を回避するよう、団結力を発揮させ、ホロコーストを進めてしまう様は、大量殺戮で結ばれた国民的同胞愛を感じてしまう。
写真はつらい。特に列車に乗るよう追い立てられるユダヤ人の様子は。
Posted by ブクログ
521ページの内、305ページからあとがきが始まるというある意味スゴい構成の本。そのあとがきが同じ史料から真逆の結論を導き出した同業者の研究への批判で埋め尽くされてるといてかなりおもしろい。
本自体の中身としては、タイトルの「普通の人びと」が如何にしてユダヤ人虐殺に手を染めたのか、それを拒否したのかというところを証言に基づいて検証。嫌がる人、嬉々として協力する人、出世のために協力する人、兵役さえ終われば日常生活に基盤があって軍隊内部での出世なんか気にせず拒絶する人、きっちり計画された虐殺、行き当たりばったりの乱射、教科書の「ユダヤ人に対する虐殺行為が行われた」の一文の裏側の個別事情が言葉は悪いけどいちいちおもしろい。
Posted by ブクログ
本当に考えさせらせるよね…。
ナチスといえば残虐で冷酷なサディストの集まりで悪魔的なイデオロギーのもとに歴史上類稀な事をやってのけた「純粋な悪」みたいなイメージだけど、じゃあ戦時中に日本や他の国が非人間的な振る舞いをしなかったのかというと違う。
戦争犯罪に加担した、ナチスに持つイメージのようなサイコパス的な人間は一部で、多くは「普通の人」。時代の流れや組織に所属する意識、そういうものに流され順応してしまう「普通の人」。
振り返れば本当に最低だな、と思うけどじゃあ実際また戦争が起こったり独裁者が現れたときに流されないでいられるのかと考えると「流されない」と言えない自分がいる…。
それに戦時中でなくても今現在、集団や組織の中でも起こっている事だと感じた。他人が辛い思いをしているのを「見ない」「無関心」、もしくは「無意識の差別意識」だったり。もちろんナチスがユダヤ人に対して行った事とは違うけど、本質的には同じような事が元になってて、人間の本質っていうのは悲しいかなこういうものなんだなとも思った。
「殺戮に直接関与することを免れたので、ーーー多くの犠牲者が出ているのだ、ということに気づいても、心を乱されることはなかったようである。視野に入らないことは心にも入らない、というのは本当だった。」(155頁)