あらすじ
幸福とは何か――。この問いに哲学者たちはどう向き合ってきたのか。共同体の秩序と個人の衝突に直面した古代ギリシャのソクラテス、アリストテレスに始まり、道徳と幸福の対立を見据えたイギリス経験論のヒューム、アダム・スミス。さらに人類が世界大戦へと行きついた二〇世紀のアラン、ラッセルまで。ヘーゲル研究で知られる在野の哲学者が、日常の地平から西洋哲学史を捉えなおし、幸福のかたちを描き出す。
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Posted by ブクログ
「幸福とは何か」という壮大なテーマを扱う本書の序章で、著者は与謝蕪村の「夜色楼台図」の情景、三好達治の「雪」という詩を持ち出し、そこから著者が感じた「静けさと平穏さ」が幸せの基本的な条件ではないかという仮説を立てる。また、絵本「100万回生きたねこ」を取り上げて、描かれたねこの生涯から、ねこにとっての本当の幸せは何だったかを思索している。
そうした仮説をもとに、著者は古代ギリシャ~古代ローマ時代の哲学、18世紀の西洋近代思想、及び20世紀の西洋思想において語られる「幸福論」を検証していく。
本書で取り上げられた人物は次の通り。
■古代ギリシャ~古代ローマの哲学
ソロン
ソクラテス
アリストテレス
エピクロス
セネカ
■18世紀の近代西洋思想
ヒューム
アダム・スミス
カント
ベンサム
■20世紀の西洋思想
メーテルリンク
アラン
ラッセル
ソロンは政治権力や社会的栄達(クロイソス王)をただちに幸福とするよりも、一人の人間(戦士テッロス)の生涯を通して幸福を考えるべきだと考えた。
ソクラテスは「知」や自ら信じる「正義」のために、死をも恐れることなく生涯を終えた。客観的にみれば、死を選択したソクラテスは不幸のように思えるかもしれないが、当の本人は「知」や「正義」のために生き切ったことがむしろ幸福であったのだということを述べている。
アリストテレスの「二コマコス倫理学」(=「徳」とは何か、立派な生き方、優れた行いを問う)において、徳を考えた生き方や行動の目的を「善」とし、その最高善が「幸福」と考えられている。徳ある人は、善のために生き、行動し、究極的には幸福のために生き、行動するということだろうか。そうであれば納得できるが、著者はアリストテレスの観想的な幸福論にはやや否定的のようである。
エピクロスは、個人の感覚を重視する。次の言葉が分かりやすかった。
「幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だのがあるとか、こんなことに属するのではなくて、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである。」
また、「快とは祝福ある生の始めであり終わりである」「身体の健康と心身の平静こそが祝福ある生の目的だ」という言葉も印象的だ。
セネカは「幸福な人生について」でこう述べていた。
「我々は自然を指導者として用いねばならないのである。理性は自然を尊重し、自然から助言を求める。それゆえ、幸福に生きるということは、とりもなおさず自然に従って生きることである。」「外的なものを求めるがよい。しかし理性は再び自らの中に立ち帰らねばならない。」
ソクラテスやアリストテレスが都市国家(共同社会)の一員として生きることが、正義であり善の追究であったが、暴君ネロに仕え自殺に追いやられたセネカには、共同社会を離れた一個の生活における幸福への視点がある。
ヒュームの思想は、やや極端に感じられた。経験から得られる「印象」「感情」がすべてであるという。「感情」と「理性」という対比については、「感情」のほうが優位と考える。経験から理論や法則へと向かうのが哲学や科学の一般であるのに対し、ヒュームは頑なに経験の領域に踏みとどまろうとする。
「幸福」ということについていえば、「幸福論」というものはなく、経験の中で「幸福」と感じた瞬間が「幸福」だということになるだろうか。
「国富論」で著名なアダム・スミスもヒュームと同じくイギリス経験論者の一人であるが、そのスミスは「共感」ということを軸においていた。人間が他人とかかわり、社会とかかわる中で「共感」する生き方は、感情的にもまた行動面においても幸福の可能性を秘めたものであると考えていた。
カントは、行動の是非善悪を左右する道徳的法則は、個人の理性が己の中から紡ぎだすものであると考える。すなわち理性には自由があり、自らの意思でそれを紡ぎだす内発的、自主的なものであるとする。
カントは「幸福を望むことは人間の本性であるが、だからといってそれは義務でもなく、目的とすべきことでもない」という趣旨のことを言っている。
幸福は意志によるもの、自己選択によるものととらえてよいだろうか。
ベンサムの言葉に「最大多数の最大幸福」という言葉がある。功利主義の代名詞的な言葉であり、その着眼は経済活動に軸足を置いている。「利益、快楽、善、幸福」vs.「損害、苦痛、悪、不幸」の構図がある。
「何をもって幸福が成り立つかといえば、快楽を享受することと苦痛を感じないでいられることがそれだ」
この考えを個人にのみ適用しているうちはよいが、ベンサムは個人の幸福の総和が共同体の幸福と考え、共同体の幸福を重視することで、一部の個人の不幸に目をつぶろうとする不合理さがあると思える。これは、今の現実社会にも実際に存在することだ。
メーテルリンクの「青い鳥」。青い鳥は「幸福」の象徴として描かれている。捕まえたと思ったら、逃げられていた。それでも思いもよらぬところで見つけることもできる。「幸福」を掴むことは難しいけれども、「希望」を失わないで求め続ける姿を現しているようでもある。
現代の幸福論として、アランの幸福論とラッセルの幸福論が紹介されている。
アランの幸福論は、日常の出来事の中に感じられる幸福について述べられた言わばエッセイ的なもの(プロポ)の寄せ集めである。
「幸福は私たちのもとからいつでも逃げていくといわれる。人からもらった幸福についてはそれは本当だ。人からもらう幸福など存在しないからだ。しかし、自分の作り出した幸福はだましたりしない。それは学ことであり、人はいつでも学んでいるのだから」
また「自分の心と体を落ち着きのある安定した状態に置き、冷静に外界と対峙する。それが人間にふさわしい一の取り方だ」とアランは言う。
自他ともの幸福という発想がある。相手の幸福を思い、それが達成されることが自分の幸福につながるという発想だ。それをさらに発展させ、相手も自分の幸福を願い、その達成によって自らの幸福を得ようとしている。そうであるならば、自分の幸福は他人に対する義務でもあるという。この発想にははっとさせられた。
最後にラッセル。
一見深刻そうに見える不幸についても、その不幸を脱することは可能であり、不幸を幸福に転じることは可能だと考える。不幸の大半はまちがった世界観、まちがった倫理、まちがった生活習慣によるもので、それらを正すことができるのだという。
現代でいうならば、外界とのつながりが希薄となり、疎外感に見舞われた自閉状態がある現実に対し、外界に興味をもつことが幸福獲得への一歩であるというのがラッセルの考えだ。
西洋の幸福論を概略的に学ぶことができ、それぞれに共通する視点もあるし、着眼点が異なるということも感じられた。そのなかで、ただ座して「幸福」が得られるというものではないということに確信がもてたことと、「幸福」の機会は、誰にも平等に与えられているものであるということが再確認できたように感じる。
先人の言葉をヒントに、我々が自らが進めていくものであるのかな。