あらすじ
光源氏の青春の出発を語る「桐壺」を初巻として、源氏物語五四巻は成り立っている。著者は、この作品の顕著な特徴が、物語の成立していく過程によって主題・方法が発展していくところにあることを指摘し、そうした視角から、物語の全貌とその本質を、作者紫式部の内面的な生活とのかかわりにおいて生きいきととらえる。
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源氏物語は大作なので、全部をまだ読んではいません。
何年たっても読み進まないので、ときどきは、本書のような情報源を頼りに、忘れてしまった中身を思い起こすことも楽しみです。
源氏物語の展示をしている、奈良、京都の展示場や、名古屋の徳川美術館などを訪問するのも楽しいです。
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内容紹介:光源氏の青春の出発を語る「桐壺」を初巻として,源氏物語五四巻は成り立っている.著者は,この作品の顕著な特徴が,物語の成立していく過程によって主題・方法が発展していくところにあることを指摘し,そうした視角から,物語の全貌とその本質を,作者紫式部の内面的な生活とのかかわりにおいて生きいきととらえる。(出版社より)
資料番号:010787356
請求記号:913.3/ ア
資料区分:文庫・新書
Posted by ブクログ
『源氏物語』の物語世界の構造についての解説がおこなわれるとともに、それを生み出した紫式部が、王朝時代の女性たちの生きかたに対して向けていた批評的なまなざしとのかかわりのなかで解釈をおこなっている本です。
前半では、『源氏物語』のストーリーが「紫上」系と「玉鬘」系の二つの系列から成るという研究成果にもとづきつつ、それぞれの物語の構造の解説がなされています。
帝の寵愛を受けた桐壺更衣の息子として、たぐいまれな資質をもって生まれた光源氏が、亡き母のおもかげを求めて藤壺更衣との禁断の恋に落ち、また弘徽殿女御を中心とする派閥との対立のなかで進展していきます。著者はこうしたストーリーの展開において彼がたどることになる運命の道筋が、作者の紫式部によって定められていたことを明らかにしています。また後半では、「若菜」巻を頂点として、源氏を中心とする六条院の栄華が崩壊していくプロセスと、「宇治十帖」における女性たちの悲哀についての考察がおこなわれています。
本書のちょうど中間部分に置かれた第六章「紫式部と源氏物語」では、王朝時代の貴族の女性たちが、政治の表舞台に出ることができなかった一方で、父親や夫の家柄を後ろ盾に政治とのかかわりのなかで生きていくことを余儀なくされていたことが考察の対象としてとりあげられます。そのうえで、抜きんでた才能にめぐまれた紫式部が、こうした女性たちの運命に対する批評眼をそだてていったことを指摘し、『源氏物語』のうちにそうした彼女の思索が反映されていると論じられています。
「後記」のなかで著者は、一般の読者を対象とする新書形式で『源氏物語』の作品世界を語ることに苦慮したことを告白し、「いまの私の思いは無念の一語に尽きる」とまで語っています。とはいえ、本書のいわば凝縮された文章のうちに、詳細に語ることのできなかった著者の『源氏物語』観がかいま見られるようで、読みごたえのある内容になっていると感じました。
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「源氏物語」成立論は、まるで推理小説のように面白い。
「源氏物語」は、どのように書かれたのか?
紫式部がスラスラと書いたように思っていたら大間違い。
本書は、世間ではほとんど知られていない「源氏物語」の発生史の面白さ、未だに残る謎を教えてくれて、目から鱗がボロボロと落ちまくる。
1. 紫式部は何人いたか?
大体、研究者たちは「紫式部は何人いたか?」などと議論しているのだ。
この問自体が驚きではないか。
しかし、その問の根源を確認していくと、それも当然だと思えてくる。
あれだけの大作を、それも時代を経るにつれて深化してゆく複雑な小説をたった一人で書くことなど出来ない、という思いがその問いの根元にある。
「源氏物語」はそれほど突然出現した、完璧なる長編小説なのだ。
「源氏物語」は二部(もしくは三部)に分けることが出来る。
光源氏が登場する「光源氏物語」と光の息子(実は不義の子)薫が登場する「宇治十帖」=「薫大将物語」の二部だ。
両者は確かに物語の印象も、主題も、文体も大いに異なる(という)。
だから、それは少なくとも二人の作者がいたのだ、という説が出てくるわけだ。
「光源氏物語」だけを見ても、二つの系列のあることが浮かび上がってくる。
物語を時系列に並べると並行して進む二系列の物語群があることから、「並びの巻」と呼ばれる。
片方は本筋のストーリーが進展していき、片方は源氏のエピソード集として直接の物語の流れには関与しない、いわば「スピンオフ」作品だ。
本筋を紫式部が書き、スピンオフは、他の女房が書いたということも十分考えられる。
2. 失われた巻
「源氏物語」には、本文は無く、「雲隠れ」という巻名のみで、光源氏の死を語ることをやってのけている。まるで、筒井康隆がやりそうな手法ではないか。
更に、失われた巻の存在を示唆する記述がある。
「源氏物語」はオリジナルは残っていない。
書き写された写本が残っているだけだ。
その写本の最も古いものが、藤原定家の書き写した「定家本」だ。
(定家自筆の「若紫」の巻が発見されたのは2019年のことだ。まだ、発見されていない定家本が混合物出てくる可能性はある)
しかし、そこには200年の時代が流れている。
当然そこには、写し間違いも、写し落としも、加筆さえあり得る。
その定家が、巻名のみ伝わり、本文の欠落した「失われた巻」があることを書き残しているのだ。
今に伝わる「源氏物語」は、完全本ではなく、欠落本の可能性もあるのだ。
定家の書き残した、その巻名は「かがやく日の宮」。
「光源氏物語」は不倫小説だ。
マザコンの光が恋したのは、父帝の妃。
光が恋焦がれたのは、若くして亡くなった自分の母に似ているという「藤壺」だ。
二人は禁断の関係となるのだが、その部分は「それは二度目のことであった」と書かれているのだ。
何故、最も重要な筈の最初の逢瀬が描かれていないのか?
二度目から書いたところが、一回目を想像させる作者の恐ろしいまでのテクニックなのだ、ということもあり得よう。
しかし、小説家が最も盛り上がるシーンをわざわざ回避することがあり得るだろうか?
「そんなことはない」と確信した小説家の丸谷才一は、失われた「かがやく日の宮」にこそ最初の逢瀬が描かれていると推理し、失われた巻を探索する小説を書き、遂には自ら「かがやく日の宮」を再現してしまったほどだ。
3. 恐るべき「初期設定」
本書の冒頭は、「光源氏像の誕生」と題されている。
天皇の皇子でありながら、母親の身分が低いという出自の光が極めて卓越した才能を持っているという、「初期設定」の分析を読むにつけ、紫式部の作り上げた、先々のストーリーの伏線を全て孕む「初期設定」の恐るべき緻密さに慄然とする。
まず、「更衣」という低い身分である母親の境遇設定が巧みなのだ。そして、その母親を死に追いやるのは、天皇との皇子、つまり光源氏の誕生だ。
何と「呪われた皇子」か。
光は天皇の皇子だから当然皇位を継ぐ資格を持つ。
しかし、政敵からの攻撃を避け、生存を確保するためには臣籍降下しかないという設定なのだ。
天皇家である賜姓源氏勢力と藤原家との権力闘争という特異な権力闘争の時代を描くためには、こうした設定しかありえなかった、と言える。
その光を左大臣家と結ばせることで、右大臣家との権力闘争を可能とする構図が出来上がるのだ。
「源氏物語」の恐ろしいまでに緻密に組み立てられた光の境遇、光の「存在被拘束性」の見事な設定こそが、後の豊穣でドラマチックな物語を胚胎させるのだ。紫式部恐るべし!ではないか。
4. もののあはれ
父帝桐壺帝と共にその子光源氏も、(光源氏の母親)桐壺の更衣の面影に取り憑かれる。
そして二人とも桐壺の面影を持つ藤壺を愛する。
だから、藤壺は二人にとって、桐壺の形代なのだ。
ここから、禁断の三角関係が生まれる訳だが、継母たる藤壺を所有できない光は、更に形代の形代ともいうべき、藤壺の面影を持つ紫上を手に入れることになる。
形代そして形代の形代としてしか愛されない女性はどれだけ富と栄誉を得ようと、哀しい。
その意味では、紫上のみならず、藤壺も、いや、「源氏物語」に登場する女性は全て、いや光源氏含めた男性も皆哀しみを背負っている。
本居宣長はそれを指して「もののあはれ」と呼んだのだろう。
5. 奇跡の文学
10世紀に突如出現した「源氏物語」は、世界文学史に徴しても奇跡なのだ。
日本文学を見てもそれまで「竹取物語」レベルの物語しかなかった時に、突如、完璧な姿を持った大「小説」が出現したのだ。
このレベルの小説を次に人類が持つのは、それから300年も後の、欧州においてだった(ダンテ「神曲」)。
だから、世界文学史上の奇跡と呼ばれるのだ。
物語は進むにつれ重層化していき、深化していく。
その果ては、第3部に描かれるヒロイン浮舟の厳しい境地だ。
女の、夫人の、愛人の苦悩を描き切る。
その意味で「源氏物語」の一貫したテーマは女の不幸、哀しみだ。
男の栄華などではない。
幸せな女は一人も居ない。
何と深い小説を1000年以上も前に作ってしまったのか!
確立していると思っていた現在の源氏物語の構成を、作成された時と、流動と混沌の中に差し戻す作業は知的興奮を掻き立ててくれる。
こうした良質の知的興奮を新書で味わうことの出来る悦び。
秋山虔 1924-2015。
1957-1984まで東大で教鞭を取っている。
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源氏物語の復習のために読む.
源氏物語のあらすじを知るためにこの本はたぶん向いていない.一度通読した人向け.この本で読む源氏物語は著者の内部でより劇的に増幅されているような印象を受けた.ときどき引用される原文には訳が全くついていないので,私には意味がほとんど分からない.難しい.このように難しめなので,専門的な入門書といった位置づけが適切かもしれない.
紫式部がこの物語を執筆した背景や,物語にこめたメッセージの読み解きがあって,素人の私にもそれなりに興味深い.
1968年初版.時代を反映してか不必要に難しい言い回しがあったり,読めない漢字があったりする.解説のない専門用語も散見.こういう本は辞書の気軽に引ける電子本がいいのかもしれない.岩波が電子化するとはとても思えないけれど.