「源氏物語」成立論は、まるで推理小説のように面白い。
「源氏物語」は、どのように書かれたのか?
紫式部がスラスラと書いたように思っていたら大間違い。
本書は、世間ではほとんど知られていない「源氏物語」の発生史の面白さ、未だに残る謎を教えてくれて、目から鱗がボロボロと落ちまくる。
1. 紫式部は何人いたか?
大体、研究者たちは「紫式部は何人いたか?」などと議論しているのだ。
この問自体が驚きではないか。
しかし、その問の根源を確認していくと、それも当然だと思えてくる。
あれだけの大作を、それも時代を経るにつれて深化してゆく複雑な小説をたった一人で書くことなど出来ない、という思いがその問いの根元にある。
「源氏物語」はそれほど突然出現した、完璧なる長編小説なのだ。
「源氏物語」は二部(もしくは三部)に分けることが出来る。
光源氏が登場する「光源氏物語」と光の息子(実は不義の子)薫が登場する「宇治十帖」=「薫大将物語」の二部だ。
両者は確かに物語の印象も、主題も、文体も大いに異なる(という)。
だから、それは少なくとも二人の作者がいたのだ、という説が出てくるわけだ。
「光源氏物語」だけを見ても、二つの系列のあることが浮かび上がってくる。
物語を時系列に並べると並行して進む二系列の物語群があることから、「並びの巻」と呼ばれる。
片方は本筋のストーリーが進展していき、片方は源氏のエピソード集として直接の物語の流れには関与しない、いわば「スピンオフ」作品だ。
本筋を紫式部が書き、スピンオフは、他の女房が書いたということも十分考えられる。
2. 失われた巻
「源氏物語」には、本文は無く、「雲隠れ」という巻名のみで、光源氏の死を語ることをやってのけている。まるで、筒井康隆がやりそうな手法ではないか。
更に、失われた巻の存在を示唆する記述がある。
「源氏物語」はオリジナルは残っていない。
書き写された写本が残っているだけだ。
その写本の最も古いものが、藤原定家の書き写した「定家本」だ。
(定家自筆の「若紫」の巻が発見されたのは2019年のことだ。まだ、発見されていない定家本が混合物出てくる可能性はある)
しかし、そこには200年の時代が流れている。
当然そこには、写し間違いも、写し落としも、加筆さえあり得る。
その定家が、巻名のみ伝わり、本文の欠落した「失われた巻」があることを書き残しているのだ。
今に伝わる「源氏物語」は、完全本ではなく、欠落本の可能性もあるのだ。
定家の書き残した、その巻名は「かがやく日の宮」。
「光源氏物語」は不倫小説だ。
マザコンの光が恋したのは、父帝の妃。
光が恋焦がれたのは、若くして亡くなった自分の母に似ているという「藤壺」だ。
二人は禁断の関係となるのだが、その部分は「それは二度目のことであった」と書かれているのだ。
何故、最も重要な筈の最初の逢瀬が描かれていないのか?
二度目から書いたところが、一回目を想像させる作者の恐ろしいまでのテクニックなのだ、ということもあり得よう。
しかし、小説家が最も盛り上がるシーンをわざわざ回避することがあり得るだろうか?
「そんなことはない」と確信した小説家の丸谷才一は、失われた「かがやく日の宮」にこそ最初の逢瀬が描かれていると推理し、失われた巻を探索する小説を書き、遂には自ら「かがやく日の宮」を再現してしまったほどだ。
3. 恐るべき「初期設定」
本書の冒頭は、「光源氏像の誕生」と題されている。
天皇の皇子でありながら、母親の身分が低いという出自の光が極めて卓越した才能を持っているという、「初期設定」の分析を読むにつけ、紫式部の作り上げた、先々のストーリーの伏線を全て孕む「初期設定」の恐るべき緻密さに慄然とする。
まず、「更衣」という低い身分である母親の境遇設定が巧みなのだ。そして、その母親を死に追いやるのは、天皇との皇子、つまり光源氏の誕生だ。
何と「呪われた皇子」か。
光は天皇の皇子だから当然皇位を継ぐ資格を持つ。
しかし、政敵からの攻撃を避け、生存を確保するためには臣籍降下しかないという設定なのだ。
天皇家である賜姓源氏勢力と藤原家との権力闘争という特異な権力闘争の時代を描くためには、こうした設定しかありえなかった、と言える。
その光を左大臣家と結ばせることで、右大臣家との権力闘争を可能とする構図が出来上がるのだ。
「源氏物語」の恐ろしいまでに緻密に組み立てられた光の境遇、光の「存在被拘束性」の見事な設定こそが、後の豊穣でドラマチックな物語を胚胎させるのだ。紫式部恐るべし!ではないか。
4. もののあはれ
父帝桐壺帝と共にその子光源氏も、(光源氏の母親)桐壺の更衣の面影に取り憑かれる。
そして二人とも桐壺の面影を持つ藤壺を愛する。
だから、藤壺は二人にとって、桐壺の形代なのだ。
ここから、禁断の三角関係が生まれる訳だが、継母たる藤壺を所有できない光は、更に形代の形代ともいうべき、藤壺の面影を持つ紫上を手に入れることになる。
形代そして形代の形代としてしか愛されない女性はどれだけ富と栄誉を得ようと、哀しい。
その意味では、紫上のみならず、藤壺も、いや、「源氏物語」に登場する女性は全て、いや光源氏含めた男性も皆哀しみを背負っている。
本居宣長はそれを指して「もののあはれ」と呼んだのだろう。
5. 奇跡の文学
10世紀に突如出現した「源氏物語」は、世界文学史に徴しても奇跡なのだ。
日本文学を見てもそれまで「竹取物語」レベルの物語しかなかった時に、突如、完璧な姿を持った大「小説」が出現したのだ。
このレベルの小説を次に人類が持つのは、それから300年も後の、欧州においてだった(ダンテ「神曲」)。
だから、世界文学史上の奇跡と呼ばれるのだ。
物語は進むにつれ重層化していき、深化していく。
その果ては、第3部に描かれるヒロイン浮舟の厳しい境地だ。
女の、夫人の、愛人の苦悩を描き切る。
その意味で「源氏物語」の一貫したテーマは女の不幸、哀しみだ。
男の栄華などではない。
幸せな女は一人も居ない。
何と深い小説を1000年以上も前に作ってしまったのか!
確立していると思っていた現在の源氏物語の構成を、作成された時と、流動と混沌の中に差し戻す作業は知的興奮を掻き立ててくれる。
こうした良質の知的興奮を新書で味わうことの出来る悦び。
秋山虔 1924-2015。
1957-1984まで東大で教鞭を取っている。