あらすじ
「大学は危機に瀕している」。何十年も前からそう叫ばれつづけてきたが、いまでも、様々な立場から大学を変えるための施策がなされたり、意見が交わされたりしている。では、大学の何が本当に問題なのか? 80年以降の改革案から遡り、それらの理不尽、不可解な政策がなぜまかりとおったのか、そして大学側はなぜそれを受け入れたのかを詳細に分析する。改革が進まないのは、文部科学省、大学関係者だけのせいではない。大学改革を阻む真の「悪者」の姿に迫る。
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Posted by ブクログ
文科省が実施する「教育内容等の改革状況について」調査結果に見るように、大半の大学が数字の上では改革を進めている実態が覗える。しかし一方、大学がよくなったという話は寡聞にして聞かない。高等教育界は教育の本質や現場を知らない経済界(様々な利害団体の代表)に踊らされ、日本の景気減速の責任までも押しつけられる。批判は年々厳しさを増す。許認可権や各補助金対象事業の決定権を握る政府・行政に対し、表立って異議を唱えることもできず、昨今の「言っても無駄」風潮も手伝う。「異を唱えさせない」ガバナンス構造を、大学教職員の隅々まで徹底させたのが「学校教育法」の改正(2014年)であった。
大学改革を迷走させている「小道具」には、次のようなものがあると著者はいう。
〇シラバスは、「偽 Syllabus」:記載のフォーム・細目に至るまで、実質的に文科省の意向に従い、「文科省向け」に発行しているのがシラバスの現状である。一方本場の Syllabus は、担当教員が学生の学習を深めるために、「学生向け」に自律的に作成しているもので双方の約束事のようなものである。
確かに著者の主張は分かる。しかしシラバスは、数ある教育改革の「小道具」のひとつにすぎず、それら「小道具」間の密接な連携があってこそ、教育改革の「実質化」に繋がるものである。つまり問題は、シラバスフォームの画一化よりも、教育の質を高めるための様々な取り組み(週2~3回の授業回数の確保による教育効果の向上、制度破綻している日本のCAP制、単位制に必要な予習・復習時間の確保など)との連携が図られておらず、そのために十分な教育効果が得られていないがないことにある。この点に触れていないのは残念。
〇企業の経営手法の導入:大学経営において、企業の経営方法を援用する(本来の意味を正しく理解せず、問題点の洗い出しもせずに、言葉だけ取り入れる)ケースが増えており、これが幼稚な「経営ごっこ」と化し、混乱を助長している。例えば次のような用語である。
(1) PDCA:本来、工場現場での品質管理・改善の手法として提案された日本発の発想。大学教育という、様々な目標を同時に追求し、さらに非定型的な側面が多い業務とはあまり相性がよくない(p.89, 131)。にもかかわらず、PDCAが2000年頃から、教育行政文書に頻繁に登場するようになった。次の理由から成果は期待できない。
(a) 公開すること、審査に通ることが目的なので、PとCだけ(大言壮語を美しい図表で飾られ)立派になり、DとAは実質的にこれまでどおり。形式的になりがち。
(b) Checkに関して、成功か失敗か明確な判断ができない(意見が分かれる)ケースが少なくない。
(c) 日本の企業(組織)の体質として、次のいずれかに陥る可能性が高い(これが現に高等教育行政と大学の間で生じている)。
・投げ式PDCAに陥る可能性(p.133)。
・マイクロマネジメントサイクルに陥る可能性(p.136)。
(2) KPI(Key Performance Indicator):最終的な組織目標を達成するうえで重要な意味を持つ個々の業務の進捗状況を示す「指標」であるにもかかわらず、政策文書では「目標」値となしている誤用が見られる(p.175)。しかし、例えばグローバルという(多くの教育目標と同様)「抽象的」な目標の場合、それを様々な「指標」として数値が示し目標値とすることは、問題ではないと思う。要は、様々なKPIを指標としつつ、大局的な目標を大学関係者が意識しているかどうかの問題なのではないだろうか。
(3) 選択と集中:人を育てる教育機関の場合、選択と集中の大義名分のもとで、特定の大学のみに、財政補助を限定するのは得策でないし、仮に進めるとしても、人(学生・教員)の流動化の下で進めるべきではないのか。すべての大学が、ミニ東大を目指すことは現実的でないので、各大学内の取り組みの中で、何を切り捨て何を強化するかの判断は必要。その意味では、PDCAと同様、「選択と集中」は万能ではない。何に対して適用するかの判断は、極めて重要である。
全体を読み終えて抱いた疑問と感想。「文科相自身は実質的なPDCAサイクルを守っているのですか?」「補助金を餌に、KPIの数値だけを無理に釣り上げて、改革が成功したように見せかけていませんか?」「文科省は哲学をもって行政に当たっていますか?」。
それから感じたことは、「あの頃」から変わらない日本という国の体質ーー「敵(世界の現実)を知らず、己(日本の現実)を知らず」「客観的に情報を集め分析しようとしない姿勢と精神論で(経済的未熟を)カバーできると信じる傲慢さ」「現場の状況・声の軽視(無視)」「勝算(言語、公財政支出の問題)なき戦線拡大(グローバル化・大学院拡大)」「失敗を失敗と認めない上層部(官僚の無謬性)」。。。思わず嘆息。