【感想・ネタバレ】哲学と宗教全史のレビュー

あらすじ

ライフネット生命創業者でAPU学長出口治明が初めて語る哲学と宗教全史。世界史、哲学、宗教が一冊に凝縮!世界最古の宗教、ギリシャ哲学と東洋哲学、ルネサンスと宗教改革から20世紀まで東西完全網羅!ヘーゲルの三兄弟はキルケゴール、マルクス、ニーチェ!巻頭巻末ジャバラに3000年の哲学と宗教人物相関図付き!

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Posted by ブクログ

ネタバレ

哲学も宗教も知れば知るほど、もっと知りたい欲が出ます。参考文献のどれから読んでみようか、どれだけ読めるか楽しみです。

それにしても、哲学者は男の人ばかりですね。どの時代でも、男の人は難しくいろいろと考えたくなるものなのでしょうか。

結局のところ、それぞれの時代背景や環境の範囲の思考である場合が多いですよね。レヴィ=ストロースの思考に納得です。

とはいえ、プラトンも孔子もやっぱり好きですし、ベーコンのシェイクスピア説も気になるし、ニーチェの名言は魅力的ですし、哲学は面白いです。

宗教に関しては、イスラム教の成り立ちについて、非常に興味深い内容でした。

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2023年04月06日

Posted by ブクログ

ネタバレ

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。その問いに試行錯誤を繰り返してきたのが哲学と宗教。途中進まずAudibleと併用し読み切り。「日々の泡」のサルトル(パロディでパルトル)、遠藤周作「沈黙」なども出てきて勢いがついた。「沈黙」では、神教が持つ矛盾、全能の神がなぜ現世の苦しみを解決できないのか、人間の思考を深くする側面があるのかもしれない。 「万物は流転する」/ヘラクレイトス 「海のほか何も見えないときに、陸地がないと考えるのはけっして優れた探検家ではない」/フランシス・ベーコン

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2025年07月06日

Posted by ブクログ

ネタバレ

哲学の歴史を見てみたくて、チャットGPFに相談。こちらの本を紹介された。
分厚い。本を持ち上げて読むのはきつく、机に置いたり、足の上に置いたりしている。寝ながら読むのは不向き。スピンは1本。巻はじめ、最後に年表(長い紙を織り込んである)がある。読んでいて関係が分からなくなったときに重宝した。

区切りごとに、詳しく知りたいか方への推薦本が記載されており、読んでみたくなる。
最初の方で、P15うちゅうの解明、脳の解明が書かれており、はっとした。
「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのかで書いた感想を思い出した。所詮感情は・・・以下略

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2024年07月07日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 孟子は誰をもって性善としたかといえば、上人を中心とする人たちです。自分と同じインテリ、すなわち識字階級です。もともと賢いのだから自分で努力して学べば、それで十分だという意見です。
 対して荀子は下人を対象として考えました。字の読めない人間に自助努力をせよと諭しても、やりようがないのだから半ば拘束して勉強させる仕組みをつくれ、と主張しました。したがって性善説と性悪説は、社会を構成する別々の階層の教育について言及しているのであって、2つの説の間には矛盾はない。むしろ2説を並立させたことが、儒家の思慮深いところであるという見解です。
 この考えは、儒家の思想を中心に考えれば整合性はあるのかもしれません。けれども教育という主題から考えれば、知識や良識を身につけるべき手段を、個人の主体的な努力に任せるのか、それとも社会システムや制度、仕組みとして確立すべきか、という大きな問題でもあります。さらにいえば、性悪説を唱える荀子は、社会の安定の基礎を法制度に置くという法家の思想に近いともいえます。放火を代表する思想家の韓非はもともとは荀子の弟子でした。

 ベーコンは観察や実験の重要性について言及しましたが、実験や観察には常に誤解や先入観、あるいは偏見がつきものであることを理解していました。
 人間には、そのような偏見や先入観に囚われがちな性質があることを、ベーコンは警告しています。その性質はラテン語でイドラidolaといいます。偶像とか幻影と翻訳されていますが、アイドルidolと語源は同じです。現代のアイドルはファンたちによって、彼らの理想像として偶像化された存在です。ベーコンが言及するイドラの性格も、アイドルとつながる部分があります。イドラもアイドルも、対象を正しく見ずに偶像化しているからです。
 彼はその著書『ノヴム・オルガヌムーー新機関』(桂寿一訳、岩波文庫)の中で、人間が持つ4つのイドラについて言及しています。いかに厳密に観察や実験を積み重ねても、人間は4つのイドラに気をつけないと、世界の真実を見逃してしまうと警告したのです。
・種族のイドラ 人間が本来、自然の性向としてもっている偏見。対象を自分の都合のいい方向に変えたがる性向です。嫌なことは過小評価する。楽しいことは過大評価する。見たいものしか見ない。そのような性向を指します。しばしば思い当たるのですが、現代の学問では、これは脳の持つ特性の一つだと考えられています。
・洞窟のイドラ 個人の経験に左右されて、ものの見方がゆがむケースです。狭い洞窟から外界をのぞき見るようにしか、ものが見られないことです。幼少時の悲惨な体験が尾を引いて、ものごとを悲観的にしか考えられない場合や、社会的経験が少なくて自分を中心とした価値判断しかできない「井の中の蛙」もこの同類です。
・市場のイドラ 伝聞によるイドラともいいます。市場の人混みで耳にした噂話から、事件の真相を誤って理解してしまうようなケースです。週刊誌の記事に踊らされるのも、これと似ています。
・劇場のイドラ 別名は権威のイドラです。劇場の舞台で有名なタレントが話したことや、立派な寺院で権威ある宗教家が説教したことを、何の疑いもなく信じてしまうようなケースを指します。これもよくありがちな偏見です。

 イングランドの経験論を確立させた哲学者たちは、ベーコンが死んでロックが生まれ、ロックが死ぬとヒュームが生まれるというように、ほぼきれいにつながって登場してきます。
 そしてデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)は経験論を大成させた存在として今日でも高い評価を受けています。
 人間は目・鼻・耳に代表される感覚器官によって外界の事物を見分けたり、感じたりすることで学習します。この働きを知覚(preception)といいます。ヒュームは知覚を2つに分けて考えました。印象(impression)と観念(idea)です。最初は印象しかありません。あの人はきれいやな、とか、これはおもしろいなとか。その印象をたくさん重ねていく中で、一つの観念が生まれてくる。しかし印象から観念は生まれるけど、観念から印象は生まれません。その関係は不可逆的です。すなわち観念とは、具体的に人間が感知した印象から生まれるもので、観念のみが独立して存在するのではない、とヒュームは考えたのです。
 さらにヒュームは因果関係(因果性)を疑いました。
 人は因果関係をついつい必然的なこと、と考えがちです。あいつがワルだからああなったのだとか、バチが当たったのだとか。しかし、よくよく熟慮してみると、原因と結果を安易につないでしまうのは、人間が経験に基づいて未来を推測する心理的な習慣にすぎないのであって、本当に因果関係は存在するのかという問題提起をヒュームは行ったのです。Aという印象の後にBという印象に出会うことが重なると、人は勝手にその関係を必然と思ってしまう。けれどもそれは、心の中でしか成立しない連想の必然性である。本人のみが信じる虚偽の観念なのだと、ヒュームは考えました。
 因果関係は本当にあるのか、ないのか。因果関係に決着をつけた理論は、未だ登場していません。

 僕がペットボトルという実在を見ています。正確に述べれば、僕の大脳が眼から伝わった「ペットボトルだよ」という信号を受け取って、ペットボトルだと認識したのです。
 しかし大脳は僕の頭の中にあり、その真っ暗な中で電子信号を打ち出しながら、眼からの信号を受け取り、ペットボトルを確信したので、大脳が直接にペットボトルを認識しているわけではありません。したがって、厳密にいえば、僕はペットボトルが実在していることを証明できないのです。現在の脳科学の世界では、以上のように考えられています。
 エトムント・フッサール(1859-1938)は、大脳に関する最先端の学問が明らかにしたことを、自分の論理展開によってすでに予見していました。
「世界は現象であって実在はない。なぜなら世界は人間の頭の中にしか実在しないからである。そのような世界の実在を、人間はどのように確信できるのか」
 そして、フッサールは、いかにして実在を確信するかについて議論を進めていきます。ここでは具体的にペットボトルを例にとって話を進めたいと思います。
 フッサールは「なぜペットボトルがあると確信できるのか。その確信の根拠は何か」を追求していく論理を「現象学的還元」という、難解な言葉で表現しました。
「現象学的還元」を達成するために、フッサールは「エポケー」という概念を用います。
 エポケーは古代のギリシャ哲学にもあった用語です。懐疑主義者のピュロンは、ものごとを見誤る理由を、「……である」と断定してしまうことにあると考えました。
 それを防ぐために、何ごとによらず軽率に判断することを留保すべきだとしました。
 そして、この判断の留保をエポケーと呼んだのです。
 フッサールは、このエポケーを彼の哲学的考察の基本に置きます。彼は人間の日常生活において、その存在が自明なことと思われている事実について、その実在性に対する信頼をひとまず留保するという意味にエポケーを置き換えました。
 わかりやすく述べれば、何も考えずによく見ようと主張したのです。

 人間が住んでいる地上の空間(すなわち世界)にはさまざまな要素があって、それに人間が名前をつけることで世界がつくられてきたのではない。もともと世界は存在していて、あちこちに住む人間は自分たちの眼前に広がる世界を、記号で区切ることで自分たちの世界を認識してきたのである。ソシュールはそのように考え、その記号が言語であると指摘しました。
 レヴィ=ストロースは、社会と人間の主体的行動との関係についてソシュールの言語論を深く研究し、自分の学問に役立てました。
 自由な人間が主体的に行動して社会を変革するという、サルトルのアンガージュマンの思想に対して、レヴィ=ストロースは、人間は社会に行動を規制されていると論証しました。ソシュールは言葉が世界を分けると述べましたが、レヴィ=ストロースはさらに一歩進んで社会の構造が人間の意識を形づくると考えたのです。
 戦後の日本という社会が現在の日本人をつくり、江戸時代という社会が江戸時代の日本人をつくったのです。同じ日本人でもまったく異質ですよ、というのが、平たくいえばレヴィ=ストロースの考え方です。
 今でも「日本人の本質は、独創にあるのではなく改良にあるのですよ」とか、「日本人の本質は、完全を求めてまじめに仕事に取り組むことです」などと語る人がたくさんいます。
 レヴィ=ストロースは、それとは真逆に日本人の本質を否定したのです。それぞれの時代の構造が、それそれの時代の日本人を創っただけであって、どの時代にも通底する日本人の本質のようなものは一切ないのですよ、と。
 自由な人間も人間の主体的な行動も実は存在しない。人間は社会の構造の中で、そこに染まって生きるのであると、彼は考えました。常に進歩があるわけではない。先進国ばかりではなく、未開の社会もあるし、人間は社会に合わせて生きていくことしかできないという考え方です。このような思想は、「構造主義」と呼ばれています。ちなみに、構造主義の本質は方法論にあって、研究対象の構造、すなわち構成要素を取り出し、その要素間の関係を整理統合することで研究対象を総合的に理解しようというものです。

「本質主義」という考え方があります。全ての事物には変化しない核心部分である本質が存在する、という考え方です。超自然的な原理の存在を認める立場です。プラトンのイデア論も本質主義的な考え方です。そしてこの考え方は、構造主義が強く否定している思想です。
 ところが、構造主義と本質主義の間に、本当の学問的な意味での決着はまだついていません。決着がつけにくいのです。
 本質主義的な立場から、オーストリアの教育家であり神秘思想家でもあったルドルフ・シュタイナー(1816-1925)は、人間の霊的な能力の存在を認めたうえで、独自の教育理論を確立しました。そしてその理論により、初等・中等および職業教育を行う総合学校を設立しました。その学校は今日でも、世界に900校以上も存在しています。
 また、人間が本来持っている才能を子どもたちから引き出そうとして、シュタイナーほど特殊な方法ではなくても、数多くの教育者がさまざまに努力している現実が存在しまし。
 人間の秘められた才能であるとか、世界が本来持っている本質的な価値であるとか、それらの存在を密かに認め、それを具体化しようとする努力は、今も世界のさまざまな分野で行われているのです。
 すでに自然科学も脳科学も、そして構造主義の論理も、人間の意識は自分たちの存在する社会のコピーであって、自由な人間の意思など存在しないと断言している時代です。それでも多くの人々は密かにつぶやいているのだと思います。
「そんなことは信じたくないよ」
 刑法は、今でも過失と故意の2つに犯罪を分けて、刑罰の基準を定めています。
 しかし、人間の主体的な自由意志の存在は、ありえないと考えられている時代です。それでも刑法は「過って」とか「意図的に」とか、犯罪行為を自由意志の存在を前提に峻別するという虚構のうえに、その体系を構築しています。それは自由意志の存在を認めない場合に、犯罪をいかに裁けばいいのか、その知恵がまだつくれないからだと思います。人間が自由意志を持っていると考えたほうがわかりやすいからでもあります。
 結局、現在の人間社会は構造主義や自然科学、そして脳科学が到達した人間存在についての真実よりも、昔から主流であった本質主義的な概念、平たく言えば日常的な概念を上手に利用して虚構に立脚したうえで社会の秩序を保っています。それは人間の生きる知恵なのだと思います。
 哲学も宗教も、人間が生きていくための知恵を探し出すことから出発したといえなくもありません。生きていくための知恵とは、不幸といかに向き合っていくかの知恵ともいえます。
 不幸と呼ぶべきか、宿命と呼ぶべきか、人間は常に病気や老化や死と向き合って生きています。これらの避けられぬものと、いかに向き合って生きていくか。このことが数千年の歴史を通じて、いつも人間の眼前にありました。

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2023年11月26日

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