あらすじ
出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件によって子供の最終学歴は異なり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり日本は、「生まれ」で人生の選択肢・可能性が大きく制限される「緩やかな身分社会」なのだ。本書は、戦後から現在までの動向、就学前〜高校までの各教育段階、国際比較と、教育格差の実態を圧倒的なデータ量で検証。その上で、すべての人が自分の可能性を活かせる社会をつくるために、採るべき現実的な対策を提案する。
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Posted by ブクログ
教育格差の話だが、就学前に格差が生まれていることと、隣人効果の大きさが印象的だった。
意識的な養育によって生活を構造化すること、そして同様の意識を持った家庭が集まる地域・コミュニティに属することが、教育に大きなメリットとなるのこと。実際、今の新興住宅地に引っ越してからは、いわゆる放牧状態の子どもやポイ捨てのようなモラルの欠如を目にする機会が明らかに減った。駅前には学習塾が3つもあることを考えると、地域全体の規範意識の高さと教育に対する意識の高さ、またそのメリットも納得である。
意識的な養育は幼児期から始まる。家庭では読書で多くの言葉に触れ親子で会話することで言語技能をつけ、机につく習慣をつけ、早寝早起きを行い、メディアからの隔離を行う。また外では習い事に通い意図的に構造化された教育体験を重ねることで教育の場に活用出来る認知・非認知能力を積む。これらは「就学前の準備格差」と表現されたが、ここで大きな差がもう出来ているんじゃないかと考えた。私も多少勉強が得意だったが、読書量の多さが多方面に複利で利いていたんじゃないかというのは実感としてある。あと運動して体力もあったし。
小学校での意識的な養育は就学前と変わったものとしては親が学校のイベントに参加し子供と学校について会話することが出来ること、ぐらいかな。「入学時点の学力が小学校4年生の学力と関係し、また小学校4年生時点の学力〜中学校1年時点の学力に大きな変化は起こらない」、という身も蓋もないデータに驚いたが、確かに認識と合う。
中学・高校はもう生まれによる格差も隣人による格差ももうつききって固定化されている印象。
自分の子供のことを考えると、頂点を目指さなくてもいいので受験しある程度選抜され規範を持った集団に属し安全安心に育ってほしいが、ただ受験のためだけの人生は送らせたくない。無駄を楽しんで豊かな社会性を身につけることだって必要。ただ、近隣の進学校は中高一貫しかなく高校入学は非常に狭き門になっているため、中学受験は必須となっている。中学受験のためには幼児期からのサポートによって無理なく勉強できる言語能力と思考のフレームワーク、抵抗感の排除などの学習環境の整備が必要であり、そのためには私たち夫婦の生活自体も今から構造化しなければならないと感じている。
小学校4年生から集中して1日中机にかじりつけ、なんて無理だし。その時までに知力・体力・習慣を身に着けさせる必要を感じた。
ふと思ったが、これからの時代子供をスマホ中毒にさせないだけで人生爆勝ちできそう、、使える時間に途方もない差が出来るし。そのためには自分がスマホ中毒から脱却する必要があるけど、、
Posted by ブクログ
地域による学歴格差はいつの時代もあり、世帯収入や学歴などの住民の社会経済的な格差拡大へつながり、児童・生徒の学歴達成を左右し得る教育環境の差になる。
23区で教育意識が高いのは、「大都市だから」ではなく、「近隣住民の大卒割合が高いから」である。すなわち、集合的な階層(近隣階層)によって、人々の選択、行動、意識は変わる。
どの高校に入ったかで大きく異なる高校生活を送ることになり、学校間で卒業後の進路に大きな差がある。
中流階級の親は子どもの生活に意図的な介入を行うことで望ましい行動、態度、技術などを形成しようとする「意図的教育」を行うのに対し、労働者階級・貧困家庭の親は大人の意図的な介入がなくても子どもは育つと考える「放任的養育」を行う。
親学歴は父母の学校行事・保護者活動の参加頻度と関連があり、父母の学校参加頻度の増加は児童の学校への適応化を促している。
小学校入学までの幼児教育で形成される小学校入学時点での学力が、小4時の学力と関連している。
「子どもの意志」に任せた上での大学進学率は両親大卒で65%、両親非大卒で32%と、「子どもの意志に任せる」というが、「子どもの意志」は生まれた環境によってだいぶ異なる。
「小さな学校」として子どもの自由を尊重し、部活や補修・課題を廃止すれば、公教育の枠割は縮小し、「生まれ」は今以上に直接的に引き継がれる。
多くの生徒が学習せずに時間をゲームやメディアに使うのは、他に打ち込めるものが見つからないから。
Posted by ブクログ
出身地域・親の学歴によって子どもの最終学歴は異なり、それが収入、職業、健康等様々な格差の基盤となる、そうした教育格差はどの社会にもどの時代にも存在することをデータを基に立証しています。
日本では、1970年代半ばに高校進学率が9割を突破し、2009年には四年制大学の進学率が5割を超えました。しかし、(70~80年代のデータがないので立証は難しいですが)「大衆教育社会」と呼ばれるその頃からSES(社会経済的地位)による影響が強まる階層化社会は始まっていたことは、当時の実態から伺えます。そして、教育意識の地域格差は2000年代以降確実に拡大しているのです。
アメリカの研究によると、中流家庭は「意図的養育」、労働者階級・貧困家庭は「放任的養育」と称される子育てロジックを持つことが分かっています。具体的には「日常生活の構造化(習い事参加・テレビ視聴時間の制限等)」「大人との議論・交渉の奨励(論理的な言語・豊富な語彙)」「学校等との交渉(子どもに便宜を図るため)」等への介入です。
親が大卒であるかということが世帯収入や子どもの学力に大きく影響しますが、その格差は未就学時より存在し、子どもの成長と共に拡大傾向にあります。また、地域格差も大きく、私立中学進学率は三大都市圏の両親大卒層で高く、特に都内の区部中学では、両親大卒層で公立中学に通う生徒の割合は53%、両親非大卒層で88%だとのことです。また、学習量、メディア消費量、親の学校関与度合いなどの「ふつう」度合いは学校間で異なります。高校になると、高ランク校が高SES校、低ランク校は低SES校であることは自明の事実です。そして、どの国においても、高学歴は高収入であることがOECDの調査でも分かっています。
私たちはデータを冷静に分析して改善を図らねばなりません。例えば、過度な受験戦争、詰め込み教育、画一教育を問題視して転換された「ゆとり」教育ですが、1990年当時さえ、中学3年生であっても毎日2時間以上勉強していた生徒は20%に届かなかったそうで、「受験地獄」が局所的な体験に過ぎなかったことが分かっています。教育改革のやりっ放しが多くの子どもの可能性を潰しているのです。
著者は、分析可能なデータを収集し研究知見に基づいた実践の拡散と、教育格差を教員免許取得の必修科目にするなどの改善を提言しています。
夏に受けた研修で話題に上がったため読んでみましたが、この根深い問題が私の生きている時代に改善されることはあるのだろうかという暗澹たる思いと、事実を受け止めて意識していかないと何も変わっていかないと鼓舞する思いが交錯しました。
Posted by ブクログ
事実に基づいて、教育格差について知ることができる本。解決できた社会はないが、よりベターな方向に向かう作者の姿勢が好印象でした。
以前『教育という病』という本を昔読んだのですが、その本と共通して、データをとってちゃんと検証することが必要と書かれていました。当たり前だとは思うんですが、こと日本においては教育となると個人情報がからんで継続的なデータ取得と結果のトレースは行われていないようです。
面白いと思ったのは、
学校に求められているのは、「教育(子供が社会に適用できるようにする)」と「選別(能力によって格付け、適切な進路に割り振る)」の2点だということ、学力テストを行い、適切な偏差値の高校や大学に割り振るというのは当たり前といえば当たり前なんですが、あまり気にしたことはなかったです。
また世界的にみて、日本の高校制度というのは、学力で分けるという意味で特殊だという点ですね。ほかの国の教育制度と比べることがないので意外でした。ちなみに日本の教育格差は、世界的にみて普通にあって。緩い身分社会といえるそうです。
また、だれでも聞けばわかるとは思うのですが、公立小学校、公立中学校においても、学校間で大学進学や学習に関する常識(「普通大学いくやろ」とか、「普通は就職して、優秀な奴が大学は行くんや」みたいな)や、親がどういった文化資本や、資本を持っているかは違っていて、それによって学校間の学力格差は存在しているんですが、学習指導要領に従っているので、公立学校間の学力に差はないと誤認している人がいるようです。
その誤認によって、勉強ができないことが自己責任になっているということが書かれていました。
教育だけにかかわらないとは思うのですが、「自由と効率」と、「平等」はトレードオフの関係にあります。学習進度別のクラスを設ければ、優秀な人はより優秀になるので、「格差」はより拡大しますし、みんなに同じ画一的な教育を与えると優秀な人の学習効率は下がります。教育制度を考えるときには、その制度がどちらに立脚した制度なのかを意識して、その制度が誰を軽視したのかを意識しておくことが大事というのはなかなか響くものがありました。
また、以前どこかに、「教育の機会平等が徹底された場合、遺伝子レベルで進路が決まってしまうディストピアが来る」と書いたのですが、まさにそれについて、遠い先のことを、今の不平等を放置していい理由にはできないといったことが書いてあり、ちょっと赤面しました。
教育格差について格差社会の勝ち組といわれる、早大生に教育することによって、格差を助長している。つまり私の手も血に染まっているのだ。と書かれているあたりに真摯さを感じたりしました。
Posted by ブクログ
非大卒の友達と会って話しますか?
この問いに「あんまり、、、」もしくは「非大卒でくくるなんて差別的だ!」と思うのであれば
絶対にこの本を読んでください。
ただ、
大学にいった方がよい、偏差値の高い学校にいった方がよい、家庭教師をつけたり、塾に通わせた方がよい
というメタメッセージがある本です。
そこに関しては問い直す必要があると思います。
『学歴の経済学』とセットで読むのがおすすめです。
Posted by ブクログ
データ・数字・ファクトを基に、
日本に、いや社会に存在する教育格差の実情を露呈する良書。
本人にはどうしようもない、出身地域と家庭環境、生まれによって、その後の人生の可能性に大きなセーブがかかってしまっているという事実。
読後感はたしかに重いが、
これがあるがままの事実に目を向けるということなのだろう。
過去の経験を振り返って
腑に落ちる点が本当に多々あった。
今後の人生の見方、捉え方にも、
生涯を通じて影響を与える本になるだろう。
Posted by ブクログ
小中高と自分が僅かながらも感じてきた家庭間格差を如実に著していた本だった。過去の記憶を辿りグルグルと頭を巡らせながら、あの時の感覚は正しかったんだと認識するに至る。親が大卒かそうじゃないかでこうも子供の成長に影響を及ぼすとは何とも遣る瀬無い。社会的経済背景の格差をどうにかしないと教育格差に終止符は打たれないのだと思い知らされた。ズッシリと重い読後感が残るが、教育問題と向き合う良いきっかけとなったのは間違いない。自分自身大学で教育学を専攻しているのでこうした新書にこれからもどんどん広げて先々の学びに活かしていきたい。
Posted by ブクログ
裏の帯にこうあります----<「緩やかな身分社会」この国の実態。>
教育格差についてざっくり言うと以下のようになります。父が大卒の子は大学進学率が高い。そして大学進学率には地域格差・学校格差もしっかりある。父大卒と関係ある条件だけれども、経済的に恵まれて幼少時から習い事をしていると大学進学率が高い。親の、教育に対する肯定的意識の多寡も子の進学に影響するのでした。
個人的には、これらはでも、未就学時点ですでに薄く感じていましたよ。習い事したいなあって思う動機のなかにはこういうことを察している部分がありました、振り返ると。
教育システムは選別機能を持っている。社会自体もそれを望んでいる。たとえば商品に、信用に基づいた値札がついていなくて自分で価値判断しないといけなければ大半の人は困る。だから値札を付ける。同様に、人間にも学歴が値札の代わりとなり、社会が回りやすくなる。
これはわかるのだけど、それ以上に、そんな選抜機能で人間の何がわかるのだ、と僕は憤りを覚えてしまうんですよね。彼、彼女の何をわかるっていうんだ、僕のなにを知っているっていんだ、というようにです。学歴などは便宜的なものだということをもっと意識したほうがよくないですか。
人を、つかえる、だの、つかえない、だのと都合に合わせて選別するのも嫌なものだと感じるほうです。不景気が長く継続している点で、大半の日本人は使えない、と選別されておかしくないようなもんですよ。それなのに得手か不得手か、優秀か並か、速いか遅いかだとかで劣ってる方にやけに不寛容ですからねえ。
学歴獲得競争としてしか、基本的には小学校・中学校・高校の期間に意味はないというのが教育を本質的に見る態度だとしても、それを要求するのは社会や国家です。競争結果からの格差が次世代の「生まれの格差」となり定着していく。しかも格差は拡大しやすい。格差があれば差別も生まれる。……自由経済のシステムや価値観の産物の負の側面にこういうところがあります。
では、引用していきます。
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制度上、誰に対しても機会が開かれているということは、全員に同じ機会が現実的に付与されていることを意味しない。(中略)「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。(p70)
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→父が大卒かどうかなどの「生まれ」によって、個人の進学率が異なる傾向が顕著にでているのが日本の社会の現実なのでした(とはいえ、格差は他国と比べても同じようなものです)。父が大卒あるいは両親ともに大卒であるような高SES層(SES=社会経済的地位)の家庭で育つと、家庭単位での教育熱が低SES層とは違い、教育に対する信用は厚いし、大学進学への希望の度合いも違っています。これは子どもが未就学の時点でもうその差として現れてくる。幼稚園、習い事、そして家庭での親からの教育(高SES層は意図的教育、低SES層は放任的教育といった違いの傾向もある)によって、もうすでに学習能力に差がつきはじめる。
上記の引用部分は、義務教育の教科書検定や学習指導要領などが全国で統一されていること、受験資格に生まれや男女の差別はないことなどから、誰でも這い上がっていけるための教育、ひいては開かれた社会であるのだとしてしまうとそれは間違いだ、と述べているのでした。このほかに、地域格差があり、男女の格差があります。高校までくるとランクがあるので、そこでも格差が拡大していきます。
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ここでいう「質」とは人間としての価値ではない。あくまでも現行の学歴獲得競争と親和性があるかどうかだ。小学生であっても同級生の大半が「大学は(いつか)いくもの」と考えていれば、個人(親の)SESがどんなものでも、大学進学が集合的「規範」となり得る。これは「隠れた(潜在的)カリキュラム」(hidden curriculum)と解釈できる(p135)
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→非認知的ともいえる、学校からの子どもへの影響について述べている箇所ですね。子ども同士が影響し合うので、友達がどういった意識を持っているかがポイントになってきます。そしてそれは学校の校風などから影響を受けているものです。大学は行くものだ、と進学意欲をはっきりもっている子どものほうが、進学率は高いというデータが出ていて、であるならば、上記引用のような影響はポジティブに作用します。
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目に見える範囲の平均(「みんなと同じくらい」)で走っていても、その集団そのものが全体の中でトップ集団であったり、すでに平均からも引き離された集団であったりと大きく違うのだ。学力偏差値の意味合いもよくわかっていない中学生にとっては、学習行動や大学進学のような「規範」についても自治体や全国の中でどのような位置にいるかは考えたこともないだろう。中学生の目線で「世界」の大半を占める「みんな」に合わせているうちに進学校にたどり着く生徒もいれば、大学進学する生徒が珍しい高校に入学することになる生徒もいることになるのである(p191-192)
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→学校によって、地域によって全然違うんだっていうことですよね。「どのような位置にいるかは考えたこともないだろう」なんて書かれていますけれども、僕の育った田舎では、学校のレベルが大したものではないので、もう少し大きな都市の学校へ転校したり、高校進学のときに地元を離れたりするべきだ、という考え方が一般的でした。僕も中1の家庭訪問のときから高校は地元を離れてはどうか、と勧められました(ただ僕の場合はそれが、そのころ暗雲の立ち込めてきた家庭環境にさらに風を吹かせることになったんですよねえ、まあ、それはいいとして)。
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日本では、SES下位16%で学力上位16%(偏差値60以上)となる割合は6%と低いが、学年人口が約120万人なので、実数としては1.2万人前後いることになる。「誰にでも機会は開かれている」という主張を裏付けようと、意図的に多くの「低SESで高学歴の生徒」を実例として集めることは難しくない。無論、数多くの珍しい実例をかき集めたところで、代表性のあるデータが示す傾向の反証にはならない。(p250)
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→低SESの学生は不利なのに、まるで機会は平等であるかのように見せることは簡単にできるということですね。情報操作できてしまうし、みんなも信じてしまいがちかもしれません。
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「みんな」が学習指導要領準拠の教科書で学び、似たような桜並木と入学式、同じような種目の運動会、合唱や証書の授与を含む卒業式という演出があれば、機会が「等しく」与えられたという幻想を事実として認識する人が増えても不思議ではない。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。(p267)
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→「生まれ」による格差は、小学校でも縮まることなく、それどころか拡大していく傾向があります。また、地域格差、学校格差もあるなかで、しかしながら表面上はいっしょであるために不平等が見えてきません。だから、「自己責任」なんて言われてしまいやすいのですけれども、その「平等な機会」はまやかしであることをはっきりと言ってくれた箇所でした。
とというところですが、最後に。
ミクロにマクロに教育格差のメカニズムが解説されている。でも、どんなに教育格差を教育の分野で是正しようとがんばっても、社会から競争がなくなるわけじゃないし、であるならば「生まれ」の格差がなくなることもない。教育システムの枠内にさまざまな問題があり、いくつかの問題と紐づいていたりしているケースでも、すべてをしらみつぶしに解決したつもりでも、社会システムという外からの力でほぼそれらはうまくいかないと僕は思うのです。世界は自由競争経済(マネーゲーム)というメカニズムの上に乗っかっており、商売は競争に勝ってこそ大きな利益があがるので、その競争性は必然的に苛烈なものとなる。いちおう労働のルールは設けても、労働時間を長くして競争に勝とうとしたり、効率化を進めて競争に勝とうとしたり、ルールのぎりぎりのところやグレーのところで無理や無茶を課しながらよそよりもなんとか一歩、いや半歩でも出し抜こうとして目を血走らせていたりする。そういった競争社会が要求する教育のあり方なのだし、競争社会で生きる親たちが子どもたちをしつけ、環境をコントロールし、教育方針を作って歩ませることになっている。競争社会であることを肌にびしびし感じながら働いている高SES層の親ならば、子どもにそういった世界に出るための用意や教育をさせるだろうし、比較的末端の仕事についていることが多そうな低SES層の親ならば、世の中は世知辛いものだと思いはしているだろうけれども、比較的あまり競争社会の芯の部分を知らずに働いているので子どもの将来や育ちかたへのヴィジョンもゆるくなりがちかもしれない。そこにはまた、地域格差というものもあるのだけれど。
だから、教育を変えるには社会に大きな変化が起こることが条件なのだと思う。そうではない教育改革は、教育を根本から変えることはできない。つまり、格差は無くならないのではないか。悲観的な見方だけれど、僕にはそう思えました。
本書の主張では、子どもたちが「生まれ」に関係なくもっているのびしろを存分に伸ばせる教育が望まれ、その結果、進学率が伸びて社会にも「民度の向上」のようなかたちでポジティブな影響がでる、また、個人としても高学歴の方が収入が多いこともあり幸福感が高まる、というようなものだと読み受けました。しかし、やっぱり世界は自由競争の社会ですから、高学歴の者たちの間で格差が生じるだろうと思える。また、幸福感についても、学歴が高いほうがいい、という価値観が絶対的に正しいとする見方が本書では暗に貫かれているような気がしましたが、そうではない生き方でも生きていける社会のほうが豊かだとも考えられます。
本書には、以前行われたゆとり教育の失敗した部分ばかりを述べて、これは失策だったとするところがあります。高SES層の子どもたちが私立に流れて「生まれ」の教育格差が広がった、だとか、低SES層の子どものなかには、学歴競争から自ら降りた者がでてきた、などがそれです。でも、新たな発想や価値観を持つ世代が生まれる土壌として機能する可能性のある教育方法だったのではないかと思えるし、おおらかに自分のやりたいことをみつけて邁進するにもいい教育方法だったのではないか、とも思えるところがあるのです。
たとえば、ゆとり教育をやるならばその前提として、まず自律を促すことは徹底してやって、その上でゆとりをする、など、改善策は考えられると思います。私立に流れて教育格差が広がる、などを調整しようとしても、格差は無くならない。ならばいっそ、自分のやりたいことを見つけてその分野で一流になることで学歴一本軸の社会の価値観に大きな波紋を起こす、波紋どころか大波を呼ぶ、みたいな方向で考えたほうが格差ってなくなるのではないか。価値基準が一本軸だからよくないんですよ。勉強が出来た出来ないだけで考える人っていうのは、そういう世界しか知らないからです。そんな硬直した世界を攪拌するには、やっぱり、バージョンアップしたゆとり教育的なものって効果があるような気が僕にはしますね。ゆとりといいつつ、自分の目指す方向が定まれば、一心不乱にとりくめる体制が構えてあるといい。そういうのが理想です。つまり、三段構えで。「自律心を身につける→ゆとり→興味を持った方向に寝食を忘れるくらい取り組んでよいとする」はどうなんだろう。パッと出たようなアイデアですが。
教育だけをいじくるなんて、そこはもう袋小路でしょう。もっとダイナミックで、あえての密度の低さを活かす方策のほうがたぶんいいです。偶有性のある社会、つまりカオスを含んでいるからこそ、どのポジションにいたとしても、それぞれにそれぞれの希望の方向が見えるというのが望ましいです。
Posted by ブクログ
本質要約:文句を言うだけでは勝者になれない
5章までの事実データと解析、考察を踏まえての本質を抽象的なまとめとしたが、教育格差において、制度や政策には当然プロコンがある
敗者は「文句たれ」で勝者は「変化に(素早く)適応する者」と言うのが事実だろう
制度が悪いなどと他責でいてはいつまでも勝者に移れず、変わったルールの中で「どうすれば勝てるか」を自責で考える勝者との差は開く一方で、勝者たちは勝っている以上、サイレントマジョリティである
これは、あらゆることに一定言える本質でもあるが、「教育」においてはこの「スタンスの取り方」で恩恵/損を受けるのが子どもたちであることは、最も重要で忘れてはならない部分だろう
Posted by ブクログ
親の社会階層や居住地域、学歴が子どもの教育機会にどのように影響するかを探り、教育格差がどのように形成され、維持されているかを解明した本。
徹底したロジックとデータ主義によって、日本の教育格差が今にはじまったことでなく、「緩やかな身分社会」として再生産されていたという事実を突きつける。
本書前半では、就学前の幼児教育から小・中・高校に至るまでにどのように教育格差が拡大していくかを辿り、後半では「ではどうすれば良いか」への提言もなされている。
日本はアメリカに比べ、教育に関する大規模調査データが圧倒的に不足しているため、限られた調査結果から現状分析せざるを得ないらしい。
本書は教育格差についてのショッキングな事実だけでなく、社会科学における統計データの取扱い方のお手本としても参考になる良書。
ーーーーーーー一以下、抜書きーーーーーーーー
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人には無限の可能性がある。私はそう信じているし、一人ひとりが限りある時間の中で、どんな「生まれ」であってもあらゆる選択肢を現実的に検討できる機会があればよいと思う。なぜ、そのように考えるのか。それは、この社会に、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって教育機会の格差があるからだ。この機会の多寡は最終学歴に繫がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり、20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が日本にはあるのだ。
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要するに人間社会はあまりに複雑で、すべてを把握することはそもそもできず、不足した人材と予算の中で調査研究が行われてきたので、信頼できるデータは数多くない。妥当な手法で行われた調査であっても、質問数と回答選択肢を増やしすぎると調査対象者の負担が大きくなるので、限られた事項しか把握できない。そう、みなさんが抱く多様な疑念すべてに応えることができるほど「現状」はわかっていない──わたしたちはわたしたちを知らないのだ。
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近年に比べれば注目されなかった経済安定成長期の1970・1980年代にも「子どもの貧困」は実数として多く存在したし、貧困層と非貧困層の大卒割合の格差は明らかである。
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格差論が隆盛する2000年代以前に子供時代を過ごした世代であっても、若年層と同じく出身地域による有利不利があったのだ。
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大卒割合によって町の文化的雰囲気が異なり、それが教育意識の高低の基盤となっている。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることが良いことであるというメッセージを意識的・無意識的に受けながら育つことになるのである。もちろん、様々な「文化」があってよい。ただ、現在の社会制度の中で「成功」するのに役立つ「文化」とそうでないものがあるのが現実だ。大卒割合によって近隣「文化」が異なることは、教育格差にとって大きな意味を持ち得る。
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近年の研究でも、子が浴びる単語の量ではなく、親子の会話量とその質が言語能力の発達に重要であり、高SESな親がそのようなコミュニケーションを積極的にしていることが実証的に明らかにされている。
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入学時点の「読み書き」と「算数」に、そして小学校4年生時点の算数の平均と偏差値60以上の割合に学校間格差が存在する。
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国別の平均値とランキングはそのまま国の教育「制度」の「結果」を意味しない。経済の水準と格差・地域格差・教育制度・家庭教育・塾産業・社会全体の教育との親和性などすべてを含んだ総体だ。
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理想的な教育を語るのはよいが、現実的に実施し結果に結びつかないのであれば、子供たちの人生の可能性を拡大することにはならない。「平等」なのか「自由」なのか、どちらに軸足を置くのか自覚することが重要だ。
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まずは、精神的にも物質的にも安定した家庭と学校で、親と教師だけではなく多くの大人に励まされ成功体験を少しずつ積むようなまっとうな教育を長期間受ける機会を付与しなければ、どれぐらい可能性があるのかわかることはないだろう。そう、遺伝による支配の到来を憂う前に、一人ひとりの潜在可能性を最大化するための教育環境の整備が先なのだ。
Posted by ブクログ
丁寧なデータ分析を元にした、印象論や経験則ではない日本の教育の実態を示す本。
私個人は、全体として格差の縮小に努めるべきであるというスタンスである一方で、自身の子どもには(格差の再生産になろうとも)少しでもより良い教育環境を与えたいと願う、一般的な大卒である。そのことに自覚的でありつつ、教育のあるべき姿を考えていたい。
Posted by ブクログ
教育格差、生まれによる格差はある。その上でどういう社会を望むか。
■初期条件(「生まれ」)である、出身家庭の社会経済的地位(Socioeconomic status, 「SES」)と出身地域
■意図的教養と放任的教養
意図的教養:中流階級 習い事の参加、大人との議論・交渉の奨励→結果、子供は相手が社会的立場のある大人であっても臆さず交渉し 自分の要求を叶えようとする意識を持つようになる
放任的教養:貧困層 子供の日常生活は大人によって組織化されてない。「自由」な時間が多い(テレビ無制限とか)。親は命令口調が多く、言語的な伝達は最小限にとどまる。→結果、子供は大人に対して自分の要求を伝えることを躊躇し、権威に対して従う成約感覚を持つようになる。
■文化資本:3つの形態がある。本や美術品など「客体化された文化資本」、学歴 資格など制度に承認された「制度化された文化資本 」、言語力 知識 教養など簡単に相続されない「身体化された文化資本」。
■国際的に見た日本の特殊性は、高校階層構造(偏差値ランキング)。制度的に教育困難校を作り、そこに勤める教師たちも教育を諦めるのが「普通」。(国際比較すると異常な仕組み)
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教育は正解がないからこそ最善の道を模索し続けなければならない。また、どれだけ手を尽くしても格差が0になることはあり得ないため、その事実を心に留めておくことも必要であろう。
✏学校教育には教育機会の平等化装置として格差を縮小する機能があるといえる。
✏教育は誰もが何らかの実体験を持っているので自説を持ちやすい。どんな見解であったとしても白黒つけることは難しく、大半の教育論はその性質から完全な肯定も否定もできない。
✏個別化制作の「効率」性の高さという「正しさ」に酔うだけではなく、その政策の「差異化」機能が格差を拡大する可能性を意識することで、「個別化を推進しながら、なんとか格差にも対処できる方策を同時に打てないか」と議論を進めることができる。
✏学校現場では個人間の差異が表面化しないよう「平等」を重視する傾向がある。ここでの「平等」は「同じ扱い」を意味し、処遇を変えるのは差別の温床とされてきた。この帰結は明快だ。学力格差は縮小せず、学習努力など行動格差は拡大している。
✏学校をコミュニティに開くといった議論もされ始めて久しいが、社会経済的にどんな地域かによって学校が使える資源量に格差があるため、それに伴って生徒が得られる便益に学校間格差が生まれる。
✏「同じ扱い」の義務教育があるからこそ「機会の平等」という舷窓が流布していると解釈することもできる。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。
✏望ましいとされる椅子の数が限られている以上ら目の前の子供を笑顔にすることはできても、それは目に見えないどこかの誰かの涙と落胆を引き起こす行為である。教育政策・制度を議論する際、労働市場との繋がりも含めて、この選抜機能という現実に向き合う必要があるのだ。
✏学校を構成する最大の要素は生徒が「誰」であるかだ。カリキュラム、教育手法、伝統などの特色と進学実績を関連付けて議論する有名進学校の校長インタビュー記事が散見されるが、「どんな生徒がその高校に通っているか」を考慮すると、学校の効果はとても小さい。
✏低SESの子どもたちの可能性に投資しないことで、私達は潜在的な損失を受けているかもしれない。
Posted by ブクログ
日本は生まれた社会的な階層や地域によって歩む人生が最初から異なる凡庸な格差社会であり「自己責任」で済ますことは統計データからは許されない。教育格差を教職課程の必須科目にと言う著者に同意するし教育や子ども支援に関わるすべての人はまず本書を手にしてみるべきでしょう。どう分析しても格差社会であることがデータで延々と示される前半は苦痛かもしれないがそれでも知るべきだし、教育政策や制度を語る上で「自由」や「平等」がすでに存在している「格差」にどのような意味を持つのか、誰しも一家言持ちたくなってしまうテーマだからこそ議論の前提として知って欲しい。
Posted by ブクログ
子供が受け取れる機会は、親が与える環境による格差がある。これが公共教育で埋められない学力差を産んでいることをデータを基に示された本。
また、その格差を意識せず、あの子は頭が良いから良い大学に行っていい職に着く、と済ましてしまうことは、公平平等であるべき公共教育の瑕疵であると整理された本。
第1〜5章までは社会調査データにより、上記の内容が複数の側面から検証されている。しかし同じ結論の主張が繰り返し説明されるため、正直退屈で読みづらい。
第6章は、前章までの経緯を総括したうえで筆者の意見を述べられている。面白くて読みやすい。教育は、全員に良い機会を与えるべきである。一方で教育後に就く仕事は、席の数が決まっている。そのため、教育が平等にレベルアップするほど、社会に出た後の競争は過酷になる、という指摘がが印象に残りました。
Posted by ブクログ
データや同じ単語の繰り返しになるのはテーマ上しょうがないし、それだけ説得力はある。
生まれが学力や進学先に影響してくるのはもちろん、考え方(そもそも子供が大学に行きたい、と思うかどうか)にも関わってくるのは、当然と言えばそうだけれど残酷
.
この教育格差を完全に消すのはたぶん難しくて
それ自体よりももっと危険なのは、格差が広がることで「学力が高いことで得られた数字やレッテルが、その人の価値や幸せを決定づける」という風潮が助長されることだと思う。
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教育政策学の権威である著者による、日本に蔓延る「教育格差」を論じた著作。豊富なデータとファクトをベースに、淡々と日本にある「生まれ」によって分断された社会を論じていくのが特徴的。
父親が大卒の子供は80%が大卒となり、父親が非大卒の子供は35%が大卒となる。このように、親の学歴・親の収入・居住圏等の「生まれながらの性質」によって子供の進路が決まってしまう。
論調が淡々としているだけに飽きが来る本ではあるが、教養として非常に価値が高い。良書。
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参考文献として読んだ。社会的格差が教育格差につながるよってことを様々なデータを使って何度も主張している感じ。ちょっと飽きた。今うちの大学にいるから松岡教授の授業とってみようかな。
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これは学校教育を考える人は必読。子どもの社会化の装置としての学校はどうあるべきか。学校/教育政策における「公正さ」とは。そういった議論のために押さえておくべきデータがまとめて読める本(松岡さん、書いてくださってありがとう!)
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本書は、近現代日本には昔から変わらず緩やかな階級社会がである、ということを詳細なデータで示した教育社会学の1冊。
親の学歴や家庭環境によって、就学前から子供の教育や進学状況に統計的な格差が生じているので、それが受け継がれて階級ができてるし、親の収入や学歴によって住む地域も偏りがあるので、公立の小学校でも地域差、ひいては階級差が存在するということが述べられてます。まあ、普通の人は指摘されなくてもそんなの分かっているとは思うことが、データで示されてます。もちろん制度として這い上がることはできるが、それは少数派で、一部の例外がいることを示してもあくまで例外にすぎない。
それでも日本は、他の国に比べれば全体として国民の間の格差が小さかったり、全体として教育による学力の底上げにも成功しているが、存在する格差が固定化されて、子供たちの可能性が抑えられていることを著者は問題視してるのだと思う。
このような事実を知らしめると、子供のいる家庭は住む地域を厳選するだろうし、それによってさらに階級差が固定されそうな気がするのは著者も懸念しているが、それでも問題の存在を知らしめることを選んでいるようです。
決して一般向けに書かれた本ではなく、前半四分の三ぐらいは研究論文のような内容で、どのようにデータを解析しているのかとか、専門的な内容が続いて長いが、普通の人には、知ってる、当たり前、というような結果が示されてるだけなので、飛ばして最終部分だけ読んでも良いでしょう。
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データが多く読みにくさがあるけど、内容はとても興味深かった。
教育格差は高校や大学など、分かりやすい学歴として可視化されるよりずっと前から存在する。生まれた時からそれぞれが生きる環境によって「ふつう」が異なり、行き着く先も異なる傾向が高い。
振り返ってみると、学生時代の私にとっての"社会"なんてせいぜい学校やら習い事やらの関わりにとどまるもので、もっと大きな"社会"の中で自分がどこにいるかなんて分かってなかった。
自分自身で選択できない子どもにとって、自分が見えてるものが「ふつう」でないことを認識するのは難しい。"親ガチャ"という言葉はあまり好きじゃないけど、親の収入や考え、教育方針で子供の将来が変わるのは残酷だけど否めない事実だなとデータからもよく分かった。
本著を読み、いろいろ思いを巡らせている自分は、新書を興味深く読めるくらいには教育面では恵まれた環境で育ったし、他の読者もそういった方が多いんじゃないかなと予想する。本当に苦しんでる人や届いてほしい人には届きにくくなってしまっているのも何だか皮肉のように感じる。
教員でもない、誰かの親でもない自分がこの教育格差問題に対してできることと言っても正直思いつかないけど、こういった現状があることを認識することは大切にしたい。
個人的には、「総括」の
「子供の頃に制度やルールに従うことを余儀なくされる度に、大人がしっかりと考えた相当な理由があるのだろうと違和感を飲み込んできた私が期待していたほど、頑健な合理性のあるものなどなく、恣意的に決まっていることばかりであると…」
という箇所が、自分と同じだ、、!と嬉しくなった。
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世界中で似たような傾向にはあるが、日本にいると特に一部地区で受験熱が偏って高い事に気付く。通勤圏や地価からある程度収入の似通った家族が集まり、塾などの教育施設も充実。周囲との交流の中でも加熱していくのだろう。レールに沿って似たような価値観が集まる中学、場合によっては小学校を受験する事に、教育の格差以上に多様性の偏りが生まれる事に不安がある。島田紳助が昔、学校の教室は社会の縮図で、能力や親の年収、素行の良し悪しが混ざり合った公立に我が子を通わせたいと言っていて共感した事を覚えている。偏った集団意識から差別意識が生まれ、そこで刷り込まれた狭い承認欲求は社会生産性を高めるためのもので、必ずしも複雑な価値観を涵養しない。計測可能な偏差値が正義で、良い学校、良い就職先、良い友達付き合い、良い年収と、比較論による「良い」という価値観が形成される。やがてアルゴリズムさえ「良いね」で人同士を操り始める。
比較論で「ただ良い」事を追求しない社会。社会的に埋め込まれた価値観のKPIから自由になる事が必要と成田悠輔。これも大賛成。今、ダイバーシティと言えば、着替えやトイレなどの性区別の関係からLGBTQ、人不足の関係から外国文化に対して寛容さを高めつつあるが、学歴に対しては多様性が認められない。学力の基準で閉ざす方が、生産性には有利だからだ。
本著に書かれるような家庭環境、地域、親の学歴や年収、蔵書数などが子供に教育格差を齎す事は、肌感覚で分かっている。分かっているものをデータで立証した事に本著の価値がある。まるで、トマ・ピケティが縮まらない社会格差を立証したように。
学校現場でも諦められた低学歴。自覚と共にレールから外れていく教育落伍者の烙印。レールを走る労働者は与えられた幸福モデルの範囲で生き、外れたものは貧困、あるいは独自の幸福モデルを生きる。案外、後者の方がイキイキとした人生を送っていて、教育格差の上位者は、その優越感の代償として、社会による都合の良いイメージ、それによる搾取の累進性に踊らされているのかも知れない。
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前半2/3ぐらいはSSM調査の結果を示すことに費やされているが、冗長な上、解釈にも慎重な姿勢が目立っているので読んでいてちょっと疲れる。
著者の主張は最後の一章。われわれには生まれによってそれぞれに異なった「ふつう」が与えられる。子供のまわりの「みんな」もそれぞれ階層化されており、日本全体の平均とは全く異なっている。「みんな」に合わせているうちに進学していく子もいれば、大学進学が珍しい高校に入学する子もいる。
スタート地点である親のSES・教育度が小学校時代の学習時間、学校への親の関与率、通塾率、メディア消費時間(YouTubeなどを眺めたりする時間)、大学進学率、、、とその後も格差を全く縮めることなく引き継がれていくという。
これを打開するには「平等」な教育の廃止、すなわち、同じ学校の同じクラスにいるから、と同じ教育を与えるのでなく、能力別の教育によって優秀なものは優秀さを追求するシステムが望ましいという。現代の日本のように、独自の価値判断や自由な風潮を強調して学校教育の間だけ表向きの平等を維持したとしても、最終的に労働市場に出た時には労働市場の価値基準で評価されることになる。
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データで環境による学力格差を表した。学力格差を埋めるために、データをもっと収集し、教職課程で教育格差の履修を提案している。
現在の日本の学校の機能は、学校という集団社会での生活方法を伝えること、学力によって選抜することである。
1990年代までは、地方の方が教育意識が高かった。しかし、現在は、三代都市圏内の方が高い。また、教育環境が不利な状況からでも、大卒になる人が多かった。現在は、教育環境が不利な状況の人は大学になりにくい。つまり、教育格差は拡大している。
幼児教育期
親が大卒以上である場合の方が意図的教育をする傾向にある。→親が高学歴であるほど、子どもの教育に関するスタートが早い
例
良い音楽を聞かせる、子どものテレビ視聴時間が短い、生活の中で時間管理をしている など
小学校
親の学歴によって、世帯収入は、子どもが大きくなるにつれ拡大。→教育にかけられる金額も変わってくる。また、学校間で格差がある。学校によって、「当たり前」「ふつう」といった感覚に差が生じているのである。
そのため、意図的養育に差がある
例
読書量の差、大学進学への期待度に大きな差、習い事、メディア視聴時間 など
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研究者の本だなぁと思った。リアルだとめっちゃ早口で喋りそう。あとユーモアを交えた例えが良くわからん。
けども書かれていることは素晴らしくて、難病の病理を突き止めようと様々なエビデンスを用意してくれているし、分析も的確かと。人は生まれによって踊る舞台が決まっていて、教育制度もそれを助長するシステムに自ずとなってしまっているということよね?まぁそうだろうなぁを間違いなくそうですと言い切れるようになるにはとても労力がいることだし、研究の成果としては十分だと思う。
ただそれを承知で言わせてもらえれば、日本の教育制度はそれでも平等だと思う。別に入学金が払えないから低層の学校に行かされるわけでもなく、同じ教科書、同じ出題範囲で競うステージが用意されている以上、仮に進学校に通えなくても「やらなかった自分が悪い」と自分を責めることができる。生まれが違ったからだなんて如何ともし難い不条理を嘆き悲しむことがない。それって相対的でなく絶対的に平等じゃない?努力して勉強すればどっかしらには進学校はあるし、先生捕まえて理解しきればセンター試験だってまぁまぁ取れるでしょ。たかだか学生に自分の人生の舵取りの責任をすべて背負わせる訳にはいかないけど、それでも社会や他人のせいになんてできないよね?かっこわりーだろそれ。それを言わせないだけの同調圧力はむしろ若者の間に根強い気がしてる。
でも著者の言う通り、トラッキングできるデータの拡充や教育格差の科目を教員養成プログラムに盛り込むとかは至極肝要なことだと思います。
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そうだろうなぁ思っていたことを、ファクトを基にキチンと数字で示してくれた本。
高学歴の両親は、子供に金をかけられるし、大学に行かせるのが当たり前だと思っているから、子供のゲームとテレビ視聴時間に制限をかけ、勉強するように仕向ける。
小学校入学時点でついた差は、日を追うごとに拡大し、高校入学時には決定的な差になる。底辺高校は一切勉強せず、そのまま就職し、同じような子供を再生産していく。。。
残酷な現実を、示された!
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2021.02.25 しっかりとしたデータ分析によって、しっかりと体型的に論理的に教育格差の現状を分析されている。改めてしっかりと確認できた。感謝したい。
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所得格差も広がっているが、今の日本では、教育格差が広がっているそう。私は東京生まれで教育熱心な両親・祖父母に育てられたせいか、私の思う「普通」と他の「普通」は違うのだと認識した。世界的に見れば日本はまだ能力が高いそうだが、格差が広がれば普通は減る。やはり教育は大事。