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出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件によって子供の最終学歴は異なり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり日本は、「生まれ」で人生の選択肢・可能性が大きく制限される「緩やかな身分社会」なのだ。本書は、戦後から現在までの動向、就学前〜高校までの各教育段階、国際比較と、教育格差の実態を圧倒的なデータ量で検証。その上で、すべての人が自分の可能性を活かせる社会をつくるために、採るべき現実的な対策を提案する。
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Posted by ブクログ
教育格差の話だが、就学前に格差が生まれていることと、隣人効果の大きさが印象的だった。 意識的な養育によって生活を構造化すること、そして同様の意識を持った家庭が集まる地域・コミュニティに属することが、教育に大きなメリットとなるのこと。実際、今の新興住宅地に引っ越してからは、いわゆる放牧状態の子どもやポ...続きを読むイ捨てのようなモラルの欠如を目にする機会が明らかに減った。駅前には学習塾が3つもあることを考えると、地域全体の規範意識の高さと教育に対する意識の高さ、またそのメリットも納得である。 意識的な養育は幼児期から始まる。家庭では読書で多くの言葉に触れ親子で会話することで言語技能をつけ、机につく習慣をつけ、早寝早起きを行い、メディアからの隔離を行う。また外では習い事に通い意図的に構造化された教育体験を重ねることで教育の場に活用出来る認知・非認知能力を積む。これらは「就学前の準備格差」と表現されたが、ここで大きな差がもう出来ているんじゃないかと考えた。私も多少勉強が得意だったが、読書量の多さが多方面に複利で利いていたんじゃないかというのは実感としてある。あと運動して体力もあったし。 小学校での意識的な養育は就学前と変わったものとしては親が学校のイベントに参加し子供と学校について会話することが出来ること、ぐらいかな。「入学時点の学力が小学校4年生の学力と関係し、また小学校4年生時点の学力〜中学校1年時点の学力に大きな変化は起こらない」、という身も蓋もないデータに驚いたが、確かに認識と合う。 中学・高校はもう生まれによる格差も隣人による格差ももうつききって固定化されている印象。 自分の子供のことを考えると、頂点を目指さなくてもいいので受験しある程度選抜され規範を持った集団に属し安全安心に育ってほしいが、ただ受験のためだけの人生は送らせたくない。無駄を楽しんで豊かな社会性を身につけることだって必要。ただ、近隣の進学校は中高一貫しかなく高校入学は非常に狭き門になっているため、中学受験は必須となっている。中学受験のためには幼児期からのサポートによって無理なく勉強できる言語能力と思考のフレームワーク、抵抗感の排除などの学習環境の整備が必要であり、そのためには私たち夫婦の生活自体も今から構造化しなければならないと感じている。 小学校4年生から集中して1日中机にかじりつけ、なんて無理だし。その時までに知力・体力・習慣を身に着けさせる必要を感じた。 ふと思ったが、これからの時代子供をスマホ中毒にさせないだけで人生爆勝ちできそう、、使える時間に途方もない差が出来るし。そのためには自分がスマホ中毒から脱却する必要があるけど、、
出身地域・親の学歴によって子どもの最終学歴は異なり、それが収入、職業、健康等様々な格差の基盤となる、そうした教育格差はどの社会にもどの時代にも存在することをデータを基に立証しています。 日本では、1970年代半ばに高校進学率が9割を突破し、2009年には四年制大学の進学率が5割を超えました。しかし、...続きを読む(70~80年代のデータがないので立証は難しいですが)「大衆教育社会」と呼ばれるその頃からSES(社会経済的地位)による影響が強まる階層化社会は始まっていたことは、当時の実態から伺えます。そして、教育意識の地域格差は2000年代以降確実に拡大しているのです。 アメリカの研究によると、中流家庭は「意図的養育」、労働者階級・貧困家庭は「放任的養育」と称される子育てロジックを持つことが分かっています。具体的には「日常生活の構造化(習い事参加・テレビ視聴時間の制限等)」「大人との議論・交渉の奨励(論理的な言語・豊富な語彙)」「学校等との交渉(子どもに便宜を図るため)」等への介入です。 親が大卒であるかということが世帯収入や子どもの学力に大きく影響しますが、その格差は未就学時より存在し、子どもの成長と共に拡大傾向にあります。また、地域格差も大きく、私立中学進学率は三大都市圏の両親大卒層で高く、特に都内の区部中学では、両親大卒層で公立中学に通う生徒の割合は53%、両親非大卒層で88%だとのことです。また、学習量、メディア消費量、親の学校関与度合いなどの「ふつう」度合いは学校間で異なります。高校になると、高ランク校が高SES校、低ランク校は低SES校であることは自明の事実です。そして、どの国においても、高学歴は高収入であることがOECDの調査でも分かっています。 私たちはデータを冷静に分析して改善を図らねばなりません。例えば、過度な受験戦争、詰め込み教育、画一教育を問題視して転換された「ゆとり」教育ですが、1990年当時さえ、中学3年生であっても毎日2時間以上勉強していた生徒は20%に届かなかったそうで、「受験地獄」が局所的な体験に過ぎなかったことが分かっています。教育改革のやりっ放しが多くの子どもの可能性を潰しているのです。 著者は、分析可能なデータを収集し研究知見に基づいた実践の拡散と、教育格差を教員免許取得の必修科目にするなどの改善を提言しています。 夏に受けた研修で話題に上がったため読んでみましたが、この根深い問題が私の生きている時代に改善されることはあるのだろうかという暗澹たる思いと、事実を受け止めて意識していかないと何も変わっていかないと鼓舞する思いが交錯しました。
事実に基づいて、教育格差について知ることができる本。解決できた社会はないが、よりベターな方向に向かう作者の姿勢が好印象でした。 以前『教育という病』という本を昔読んだのですが、その本と共通して、データをとってちゃんと検証することが必要と書かれていました。当たり前だとは思うんですが、こと日本において...続きを読むは教育となると個人情報がからんで継続的なデータ取得と結果のトレースは行われていないようです。 面白いと思ったのは、 学校に求められているのは、「教育(子供が社会に適用できるようにする)」と「選別(能力によって格付け、適切な進路に割り振る)」の2点だということ、学力テストを行い、適切な偏差値の高校や大学に割り振るというのは当たり前といえば当たり前なんですが、あまり気にしたことはなかったです。 また世界的にみて、日本の高校制度というのは、学力で分けるという意味で特殊だという点ですね。ほかの国の教育制度と比べることがないので意外でした。ちなみに日本の教育格差は、世界的にみて普通にあって。緩い身分社会といえるそうです。 また、だれでも聞けばわかるとは思うのですが、公立小学校、公立中学校においても、学校間で大学進学や学習に関する常識(「普通大学いくやろ」とか、「普通は就職して、優秀な奴が大学は行くんや」みたいな)や、親がどういった文化資本や、資本を持っているかは違っていて、それによって学校間の学力格差は存在しているんですが、学習指導要領に従っているので、公立学校間の学力に差はないと誤認している人がいるようです。 その誤認によって、勉強ができないことが自己責任になっているということが書かれていました。 教育だけにかかわらないとは思うのですが、「自由と効率」と、「平等」はトレードオフの関係にあります。学習進度別のクラスを設ければ、優秀な人はより優秀になるので、「格差」はより拡大しますし、みんなに同じ画一的な教育を与えると優秀な人の学習効率は下がります。教育制度を考えるときには、その制度がどちらに立脚した制度なのかを意識して、その制度が誰を軽視したのかを意識しておくことが大事というのはなかなか響くものがありました。 また、以前どこかに、「教育の機会平等が徹底された場合、遺伝子レベルで進路が決まってしまうディストピアが来る」と書いたのですが、まさにそれについて、遠い先のことを、今の不平等を放置していい理由にはできないといったことが書いてあり、ちょっと赤面しました。 教育格差について格差社会の勝ち組といわれる、早大生に教育することによって、格差を助長している。つまり私の手も血に染まっているのだ。と書かれているあたりに真摯さを感じたりしました。
非大卒の友達と会って話しますか? この問いに「あんまり、、、」もしくは「非大卒でくくるなんて差別的だ!」と思うのであれば 絶対にこの本を読んでください。 ただ、 大学にいった方がよい、偏差値の高い学校にいった方がよい、家庭教師をつけたり、塾に通わせた方がよい というメタメッセージがある本です。 そこ...続きを読むに関しては問い直す必要があると思います。 『学歴の経済学』とセットで読むのがおすすめです。
データ・数字・ファクトを基に、 日本に、いや社会に存在する教育格差の実情を露呈する良書。 本人にはどうしようもない、出身地域と家庭環境、生まれによって、その後の人生の可能性に大きなセーブがかかってしまっているという事実。 読後感はたしかに重いが、 これがあるがままの事実に目を向けるということなの...続きを読むだろう。 過去の経験を振り返って 腑に落ちる点が本当に多々あった。 今後の人生の見方、捉え方にも、 生涯を通じて影響を与える本になるだろう。
小中高と自分が僅かながらも感じてきた家庭間格差を如実に著していた本だった。過去の記憶を辿りグルグルと頭を巡らせながら、あの時の感覚は正しかったんだと認識するに至る。親が大卒かそうじゃないかでこうも子供の成長に影響を及ぼすとは何とも遣る瀬無い。社会的経済背景の格差をどうにかしないと教育格差に終止符は打...続きを読むたれないのだと思い知らされた。ズッシリと重い読後感が残るが、教育問題と向き合う良いきっかけとなったのは間違いない。自分自身大学で教育学を専攻しているのでこうした新書にこれからもどんどん広げて先々の学びに活かしていきたい。
裏の帯にこうあります----<「緩やかな身分社会」この国の実態。> 教育格差についてざっくり言うと以下のようになります。父が大卒の子は大学進学率が高い。そして大学進学率には地域格差・学校格差もしっかりある。父大卒と関係ある条件だけれども、経済的に恵まれて幼少時から習い事をしていると大学進学率が高い...続きを読む。親の、教育に対する肯定的意識の多寡も子の進学に影響するのでした。 個人的には、これらはでも、未就学時点ですでに薄く感じていましたよ。習い事したいなあって思う動機のなかにはこういうことを察している部分がありました、振り返ると。 教育システムは選別機能を持っている。社会自体もそれを望んでいる。たとえば商品に、信用に基づいた値札がついていなくて自分で価値判断しないといけなければ大半の人は困る。だから値札を付ける。同様に、人間にも学歴が値札の代わりとなり、社会が回りやすくなる。 これはわかるのだけど、それ以上に、そんな選抜機能で人間の何がわかるのだ、と僕は憤りを覚えてしまうんですよね。彼、彼女の何をわかるっていうんだ、僕のなにを知っているっていんだ、というようにです。学歴などは便宜的なものだということをもっと意識したほうがよくないですか。 人を、つかえる、だの、つかえない、だのと都合に合わせて選別するのも嫌なものだと感じるほうです。不景気が長く継続している点で、大半の日本人は使えない、と選別されておかしくないようなもんですよ。それなのに得手か不得手か、優秀か並か、速いか遅いかだとかで劣ってる方にやけに不寛容ですからねえ。 学歴獲得競争としてしか、基本的には小学校・中学校・高校の期間に意味はないというのが教育を本質的に見る態度だとしても、それを要求するのは社会や国家です。競争結果からの格差が次世代の「生まれの格差」となり定着していく。しかも格差は拡大しやすい。格差があれば差別も生まれる。……自由経済のシステムや価値観の産物の負の側面にこういうところがあります。 では、引用していきます。 __________ 制度上、誰に対しても機会が開かれているということは、全員に同じ機会が現実的に付与されていることを意味しない。(中略)「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。(p70) __________ →父が大卒かどうかなどの「生まれ」によって、個人の進学率が異なる傾向が顕著にでているのが日本の社会の現実なのでした(とはいえ、格差は他国と比べても同じようなものです)。父が大卒あるいは両親ともに大卒であるような高SES層(SES=社会経済的地位)の家庭で育つと、家庭単位での教育熱が低SES層とは違い、教育に対する信用は厚いし、大学進学への希望の度合いも違っています。これは子どもが未就学の時点でもうその差として現れてくる。幼稚園、習い事、そして家庭での親からの教育(高SES層は意図的教育、低SES層は放任的教育といった違いの傾向もある)によって、もうすでに学習能力に差がつきはじめる。 上記の引用部分は、義務教育の教科書検定や学習指導要領などが全国で統一されていること、受験資格に生まれや男女の差別はないことなどから、誰でも這い上がっていけるための教育、ひいては開かれた社会であるのだとしてしまうとそれは間違いだ、と述べているのでした。このほかに、地域格差があり、男女の格差があります。高校までくるとランクがあるので、そこでも格差が拡大していきます。 __________ ここでいう「質」とは人間としての価値ではない。あくまでも現行の学歴獲得競争と親和性があるかどうかだ。小学生であっても同級生の大半が「大学は(いつか)いくもの」と考えていれば、個人(親の)SESがどんなものでも、大学進学が集合的「規範」となり得る。これは「隠れた(潜在的)カリキュラム」(hidden curriculum)と解釈できる(p135) __________ →非認知的ともいえる、学校からの子どもへの影響について述べている箇所ですね。子ども同士が影響し合うので、友達がどういった意識を持っているかがポイントになってきます。そしてそれは学校の校風などから影響を受けているものです。大学は行くものだ、と進学意欲をはっきりもっている子どものほうが、進学率は高いというデータが出ていて、であるならば、上記引用のような影響はポジティブに作用します。 __________ 目に見える範囲の平均(「みんなと同じくらい」)で走っていても、その集団そのものが全体の中でトップ集団であったり、すでに平均からも引き離された集団であったりと大きく違うのだ。学力偏差値の意味合いもよくわかっていない中学生にとっては、学習行動や大学進学のような「規範」についても自治体や全国の中でどのような位置にいるかは考えたこともないだろう。中学生の目線で「世界」の大半を占める「みんな」に合わせているうちに進学校にたどり着く生徒もいれば、大学進学する生徒が珍しい高校に入学することになる生徒もいることになるのである(p191-192) __________ →学校によって、地域によって全然違うんだっていうことですよね。「どのような位置にいるかは考えたこともないだろう」なんて書かれていますけれども、僕の育った田舎では、学校のレベルが大したものではないので、もう少し大きな都市の学校へ転校したり、高校進学のときに地元を離れたりするべきだ、という考え方が一般的でした。僕も中1の家庭訪問のときから高校は地元を離れてはどうか、と勧められました(ただ僕の場合はそれが、そのころ暗雲の立ち込めてきた家庭環境にさらに風を吹かせることになったんですよねえ、まあ、それはいいとして)。 __________ 日本では、SES下位16%で学力上位16%(偏差値60以上)となる割合は6%と低いが、学年人口が約120万人なので、実数としては1.2万人前後いることになる。「誰にでも機会は開かれている」という主張を裏付けようと、意図的に多くの「低SESで高学歴の生徒」を実例として集めることは難しくない。無論、数多くの珍しい実例をかき集めたところで、代表性のあるデータが示す傾向の反証にはならない。(p250) __________ →低SESの学生は不利なのに、まるで機会は平等であるかのように見せることは簡単にできるということですね。情報操作できてしまうし、みんなも信じてしまいがちかもしれません。 __________ 「みんな」が学習指導要領準拠の教科書で学び、似たような桜並木と入学式、同じような種目の運動会、合唱や証書の授与を含む卒業式という演出があれば、機会が「等しく」与えられたという幻想を事実として認識する人が増えても不思議ではない。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。(p267) __________ →「生まれ」による格差は、小学校でも縮まることなく、それどころか拡大していく傾向があります。また、地域格差、学校格差もあるなかで、しかしながら表面上はいっしょであるために不平等が見えてきません。だから、「自己責任」なんて言われてしまいやすいのですけれども、その「平等な機会」はまやかしであることをはっきりと言ってくれた箇所でした。 とというところですが、最後に。 ミクロにマクロに教育格差のメカニズムが解説されている。でも、どんなに教育格差を教育の分野で是正しようとがんばっても、社会から競争がなくなるわけじゃないし、であるならば「生まれ」の格差がなくなることもない。教育システムの枠内にさまざまな問題があり、いくつかの問題と紐づいていたりしているケースでも、すべてをしらみつぶしに解決したつもりでも、社会システムという外からの力でほぼそれらはうまくいかないと僕は思うのです。世界は自由競争経済(マネーゲーム)というメカニズムの上に乗っかっており、商売は競争に勝ってこそ大きな利益があがるので、その競争性は必然的に苛烈なものとなる。いちおう労働のルールは設けても、労働時間を長くして競争に勝とうとしたり、効率化を進めて競争に勝とうとしたり、ルールのぎりぎりのところやグレーのところで無理や無茶を課しながらよそよりもなんとか一歩、いや半歩でも出し抜こうとして目を血走らせていたりする。そういった競争社会が要求する教育のあり方なのだし、競争社会で生きる親たちが子どもたちをしつけ、環境をコントロールし、教育方針を作って歩ませることになっている。競争社会であることを肌にびしびし感じながら働いている高SES層の親ならば、子どもにそういった世界に出るための用意や教育をさせるだろうし、比較的末端の仕事についていることが多そうな低SES層の親ならば、世の中は世知辛いものだと思いはしているだろうけれども、比較的あまり競争社会の芯の部分を知らずに働いているので子どもの将来や育ちかたへのヴィジョンもゆるくなりがちかもしれない。そこにはまた、地域格差というものもあるのだけれど。 だから、教育を変えるには社会に大きな変化が起こることが条件なのだと思う。そうではない教育改革は、教育を根本から変えることはできない。つまり、格差は無くならないのではないか。悲観的な見方だけれど、僕にはそう思えました。 本書の主張では、子どもたちが「生まれ」に関係なくもっているのびしろを存分に伸ばせる教育が望まれ、その結果、進学率が伸びて社会にも「民度の向上」のようなかたちでポジティブな影響がでる、また、個人としても高学歴の方が収入が多いこともあり幸福感が高まる、というようなものだと読み受けました。しかし、やっぱり世界は自由競争の社会ですから、高学歴の者たちの間で格差が生じるだろうと思える。また、幸福感についても、学歴が高いほうがいい、という価値観が絶対的に正しいとする見方が本書では暗に貫かれているような気がしましたが、そうではない生き方でも生きていける社会のほうが豊かだとも考えられます。 本書には、以前行われたゆとり教育の失敗した部分ばかりを述べて、これは失策だったとするところがあります。高SES層の子どもたちが私立に流れて「生まれ」の教育格差が広がった、だとか、低SES層の子どものなかには、学歴競争から自ら降りた者がでてきた、などがそれです。でも、新たな発想や価値観を持つ世代が生まれる土壌として機能する可能性のある教育方法だったのではないかと思えるし、おおらかに自分のやりたいことをみつけて邁進するにもいい教育方法だったのではないか、とも思えるところがあるのです。 たとえば、ゆとり教育をやるならばその前提として、まず自律を促すことは徹底してやって、その上でゆとりをする、など、改善策は考えられると思います。私立に流れて教育格差が広がる、などを調整しようとしても、格差は無くならない。ならばいっそ、自分のやりたいことを見つけてその分野で一流になることで学歴一本軸の社会の価値観に大きな波紋を起こす、波紋どころか大波を呼ぶ、みたいな方向で考えたほうが格差ってなくなるのではないか。価値基準が一本軸だからよくないんですよ。勉強が出来た出来ないだけで考える人っていうのは、そういう世界しか知らないからです。そんな硬直した世界を攪拌するには、やっぱり、バージョンアップしたゆとり教育的なものって効果があるような気が僕にはしますね。ゆとりといいつつ、自分の目指す方向が定まれば、一心不乱にとりくめる体制が構えてあるといい。そういうのが理想です。つまり、三段構えで。「自律心を身につける→ゆとり→興味を持った方向に寝食を忘れるくらい取り組んでよいとする」はどうなんだろう。パッと出たようなアイデアですが。 教育だけをいじくるなんて、そこはもう袋小路でしょう。もっとダイナミックで、あえての密度の低さを活かす方策のほうがたぶんいいです。偶有性のある社会、つまりカオスを含んでいるからこそ、どのポジションにいたとしても、それぞれにそれぞれの希望の方向が見えるというのが望ましいです。
本質要約:文句を言うだけでは勝者になれない 5章までの事実データと解析、考察を踏まえての本質を抽象的なまとめとしたが、教育格差において、制度や政策には当然プロコンがある 敗者は「文句たれ」で勝者は「変化に(素早く)適応する者」と言うのが事実だろう 制度が悪いなどと他責でいてはいつまでも勝者に移れず...続きを読む、変わったルールの中で「どうすれば勝てるか」を自責で考える勝者との差は開く一方で、勝者たちは勝っている以上、サイレントマジョリティである これは、あらゆることに一定言える本質でもあるが、「教育」においてはこの「スタンスの取り方」で恩恵/損を受けるのが子どもたちであることは、最も重要で忘れてはならない部分だろう
親の社会階層や居住地域、学歴が子どもの教育機会にどのように影響するかを探り、教育格差がどのように形成され、維持されているかを解明した本。 徹底したロジックとデータ主義によって、日本の教育格差が今にはじまったことでなく、「緩やかな身分社会」として再生産されていたという事実を突きつける。 本書前半で...続きを読むは、就学前の幼児教育から小・中・高校に至るまでにどのように教育格差が拡大していくかを辿り、後半では「ではどうすれば良いか」への提言もなされている。 日本はアメリカに比べ、教育に関する大規模調査データが圧倒的に不足しているため、限られた調査結果から現状分析せざるを得ないらしい。 本書は教育格差についてのショッキングな事実だけでなく、社会科学における統計データの取扱い方のお手本としても参考になる良書。 ーーーーーーー一以下、抜書きーーーーーーーー . 人には無限の可能性がある。私はそう信じているし、一人ひとりが限りある時間の中で、どんな「生まれ」であってもあらゆる選択肢を現実的に検討できる機会があればよいと思う。なぜ、そのように考えるのか。それは、この社会に、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって教育機会の格差があるからだ。この機会の多寡は最終学歴に繫がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり、20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が日本にはあるのだ。 . 要するに人間社会はあまりに複雑で、すべてを把握することはそもそもできず、不足した人材と予算の中で調査研究が行われてきたので、信頼できるデータは数多くない。妥当な手法で行われた調査であっても、質問数と回答選択肢を増やしすぎると調査対象者の負担が大きくなるので、限られた事項しか把握できない。そう、みなさんが抱く多様な疑念すべてに応えることができるほど「現状」はわかっていない──わたしたちはわたしたちを知らないのだ。 . 近年に比べれば注目されなかった経済安定成長期の1970・1980年代にも「子どもの貧困」は実数として多く存在したし、貧困層と非貧困層の大卒割合の格差は明らかである。 . 格差論が隆盛する2000年代以前に子供時代を過ごした世代であっても、若年層と同じく出身地域による有利不利があったのだ。 . 大卒割合によって町の文化的雰囲気が異なり、それが教育意識の高低の基盤となっている。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることが良いことであるというメッセージを意識的・無意識的に受けながら育つことになるのである。もちろん、様々な「文化」があってよい。ただ、現在の社会制度の中で「成功」するのに役立つ「文化」とそうでないものがあるのが現実だ。大卒割合によって近隣「文化」が異なることは、教育格差にとって大きな意味を持ち得る。 . 近年の研究でも、子が浴びる単語の量ではなく、親子の会話量とその質が言語能力の発達に重要であり、高SESな親がそのようなコミュニケーションを積極的にしていることが実証的に明らかにされている。 . 入学時点の「読み書き」と「算数」に、そして小学校4年生時点の算数の平均と偏差値60以上の割合に学校間格差が存在する。 . 国別の平均値とランキングはそのまま国の教育「制度」の「結果」を意味しない。経済の水準と格差・地域格差・教育制度・家庭教育・塾産業・社会全体の教育との親和性などすべてを含んだ総体だ。 . 理想的な教育を語るのはよいが、現実的に実施し結果に結びつかないのであれば、子供たちの人生の可能性を拡大することにはならない。「平等」なのか「自由」なのか、どちらに軸足を置くのか自覚することが重要だ。 . まずは、精神的にも物質的にも安定した家庭と学校で、親と教師だけではなく多くの大人に励まされ成功体験を少しずつ積むようなまっとうな教育を長期間受ける機会を付与しなければ、どれぐらい可能性があるのかわかることはないだろう。そう、遺伝による支配の到来を憂う前に、一人ひとりの潜在可能性を最大化するための教育環境の整備が先なのだ。
丁寧なデータ分析を元にした、印象論や経験則ではない日本の教育の実態を示す本。 私個人は、全体として格差の縮小に努めるべきであるというスタンスである一方で、自身の子どもには(格差の再生産になろうとも)少しでもより良い教育環境を与えたいと願う、一般的な大卒である。そのことに自覚的でありつつ、教育のあるべ...続きを読むき姿を考えていたい。
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