あらすじ
「スプリットタンって知ってる?」そう言って、男は蛇のように二つに割れた舌を出した―。その男アマと同棲しながらサディストの彫り師シバとも関係をもつルイ。彼女は自らも舌にピアスを入れ、刺青を彫り、「身体改造」にはまっていく。痛みと快楽、暴力と死、激しい愛と絶望。今を生きる者たちの生の本質を鮮烈に描き、すばる文学賞と芥川賞を受賞した、金原ひとみの衝撃のデビュー作。
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Posted by ブクログ
二十歳そこそこの金原ひとみさんが、「痛みはある種の快楽になり得る」という感覚を、ここまで躊躇なく作品に落とし込んだことに衝撃を受けた。
ピアス、刺青、暴力、セックス。退廃的な要素が並ぶ一方で、その描写にはどこか淡々とした現実味がある。特殊な世界を覗いているというよりも、実際にどこかにいるであろう若者たちの日常を、そのまま切り取って見せられているような臨場感があった。
特に印象に残ったのは、刺青が完成した後、ルイがどこか生気を失ってしまうことだ。
完成したものよりも、完成へ向かって変化している途中にこそ美しさがある。ルイにとって刺青を彫る痛みは、単なる苦痛ではなく、自分の身体が変化していること、そして自分が生きていることを実感するためのものでもあったのではないかと思う。
だからこそ、刺青が完成した瞬間に訪れたのは達成感ではなく、空白だったのかもしれない。
痛みが快楽になり、変化が生の実感になる。
二十歳そこそこの作家が、そんな危うくも人間的な感覚を秘めることなく描き切った。その感性に、何よりも圧倒された。
Posted by ブクログ
なぜかすごく引き込まれて、一気に読み終えてしまった。
19歳って、大人になり始めているけど、まだ幼さがあって、大人と子供の狭間に立たされる苦しい時期だと思う。
その中で大人びているようなアマに出会い、身体改造に興味を持ち始め、さらに大人なシゲさんとも出会う。でもアマは実際歳下で、大人びている訳ではなかった。ルイはアマの本名、年齢、勤務先など、基本的な情報を知らなかった。表面的なところを知ることをすっ飛ばしたからこそ、アマの本質的な部分を知り、徐々に知らないうちに愛していったのではないか。
一方で、19歳らへんの時にしか分からない闇みたいな部分の描写がすごかったが、最終的に何を伝えたい一冊なのかいまいち理解しきれなかった。もう一回読んだらもう少し理解が深まりそう。
映画化もされているみたいなので、映画も見てみようかなって思った。
追記:ルイは、龍と麒麟を合わせた刺青を入れる。龍は、アマが入れていたもの、麒麟はシバさんが入れていたものと似ているものを入れた。ルイは、飛んで行かないように目を入れないでとお願いして入れてもらった。けど、刺青を入れてから、生きる気力を失ってしまう。これは、背中に彫った龍のアマと麒麟のシバさんが呪っているほどにルイの中で大きすぎる存在になっていることなのではないか。最後に目を入れてもらったのは、龍と麒麟に飛んで行ってもらって、やっとアマとシバさんから解放されて自分の人生を生きていきたいという意志の現れなのではないか。
Posted by ブクログ
大好きで手元に置いて何回も読み返している。生きたさと死にたさ、昼間の明るい社会から楽園追放を喰らったような居心地の悪さを抱えるルイが、アマとシバさんという二人のマッドな男に出会い不可逆の肉体改造を施してみたり、セックスしてみたり酒飲んだりたまにご飯食べてみたり、そういう破滅的な営みの中で自分の体の輪郭を必死で確かめている感じが悲愴で可憐で。二人の男たちも、重度のサディストだったり癇癪持ちだったりするし主人公を欲の捌け口にしているように見える場面はあるけど、それでもルイを愛そうともしていて、それが身勝手にも見えるし、愛おしくも見えて好き。アマにもらったチンピラの歯(愛の証)を砕いて飲み込むシーンと、私の中に川ができたの、のシーンが特に好き。アマの死の真実は明かされないけど、ルイはアマを殺したかもしれないシバさんを庇おうとし始めていて、そういう現金で短絡的で馬鹿なところが愛おしいなーと思う。
Posted by ブクログ
ミステリではなく純文学を読んでみよう。そうだ芥川賞だ。というノリで読みました。
映画も見たことがなかったため完全初見です。とても好きな作品でした。
このような人たちも世の中にはいるよなって感じました。
最後の「大丈夫」というのは何が大丈夫なのか。どこが大丈夫なのか。といろいろ考えさせてくれる作品です。読後のモヤモヤした、どれにも分類できない気持ちが特徴的です。
Posted by ブクログ
オーディブル読書。
何を伝えたいのかは分からなかった。
今の自分には全く知らない世界。住む世界が違うってやつ。
いろんな男と寝ているルイ。
痛みで生を実感している。
アマは、普段はとっても温厚だけど、暴力性を秘めていて本質が分からない。
一番分からないのは、シバさんか。
すっごいSだっていうのは分かるけど、アマを殺したのはシバさん? なんで?
ルイにアマを殺したのは自分だと知ったときの反応を見たかったとか?
もし本当にシバさんがアマを殺してたら、いつかは警察に捕まるよね。あんなに証拠が出てきてるし……。
うーん、分からん。
でも、シバさん目線のストーリーも見てみたい。
興味があるって、生きるには大事なこと。
生きたいと思わなくなった人の活力を戻すには、どうしたらいいのか。
ルイが言ってた、死ぬくらいなら抱かれるのか、抱かれるくらいなら死ぬのか。どっちが健康的なのか。それはもう、その人の信念というか、プライドの問題だよなぁ。
なんのために生きてるとか、生きなきゃいけないとか、そういうことじゃない気がする。
Posted by ブクログ
アバンギャルドな若者の青春物語という点で、村上龍の系譜にあるのは明らかだけど、『限りなく透明に近いブルー』より狭い範囲の物語だなと感じた。主に3人の関係性が描かれる。
いちばん賛否が分かれるのはラストのルイ描き方が、「深みにハマったことに気づいてない」のか「新しく前に進むことへの象徴」なのかというところだと思う。
僕は後者だと思うけど、ボロボロになって殺されたアマと、それをやったのがシバさんだということにに対してそんなに受け入れられるのか…?と思う。
警察にバレたみたいな話も、全部ルイを手に入れたい、かつアマを殺したいシバさんの嘘の可能性もあると思ったけど、それだと殺人的な三角関係に巻き込まれたアマがストーリーのために消費されたみたいでなにか忍びない。
けどルイが最後に“真っ黒な暗い場所にいたかった”ところから“朝の光が眩しい”というところには確実に変化がある。この作品では他者の存在が殺す・殺される、S・M、身体的に傷つける・傷つけられる、食べる・食べられるというような形で何回も繰り返し描かれるが、最後アマが残した歯を砕いて飲み込み、アマの象徴である竜と、ある意味シバさんの象徴である麒麟を背中で共存させたルイは、他人を征服したいという欲望を飲み込んだ上で他者と関われるようになったということか?
とすると、それには自分自身のアマを自分の所有物だと思っていたという欲望や、シバさんとのプレイに興奮する自分自身の欲望も含まれるはずで、その清濁飲み込んだ、ある意味普通の人間になる覚悟ができたってことなのかな?でも僕はここまで小説で描かれてるとは思えない。
あと気になるのは、ルイがギャルということを嫌がること、キャラクター描き方が戯画的というか、なんかあえてアバンギャルドってこんな感じだよね、みたいな雰囲気になっていること。
ルイがギャルを嫌がるってところは、街で子供とぶつかって明るい普通の生活なんてクソだみたいに思うところと繋がっている気がする。他者からの評価、王道ルートな価値観みたいなものが信用できなくなってしまっていたルイは、自分自身を痛めつけることでしか生を実感できなくなって、スプリットタンやタトゥーに走るのかな?と思った。
そして前述した“戯画的”である、ということろが、いちばん僕の評価を確定しきれてない部分の大きな理由の一つだと思う。例えばシバさんだったら、ぶっきらぼうで見た目は怖いけど、奥に優しさがあるとか。キャラクターもある意味そのキャラが“いいそうなこと”を言ってるような気もする。作者がこういう作品がいいんだよね?みたいな露悪にあえて走っていて、読者が最後のルイの行動や、突然行われる殺人に対して違和感を覚えて自分の価値観を揺さぶることを目標にしている、ハネケの『ファニーゲーム』、トリアー『ダンサーインザダーク』みたいな作品だとしたら、それはそれで面白いと思う。人は見えてない範囲に説明不可能な衝動や欲望を抱えているみたいな。それなら描写が異様に軽くてキャラクター造形が過剰な感じも説明できるような気がする。
(追記)
他の人の感想とか評価を読んだけど、人間の自分の欲望や求めてることがわからないけど行動している、“意味”より自分の身体が痛んだり変化したりすること自体が置かれていくという点を、この小説の評価できるポイントだとしている人だと言ってる意見もあるが、それだとしたらあまりに形式が普通すぎると思う。
たとえば岡田利規や映画『台風クラブ』では、主人公たちが自分の欲望の存在を分からない、ということが形式への疑いまで発展していて、小説の形式や映画の形式自体がその衝動とかを支えるような構造になっているが、あまりに形式や文体が普通すぎるから、通常のストーリーものとしてどういう意味なのかとか象徴しているのかという読みにブレる。その内容と形式の乖離が、この作品のゴリッとした読後感に繋がっていると感じた。
『限りなく透明に近いブルー』の方が、その通常の小説という形式そのものへの疑いがあると感じた。