あらすじ
ソクラテス、プラトン、ベンサム、キルケゴール、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc.人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 私立高校の生徒会を舞台に、異なる「正義」を持つ3人の女子高生の掛け合いから、「正義」の正体があぶり出される。ストーリーだからわかる!つい人に言いたくなる「哲学家の思想」
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Posted by ブクログ
名著。
作中や帯にも言及が見られるので,執筆の下地や背景にマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』があるのは,ほぼ間違いないと思われる。
しかし,それなりに難解なサンデルの正義論を,小説,しかも"学園ものハーレムラブコメディ"テイストのライトノベルの皮を被った,物凄く取っ付きやすさを感じる教養本にしてしまった,作者の発想力と実行力,その頭の良さには驚嘆するし,畏敬の念を抱いてしまう。
さて,本書のテーマをひと言で簡潔に表すとするならば,「正義とはなにか?」である。
もちろん,作中でも繰り返し述べられているように,このテーマは人間にとって2500年以上に及ぶ歴史の歩みにおいて,延々と考えられ続けてきたうえに,今なお答えを出しきれていない永久不変のものだ。
簡単に万人が納得のいく答えを提示することなどできようはずがない。
本書においても,作者が想定している「正義とはなにか?」が一応の形としては示されることにはなるが,むしろ「大事なのは"正義"を規定しないことである」という,本書自体の存在意義どころか,倫理学・哲学のいとなみ自体を否定しているところにこそ,本質的な価値を感じさせるものになっている。
そのような意味においては,「正義とはなにか?」を知りたくて,その答えを求めて本書に縋った人にとっては,ともすれば結果的に,メビウスの輪に閉じ込められてしまったような感覚を覚えることになるのかもしれない。
だが,実際に現実世界を生きること自体もそうであるのと同様に,すっきりと決まりきった絶対的な答えなど,無いことの方が多いのだ。
むしろ,だからこそ絶えずその時,その場,その状況ごとに応じて,常に人間は考え続けていく必要があるし,迷い続けながら生きていく。
その根底に願いとしてある,よりよい人生を目指して。
簡潔に総括した感想としては,以上であるが,以下は個人的な考えや,本書から学ばせていただいたこと,あるいは好みの部分について言及していきたい。
私としては「正しいこと」があらかじめ規定,あるいは見出されていなければ,人間が集団として,社会的に他者と関わりあいながら生きていくことは,事実上不可能だと思うので,たとえ本当にそれが正義なのかどうか?は証明できなかったとしても,広く普遍的に善いことだとされていたり,考えられたり,肌で感じることができるものを,「正義」と信奉すること自体は,やむを得ないのではないかと思う。
その点からすれば,立場的には直観主義者に近い。
本当のところを言えば理由は存在しないし,証明することも不可能なのではあるが,それを正義だと言うことが,たとえ嘘を突き続けることになるのだとしても,前提として規定できる善や正義がなければ,全てが空中崩壊して,無に帰してしまうからだ。
だから絶対主義やプラトンのイデア論に全く意味が無いとは思えない。
大昔の偉大なる賢人が,考えて考えて考え抜いた末に,必要だと思ったからこそ規定せざるを得なかったもので,重要であることには違いないと思うのだ。
一方で,身も蓋もない構造主義の考え方にも一理あるよなと唸らされるところはある。
この広い宇宙の中に,地球という惑星があって,時間という概念に基づきながら,我々人類が思考する生物として存在している。
さすがにこの前提にある事実を疑うのは難しいところまで,長い歴史を通じて人類は歩んでこられたのではないかと思う。
そうなると,宇宙という枠組みがあること,地球という星の中で生息していることなど,構造(システム・枠組み)的に人間の意思とは関係無く,人類誕生の瞬間からすでに規定されてしまっていたことは,間違いなく存在したと考える方が妥当になるだろう。
そしてそれらの構造からは影響を受けざるを得ないというか,影響を受けないなんてことはあり得ないし,無理だというのは,極めて納得度が高い考え方だと思うのだ。
逆に言えば,ポスト構造主義が,構造主義を乗り越えようとした挙句,皮肉にも構造主義が"正しい"ことを証明する結果ばかりになってしまったことからもうかがえるように,我々が,時代や,場所や,その時々の人々の価値観や考え方を乗り越えよう,抜け出そうとする,その考え自体が,「すでに"構造"に支配されてしまっている」とも言えるわけで,さながら一度とらわれてしまったが最後,抜け出せない,アリ地獄のようなものに感じる。
作中でもラストシーンにおいて,主人公である正義が,その時・その場・その状況に応じた中で,「自分が善いと思ったこと」を選択して,実行に移すことになるが,その一連の思考から行動に至るまでのプロセス全てが,構造に支配されてしまっているからこそ,鳥籠を抜け出して羽ばたいて自由になるために,あえて常識の枠から外れた愚行を冒さざるを得ないということが,構造からの脱却の困難さを象徴的に示しているように感じられた。
だが,構造に支配され,その構造から抜け出そうとすることすら,すでに構造に支配されているのだとしても,それでもなお,われわれ人間はよりよく,より幸せになれる人生を求めて,生き続けていってしまう生き物である。
だからこそ,著者は無理を承知の上で,その無理を押し通してでも,その時・その場・その状況という構造に支配されながらも,自分が「善い」と感じるものを信じ抜くしかないと,そんなもの本当はないのだと分かってはいるけれども,「確立された自己」や「自由意思」,それに準じるような"何か"を信じ抜くことでしか,人は自分の振る舞いに「正義」を見出せないし,生きていくことはできないのではないかと,問うているのだと思う。
さながら,善を求め,善を問い続けることで,人々から疎まれ,善や正義に殉じて死へと追い込まれることになってしまった師・ソクラテスの姿に,意義を見出すためには,イデア論を提唱するよりほかなかった,プラトンと同じように。
さて,本書には人間が規定する「正義」を,究極的にまで突き詰めて考えると浮かび上がる,3種類の正義が登場する。
1.平等の正義である功利主義
2.自由の正義である自由主義
3.宗教の正義である直観主義
である。
最後に,私個人がこの3つの「正義」から学んだことと,その問題点について対処しておきたいなと感じるあり方を記して,長く拙いこの文章を終えようと思う。
功利主義はスタートはみんな違っていて多様だけど,同じ幸せというゴールは目指せるよねという考え方だと思う。
だからこそ"同じ幸せ"を前提とし,それを実現するために強要してしまうところに問題がある。
そもそも人はみな同じゴールを目指しているのか?ということにも疑問が生じる。
個人的には,みんな一緒に幸せになりたい,みんなを幸せにしたいという,根本にある理念自体はすごく素敵だと思うし,好感が持てる考え方だ。
作中のエピローグで語られる主人公・正義のベンサム評は,正直この作品の中で1番心にグッと迫ってきたし,感動を覚えて目頭が熱くなるくらいだった。
正義も言っているが,誰よりも優しすぎたからこそ,みんなで一緒に幸せになるためには無理を押し通すしかなかったというのは,痛いくらいに理解できるし,共感してしまう。
けれども,やはり人はみなそれぞれ,生き方も価値観も何もかもが違う生き物であるのは間違いなく前提としてあるから,一律の基準によって幸せを規定してもよいとは思えない。
以上のことから功利主義は,理念の部分の素晴らしさを,生き方や考え方のベースとして,ほんのり心に抱いたり掲げておくくらいが,ちょうど良い塩梅なのかなと感じた。
困っている人がいたら余裕ある分を分け与えて助けるとか,公平性が求められる場面や事柄において,用いていきたいなと思う。
ちなみに,個人的には千幸ちゃんが今作における最萌えキャラです……。
どんな作品においても一貫して,健気で優しい女の子が好きなので,自分が「善い」と感じる,「正義」として規定している要素として,他者に対する「優しさ」や「思いやり」とか,弱者が困難にもめげずに一所懸命に努力する様や,立派に振る舞う姿,諦めずに自分の信念を貫こうとする姿勢みたいなところは大きいのだなーと,改めて気付かされた。
自由主義は逆に,どのような事情や状況であれ,みな同じ人間であることには違いないのだから,それぞれ個人で責任を負って生きるべきだし,それこそが自由へとつながっていくという考え方だ。
まず,そもそも自分が元から自由主義が嫌いだということは,ハッキリと前置きしておく(笑)
が,その理由や原因が,持って生まれた時点でのハンディキャップを考慮していないところにあるということを,本書を読むことで理解が進んだように思う。
単純な障がいの有無に限らず,生まれた家の貧富の差ももちろんだし,それこそ構造主義が唱えるところでもある,あらゆる状況や条件などの構造が,人それぞれで異なっていることなど,火を見るよりも明らかだ。
にもかかわらず,その事実を無視して,「いやいや,人間なんだから,みんな条件は平等で同じでしょ?」とでも言い出しかねない自由主義は,どう考えても受け容れがたい。
確かに「人は他人の自由を阻害することさえしなければ,何をしても自由だ」というシンプルな論理は,シンプルだからこその強み,付け入る隙の無さを感じさせるものではある。
さらに言うならば,先にも述べたように,人の手によって規定されてきた「正義」や「善」に,根拠があるのかといえば,少なくとも証明することができないのは紛れもない事実だ。
だからこそ,「本来,人間は何物にも縛られず,自由な存在である」という前提から始まっている自由主義は,その点からすれば"正しさ"に最も近いとも言えるし,なおのこと,だから1つだけ,「他人の自由を奪うことだけしてはならない」という最低限の自由を阻害する縛りしか設けないというのも,論理の筋道として一貫している。
ある意味では,大多数の人にとっては優しく思いやりがあるとすらも言えてしまう。
だが,やはりシンプルすぎるがゆえ,「正しさ」の規定が最小限・最低限であるがゆえの,アンコントローラブルさ,言い換えれば作中でも挙げられているように,愚行権に代表される悪用のされやすさは,欠点になってしまうなとは思う。
個人的に自由主義は,自分の主義として掲げるためのものというよりかは,他者と共存して生きていく上で,他者に対する思いやりを示すために,用いていくのがよいと思う考え方だ。
たとえ自分と違う価値観や信念や考え方をしている相手であっても,「人間は根本的には自由である」という考え方を前提として持っておくことで,他者と自分とのよい境界を築くことにつながったり,不要な衝突を避けて,違うからこそ相手を知ることが面白いと感じ,共存しあえる道へと繋がっていくのではないだろうか。
そのためにも,自由主義の根本にある考え方は必要だし,誰もが備えておいた方がよいものだろうと感じた。
もちろん,誰かが愚行権を行使しようとしているならば,止めた方が好ましいだろうと私は感じるから,そこは相手の状況なども踏まえつつ,時には自由を阻害する柔軟さを持ち合わせておきたいなとは思うが。
最後に直観主義についてだが,前述通り,私自身は直観主義の立場に最も近い。
だからこそ,直観主義の悪い面として挙げられていた,「独り善がりで押し付けがましい」という指摘には,真摯に耳を傾けて,反省すべきだと思う。
私自身は他者に対して自分の考えを押し付けるようなケースはあまり多くないと思うし,できればこれまでの人生において,それほど押し付けずにきたとは信じたいがw
自分にとって好ましく,善いと感じる価値観や信念は,当たり前ではあるけれども,他人にとってはそうではないことだってあるし,むしろその方が多いのだということは,キチンと受け止めながら,これから先も生きていきたいと思う。
主人公の正義も作中で述べていたように,「正義」は,あらかじめこうだと規定しておいて,それを振りかざすためにあるものではなくて,その時,その場,その状況ごとに応じて,悩み苦しみ,もがいて葛藤しながらも,考えて考えて考え抜いた先に,選びとるものであって,選んだ後もなお,「本当にこれでよかったのか?」と問い続けていくものなのだと思うから。
そしてこの考え自体も,他人に影響されて,構造の中で自分が「選ばされてしまった」だけのものに過ぎなかったとしても,それでもなお,自分がその時「善い」と感じたものを信じて,歩んでいきたいと思う。
風邪というか,おそらくは新型コロナウイルス感染症に罹ってしまったため,だいぶ途中で間が空いて,読み終わるまでに時間が掛かってしまいましたが,素晴らしい一冊でした。
本当にありがとうございました。
これからも迷った時,思い悩んだ時,折に触れて立ち返って読み直したいし,学びを深めていきたいなと思います。