あらすじ
大谷翔平がアメリカ中を熱狂させた2018年。そのおよそ半世紀前、同じ「ショーヘイ」の名を持つ男が全米にその名を轟かせていた。男の名前は、ショーヘイ・ババ。巨人軍に入団する高い身体能力を持っていた馬場は、プロレスの本場・アメリカでその才能を大きく開花させる。そして1964年2月、NWA、WWWF、WWAの世界三大タイトルに連続挑戦という快挙を成し遂げる。巨体にコンプレックスを抱き続けた男が、自らの力でそれを乗り越える。マットの上で人生を戦い抜いた男の旋風ノンフィクション!
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「世界の」ジャイアント馬場!
2022年4月読了。
もう他の方のレビューで内容等については語られてるので、多くは省くが、'70年後半~'80年中頃位までがオンタイムで熱狂していた世代なので、これだけの質量共に充実した「馬場さんの本」に出逢えた事に感謝したい。
当時は、外人レスラーが豊富な全日、猪木のストロングスタイルが華々しい新日、テレ東でヒッソリ放送され、余程の通か好みの方にしか愛されなかった国際(失礼)、の三つだった。
自分の関心は、全日から入って新日へ移り、業界全体が四分五裂状態に成る前に興味を失ったので、今の新日にも、PRIDE等の「格闘技」とやらにもあまり関心が無いので、テレビの前で手に汗握って見ていた頃の部分には、懐かしさと共に、当時プロレスがいかに熱かったかを思い出させてくれた。「スピニング・トー・ホールド」の曲がエンドレスで脳内再生された程w。
昔からプロモーターとしての馬場さんの有能さは聞いていたが、これ程生々しい話は初めてで、知らないことばかりだった。そして、プロレスラー達独特の、自分の話を「盛って話す」所も、微笑ましさと懐かしさを強く感じた。
それは、故中島らもさんがミスター・ヒトと云うアメリカで活躍した日本人レスラーと対談した本『クマと闘ったヒト』を読んだ時に、「事お金に於いて、あざとくないレスラーは一人も居ない」と言うような話を聞いていたので、興味の有る方は是非お読みいただきたい。あの、お二方共に結構キツい真実が語られておりますので…w。
しかし、終章辺りに書いてあったが、「もし」あのまま馬場さんがアメリカに残っていたら…と云うIfは、心踊らせる気持ちにさせられた。「巨人症」と云う成長ホルモンの異常から「大きく成った」人は、その分だけ寿命が短いという事も初めて知って驚いた。
最後に、自分がまだ幼い頃に読んだ『プロレス・スーパースター列伝』という漫画はほぼ全て嘘だと云う事がよ~く分かった。もう故人だけど、ヤったな梶原一騎ww!!!
Posted by ブクログ
著者はこれまで様々なプロレスラーについて、特定の年を転機の年として取り上げて来た。ジャイアント馬場にとってのその年は、1964年。といっても1964年の1年にスポットを当てたというより、1964年前後での馬場を取り巻く状況の変化、という取り上げ方である。
そのあまりにも大きな体でコンプレックスにさいなまれながらも、商家の子息として生まれプロ野球を経験してプロレス入りした馬場。当時の一般社会ならその後の生活には困ったかもしれないが、プロレスの世界ではすべてがプラスに働いた。誰よりも大きな体、ずば抜けた身体能力、そして頭脳。力道山との出逢い、アメリカでの師ともいうべきフレッド・アトキンス、渡米直後のマネージャのグレート東郷、アメリカの一流レスラーたち。馬場の温厚で素直な人格、そして非凡な能力を一気に発揮して、馬場は全米でもトップクラスのメインエベンターに成長する。その実力はもはや師力道山も一目置かざるを得なくなり、凱旋帰国を果たした。しかし力道山が絶対者だった日本のプロレス界にはまだまだ彼の居場所はなく、再度渡米。そこで事件が起こる。力道山死去。
日本プロレス界の皇帝の突然の死去は馬場をめぐる太平洋をまたいだ綱引きが始まる。日本プロレスと袂を分かったグレート東郷とフレッド・アトキンスたちは馬場をアメリカで活躍させたい。日本プロレス側は次のエースとして馬場を日本に戻したい。それぞれの思惑が渦巻く中、馬場の立場はここで初めて今までと変わっていた。周りの言うことを聞いて動くの人生から、全ての決断を自分で下して周りを動かす人生にスイッチしたということに。それが1964年だった。馬場が積みあげて来たものが一気に花が開いた年である。
結局は時の山口組の組長からの電話で帰国することになるのだが、そのあたりは深くは書かれていない。帰国後の活躍は最早語るまでもない。自他ともに認める日本プロレスのトップレスラー、全日本プロレス旗揚げ。NWA世界王者戴冠。ハンセンとの出逢いと復活。80年代後半以降の方針転換。
とはいっても、全日本プロレス旗揚げから80年代後半以降の方針転換までの馬場の動向について、著者は厳しい考えを持っているようだ。アメリカからたくさんトップレスラーを集めただけのプロレス、チャンピオン日本滞在時に借りたNWA世界王座。”体の大きな者が強い””NWA至上主義”1964年までの馬場のアメリカでの成功体験に裏打ちされた興業は、世間のニーズからも確実にずれていた。いつまでもメインにこだわるその姿勢はジャンボ鶴田という逸材を得ながらもその成長を阻害した。全盛期からは見る影もなく衰えた体は揶揄の対象ともなっていた。業を煮やした日本テレビの介入も素直に聞き入れなかった。本書には書かれていないが、AWA世界王者鶴田戴冠も”この話は俺にきた話なんだよね”と最初は渋っていたのを周りが必死で説得したようだし、日本中を席巻したザ・グレート・カブキブームも潰してしまった。
沈みかかった全日本の隆盛は、ターザン山本たち、外部の意見を受け入れることで始まる。天龍革命、完全決着での三冠統一、超世代軍、四天王プロレス。馬場は前座でファミリー軍団を率いて悪役商会との抗争。もはや馬場を笑う人間はいない。NWA至上主義の呪縛からも完全に解かれた馬場は社長、プロモーターとしても不動の地位をものにし、全日本プロレスは全てのプロレスファンからの支持を受ける様になった。
”馬場正平はひとりの心優しい日本人として生き、そして死んだ”
周囲の意見を素直に聞き入れ続けるとき、馬場はその才を惜しみなく発揮し、飛躍的な成長を遂げる。しかし、自分が絶対者として存在しなければいけないときには迷走する。力道山やアントニオ猪木とは好対照な天才レスラー・ジャイアント馬場を表現するにふさわしい言葉は、優しさなのだろうか?