あらすじ
「何を読めばいいんですか?」と聞かれるたびに困った。「読むべき本」が多すぎる! だから「実は読まなくてもいい本」を決めればいいのでは、と考えた。「知のパラダイム変換」が起きた今、複雑系、進化論、ゲーム理論、脳科学、ICT(情報通信技術)の分野で「読むべき本」が浮かび上がる驚きの読書術。文庫版書下し「リベラル化する世界の分断」を加えパワーアップして再登場!
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【複雑系】
マンデルブロ、ベキ分布、世界の根本法則とは複雑さにも秩序がある→リアス式海岸、カリフラワー、
それはフラクタル。自分を次々複製する自己相似により自己組織化、ラフネス(複雑さ)を生み出すことでベキ分布に至る。マンデルブロ集合。世界は単純なものの重なりで複雑になっている、複雑系のスモールワールド。
【進化論】
生命の本体は遺伝子であり、身体は乗り物。遺伝子を広めるためには自分が子供を産むだけではなく姉妹に産ませる方が効率的なこともある(アリやハチなどの社会的昆虫)、感情や心も遺伝子を残すために進化して生まれた。ダイエット出来ないのも進化論に通づる。
遺伝子残したいって思うものなのか、思うか確かに。
【ゲーム理論】
理性的で合理的な人の考えなら読むことが出来、それを元に未来を予測できるもの。米ソ冷戦の際には核の牽制が行われたがゲーム理論により不発に終わった。経済に利用しようとしているが人の心には損を嫌う非合理性があるため上手くいかない、最近はビックデータに基づいて傾向を掴んでからその理由を後付けする方法「新しいマクロ経済学」が生まれる。
でもこれ予測がしづらいし再現性が不確定だから株の大暴落とかは予測できないんじゃ?逆に高騰するものを見つけるとかも。活かしたら強そう。
【脳科学】
脳は生き残るために平面の模様よりも立体のパターンを認識しやすくなった、これにより様々な目の錯覚が起きる。
意識の観測は難しく、未だ出来ていない。
リンゴはなぜ赤いのか、葉の緑の反対色で目立たせ、果実の中の種子を食べさせて運ばせるため。より赤く進化していくことが進化論で示される。
左右の脳のちょうど真ん中にある網様体賦活系と髄版内核群を少しでも損傷すると意識は永遠に失われる。
記憶は植え付けられる。それを利用した過去の記憶を用いた訴訟が昔流行った。
幼年時代を共有した異性とのセックスを避けよという進化の司令がある。
【功利主義】
正義を巡る立場には「自由主義(リバタリアニズム)」「平等主義(リベラリズム)」「共同体主義(コミュタリアニズム)」「功利主義」の4つがある。真の平等のためにはロールズが提唱した「無知のヴェール」による最も不遇な立場の人の利益の最大化を求めることが必要だという。併せてセンも機能と潜在能力の最大化による公平かつ衡平な分配が必要だという。車椅子の人でも普通の人と同じように生活を楽しむための社会保障、普通の人を超えてはいけない。「新しい功利主義」はマーケットデザイン、ナッジ、アーキテクチャなど環境を用いて人類の幸福な社会を目指す、サイバー・リバタリアンの台頭。
でも結局、何を幸福とするかに向かう必要があるのでそこでぶつかるんじゃないだろうか。
また複雑系のスモールワールドによってできた今の社会を後から変革は難しい気もする。
筆者は古いパラダイムの知識(哲学、心理学、社会学、法律学、経済学)を学んでも意味が無いと言うが、環境を整えどこに向かうかの方向性を考えるための哲学は大切なのではないか。
Posted by ブクログ
「読まなくてもいい本」の読書案内 2019
「読まなくてもいい本」の読書案内
知の最前線を5日間で探検する
古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、何の意味もない。
橘玲氏による著作。
2019年5月24日初版発行
本書は、2015年11月筑摩書房より刊行された。
本書は橘玲氏の「言ってはいけない」や「もっと言ってはいけない」のオリジナルとも言える本だ。
「言ってはいけない」は本書からのスピンオフなのだという。
橘玲氏によると世の中で出版される本の数は凄まじく多い。
人生で読めるのはその内のごく一部に過ぎない。
それが多少多かろうが少なかろうが、そこまで意味は無いのだという。
まあ、当たり前と言えば当たり前だ。
立花隆氏レベルなら違ってくるのだろうが、あれを真似することは不可能だ。
全ての分野を深く知ることは出来ないのだから、信頼できる著者の主張に乗っかるしかない。
本書は橘玲氏による科学の最先端を紹介してくれる。
読むべき本も見つかるだろう。
印象に残った点
人生において無駄な苦労をあえてする必要などまったくない。だが、既にしてしまった苦労をどのように位置づけて無害化ないし再利用するかは、重要な課題のひとつである。
本書が扱う領域は広大だが、これら全てのベースとなるのが進化論である。
読書の対象である学問や文化には時代に固有のパターンやプロセス、すなわち歴史がある。だから歴史をよく知る先輩からアドヴァイスが役に立つことがある。求めるべきは「読まなくていい本」をさんざん読んできた先輩からのアドヴァイスである。
古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、何の意味もない。
1980年代には、NEC(日本電気)が開発したPC-9800が日本ではパソコンの主流で、98(キュウハチ)のOSを専門にするプログラマがたくさんいたけれど、マイクロソフトのWindowsの登場で全て駆逐され、その知識は無価値になってしまった。哲学や(文系の】心理学は、いまやこれを同じような運命にある。「社会科学の女王」を自称する経済学だって「合理的経済人」の非現実的な前提にしがみついたり、複雑系を無視してマクロ経済学の無意味な方程式をいじったりしている学者はいずれ淘汰されていくだろう。
大学教員の仕事は教養という権威を金銭に換えることで、ほとんどの文系の大学は彼らの生活のために存在している。その現実が明らかになるにつれて、風当たりが強くなってきたのは当たり前なのだ。
国際競争に勝つために高度な教育はごく一部のトップ校(G大学)だけにして、それ以外の大学(L大学)は職業訓練に徹すればいい、という提言も話題を呼んだ。
これに対して人文系の学者は(当然のことながら)「人間力を鍛えるためには教養が必要だ」と反論している。たしかにこの複雑で残酷な世界を生きていくためには知力だけでなく人間力も大事だろうが、彼らは根本的なところで間違っている(あるいは、知っているのに黙っている)それは、人文系の大学で教えている学問(哲学や心理学、社会学、法律学、経済学のことだ)のほとんどがもはや時代遅れになっていることだ。
「権力はきみの中にある。きみ自身がきみをしばりつけている権力なんだ」(フーコー)
その時以来僕は、「自分は善で(自分の外にある)悪=権力と闘っている」という物語をいっさい信用しないことにした。でもあれから40年近く経つのに、いまだ陳腐な善悪二元論を振りかざす人は減らないーというか、「韓国人を殺せ」と叫ぶ異様な集団を見ればわかるように、ますます目立つようになっている。
このことから僕は、もう一つの教訓を学んだ。
科学や技術は進歩するけれど、人は進歩しないのだ、ぜんぜん。
たとえばひとには「いったん手にしたものを失うことはものすごく抵抗するけど、最初から手に入らなかったものはすぐにあきらめる」という顕著な特徴がある。
(中略)
この性質をうまく利用したのが税金の源泉徴収制度
オプト・インとオプト・アウトで社会に対する影響に違いがないのであれば、どちらの政策が優れているかは明らかだろう。すべての社会問題を解決する魔法の鍵はないとしても、ヒトの進化論的なバイアスを利用して社会の厚生を大きく改善することは可能なのだ。
オプト・イン(ドナーに登録する方式)
オプト・アウト(臓器提供したくない人が登録名簿から名前を外す方式)
日本でもドナー登録をオプト・アウトにすれば、デフォルトを変えようとする人は殆どいなくなり、臓器提供の問題はたちまち解決するだろう。
オプト・インでもオプト・アウトでも本人の意志が尊重されることは同じだ。それにも関わらず結果に大きな違いが生じるのは、人が無意識のうちに「デフォルトを変えない」という選択をしているからだ。
市場のルールは株式取引などやったこともない法学者ではなく、経済学(ゲーム理論)を活用してつくった方がずっといいんじゃないだろうか。このように考える人が多くなるのは当然で、経済学的に合理的な法律をつくろうという「法と経済学」が今では世界の主流になっている。
日本の大学は法学部と経済学部が別々になっているが、これは完全な時代遅れだ。
法律(ルール)を功利主義的にデザインすることが当たり前になれば、経済学(ゲーム理論】の基礎づけのない市場の法は駆逐されていくだろう。
古い法律の世界に安住している人達は困るだろうけど。
マーケットデザインとは「市場の機能が使えない時に、ゲームを上手にデザインすることで市場と同じようなコアの分配を成立させる」技術のことなのだ。
囚人のジレンマから抜け出す→しっぺ返し戦略
1最初は協力する
2それ以降は、相手が前の回にとった行動を選択する
しっぺ返し戦略では、とりあえずどんな相手でも最初は信頼する。
それにこたえて相手が協力すれば、信頼関係を続ける。
相手が裏切れば、自分も裏切る。
だが一度裏切った相手が反省して協力を申し出れば即座に相手を信頼して協力する。
しっぺ返し戦略の強さの秘密は、その単純さにある。
複雑な戦略は、何をされるかわからないという恐怖を相手に与え、協力をためらわせる。
それに対してしっぺ返し戦略は、自分が協力すれば相手も協力し、裏切れば裏切り返される(搾取できない)ことが明らかなので、安心して付き合うことができるのだ。
人はなぜこれほど正義に夢中になるのか。
その秘密は、現代の脳科学によって解き明かされた。
脳の画像を解析すると、復讐や報復を考える時に活性化する部位は、快楽を感じる部位と極めて近いのだ。
復讐がなぜセックスと同じ快楽になるのか。
その理由は簡単で、せっかく手に入れた獲物を仲間に奪われて反撃しないようなお人好しは、とうの昔に淘汰され絶滅してしまったからだ。
生き残ったのは「復讐せざる者死すべし」という遺伝子なのだ。
共同体を維持する上でも、私的制裁(やられたらやり返す)は必要不可欠だ。
右の頬を殴られたら左の頬を差し出すのは立派だが、そんな聖人が増えれば好き勝手に相手を殴りつける無法者(フリーライダー)が跋扈するだけだろう。
こうして人やチンパンジーのような社会的な生き物は「正義」の行使(裏切り者を罰すること)を娯楽=快楽と感じるように進化してきた。ハリウッド映画から時代劇まで「悪が破壊した秩序を正義が回復する」という勧善懲悪の陳腐な物語がひたすら繰り返されるのも無理はない。
こうした説明を胡散臭いと感じる人は、インターネットの匿名投稿を見てみるといい。
ネットメディアの世界では、もっともアクセスを稼ぐ記事が有名人のゴシップ(噂話)と正義の話だというのはよく知られている。
人の一生は限られているから、人生で最も貴重な資源は時間だ。
「学問」の世界の既得権を守るために、使い物にならない古臭い理論を「アカデミズム」の名で(それも大学の高価な授業料まで取って)押し付けてくる人たちを相手にしている暇はない。パラダイム以前の学問を新しいパラダイムで読み返す、という学術研究はあり得るけど、それは専門家の仕事だろう。
生徒たちのつながり(社会的ネットワーク)はハブ&スポークに似たネットワーク構造になっている。
友達の法則
異なる友達グループ同士は交わらない
枝の末端にいる男子や女子が別の友達グループに恋人をつくることはない。
友達グループの中で、他の友達グループと交渉を持つのは一人だけ
幼少期に一緒に暮らした異性には性的感情を持たない
(フィンランドの人類学者エドワード・ウェスターマーク)
アベノミクスをめぐる論争を見ればわかるように、マクロ経済学の大きな特徴は専門家同士が罵詈雑言を浴びせ合うことだ(ちなみにミクロ経済学ではこんなことはない)
いうまでもなく科学に論争はつきもので、お互いに感情的になることもあるだろう。
だが科学論争は、最後は実験や観察によって理論を反証できるかどうかで決着がつく。
それではなぜ、アベノミクスをめぐって賢いはずの経済学者同士が口汚く罵り合っているのだろうか。この疑問に、マンデルブロならたった一言で答えるだろう。
それは、「マクロ経済学は科学ではない」からだ。
「動物行動学者」竹内久美子についても言及する必要があるだろう。
1980年代から1990年代にかけて、進化生物学や進化心理学を日本に広めたのが「浮気人類進化論 きびしい社会といいかげんな社会」(文春文庫)など竹内の一連の著作で、週刊誌の連載も人気を博した。だがこれらの著作は、現在では「進化論の乱用」として厳しい批判にさらされている。動物生態学・比較生態学の泰斗、伊藤嘉昭は「新版 動物の社会 社会動物学・行動生態学入門」(東海大学出版会)で、竹内の著作を「世界で一番大胆といえる社会生物学の悪用」として以下のように述べている。
「竹内はこれらの本(「浮気人類進化論」など)で自分を「動物行動学の一学徒」と称し、社会生物学の普及とある側面の発展で功績のあったR・ドーキンスの「利己的な遺伝子」の説を採用するならば、男の浮気は当たり前だから、「お偉方に複婚(特に一夫多妻)の合法化を提案してもらう」(「そんなバカな!」とか、福祉は「<子だくさんを望む><貧乏人の>遺伝子をふやす」だけだから悪である(同上)とか「特権階級は・・・最高で最善のシステム」だから「君主制が絶対正しいと私は思う」(男と女の進化論)などと書き散らしている。
竹内は、京大大学院にはいたものの、そこが中心だった日本動物行動学会で発表したことは一度もなく、研究論文も全く書いていないと思われるので、動物行動学者とは到底言えない。そして社会生物学の理論をねじまげ、全く反対のことまでいう」
これは学者としては極めて異例の、罵詈雑言に近い批判だ。伊藤がここまで書いたのは、竹内が日本の動物行動学の草分けで、瑞宝重光章を授与された京都大学の日高敏隆の門下生で、多くの共著を出していることから、専門家・研究者が日高に遠慮して「進化論の乱用」を指摘できないことに危機感を抱いたからだろう。
竹内は進化論を「悪用」して、一夫多妻制や福祉制度廃止、君主制待望など独自の政治イデオロギーを展開した。これは、現代の進化論が「右派」の主張と重なる部分を持つことを示している。その一方で、伊藤の批判の背景には明らかに「一夫一婦制」や「民主政」が正しいというリベラルなイデオロギーがある。竹内が反論すれば極めて興味深い論争になったかもしれないが、沈黙を守ったことで、現在はアカデミズムの世界では彼女の著作は存在しないものとして扱われている。
よく知られているように、ゲイとレズビアンの愛情やセックスのあり方は大きく異なっている。ゲイはバーなどのハッテン場でパートナーを探し、サウナでの乱交を好む。
エイズが流行する前にサンフランシスコで行われた調査では、100人以上のセックスパートナーを経験したと答えたゲイは全体の75%で、そのうち1000人以上との回答が4割近くあった。彼らは特定の相手と長期の関係を維持せず、子供を育てることにも殆ど関心を持たない。
それに対してレズビアンのカップルはパートナーとの関係を大切にし、養子や人工授精で子供を得て家庭を営むことも多い。レズビアンの家庭は、両親がともに女性だということを除けば(異性愛者の)一般家庭と変わらず、子どもたちはごく普通に育っていく。
(母子家庭の子供よりも社会的に成功する比率が高い)
一方、高齢のゲイ同士のカップルというのは殆どなく、養子をとることもないので、
人生の最後は孤独にさいなまれるのだという。
異なる生殖戦略を持つ男女は、利害関係が一致しないのだ
ローコストの男がより多くの子孫を残そうとすれば、できるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち、乱交が進化の最適戦略だ。それに対してハイコストの女性は、セックスの相手を慎重に選び、子育て期間も含めて男性と長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる。セックスだけして捨てられたのでは、子供と一緒に野垂れ死にしてしまうのだ。
男性は、セックスすればするほど子孫を残す可能性が大きくなるのだから、その欲望に限界はない。一方、女性は生涯に限られた数の子供しか産めないのだから、セックスを「貴重品」としてできるだけ有効に使おうとする。
「進化論的に優れた生き物」を議論するよりも、全ての生き物がそれぞれの進化の頂点にいると考えたほうがすっきりする。進化論は、生き物には優劣も貴賤もないというリベラルな科学なのだ。
知の最先端に効率的に到達する戦略は簡単だ。
書物を『ビッグバン以前」と「ビッグバン以後」に分類し、ビッグバン以前の本は読書リストから(とりあえず)除外する これを「知のパラダイム転換」と呼ぶならば、古いパラダイムで書かれた本を頑張って読んでも費用対効果に見合わないのだ。そして最新の「知の見取図」を手に入れたら、古典も含め、自分の興味のある分野を読み進めていけばいい。
人生は有限なのだから、この世で最も貴重なのは時間だ。たとえ巨万の富を手にしたとしても、殆どの大富豪は仕事が忙しすぎて、それを殆ど使うことなく死んでいく。
同様に、難しくて分厚い名著で時間を浪費していては、その分だけ他の有益な本と出会う機会を失ってしまう。
人類が生み出した知の圧倒的な堆積を知ると、どの本を読んだとか、何冊読んだとかの比較に何の意味もないことがわかる。15歳から85歳まで毎日1冊読んだとしても、死ぬまでに書物の総数のせいぜい0.02%(2万6000冊)にしかならない。それを0.03%に増やしたとして、いったいどれほどの違いがあるのだろう。
本の世界もこれと同じで、読者の興味の多様化、学問分野の細分化、新刊点数の増加によって、ハリーポッターや村上春樹といった例外を除けば、みんなが共通の話題にできる作品は無くなってしまった。