あらすじ
近未来のアメリカ、すべての女性は一日100語以上喋ることを禁じられた。その中で怒りを抱えながら夫と子供たちと暮らす認知言語学者のジーンの生活に、ある日転機が訪れる。声を、愛を、創造を奪われた女たちを描く、いまこの時代に読むべきディストピア物語。解説収録/丸屋九兵衛
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Posted by ブクログ
「イタリアの女たちは両手と全身と魂を使って話し、しかも歌を歌うのだ。」
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※この感想には一部性的表現が含まれます。ご注意ください。
SFが好きだ。
小学生の頃は星新一を、
中〜高校ではラノベやミステリーに浮気しつつも
大学では米文学のSFを専攻した。
SFの、きたるべき未来を先読みしているような
絶望感と、リアルさが好きだ。
SFでは、目的を見失い、軽率に人を愛し、運命に抗おうとする。そんな人間の弱さが好きだ。
その中にかすかに光る、生き残るための希望や、合理的な機械が必要としないこと(愛や、歌や、冗談や、表現)が好きだ。
どんな病原菌や武器よりも、
言葉を封じることは人間にとってつらいことかもしれない。
感情は心の泉が枯れない限り、
溢れ続けるものだから。
あらすじはこうだ。
アメリカのすべての女性に1日100語以上を喋ると
強い電流が流れるワードカウンターがつけられる。
少女は学校でお裁縫、料理、ガーデニングを学び
男性を支える"良い女性"であることを強いられる。
ゲイやレズビアンは強制収容所へ。
喋りすぎた女性、レイプされた女性も、髪を刈られひどい環境で強制労働をさせられる。
そこでは、許された言葉は0語。
そんな中でも、ある程度財力のある男性は
秘密のクラブで女性に対して精液とストレスを発散できる。コンドームなんてものは存在しない。
読んでいて、いろんな感情が渦巻いた。
人権=言葉である
と、強く感じた作品。
言語の違いがどう、
理解し合えるからどう、
という話ではない。
物理的に発言権があるのかないのか。
そこに、生きる
ということが大きく関わっている気がした。
今の日本でも、
女性の価値観については
特に40代後半男性と全く会話ができないことがある。
50代独身でも、結婚相手は子供を産める20〜30歳でしか考えられないと平然と言う人もいる。
そういった狂気を、
手軽に摂取できる形にしたのが、この本である。
心の底ではある意味男性が望んでいる世界、そう錯覚できそうなほど
毒々しくて、
狂った世界で闘う人々が魅力的な物語。
ディストピアは、すぐそこにある。
Posted by ブクログ
3分の1過ぎたぐらいから面白さ加速した!
最後はちょっと駆け足だった気がするけど、、
パトリックの勇姿を知りたかったよ
自分から声が取り上げられるなんで想像するだけで耐えられない。
そうならないように願うだけじゃなくて、行動もしないとね。
Posted by ブクログ
読みやすくて分かりやすいディストピア。
途中、息子の変貌ぶりがこわかった。
自分的にはディストピアの結末はバッドエンドが好きですが、この本はこの先も希望が持てそうな結末でした。
あと主人公の不倫なんかは心の広い男たちによって許されていて、よほどいい女設定なのかなと思った。
Posted by ブクログ
設定はシンプルで恐ろしい――アメリカで、「女性」のみ、一日の発語数が100語に制限されてしまう。100語を超過すると、手首に装着したブレスレット状のカウンターが、強力な電流を発する。突飛に思える設定も、「アメリカ」の大統領が行った政策と聞くと、にわかにリアリティを帯びる。
かつて日本にも、女性蔑視は確実に存在した。むろん、現在の日本でも、その不公平性は完全に払拭されたわけではない。むしろ男女間の性差に基づく差別以外に、永田町に蠢く者共が、次々と繰り出す数多くの「差別」が日々噴出するために、相対的に男女差別だけがことさらにクローズアップされなくなっただけだろう。うまい汁を吸えるのは権力者だけ、というのは、いつだって世の習いであるが、権力が一極に集中するアメリカが舞台であれば、読者の誰もが完全に「フィクション」とは思えないまま読み進めていくのではなかろうか。そしてまた、その大国に尻尾を振ることこそが国のまつりごとと考えている我が国の権力者たちも、いつそのようなことをしでかすか、分かったものではない。
だから『声の物語』は、「いま、この時代に読むべきディストピアSF」と評されるのだろう。たしかに女性から、言葉を封じる政策という設定はディストピアそのもののである。上野千鶴子が読んだら卒倒するかもしれない。
しかし、女性から言葉を奪う、という設定は確かにセンセーショナルではあるけれども、医大入試では「女性一律減点」を当たり前のように行い、それに対して本来声を上げるべき国の権力者がダンマリを決め込む国もあるのだ。最高学府の入学式の挨拶で、国のトップクラスのフェミニストが、女性に「強くあれ」と呼びかけなければならない国もある。物語の設定はいささか極端であるがゆえに、本作はディストピア小説と評されるが、似たような出来事は身近なところに転がっている。
ディストピアから抜けだすプロセスは、医学界の専門用語も出てきて少しばかり難解だが、そもそも「ある偶然」が起きなかったら、このプロセスもなく、ディストピアな世界も解消しなかった(と思われる)。この物語の大きな筋を、「偶然性」に依拠してしまったことのみが残念である。やはりこの手の物語は、悪は“絶対に”成敗される展開でこそカタルシスを得られると思うのであるが……。