あらすじ
主人公・田沢衿子は20代後半の独身女性。母親の言動に振りまわされ苦痛を感じているが、断ち切ることができない。ある日、彼女の15階だてのアパートで、祖母を殺した少年が投身自殺した。強者に支配される少年と自分とを重ね合せ、彼女は母親から逃れるため行動をおこす。〈イエスの方舟〉を背景にして、弱者の生き方を追究、魂の漂流をいきいきと描いた、著者の代表長篇小説。
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Posted by ブクログ
弱者の魂の漂流と「イエスの箱舟」の存在感。20代後半にもなって「母親が煩く逃れられない」と縷々述べられてもなぁ、と思うのは強者の視点と責められるか。しかし、追い詰められるからこその祈りにかける衝動は胸に迫る。貧相な「幕舎」の設えに「引くわ〜」とはならないわけで。弱者と強者の対立ではなく、共存にして孤存とでもいうのか、そこに愛しさと哀しみを覚える。
この作品での「イエスの箱舟」の扱いは素晴らしく効果的。
Posted by ブクログ
母親に忖度する癖が、骨の髄まで染み渡っており
自分自身の人生を生きている実感がなかった
自分の考えを通そうとして、勝手なことするなと怒られるのが怖いんだ
それで、人間関係が上手くいかず
いい歳なのに結婚もできない
良識にもたれかかって、自分では世故長けたつもりでいる母親に
言いたいことは山ほどある
しかしそんな権利を自分に認めることもできず
暗い日々を送っている女があった
それでいっそのこと失踪・蒸発してやろうかしらん、という計画が
具体的に煮詰まってきたある日
マンションから飛び降り自殺する中学生を目撃したことで
やりきれない気分になって
前々から気になってた宗教団体「アブラハムの幕舎」に足を運ぶ
そしてその出会いが
女よりもむしろ「アブラハムの幕舎」のほうに
大きく影響をもたらしたのだった
なにしろ彼女は、聖書のなかのイエス・キリストに恋をしていたから
「イエスの方舟事件」をモデルとした作品である
洗脳誘拐を疑われ
マスコミにセックス教団のイメージを貼り付けられた人々が
おおいに非難を浴びせられるのだが
その後すべて事実無根と認定され、世間は気まずい思いに包まれた
そんな事件だ
これに対する反省が
マスコミを、オウム真理教への迎合に導いたという説もあるらしい
Posted by ブクログ
千葉にある母の病院へ行くのに、新宿から黄色い車体の総武線各駅停車に乗った。もっとも速く、到着地へ着くという経路を選ぶことが億劫になったからだ。各駅で行くという考えが心をスローダウンさせてくれる。
総武線の中で読みさしの林真理子の「花」を読みはじめた。芸者の祖母と、母、そしてキャリヤウーマンという女三代の物語だ。冒頭のところに、なさぬ仲だった、祖母の手記を孫娘が読むところに、祖母が80歳を越して、母親のことが恋しくて恋しくて仕方がなくなるという件があった。
ぼくは、最近、父を失った。その父親の不在を、明確に記憶として認識できない状態の母親の中で、一人息子であるぼくの記憶もうしなわれはじめている。両親を失いつつあるということの意味をぼくはまだ把握できずにいる。父親の期待、母親の期待というものを失った後に、自分に残るものは何かということをまだぼくは実感できていない。
遠隔地の高校へ行くために、家を離れてから、もう30年近い。ぼくたち親子の関係は、常にこの距離が前提になっていた。それが、アメリカであれ、東京であれ、常に、この数十年間、ぼくたちの間には距離があった。この距離が、常に、ぼくの後ろめたさの源泉であり、同時に、関係性の安全装置だった。両親の生活の自立性が失われてきた頃から、距離という安全装置は、逆に、移動という形での、巨大なコストを課すようになってはいたが。
知人の中には、この濃密な家族性の中で、生命を絶つものもいる。父、母、兄弟、妻、子供。そんな血縁というものの持つ濃厚な重さを、ぼくは、実感できていない。
大原富枝の「アブラハムの幕舎」(講談社学芸文庫)は、母から逃れるために、失踪する娘の話である。そういった人間関係から逃れようとする弱い人たちを連れて、さまよう教団の物語が横糸となっている。
《私の家では、母だけが「強い人」なのです。ほかの人たちは、父も兄も私もみんな弱いのです。母の気持ちに背く者は、居場所がございません。父も兄も兄嫁も、母に背くことはしないで、まったく無視して上手に避けて生きています。私にはそれが出来ません。あの人たちは母に愛されていませんからそれが出来るのです。けれど私は母に愛されています。私も母を愛していると思っています。だから出来ないのです。家を出るより仕方がありませんでした。》
夫婦なら殺し合う前に、別れるという方法がある。他人が仲裁に割ってはいる余地がある。しかし、親子の聖域にはそれがないのだ。他人が決して手を出すことのできない親子の聖域でのどうしようもない力関係の恐ろしさを味わったことのない仕合せな人間だけが、卑怯だとか、児戯に等しいとか、愚劣きわまるとか、とこの事件を嘲笑することが出来るのではないか。
人間の関係ってみんな多少ともそうなんでしょ。親子のあいだだと、他人とはちがって一層複雑です。粘っこいものがからみ合ってしまってもうほどきようもなく固まってしまって、どうにも解きほぐせない。
両親は、意識の中で、こういった聖域の持つ禍々しさを拒否していた。親のために、地元に残るというロジックを、二人とも人一倍嫌った。子供の成長というものが、故郷を離れるということでしか達成されえない近代社会の論理を粛々と受けいれた、きわめて知性的な人たちだった。そして父親は、その知性のままに、逝った。
1週間ぶりに会う母親に「ただいま」と声をかけた。ああ、おかえり、東京へ行っていたのと答える。高温多湿な梅雨の到来のせいか、北国育ちの母の口数は少ない。ゆっくりと、水を向けると、孫の話、ぼくの子供の頃の話、自分の故郷の話と、とりとめもなく、連続性もない、いつもの、会話が始まる。母の論理をそのままに追うことはできない。ぼくという主語で始められた会話が、述語の部分に移行した時、既に主がのぼくは誰かに代替されている。目の前にいる息子と、固有名詞で呼ばれる息子が分裂し、そこに、孫や夫や弟たちが加わっていく。不思議な重層的な言葉のつらなりの中で、ぼくは、意味の自明性を失っていく。そうやってくりかえされる言葉の輪は、まるで、練達の催眠術のようにぼくを睡魔へと陥れる。環境の静謐さと清潔さと、くりかえされる母の言葉。
母が知性というものの束縛から少しずつ解放される中で、彼女の、知らない面が現れてきている。しっかりした愛情深い母親、知性的な妻という役割や意味から解放された彼女の中から、ぼくの知らない、よりノンシャンランスな側面が見え隠れする。
かつて、母親は、無限抱擁だった。なにごとも否定されることのない、存在の全肯定の源泉。自分の果たした役割を投げ捨てた後の母の言葉を、ぼくは、好奇心と恐怖心で、待っている。
距離ということによって、回避されていた、家族の聖域の持つ怖さが、現前することへの期待と恐怖。
帰りの私鉄の電車の中で、読みさしの文庫から目をあげると、目の前の座席に、30代後半ぐらいの女性が座っている。彼女の水色のTシャツに、英語でこんなことが書かれていた。
Listen to your mother
And
Be ruled by her
なんてシンクロニシティだろうと思った。こんなTシャツが作られるということ、それを着るということ。世界は母性で充満しているのかもしれない。