あらすじ
福沢諭吉宛の世界的大学者からの手紙、幕末の使節団がみたアメリカのデモクラシー、初代帝大総長がヨーロッパで接した知の精神――。伊藤博文、山県有朋、井上毅から旧幕臣知識人まで、この国のかたちを築いた骨太な指導者たちの幕末明治の文明受容の旅を辿りながら、彼らの思想と行動を読む。『本』好評連載、待望の新書化!
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Posted by ブクログ
・幕末の福沢諭吉、玉虫左太夫、ジョセフ・ヒコ等の欧米・ハワイ王国でのconstitution(国制)の感得。
・幕末・明治の伊藤博文等の国制の感得。シュタインは福沢の時事小言の国制・行政二元論を評価
・井上毅の天皇親政絶対論vs伊藤の「行政権ハ帝国内国ニ於イテ統一ス」
・「(天皇)は日本国をrepresent(表彰す)by伊藤~対外的表象であり、国民統合の象徴
・合衆国は、まずは合・衆国=連邦United States であり、合衆・国=共和国
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「明治国家」をつくりあげていった人たち、明治天皇、伊藤博文、井上毅などをはじめ官僚が学んだドイツやオーストリアの法学の先生…どうやって明治国家という枠組みが出来上がって、それを肉づけていったか。
それを法学、憲法、教育、明六社などの組織を通じて描かれています。
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【期待したもの】
・明治を語る時によく出てくる有名人だけではなく、あまり表に出てくることがないエリート官僚を描く、ということで期待した。確かに、あまり聞いたことがない名前が出てくるが、紙数が割かれていたのは、やはり有名人。
【要約】
・明治政府における国家のグランドデザインは、やはり伊藤博文。明治天皇は伊藤の暗殺後、後を追うように、とまでは言わないまで、元気をなくしたまま崩御した。
【ノート】
・ブーランジュ
・そう言えば、なぜわざわざ¥1,000円札のデザインは伊藤博文から変わったんだっけ?
Posted by ブクログ
この時代のリーダーは、どのように『国家』を創っていくべきかを考え抜き、そして行動に移していった。
本著では、それらリーダーの思想、言動について具体的に触れられ、そこに映し出される鬼気迫る気概を肌に感じることができる。
この当時の政治家の勉強量(読書量)は想像を絶する程であるし、考え抜く能力はとてつもなく高かったような気がする。
一方で、伊藤博文もその一人だが、大いに楽天的なところもあって、心にゆとりが持てた時代でもあったのだろうか。
(坂の上の雲の如く)
登場する人物は政治家、官僚、学者、思想家、知識人など多岐に亘る。
ただ、各々が重厚なキャラクターの持ち主であるが故、紙面の割き方が少なく消化不良になるかもしれない。
著者の「伊藤博文-知の政治家」(中公新書)もお奨め。
以下引用~
・高杉の上海訪問の意義のひとつは、彼の地で西欧の活字文化の洗礼を受けたこと。当時の上海は本の都だった。
高杉は上海滞留中、さかんに書店を回り、書籍の購入にいそしんでいたのである。
・榎本・大鳥らの助命に動いた黒田清隆が岩倉に対して、アメリカでは南北戦争で敗れた南軍の将を赦免し、ともに建国に協力している。榎本らをいまだ獄中においていることがアメリカで問われた時、何と申し開きするのかと訴え、それを受けて彼らの釈放が実現したと伝えられる。
・山県(有朋)が古稀庵に所蔵していた蔵書の数は、一万冊をくだらなかったという。そのうちの少なからぬ書物に、傍線や書き込みが施され、山県による旺盛な勉強の跡が偲ばれることである。そこからは、伊藤(博文)と並び立つ「知の政治家」の姿が浮かび上がってくる。
・「井上毅伝」に収められた目もくらむほどの史料の山を前にすると、明治国制の確立のためにまさに粉骨砕身して身を捧げた一人の知識人の姿が浮かび上がってくる。岩倉にせよ伊藤にせよ山県にせよ、明治の政治家たちはみなこの比類なき知性の働きに支えられて、自らの政治構想を立案し実地に移すことができたのである。
彼が目指していたのは、ドイツの歴史法学に則って日本旧来の儒教的道徳を再生させることにあったと見なし得る。法や行政という西洋的概念は、仁という東洋的価値によって解釈替えさせなければならなかったのである。
・陸奥宗光は、故国を遠く離れた異郷で、憑かれたように勉学にいそしんでいた。ベルリンから発した書簡には、毎日10時間も机に向かっているとの消息が綴られている。そのような陸奥の姿は、鬼気迫るものとして傍らにいる者を威圧した。
・かつて久野収氏は、近代日本の天皇制を、天皇主権説という顕教と天皇機関説という密教からなるという今日なお引き合いにだされる見解を提示し、そのようにしてできあがった明治国家の体制を伊藤博文の「芸術作品」と呼んだ。