あらすじ
「すみれがぼくにとってどれほど大事な、かけがえのない存在であったかということが、あらためて理解できた。すみれは彼女にしかできないやりかたで、ぼくをこの世につなぎ止めていたのだ」 「旅の連れ」という皮肉な名を持つ孤独な人工衛星のように、誰もが皆それぞれの軌道を描き続ける。 この広大な世界で、かわす言葉も結ぶ約束もなくすれ違い、別れ、そしてまたふとめぐりあうスプートニクの末裔たちの物語。
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Posted by ブクログ
これは村上春樹が、割と初期に書いた小説らしいのだが、名前だけは知っているものの、なかなか読むに至らなかった。「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という、彼のインタビューを集めた本を読んだとき、何度もこの本の名前が出てきたことで、これは読まなければ、と思ったのだった。
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小説家を目指す知性ある女性すみれと、すみれを好きになってしまった主人公、そしてすみれが恋心を抱いてしまったアセクシャルな女性、ミュウという三つ巴の関係性。互いが互いに思うことが混濁し、やがて夢との境界がわからなくなる。そんな小説。
意外と読むのに時間がかかってしまって、感想を書くために本を見返すことになりました。
題名の「スプートニク」は、ソ連が打ち上げた人工衛星の事を示している。スプートニクの恋人とは、結婚式でビートニクと誤用したエピソードから名付けられたミュウのあだ名である。物語序盤では上記の意味合いしか説明されない為ただの語感の話かと思っていたけれど、そもそもスプートニクの和訳は「旅の連れ」という意味もある為実際のすみれとミュウの関係性を示していて伏線回収的な面白さがある。
本作のテーマの1つは、直感的には「夢」であると感じた。「夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん、ない。…だから夢の中では衝突はほとんどおこらない」という文面は、銀杏boyzの曲『駆け抜けて青春』の女性パート部分を思い出す。存在するものと存在しないものの区別がつかなくなるほど、相手を思うという発想が素敵でした。
個人的には上記の他、
『この女性はすみれを愛している。しかし性欲を感じることができない。 すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。 ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。 すみれはぼくを好きであるけれど、愛してはいないし、性欲を感じていない。 ぼくは別の匿名の女性に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。』という文面がとてもよかった。恋にまつわるいろんな状態が不思議な言い回しで記述されているし、ある種「愛」に制欲が伴わないという特殊な状態を肯定する感じが良かった。
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わたしは村上春樹が好きだ。
この世界観に惹き込まれたらなかなか抜け出せないのを自分で分かっているので、1Q84以降簡単には手を出せなかったのだけれど、
過去作を読みたい衝動に駆られて…手に取ったこちら。
どこか儚く繊細で素敵な1冊でした。
Posted by ブクログ
まだ読んだことのない作品の方が多いけれど、今まで読んだ村上春樹作品の中でいちばんすき。日曜日の夜、明け前にすみれが記号と象徴の違いを電話で僕に問う一連のやりとりがすごく気に入ってしまって、何回も読んだ。
僕 がすみれに色んなこと(「何かを学ぶときに、 一度それはそうゆうものだと受け入れないと進まないことと、きちんと理解しないと進まないことがある。 」とか、 「簡単に説明できることには落とし穴がある。あまり急いで結論に飛びつかないほうがいい。」とか)昼夜問わず丁寧に言葉を選んで教えてくれるたび、純粋な心配からの忠告に感じたり、すみれに対する想いゆえの祈りに感じたりもした。でも、ずっと優しくて良い人だな、と思った。
果たされなかった約束を、「美しい約束の多くがそうであるように、」と言ったり、好きな表現や会話がたくさんあった。終わり方も好きだった。
Posted by ブクログ
白状すると「スプートニクの恋人」は私の村上作品ランキングの中ではそこまで印象に残ってない作品です。
有名な「理解とは誤解の相対に過ぎない」や某読書メンバーの結婚式の祝辞でボスが引用した周回軌道上ですれ違う描写を除いては、白髪、ギリシャ、観覧車のような断片的なモチーフをぼんやり覚えていたくらい。
何かの本読んでてロシアが世界初の人工衛星の「スプートニク」を宇宙に犬乗せて放った話を読んでた時に、衝動的に読みたくなって再読。
今まで何でこの本の素晴らしさを過小評価してしまっていたんだろうって不思議に思うほど良かった。すみれの言葉もぼくの言葉も、今の自分にはめちゃくちゃ共感や気づきを与えてくれる、個人的な滋養になる本だった。何度も言われてる話ではあるけど、はじめ読んで感動しなくても、再読したらその時の自分のために書かれたように感じるのことがあるのが読書を続ける醍醐味だなあって感じました。
<ぼくについて>
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それよりはむしろぼくという存在以外の存在について、少しでも多くの客観的事実を知りたいと思った。そしてそのような個別的な事柄や人物が、自分の中にどのような位置を占めるかという分布になり、あるいはそれらを含んだ自分のバランスの取り方なりを通して、自分という人間存在をできるだけ客観的に把握していきたいと思った。
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ぼくのこの感覚は自分が小説を読んでるときに感じるものとかなり近くて深く共感した。そう言っていたのに、すみれを失ったままギリシャから帰国したあとで生徒のにんじんに自分に起こったことと自分がどんな人間かを語るシーンにすごく胸が打たれた。
<すみれについて>
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いったい誰に、海と、海が反映されているものを見分けることができるだろう?あるいは、雨降りと寂しさを見分けることができるだろう?...そして多くの人はそのふたつのあいだに便宜的についたてを立てて生きている。だってその方が楽だし便利だから。でもわたしはそのついたてをあっさりと取り払ってしまう。だってついたてなんて嫌いだから。だってそれがわたしという人間なんだから。
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ぼくの電話番号の市外局番で開いたスーツケースの中に入っていた、すみれが失踪前にフロッピーに残して隠した文章。
読んでて鳥肌が立つくくらい素敵だと思った。何で今まで何回も読んでるはずなのに目に止まらなかったんだろう?って思ったけど、私が多くの人と同様「知っていること」と「知らないこと」の間に「ついたて」を便宜的に立てて生きていて、それを疑わなかったからなんだと思う。
私が現実世界で給与の対価としてもらってる「事象を客観的な足場の上で俯瞰し、構造化し、問題を診断する」ためのレンズを強化するために、いろんな物差し(フレームワークと言ったり、体系化と言ったりする)をせっせと集めながら生きてるわけですが、ちょうどそんな本をいっぱい読んでたタイミングでスプートニクの恋人に脱線できて良かった。
この世界がちゃっちゃっと線引いて簡単に答えが出るような単純なものであってたまるかという気持ちを思い出した。
Posted by ブクログ
『スプートニクの恋人』は、記憶にある限り、私にとって初めての村上春樹作品だった。中2の頃に手に取ったと思う。
その時の第一印象は「性描写が強くてむり」。全くいいと思えなかった。
その後は一度春樹作品からは離れ、次に手に取ったのは高2の頃の「1Q84」。この小説は私の心を強く打ち、そのあとは時期によってくっついたり離れたりの波はありつつ、自分の人生にとって春樹作品は確実に欠かすことのできない1ピースであり続けている。
だから今回、『スプートニクの恋人』は15年ぶりくらいに読み返したことになる。
きっかけは失恋しそうになっているから笑。恋愛小説が読みたかった。
読み始めてあれ…?あんまり性描写激しくない。他の春樹作品と比べると全然。
当時の私は何がそんなにしっくり来なかったんだろう。そんな風にふしぎに思いながら読み進めた。
そして途中で、たしかに他の春樹作品ほど没入できていないかも、とふと気づいた。
その理由を自分の中に注意深く探ってみると、多分分かった、この小説(特に前半)はすみれとミュウという2人の女性が主人公なわけだけど、この2人が私にとってしっくり来ない。
要は、共感もできず魅力的にも感じなければ、なぜそういうエキセントリックな体で存在しているのかも分からず、「架空の人物」感がすごい。
それが語り手の「僕」を介して語られている。
「僕」は彼女たちの存在に疑問を持っていないらしいが(惚れてもいるので)、読者からしたら「僕」も介されているのでより彼女たちが掴めない。
頭がおかしいことは全く構わないのだが、なぜ頭がおかしいのか分からないと読者は置いてけぼりになる。
…と思っていたのだけど、「僕」が前面に出てくるあたりからどんどん引き込まれていき、ギリシャについた頃からはいつもの春樹作品のように没入して楽しめた。
ギリシャの島の風景をありありと思い浮かべながら読めたし(一昨年の夏の旅行で、ギリシャの島々を目前に結局トルコ国境から出なかったから、憧れもひとしお)、「あちら側とこちら側」という慣れ親しんだ春樹モチーフにはもちろんしっくり来た。
特にすみれを失った主人公の心情描写が本当に素晴らしく、何度も読み返してしまった。
雄大なアクロポリスですさまじい寂寥に襲われる場面。なんだかとても圧倒された。
「すみれの存在が失われてしまうと、ぼくの中にいろんなものが見あたらなくなっていることが判明した。まるで潮が引いたあとの海岸から、いくつかの事物が消えてなくなっているみたいに」
「人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる」
「ぼくはもう二度と、これまでの自分には戻れないだろう。明日になればぼくは別の人間になっているだろう。しかしまわりの誰も、ぼくが前とは違う人間になって日本に戻ってきたことには気づかないはずだ。外から見れば何ひとつ変わってはいないのだから。それにもかかわらず、ぼくの中では何かが焼き尽くされ、消滅してしまっている。どこかで血が流されている」
大切な人を失うとはどういうことなのか、その喪失感がこれでもかというほど克明に記されている。
いま私もまさに大切な人が自分から離れていこうとしていて、読んでいて胸が引き裂かれそうになった。
私は、この松明を抱きしめて生きていくしかないのだ。きちんと抱きしめとおせるだろうか。炎を絶やさず、自分の中であの温もりを記憶し大切に持ち続けられるだろうか。
いろんなものが見当たらなくなった人生を、これからどうして生きていけばいいのか。
「どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。
どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけている」
まさに20億光年の孤独…!!!!!
名文すぎて涙が出る。
地球にはこんなに人がいるのに、なぜよりによって大好きな人と分かり合えなくて、わざわざ孤独にならないといけないんでしょうね。
寂しくて孤独な時って宇宙のこと考えたくなるのどうしてでしょうね。
春樹作品って、いつも小説のどこかが、その時々の自分の状況や心情と響き合う。だから読んでいて胸が震える。だから人生に寄り添ってくれていると感じる。
今回もまさにそうだった。
…というわけで、この小説は読み始めた直後は違和感からスタートしたものの、「僕」の出現によりいつもの通り大変しっくりくるものになった。
このことについて考えてみると、たまに耳にする、「村上春樹は女性を描くのがうまくない」みたいなフェミニズム的批判に思い至る。
私は春樹作品が大好きであまりそういう風に思ったことがなかったけど、この小説では「女の主人公が前面に出てくる時にはついていけないけど男の主人公が出てきた途端しっくりくる」という経験をし、初めて「あ、これなのかな」と思った。
つまり、春樹くんが描く女性は女性的には「ハテナ?」な女性が多く、(秀逸な女性描写ができないからといって男性作者が責められるいわれはないのではとも思うけど、)それは見方によれば「男性にとって都合のいい架空の女性を拵えてるだけだ」という批判につながりうるのであろうということ。今回実際に抱いた違和感により、確かにそういう側面はあるかもしれないと理解はできた。
まあでもそうであっても、春樹作品がいつでも自分の今の心と呼応して何かを感じさせてくれることは揺るぎない事実であり、今回もとても読んで良かった。
いつもありがとうございます。
Posted by ブクログ
夢と現実は違うということが
一致するたびに、自己を喪失していく。
すでにすべて失くなったと感じていても、
人は夢を見続けるものだから、
喪失を止めることはできない
Posted by ブクログ
村上春樹さん、これまで読んできた作品を数えると、まだまだですが10作品くらいでした。この『スプートニクの恋人』はめずらしく上下とかに分かれていない、短めの小説。
だからこそ春樹要素が凝縮されています。
村上春樹さんにも、映画監督の小津安二郎さんが言った「僕は豆腐屋のような映画監督なのだから、豆腐しか作れない。油揚げやがんもどきならつくるけど、とんかつは作れない。」という言葉がぴったり当てはまると思っています。(前にも同じようなことをここに書いたかもしれないけど)
春樹ワールドには、以下のような人・ものが繰り返し出てくる!
・料理が得意で市民プールに泳ぎに行き、シンプルな服を着こなし、とりたてハンサムなわけではないけ女性には困らない語り手の男性
・でも彼は本命の愛する女性とは中々上手くいかない
・彼には本命ではないけど美人で車に乗りこなす洗練された人妻ガールフレンドがいる
・井戸のような穴が出てくる
・こちら側とあちら側の世界がある
・猫が出てくる
他にも特徴的なものは春樹ワールドに色々あると思うのですが、村上春樹さんの作品でしかできない唯一無二の小説体験が、私は癖になります。
好き嫌いが分かれる理由もよく分かりますが、私は好きです。(中身の全てを崇拝しているわけではないですが!笑)
そして『スプートニク』で私がとても共感できたのは、「あちら側の世界の私」と、「こちら側の世界の私」というようなところ。
年末にオーストリアに行き、オーストリアに着いた次の日からずっとふわふわするような目眩があるんです。たまたま引越しも旅行の前に重なってしまい、シンプルに疲労とストレスから来る自律神経の乱れで、ふわふわするような軽い目眩があると思っているのですが、なんだが精神的にもオーストリアにいる自分と日本にいる自分が一致しない感覚がずっとあって、心もふわふわしてます。
オーストリアにいた時は向こう(日本)にいるちーりーは別人で、影のようなものなのではないかという感覚があって、日本に帰ってきた今は向こう(オーストリア)にいるちーりーは別人で、影のようなものなのではないかと感じるんです。
特に「信じられない」となった瞬間は、オーストリアの友達たちと学生時代の感覚を思い出しながらわいわい話していた時に、ふと日本で(お堅めの職場で)働いている自分の姿を思い出してみた時です。
全く同一人物に思えなくて、本当に不思議な気持ちになりました。
そういう人間の多面性だったりを、あちら側とこちら側と表現するとしっくりきます。
「こっちにいる時は、あっちにいる私は置いてきている」と表現すると、私にはぴったりだと思うんです。
もちろん同一人物で、私の根本は変わってないはずなんですけどね。
Posted by ブクログ
非現実的なところがいいです。
少しだけ夢うつつな雰囲気。
自然の描写も美しいし、香りまで感じるような気がします。
村上春樹さんの作品は細かく丁寧な性描写が多く、それが嫌になってしまう。そこだけを見てしまうと楽しめないので、そこは美しいものであるということを自分に言い聞かせて言い聞かせて思い込んで、村上春樹さんの小説はこういうものなんだとひっくるめて受け入れて読む。
慣れてくると、とても素敵な作品ばかりなことに気がつく。不思議な世界観。好きになりました。
Posted by ブクログ
感想を書くためにあらすじを見てやっと思い出したのだが、読んだ当初はかなりインパクトがあり今も自分の血肉になっている作品。なんだか観覧車に乗って自分の部屋を覗く場面をすごく覚えている。
Posted by ブクログ
キーパーソンの消失、海外に飛ぶ、啓示を得るみたいな流れは著者の他作品でもあるけど、この作品は中でも展開が早く、最後はすみれが戻ってくるところが良い。こちら側とあちら側の話も、生と死みたいな重いテーマよりは、今作のような性欲の有無みたいな方が自分の中では自然と馴染んだ。全体的にファンタジー要素を少し入れた現実路線の話で、「ノルウェイの森」が好きな自分には合っていた。達成されないすみれの想いやミュウの過去、僕のすみれへの慕情など絶対にくっつくことがない三者の心象描写も上手くて、恋愛小説としても新しく感じた。
Posted by ブクログ
読んでいるときは何の話なのか分からなかったけど、書いて考えてみた。
他人と分かり合えないこと。
それを乗り越えること。
色々な人と関わる中で、分かり合えないことが出てくる。私たちは分かり合えないということを知ることで、他人と本当に生きていくことができる。
ミュウは、強い人間で、一人でうまくやれる力がある。他人を必要とする経験が少なく、人との深い関わりに欠けたのかもしれない。
だからこそ、14年前の体験から、半分自分が持っていかれたまま、今も過ごしている。
すみれは、世間でいう欠陥があるのかもしれない。でも、だからこそ、僕と心で深く繋がっていたし、ミュウに激しく恋におちた。
ミュウヘの激しい恋心は、叶うことがなかった。それによって、一度はすみれの心は分断する。でも、すみれは、僕との関わりを通して、人といることの大切さを知っていたのだと思う。
だからこそ、他人と分かり合えないことを乗り越えて、こちら側の世界に戻ってこれた。
自分も、大切なことは一人で考えてきたし、一人でやっていくしかないのだと、子供の頃から思っている。この本を読んで、自分の中にあったそういう考え方を思い出した。
今でもそう持っているけど、分かり合えないから諦めるのではなくて、分かり合えないという前提で人と関わるという視点が大切なのかもしれない、と思ったりした。
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「ぼくは子供の頃からずっと一人で生きてきたようなものだった。家には両親とお姉さんがいたけど、誰のことも好きになれなかった。家族の誰とも気持ちが通じ合わなかったんだ。だからよく自分のことをもらい子じゃないかって想像したものだった。」
「学校でも親しい友だちは何人かいたけれど、心を開いて話をできる相手にはめぐり会えなかった。毎日顔を合わせれば適当に話をして、いっしょにサッカーをやっていただけだ。何か困ったことがあっても、誰かに相談なんかしなかった。そういうのが当たり前だと思っていたんだ。人間というものは、結局のところ一人で生きていくしかないものなんだって。
しかし大学生のときに、ぼくはその友だちと出会って、それからは少し違う考え方をするようになった。長い間一人でものを考えていると、結局のところ一人ぶんの考え方しかできなくなるんだということが、ぼくにもわかってきた。ひとりぼっちというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった」
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「それはきっと、あなたが誰かになにかを期待したりしないからなのね」と彼女は言った。
その目は深く、澄んでいた。最初に彼女に出会った夕暮れの闇のように。
「わたしはそうじゃない。でもわたしはあなたのことが好きよ、とても」
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村上春樹の中期作品の一つで、ねじまき鳥の後、カフカの前。主人公ぼくの一人称だが、試験的に(おそらく本当に試験的に書かれたのであろう)三人称文体の章が含まれる(その後「海辺のカフカ」で、彼は長編小説で初めて三人称文体を中心に据えることになる)。美しくも哀しい恋愛小説で、その後も何度もモチーフになる「あちらの世界」、「井戸の底」、「人の部屋をのぞく」、「交わらない性交」などがその萌茅を見せていて興味深い。
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もし不完全な人生から全てのむだが消えてしまったら、それは不完全ですら無くなってしまう。
あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。
理解というのものは、つねに誤解の総体に過ぎない。
大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ
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待ち続ける、細い糸をたぐり続けることで喪失に打ち勝つ物語。すみれが戻ってきて良かった!!
P.202 理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。
P.314 ぼくは目を閉じて、そこにあった美しいものの姿をひとうでも多く思い出そうとした。それをぼくの手の中にとどめようとした。たとえそれが束の間の命しかたもてないものであったとしても。
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割とかなりまた、時間をかけて読んでしまった。
なんだか、水で満たされた皿に果汁を注いでいくようなそんな読書体験だったと思う。
何かを求めて彷徨うということは何かを本質的に探り寄せる行為であると同時にそれは何かをそこに置いていく行為であると言う話であった。
しかし、それは永久に失われるということではない
飼い犬を失った主人公も、猫を失ったすみれも、ピアノと情熱を失ったミュウも、それぞれに自分の中に大切なものを再度定義し、それを探り寄せるべく生きていくのである。
それは時折振り返ることもあるかもしれないし、振り返ることも無いかもしれない。
けれどもいつ振り返っても遅いなんてことはないのだ。そこに接点があり、接線を丁寧に引いて、それでいて四角形を作りそこに何かスケッチをすることができるようになるのか、といえば微妙な話だが、そんなところであろう。
けれども時間をかけすぎたせいで、点と点が離れた読書をしてしまった。
本質的にさまよった主人公の行為を未だに象徴的に一言で言うこともできないし、すみれと言う人間のもつ不思議な魅力を上手く言語化して自分の中に落とし込むこともできなかったと思う。
けれども言ったん今はこんなところである。
シナリオとしてはゲームや、映画(
主に娯楽映画)に近く、そこにあるサスペンス的な要素から何か自称や象徴となる比喩を探り当てる読書であった。それは普段の村上春樹がもつ、人や自称、存在そのものから何かを探り当てるような体験とは違ったような気もするけど、そんなことはまた違った読み方になるのであろう。
話は上手く帰着する。そこに残された変化と、変わらないもの。
僕たちはそんな線をいつも歩いている。
Posted by ブクログ
年末年始のバカンスのお供として、10年ぶりくらいに再読。書き出しの文章があまりに美しく、読み進めるのが勿体なく感じた。
ギリシャパートまでは熱中して読み進めたけれど、すみれの文章以降、話が象徴的でうまく咀嚼できなかった。
前半の、キラキラしてエネルギッシュな感じが好きだったな〜。
Posted by ブクログ
20年以上前に読んだものだからか、記憶がほとんど残っていない。ただ、一箇所だけ時の流れを越えて覚えていた。『ワイルドバンチ』の記者会見を引用した台詞だ。瞬間、そうだ。確かに自分はこれを読んだのだ、という確信が蘇ってきた。
タイトルに恋人、とあるが甘さなどない。どこかビターで相変わらずよくわからない。その曖昧さ、不可思議さ、人間というものの、あるいはこの世界の不可思議さこそ人生じゃないか? とでもいうような達観した態度で、凛としているのに意地悪な雰囲気がなんだかいい。大都会の真ん中で夜中に奇妙な景色を見たかのように。
Posted by ブクログ
初村上春樹
読み始めてわりとすぐにこれ中学生の頃に国語の問題集で読んだなと気づくあたりすごい作家なのかなと思った。十数年も前なのに覚えてるってすごい。
比喩が秀逸というか、よくこんな表現思いつくなーと思いながら読んでた
艶かしくて魅力的な女性を描くのが上手、、
Posted by ブクログ
再読。観覧車のシーンが特に印象に残ってたけど、それ以外はあんまり覚えてなくて新鮮だった。時間軸が行ったり来たり、展開が早い。
銅像、記号と象徴、観覧車、にんじん、万引き
20220516再読
20260421再読
Posted by ブクログ
村上春樹の作品群の中では結構例外的な小説かもしれない。全体的に主人公の存在が薄く、すみれを語るための語り手として使われており、物語全体を通して春樹が違う角度からの試みとして書いたのだろうわかる。
従来の春樹作品が好きな人からしたら評価が低いのは納得できる。個人的にはもう少し評価されてもいい作品。
Posted by ブクログ
当たり前のことですが村上春樹の作品だなぁと感じながら読んでいました。唯一無二の雰囲気。
あるだろうけどパッとは思い浮かばない恋愛関係、日本と異国の距離感、現在と過去それにパラレルワールドが加わり独特な世界観でした。
この感覚を味わえて読書家でよかったなと何度も思えた。
ただ、だいぶ難しい。これって伏線??どう繋がってるんだ??と考えながら読んでいましたが読み終えてイマイチ腑に落ちた感覚を持てず、、。
私の理解力のなさが原因かとは思いますが私の感想として星3をつけました。
うーーん。近いうちに読み返してみよう。
Posted by ブクログ
村上春樹初めて読みました。友人が勧めてくれた本。
文章から風景とかが何となく浮かぶ本で思っていたより読みやすかった。深い友情?愛情を感じた
最後はどういうことだったのかな
Posted by ブクログ
ギリシャの描写がよく描かれており海外に行った気分になれた
精神世界の話を書いていた
ある日突然人は変わってしまう
だけどすみれを信じて待つ主人公がすてきだなとおもった。
不思議な気持ちになる本だった。
Posted by ブクログ
こちら側とあちら側の世界。消滅。
この小説を読んで感じたテーマである。
主人公の僕はすみれという女性にいわば恋愛感情を抱いていた。しかしすみれはそうではない。
そんなすみれがたまたま親戚の結婚式会場でミュウと出会う。
すみれとミュウはギリシャの島に滞在していたところ、すみれは姿を消してしまう。
ある日の夜をきっかけに。
すみれはミュウを肉体的に求めていた。しかしミュウはそれを受け入れ難かった。
すみれは‘煙のように’消滅してしまったのだ。
それがスプートニクの恋人というタイトルにも繋がっているのだろう。
この小説を読んで、すみれは不完全であまりにも未熟な人間だが、うちなる部分にはとても成熟した人間性を感じる。
「考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみるーそれがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。…わたしたちがもうたっぷりと知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。
理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。…」
「知っていること」と「知らないこと」が混沌としている世界。
あちら側とこちら側の世界。
私はミュウが観覧車からみた自室の自分の姿を重ねて考えてみた。
実際それは偶像に過ぎないのかもしれないが、いわば自分を客観視することと似ているのかもしれない。
そしてその偶像は自分へ襲いかかる。
自分が選択しなかった世界線でのもう1人の自分、ではなく、同じ世界線に(ミュウの言葉を借りるのであれば鏡で隔てられた自分)存在するという考え方はとても興味深かった。
Posted by ブクログ
村上春樹には苦手意識があったが、本作は楽しめた。性描写が抑えめ?な印象を受けた。おそらくそのためかと。
「愛している」にもいろんな形があって、その違いのせいか、近くにいてもどこか寂しい三人の姿がリアルだった。
あちら側の自分と、こちら側の自分。消えたすみれを探しながら、ぼくとミュウもまた自分を探していたのだろう。ラストシーンがすてき。
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・こちら側の世界とあちら側の世界が物語の鍵となっている。
・最後、すみれは「何かの喉を切って」こちら側の世界に戻ってきたのだろうか。
・『海辺のカフカ』も、同じような2軸の世界の話であったし、本作も村上春樹の世界観を感じられる物語だった。