あらすじ
文法・訳読はほんとうに時代遅れか。「英語の授業は英語で」で、何が起きるか。英語を読む力よりも、話す力が求められる、昨今のコミュニケーション偏重の風潮に疑義を呈し、日本人は英語とどう向き合うべきかを根本から問い直す。「英語の授業は英語で行う」。文法訳読の授業はいらない――。そんな新指導要領の方針に疑義あり!
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Posted by ブクログ
英語学習について、筆者の体験を元にまともに分析している。
統計的なデータ、研究をしこたま引用して主張を強めるというより、筆者がたさ「体感」していることを丁寧にまとめているという印象。
特に、母語として英語を学ぶ場合と外国語として学ぶ場合を明確に区別し、さらに、学習者のおかれている環境にも着目している。そして、それぞれの場合で、英語の学習方法は違うことを明確にする。英語を話さずとも生きていける(学校の外に英語を話す場がない)日本で生まれ育った日本人にとって、最適な学習方法は何か、という問に体し、文法的基礎を身につけることが先決だ、という結論を導いている。
よく聞く英語学習法とは、この点で大きくことなっている。一般的には、(特に近年は)、ネイティブが習得するように、英語を聞き、話す、という過程を経て英語は学習すべきだ、と言われる。私自身もそう思っていた。
しかし、筆者の指摘するように、ネイティブが英語を習得するのと、日本人の我々が英語を習得するのでは、プロセスは違って当然なのである。ましてや、学校の英語の授業の他に、英語を話す機会、英語を話す人と触れ合う機会のほとんどない日本の環境では、ネイティブが習得するプロセスは作れない。そうであるならば、筆者の言うとおり、高校の授業までは、文法的な基礎をとりあえず身につけることに焦点を置くことは、なんらおかしなことではないと思われる。(筆者も認めているように、英語を話したり聞いたりする時間は重要であるが、文法をないがしろにすべきでない。)
私の体験で言うと、大学時代の一年間の留学期間で、英語力はすこぶる向上した。それで、それ以降、やはり、英語は聞いて話さなければ、成長しないと考えてきた。しかし、よくよく考えてみると、私の場合、大学受験の段階で、英文法をほぼマスターしていたことが、英語力向上の基礎となっていたのは間違いない。同じ期間留学していた仲間と比べると、この英文法の理解に差で、伸び率はだいぶ違っていたように思う。
文法の力を再度見直しても良いのではないか、そう思わせてくれた本であった。
Posted by ブクログ
2013年度から高校の英語の授業は英語で行うことが決まったようだ.なんと馬鹿な事を文科省は考えているのか.これについで穏やかな反論が本書の内容だ.共感することが多かったが例を一つ.p 203に次のような記述がある. 「英語を書く機会が増えると,自分が日本語で書いた文章をそのまま英語に直そうとしても,うまくいかないことがわかってくる.それより,はじめから英語で書いた方が,はるかに手間が省ける.」 その通りだ!私論だが,中高で英語を必修にする必要はないと思っている.日本の社会で英語を必要とする人はわずかだ.英語の授業は英語嫌いを増やしているだけだ.
Posted by ブクログ
深く深く共感できた。
英語教育について語る時、「学校英語なんて使えない」という論調が声高に言われることに、私は以前から「それは違う!」と思っていた。
「英語は英語で理解する」。これはもちろん大事なことだけれど、日本で生まれ育つ子どもたちがそこにたどり着くまでに、日本語を介して英語を理解する段階があることに対して、英語教育について考える人たちはもっと寛容であるべきではないか。
「あとがき」は本書のとてもよいダイジェストだと思う。
Posted by ブクログ
英語を勉強しようと決めたとき
英語の文法を覚えたとき
英語を読むのに慣れたとき
英語を話せなければならなくなったとき
英語を教えるとき
自信の英語のレベル、使用目的、状況などが変わったとき
そのたびごとに読み返したい本です。
Posted by ブクログ
名著。高校の英語の授業を英語で行うという国の方針への反論に始まり、文法学習と訳読練習の大切さを訴える。とても重要なことだと思う。
日本が世界で勝ち抜くために必要なのは定型的な会話表現ではなく自分の意見であり、それは確かな文法力と理解力から始まる。
Posted by ブクログ
「そうですよね、うんうん」という調子ですらすら読めた。
というのも、私も中学から文法・訳読中心の英語教育を受けてきて、高校卒業時点では、英語は得意で好きだったが、全く聞けず、話せずだった。しかし、大学で発音記号を学び、かねてからの一種の憧れ・夢であった留学(語学留学)を経験し、今は多少聞けて話せるようにもなった。
その時感じたのは、やはり基礎となるのは日本で積み重ねてきた文法・単語の知識、訳読の訓練であり、これらは外国語の習得には欠かせないものだということ。「よろしく」や「がんばれ」など、どうしても英語に直訳できない日本語もあり、その逆も然り。一つ一つ覚えていくしかないということ。など多くの点について筆者の意見に全面的に共感した。
しかし同時に本書は、「目から学ぶ(or知識から入る)ことが得意な学習者」寄りの偏った意見だとも思う。留学先で色んな英語学習者と会って、一緒に勉強したり話したりして分かったことでもあるが、決してそのような人ばかりではない。耳から(音から)学ぶのが得意な人もいる。勉強がとにかく苦手で、大部分を実践(会話)を通して学ぶ人もいる。(・・・ということも、おそらく筆者もご存じでしょうが。)
何はともあれ、私も高等学校の英語の授業を英語で行うという方針には反対だし、実際ムリな話だろう。
Posted by ブクログ
英検の二次でやらかした直後に読んだら、なかなかグサグサくる内容でした…。日本人としてどう英語と向き合うべきか?ヒントをいただいた気がします。まずは「インプット」を改めて徹底しようと思いました。
Posted by ブクログ
英語の教育に当たる著者による、平成25年度から実施される高校の英語による英語授業の批判書。英語の基礎教育を重視すべきとの見地から、読むことの大切さを強調している。日本語と英語の違いや、訳読と翻訳の違いの記述は面白かった。
Posted by ブクログ
日本語話者が英語を学ぶにあたって、文法と訳読のプロセスを重視し、両言語観の違いを正しく捕らえて進むことこそ大切と述べます。簡単な(=応用の利かない)口頭会話ができる一方で、英文を読み解けない人が増えることは確かに将来の国益を損なうといえるかも…堅実な英語、を自分も心がけて身につけたいです。
Posted by ブクログ
訳読の重要性を謳い,平成25年度から始まる「英語での英語教育」に疑義を呈した本です。英語が嫌いになるのはある意味で仕方がないとは思いますが,訳読というのが単なる英語→日本語という変換に留まらないという観点を明示してくれています。こういう話は中学生にもしておく必要があると思います。
新指導要領を作った文科省の役人は,この著者が務める東大の卒業生が多いはずですね。外務省の役人よりも英語ができないということはどこかで聞いたことがありますが,「自分たちは英語を読んだりすることはできるけど,英語でやり取りするのが下手なのは,英語教育にコミュニケーションの時間が少なかったからだ!」という短絡的な発想が新指導要領の原動力になったのではないかと疑いたくなります。
自分たちが東大という人口分布的にも「外れ値」であることを意識して,もっと一般向けの指導要領を組まないといけないと思います。日本のガンは東大生,しかも外れ値の中の外れ値かもしれません。
Posted by ブクログ
英語のみによる授業の導入に意義を唱え、ふつうの日本人の立場としてどう英語を学ぶべきかを考察した本。
読解力、とりわけ訳読(いわゆる逐語訳含む)の重要性を指摘し、それが学習者にとってなぜ重要なのかの説明が明快であり、説得力もある。なにより、私自身が高校生活・大学受験を通して学んできた「英語」が、間違いでは無かったと確信できたことが嬉しい。
なにかと槍玉に挙げられやすい「受験勉強」だが、英語に限らずすべての科目に、やっただけの成果はあがることをもっと認めてもいいと感じる。もちろん見直すべき点が無いということではない。だが少なくとも私は、あの頃の勉強が、肝要な土台を築きあげていたことを実感している。
必死に、泥臭くても、無味乾燥に思えても、繰り返し勉強を続けてきた熱心な元受験者達の多くはそう感じているのではないだろうか。
根拠のよく分からない理由で推し進められる改革に、無条件に賛同する前に、「日本人として」英語をどう学ぶべきか、もっとよく考えなければいけないのではないか。
Posted by ブクログ
日本語環境に身を置く者として
いかに英語力を高めたらいいか。
日本語、英語、両方の力を高めたい
私にとって重要な課題だ。
その中、筆者が訴えるのは
決して斬新な意見ではない
「長文読解」。
『読む力を向上させ読む体力をつけることが
総合的な英語力を養う手段になる』
『英語と日本語の間には変換が必要』
『英語を日本語に訳し、英語を書いてみる』
中学時代からやってきた地道なことを続けることが求められる。
それなりの英語力になってきた今だからこそ、
「長文読解」がリスニング、スピーキングも含めた
英語力向上につながるのではないかとさえ思えてきた。
Posted by ブクログ
「英語と日本語のあいだ」をつなぐために、読む力が最も重要であり、訳読の授業によって英文を理解する訓練を積むことが必要、ということを主張するもの。新学習指導要領の「英語の授業は英語で」を受けて書かれたもので、いわゆるこれまでの正統派の英語教育の重要性を訴えている。
コミュニケーション重視の英語教育の風潮に対するアンチテーゼとなっているこの本であるが、内容的に目新しい部分はない。著者は文学が専門らしく、英語教育の専門外である。おそらく、「英語の授業は英語で」の意味を本当にそのまま捉えているのではないかと思われる。文科省側の説明が足りないことのあらわれと言える。
さらに、英語教育や文科省の側で、これらの本の提示する反論にきちんと答えているのかどうかは疑問である。日本の中高生が英語を学ぶ環境や、「コミュニケーション力」を伸ばす代わりに犠牲になる文法に対する知識や読む力、訳す力は本当に不要なのか、といったことについて、十分に考察・議論されていない気がする。
おそらく文法、訳読、オーラル・メソッド、多読、といったことの折衷案のようなものが必要なのではないか。例えば語研のように、「この方法が正しく、他の方法はおかしい、訳読は古い、教師自身が英語話せないから訳読の授業をするんだろ」のような批判の応酬はもうやめるべきだと思った。「訳読式」で語学をマスターした「英語の達人」も納得するような方法を、英語教育の側で提示し、英語教育の世界と言語学者や文学者などの世界をつなぎとめる研究や研究成果の発表が必要なのではないかと思う。(11/10/30)