あらすじ
著者は、常に臨床の現場に身をおきながら精神病理学と哲学を往還する独創的な学問的地平を切り拓いてきた。症例分析を通じて「もの/こと」や「あいだ」といった柔軟かつ強靱な概念装置を創出し、独自の自己論、時間論を展開、その思索は生命の根拠の探究へと旋回する。「からだ」と「こころ」はどのように関係しあっているのか。「生きる」とは、そして「死」とは? 木村生命論の内実と射程を雄弁に語る好著。解説:野家啓一 (講談社学術文庫)
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Posted by ブクログ
本書は1996年の秋に開催された『生命論』シンポジウムでの木村氏の発表原稿をまとめたもので、120ページ弱の小品だが、内容は興味深い。
「私とは何か」という大ネタに関する卓抜なアイデアが随所にみられる。
たとえば
≪わたしたちが生きていくためのさまざまなソフト機能が、身体というハード機能のおかげで営まれていることは、至極当然のことであって、そこからは何も難しい哲学的な問題など出てきません。
ところが、「肺呼吸相関」や「胃消化相関」が原理上格別に困難な問題を引き起こさないのと違って、身心相関(脳ーこころ)の方は古代ギリシア以来、西洋哲学を一貫して流れている最も解決困難な問題のひとつになっているのです。≫p16~17
確かに、呼吸機能は肺に消化機能は胃腸にそれぞれ還元して診断しやすいが、こころの機能を脳に還元して診断するのは難しい。
精神科医は脳内化学物質や脳の血流量などによってある程度こころの具合を評価することはできるが、肺機能や消化機能のように「これが原因です」と言って納得できる患者は少ないだろう。
定量的な検査結果から「セロトニン量が少ないのがこころの不調の原因です」と言われても、「いや、それは結果じゃないですか」とふつうは反応する。
「胃酸が出すぎてるから胃が痛いんですね」と言われたときとは納得の程度が違う。
なぜ、こころは胃や肺のように客観的な指標の威力を受けにくいのだろう。
木村はこう答える。
《物理主義的還元とは客観性増大の方向への移行、言い換えれば個人に、あるいは人間という種に固有の主観的視点への依存度の減少を意味します。ところが心的経験の本質がほかならぬこの主観的視点への依存にあるのだとすると、心的経験に関する限り、このような還元はわたしたちの理解を現象の本質から遠ざけてしまうことになります。≫p18
こころの観察に客観的な指標が使えないとすると、個人の認識を制御する統一原理として何が使えるのだろうか?
木村は「主観」と「主体」の違いに着目する。
≪日本語の「主観」と「主体」はそれぞれまったく違った意味に理解されてますが、どちらの場合も認識や行為を行う個人の側の統一原理として用いられることには変わりがありません。≫p23
さらにこの個人に内在する主観/主体を複数の主観/主体たちが共通の志向対象を共有する「間主観性」という概念に組み入れることで、客観性の光の中に引きずり出す。
≪わたしたちがそれぞれ個性をもった個人でありながら、認識の面でも行動の面でも他人と共通の基盤に立ちうるのは、めいめいの主観/主体をひとつにまとめて客観性を保証する「間主観性」のおかげだ、というわけです。≫p24
「間主観性」は一定の訓練を受ければ誰でも同じ認識で参加できる間主観性を「公共的」、当人にだけしか感じられない共生的な関係にある人たちに分有される認識を「私的」と2種類に分けることができる。
「私的間主観性」の具体的な例を以下に挙げる。
①子供のけがを目にした母親が激しい痛みを感じる
②本物の人間とマネキンの違いが遠目からもわかる
③長年連れ合った夫婦が申し合わせたような行動をしめす
この「私的間主観性」は生物一般が備えている同種選別の原理であり、対象の客観的知覚に伴ってつねに「暗黙のうち」に感じ取られる「経験以前の経験」の感覚といえる。
ヴァイツゼカー哲学のキー概念である「相即」は「私的間主観性」を別角度から解釈したもので、生き物がその生存を保持するために、知覚と運動の両面を動員して環境世界との間で保っている接触を指す。
≪すべての有機体は、環境世界との接触を保ってそこに相即を成立させているかぎり、その接触箇所において主体として生きているのです。≫p36
それでは、相即が成立する接触箇所とはどこにあるのだろうか?
≪生物が身体として存在しているというそのことが、身体全体のレベルでも器官のレベルでも細胞のレベルでも、そのまま生物と環界との境界を形成しているのです。それだけではありません。生物にとって環界といえるのは外部世界だけではないのです。有機体の内部状況も、いわゆる「内部環境」の形で相即の対象になります。生物が外界から栄養を取り入れるのは、餌が眼に見えたからというよりもむしろ、空腹が感じられるからなのです≫p41
ここでは主体は自身を成立させるために環界に出立しなければならないが、同時にこの境界そのものが主体それ自身だという奇妙な論理が垣間見える。
それでは、この論理では「わたしはほかならぬわたしである」という人間特有の自己意識はどこに位置づけられるのか?
≪人間の心的経験の主要な部分をなしているのは、対象を意識の上で思い浮かべる表象作用です。表象作用は、英語ではrepresentationといいますが、これは「再び現前させる」という意味です。つまり表象作用とは、現在目の前に知覚されていない、非現前の対象をふたたび現前させる作用なのです。この表象的再現前によって過去と未来が現在の中に取り入れられ、それによって時間が一本の連続した流れとなり、そこではじめて「歴史」ということが成立するわけです。人間の自己意識は、自分の存在がそのつど一回きりのもので厳密な意味での繰り返しは不可能だいう「一回性」、自分は全宇宙にただ一人しかいないという「唯一性」、自分の存在は他人と取り換えることができないという「交換不可能性」などの特徴を伴っていますが、それはこの自己意識が、他人と絶対に共有不可能な歴史によって裏付けられているからです。≫p47
人間特有の自己意識と環界との境界面での主体的なアクション「相即」の関係はどうなっているのか?
≪人間という特殊な生物の社会生活では、自己が「わたし」であるという歴史的個別性についての意識が圧倒的な重要性を持っていて、一般の生物種たちと共有している二重主体性、つまり個別主体と集団主体との複合は、この特殊人間的な対他的自己意識のもとに完全に埋没しています。≫p49
≪わたしたちの「からだ」そのものが、物質的・機械的な物体としての身体と、わたしたちが環境との間で営む相即的・適応的な行動との境界として、わたしたちの「こころ」なのです。≫p50
第一部のまとめ。
(過去~未来を生きる)歴史的個別性にくりぬかれたわたしの自己意識は対象を存在者(リアル=もの)として認識するが、環界との相即でその都度立ち上がるわたしは対象(わたし)を存在(アクチュアリティ=こと)としてとらえる。
存在の二つの形態とその操作
①リアリティ、存在者、歴史的個別性、歴史的・通時的次元、個体の死、意識の中や周囲に存在するもの、意識の対象、ノエマ、(操作可能性大)
②アクチュアリティ、存在、環界との相即、空間的・共時的次元、不死の生命、実践的なこと、行為的直観、意識する働きの意識、意識作用の面、ノエシス、(操作可能性小)
③表象によるリアリティの創発は②→①へと操作する手段、常に動く動画から静止画の切り抜き、ゼノンのパラドクス、トラウマの威力
④訓練によるアクチュアリティの創発は②(未完)→②(完成)へと操作する手段、動画から動画の再構成、大喜利、
⑤ ①と②が交わる場所、存在論的差異、Aはそれ自体Aと非Aの差異、もしくは関係、音の連なりとしての音楽、
医療はそもそも目的論的、価値観を前提にするので、②を捕まえることができない。
≪境界には、内部と外部の対立がないのと同様に閉鎖と開放の対立もないはずです。生き物は絶えずそれ自身を環境との境界として生み出し続けている、これが「オートポイエシス」と呼ばれる事態の本来の意味なのでしょう。≫p70
とはいえ、「ほかならぬこのわたし」が常に環境との境界に溶け込んでいるわけではない。わたしはリアリティ(表象)とアクチュアリティ(行為的直観)の両方の境界をまたぎ、行き来する。
≪環境との境界を具現しているそれぞれの個体は、各自の個別的な志向性の担い手であると同時に、集団全体の志向性の担い手(論理空間の担い手)でもあるという意味で、いわば二重の身分を持つことになります。集団全体の主体性と各個体の主体性が、各個体において二重構造を構成していると言ってもよいでしょう。≫p75
個別的な志向性の担い手としてわたしは自他の区別とともに「もの」を操作し(それと同時に死を抱え込む)、集団全体の志向性の担い手としてわたしは「こと」を実践し、境界に溶け込む。