あらすじ
二十八万石を誇った会津藩は戊辰戦争に敗れ、明治二年、青森県の下北半島や三戸を中心とする地に転封を命ぜられる。実収七千石の荒野に藩士とその家族一万七千人が流れこんだため、たちまち飢餓に陥り、斃れていった。疫病の流行、住民との軋轢、新政府への不満と反乱……。凄絶な苦難をへて、ある者は教師となって青森県の教育に貢献し、また、近代的な牧場を開いて荒野を沃土に変えた。知られざるもうひとつの明治維新史。
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Posted by ブクログ
僕たちにはそれぞれに出自についての「歴史」があります。故郷や一族には過去にどのような出来事があったのだろうか。僕の場合、本当に知らなかったこと、理解しようと思わなかったことが山ほどあって、今でもすべてを把握しつくしているわけではない。少しでも出来事をつなぎ合わせたりして、僕につながり、連なることどもをくっきりと思い描いておきたい。会津を追われた人々が流されたのは、北東北の僻地、いまの青森県三戸から北の下北半島まで。土地は荒野そのもの、言葉も通じない、冷害で食べ物もないところだった。幼い命、老いた命、将来を嘱望された命は随分と失われた。生き残った人々はその無念を忘れてはいない。
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戊辰戦争に敗れ現青森県下北半島あたりに転封を命ぜられた会津藩=斗南藩の実際ついて、会津藩士=斗南藩士を中心に紐解く一冊。
会津藩の戦後処理から始まり、旧南部藩領の荒野と移住の過酷さ、斗南藩の政治と差別、様々な道を歩んだ旧会津人たちについて語られます。
会津藩は雄藩でしたが敗戦後に旧南部藩領にて斗南藩となり、刀を捨て鍬を持たなければ生きられない社会へと変貌します。
不毛な地で大変苦しい立場に置かれた士族は農業を行うも立ち行かず、山菜や雑穀で食いつなぐ極貧生活を強いられます。
地元農民からは“会津のゲダカ”と蔑まれ、侍としての自尊心は返って重しになっていたことでしょう。
しかし気高く力強い斗南藩は優秀な人材を次々に輩出し、藩の内外でその力を発揮していきます。
逆境に強い日本人の先駆けとは斗南藩だと私は思いました。
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まず、前提としてこの本は徹底的に会津の視点で書かれた本である。文章から伝わる筆者の強烈な会津への愛と薩長への憎しみに、読み始めのうちは少々引いてしまった。
しかし、その筆者の熱は丹念な調査にも繋がっており、戊辰戦争敗北後に旧会津藩士たちが様々な人生を送ったことを調べあげている。西南戦争で政府軍として薩摩軍と戦った者、萩の乱に呼応して挙兵しようとした者、旧斗南藩に残り青森県の発展に尽くした者、屯田兵として北海道に渡った者…。薩長の英傑たちを中心にした華々しい明治維新の裏に、敗者たちの悲惨な歴史があったと言える。
あとがきには、安倍晋三元首相が音頭をとり鹿児島県、山口県、高知県、佐賀県が中心となって行われた「明治維新百五十年」記念行事への、東北の人々の複雑な思いが書かれている。戊辰戦争の敗者を無視したこの記念行事は、現政府にも明治政府の東北蔑視観が強く受け継がれていることの顕れてあると筆者は指摘している。
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明治維新後の大日本帝国が世界大戦に突き進んだのは、敗戦を経験していなかったからではないか。
勝てば官軍、歴史は勝者が編纂する。
戊辰戦争で敗れた奥羽越同盟の雄藩、会津藩は朝敵として転封される。
向かった先は不毛の地、現在のむつ市を中心とする下北半島だった。
28万石から3万石へ、実情は7千石にも満たない原野で会津藩士と、その家族は飢えにと病気に苦しみ斃れていく。
この仕打ちは明らかに、戊辰戦争の意趣返しであった。
歴史の教科書の明治維新では語られることのない、敗者の末路。
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江戸幕府の時代では雄藩として名をはせた会津藩が、戊辰戦争に敗れたのちに新政府から見せしめのために転封を命ぜられたのがタイトルの斗南藩だった。
実収がたったの7千石しかないこの不毛な土地に送り込まれた2万人近い元会津藩士とその家族たちは、極貧の生活にあえぎ、飢えと寒さでバタバタと死んでいく。その状況下、斗南藩のリーダーたちは、領民を飢餓から救い、将来の藩の興隆を考え血のにじむ努力をする。
そんな中、廃藩置県により状況が大きく変わる。藩への拘束がなくなった(直後に斗南藩は弘前県に合併され、消滅)ことで、ある者は活躍の場を求めて帝都に向い、ある者はより豊かな土地を求めて北の大地(北海道)をめざし、またある者は斗南の地に残った。
あらすじはそういったところでしょうか。本書では斗南藩成立の過程と、廃藩置県後の人々の活躍を丁寧に記しています。
斗南藩大参事 山川浩や、少参事 広沢安任の活躍に紙面が割かれるのはわかりますが、それ以外にも本書でしかお目にかかれないような人物の活躍も丁寧に記されていて大変参考になります。
朝敵の汚名を着せられ、社会的なハンディキャップを抱えることになったにもかかわらず、大志を捨てず、精力的に活動して成果をあげていった元会津藩士たちの活躍に驚きと感動を禁じえません。
個人的に心に残ったのは広沢安任。
廃藩置県に際して同志たちが次々と斗南を離れていったのに対し、彼は残りました。おそらく貧困、老いや病でこの地を動けない多くの民を案じたのでしょう。彼らの仕事探しに奔走しています。
廃藩置県直後に青森県知事が大蔵省に提出した報告書によると、斗南に移住した会津人は当初 約1万7000人。これが2年の間に1万3000人に減り、その中から約3000人が出稼ぎで土地を離れている。そして残った約1万人のうち、およそ6000人が病人や老人だという。まさに惨憺たる状況であり、広沢も相当苦労したであろうことが見て取れる。
そんな中で、広沢が七戸藩の大参事であった新渡戸伝(新渡戸稲造の祖父)から様々な援助を得ることができた場面が描かれている。
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広沢は、自身は斗南に残ることを宣言し、・・・人々の仕事探しに奔走した。
資金援助も含めて積極的に支援してくれたのは、十和田開拓の功労者七戸大参事新渡戸伝だった。
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苦労人だけに広沢の苦悩が手に取るようにわかり、従来から農工具を提供くてくれ、さらに今回の廃藩置県で、帰農を希望する人を受け入れることも約束してくれた。
広沢は意志の強い強情な人間で、決して人に涙を見せることはなかったが、このとき新渡戸の前で号泣したという話が伝えられている。
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広沢の置かれた状況を念頭にこのシーンを想像すると、こみ上げてくるものがあります。
その後広沢は日本で最初の洋式牧場を開き、日本の肉食文化定着に重要な役割を担うことになります。
終盤はどこか郷土史研究報告に近い趣があり、評価が分かれるかもしれません。
しかし明治維新後の隠れた歴史を知る上で、お手軽に豊富な知識を得られる良書だと思います。
Posted by ブクログ
戊辰戦争その後、会津藩降参後に下された新政府の指示が
青森県下北半島への移住命令。藩名を斗南藩という。
会津若松の方々のそれぞれの明治時代の軌跡が語られています。
歴史は双方から見ないといけないですね。
Posted by ブクログ
旧会津藩士が移住を命ぜられた知る人ぞ知る斗南藩。その成立経緯、行政機構、主な人物を中心に語られる。言語を絶する苦難、あたかも日本国内の難民であるかのような扱いであった。
私もその末裔として本書を手に取ったが、このような境遇に追いやった薩長に悲憤を感じる。中公新書にはよくぞ出版してくれたと喝采したい気持ちになった。
より多くの日本人に明治維新の裏側にこのような事実があったことを知ってほしい。会津の国辱はまだ雪げてはいない。
Posted by ブクログ
北海道札幌に琴似という場所があり、最初に出来た屯田兵であり200戸ほどが入植して、現在も子孫会が立派に未来につなげようと活動している、会津藩(斗南藩)出身者が多く入植しており、2025.9.2に子孫会150年記念講演に会津松平家14代目当主松平保久氏が登壇されたほど繋がりがある
斗南の謂れは漢詩の「北斗以南皆帝州」に由来、中国の古典に登場する表現で、「北斗星の南はすべて皇帝の支配する領域である」とあるが、保久氏曰く「南と斗う」意味に捉えているらしい(リップサービス?)
新選組に狙われた木戸孝允による個人的な陰湿ないじめのため会津藩はワリを喰い斗南組も北海道放逐組も大概苦労している
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「ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書」を読み、会津の歴史を補完する意味合いで手にした。
戊辰戦争後の会津藩。
そこに暮らしていた人々は朝敵の汚名を被り、不毛の地と言われた下北半島に移され屈辱の日々を強いられる。まったく理不尽な仕打ちの中で、力強く生き陸奥地域の発展に貢献した会津人魂を強く感じた。
現政府は明治維新の再来か。維新周年事業などを華々しく催した裏側で、会津にとっては戊辰周年なのだ。いまだに溝は埋まらない。そんな歴史に翻弄された当時の人々の無念を思うと胸が詰まる。
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戊辰戦争後の会津藩の辿った悲劇がわかる。人は、生まれた時代に寄ってその人生が決まってしまう。会津藩の人たちは、江戸時代に生まれれば、幸せな人生を送れたと思うが、維新後に生まれたために賊軍にされてしまう。会津藩の悲劇が書かれているが、薩摩・長州は江戸時代には外様大名として虐げられていた.....。