【感想・ネタバレ】教養としての政治学入門のレビュー

あらすじ

政治学をこれから学ぼうとする読者や、社会人として最低限知っておくべき教養として政治学を身につけたいという読者に向けて、最先端の研究者が最新の論点を提示。いま政治学で何が問題になっているのか、なぜそれが争点なのかを、政治史・政治理論・国際政治・福祉政治・行政学・地方自治などの専門研究者が、「日本と世界」「歴史と思想」「比較と地域」の3部構成、12のテーマで幅広く、わかりやすく論じる。学問の面白さ、大切さを伝える、初学者から学べる現代政治学案内。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

以下引用。









もとより政治はとっつきにくい。そもそも、何をもって政治とするのかさえはっきりしない。「政治とは何か」という問い自体が古代以来のものであって、人間の歴史を通じて数多の賢人たちが論争を重ねてきた。ひとつはっきりいえるのは、他者との関係性のなかで生きる社会的存在としての人間の営みがあるところには、必ず政治が存在することである。
政治は、相違なる利害が共存する事実を受け入れるところではじめて生起する。特定のイデオロギーに基づく一体性を徹底し、それへの異論を唱える「KY」な人たちをことごとく排除するところでは、政治の出番はない。人々は多様な利害を抱え、複雑な相互関係を結ぶ。共存のための解を見出すのは容易なことではない。人々は多様な利害をかかえ、複雑な相互関係を結ぶ。共存のための解を見出すのは容易なことではない。したがって、政治は面倒でひたすら手間がかかる。だが、それを引き受けることこそが、野蛮から離れる叡智である。

イギリスの知の巨人J・S・ミルによれば、教養とは、人間の利害にかかわるあらゆる重要な問題について何かしら知識をもつことである。それは、いくつもの個別独立した知識や見解同士を結びつけ、全体を見通すために不可欠である。

権力は公共善を実現する「善きもの」とみなすのであれ、一定の秩序を得るための必要悪とみなすのであれ、私たちの社会には必要である。

紛争のメカニズムを大きく変えた要因としてグローバリゼーションをあげることができる。グローバリゼーションとは、一般的には、人・財・資本・サービス・アイデアなどの移動の量と速度が高まるなど、国境を越えた相互作用が大量、急速かつ多様に展開する結果、各国社会の結びつきが複雑かつ緊密になることを意味している。こうしたプロセスが各国社会に与える影響は多様だが、抽象的にいえば、富の生産と分配の仕組みが大幅に変容する。

「官僚」には今日でも、杓子定規で、融通がきかず、血の通わない嫌な奴らという負のニュアンスがついてくるが、こうしたイメージは、この言葉の生成と同時にできあがっていた。
バルザックは役人の生理学を書く。「生きるために俸給を必要とし、自分の職場を離れる自由を持たず、書類作り以外になんの能力もない人間」、彼は役人をこのように定義している。
一方官僚制をウェーバーは合理的とする。大規模な組織には「規則による規律」が不可欠であり、「即物的非人格性」が求められる。という視点は、今日においても、それどころか「政治主導」「官邸主導」が強く打ち出されている時代だからこそ重要である。
戦後日本を代表する政治学者である丸山眞男は、日本があのような「非合理」な戦争にズルズルとのめりこんでいった事情について批判的な考察をのこしている。「軍国支配者の精神形態」において丸山はナチの幹部と比較しながら、日本の政治エリートを分析する。日本の軍国支配者には「今度の戦争において主体的責任意識に希薄だ」としてきする。こうした「無責任」を、「自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏になりすます」ウェーバーのいう「官僚精神」に由来すると彼はいう。政治家が自分の仕事と責任を放棄し、官僚的に振舞うことに彼は問題をみた。
ウェーバーは政治決断とその責任を、共同体を導く政治家に負わせながら、官僚制をそうしたリーダーに従う「マシーン」として描く。たとえ自分の見解がリーダーと異なるとしても、あたかも自分もそれに賛成であるかのように淡々と誠実に職務をこなすことを、彼は役人の「名誉」とすら呼んだ。これに対してアーレントが問題にしようとするのは、まさにこうした官僚的な行動であった。「怒りも興奮もなく」淡々と仕事をすることが、「行政的大量虐殺」を生み出したのではないか、とアーレントは問う。大悪人による巨悪が問題なのではない。「アウシュヴィッツ」という、人類史上最大の犯罪行為を可能にしたのは、役人的に振舞う、「陳腐」ですらある悪だった、と彼女はいう。

政治的に「思考」するということは、ジレンマに直面して、安直に結論を出さず、そのせめぎ合いのなかで考え、判断することである。
ある一定の規則や命令に従って、真面目に粛々と業務を遂行しました、という態度に、アーレントは「悪の陳腐さ」をみいだした。これを避けようとするなら、今ある規則を猛進することなく、強い主張になびくこともなく、自分で「思考」する力をつけなければならない。政治学はそのためにある。

安吾によれば、人間は「堕ちぬくためには弱すぎる」存在であるため、一定の社会規範・行動規範・規約を求める。その最たるものが「日本歴史のあみだした独創的作品」としての天皇制であった。安吾は、空襲のような巨大な破壊をまえにしてもそうした社会規範を守って粛々と「運命」を受け入れる人間の姿を「美しい」とも表現する。だが、と安吾は続ける。「そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかった」。「泥棒すらもいなかった」戦時中の日本は「嘘のような理想郷」であったが、「それは人間の真実の美しさではない」。安吾からみれば「堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻想にすぎない」のである。「特攻隊の勇士」も「未亡人が使徒たること」も「幻想」でしかない。

連合国軍の戦争責任、戦争犯罪を自分の問題として裁くためには、当然裁く側の日本人も「連合国」と同じように「戦争責任」をもち、「戦争犯罪」を犯したという「加害者意識」を持たなければならない。「加害者体験をぬきにして被害者体験を話すことはできないし、ひいては平和そのものを語ることはできない」のである。しかし、「私たちの被害者体験」は「自分がかつて加害者たり得たかも知れないという意識」を「特徴的に欠いていた」。

「状況がよいときは、国家原理と個人体験はぴったりと重なり」、「人々は容易に戦争遂行者としての自分を自覚することができた」が、「状況が悪化して、国家原理と個人体験のあいだに亀裂が生じて行くとともに、そうした自覚は次第に曖昧なものになっていき」「敗戦という決定的な破局が来たとき、人は「だまされていた」と言い切ることができた」のであった。
その帰結は、「誰もが無差別、限定的に被害者であり、誰もが「だまされていた」という奇怪な結論」である。そこでは、「すべてわるいのは国家であり、その国家から被害者体験をテコとして自分を切り離すことは容易にできたから「だましていた」責任の主体は、それを構成する人間を欠いた国家という得体の知れない抽象体でしかあり得ない」ことになった。このような状況においては、国民の一人一人が「国家の敗北を自分自身の屈辱として」受け取ることもない代わりに、「自分が真に戦争遂行者であると自覚」することもない。

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2020年02月24日

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