【感想・ネタバレ】なぜ人と人は支え合うのか ──「障害」から考えるのレビュー

あらすじ

障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。

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ネタバレ

障害への意識改革としていい本である。やまゆり園の事件をもとにしていろいろと書いている。著者はライターであるので学生も読みやすい。自閉症スペクトラムで、スペクトラムというのは連続体であり、軽度から重度まで様々であり、今までの自閉症は古典的自閉症という、ということは初めて聞いた気がする。

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2026年03月18日

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「こんな夜更けにバナナかよ」の著者が構想5年、悩み抜いて書いたという新書。若い人に向けた内容であるが、障害者を取り巻く環境の変遷、歴史、そして現在進行形の問題、課題、疑問など。いろいろ考えることが多い日々だが、すこしずつ凝りがほぐれていくような気がした。

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2025年12月11日

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「障害」、「障害者」を考えていくことで、「なぜ人と人は支え合うのか」という根源的でもある深い問いへのひとつの答えがでてきます。

本書の始点と終点はまさにその根源的な問いかけとそれに対する著者なりの答えとなっています。その二点を結び付ける線にあたる部分が本書の大半にあたり、それは思索や当事者たちの経験であり、文章の中に豊かに息づいていました。

はじめに語られるのは2016年に相模原で起こった障害者19名を殺害した事件「やまゆり園障害者殺傷事件」。犯人の植松死刑囚は、「障害者なんていなくなればいい」とその動機を語ったとか。こういった考え方は、本書に登場する哲学者・最首悟さんが「実は多数派かもしれない」と言っています。確かに僕にも、この事件が起きたとき、「間違ったことだ」と思いつつも、はっきりと何がいけないのかを言葉で説明・主張できなかったところがありました。それだけ、社会のシステムが健常者視点で作られていますし、経済ファーストの価値観が浸透しているためなのだろう、と今では考えられるのですが。また、蛇足ではありますが、植松死刑囚は自己愛性パーソナリティ障害及び他のパーソナリティ障害を抱えていると診断されていますし、大麻にも手を出していて高揚した気分で犯行に及んだようです。そして、収監後の接見などでわかったこととして、

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 つまり、人に自分の意見は述べる、しかし、相手からの反論は受け付けない。そうした姿勢が植松被告の主張を成り立たせている根幹にはあるようです。
 このことは、まず第一に知っておくべき、この事件の重要なポイントです。(p55)
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という性質があげられています(蛇足ついでにもうひとつ言うと、僕の父がこのタイプで、やっぱり差別や暴力のある人なのでした)。

この事件によって、たとえばネットには、植松死刑囚の考え方を是とするような書き込みが増えて見受けられたそうです。

「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」
「どうして強い人間が、弱い人間を生かすために働かなきゃならないんですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では、弱者を救おうとするのですか? すぐれた遺伝子が生き残るのが、自然の摂理ではないですか?」

以上がその一例として記されていました。こういった素朴で露骨な問いには、一見モラルやデリカシーに欠けているかのように思えますが、障害者や健常者問わず、人間の存在意義(質問を発した人たち自身の存在意義でもあります)に対しての大切な省察につながる機会が得られるのではないか、という視点が宿っているとも考えられます。本書はそこから一歩ずつ、思索や考察の道へと踏み込んでいくものとなっていました。

著者は札幌で、鹿野さんという重度身障者を紹介されて、介助も経験することになっていきます。鹿野さんは自分の介助や世話をしてくれるボランティアを探さないと自分が自立して生活していけないため、どんどん学生や主婦などを巻き込んでいく人です。そればかりか、夜中にバナナが食べたい、だとか要求する遠慮のない人でもあります(映画化もされた『こんな夜更けにバナナかよ』は著者によるもので、鹿野さんとの経験が語られた内容だそうです)。

鹿野さんが亡くなったのが、2002年で、42歳でした。僕はその時代学生で、札幌でアルバイトをしていました。バイト仲間の北大生なんかが、こそこそと鹿野さんの話をしていたような気が今思いだすとするのですが、でもまあ記憶違いかもしれません。もしも記憶違いじゃなければ、バイト仲間のなかでもボランティアに誘われた人たちがいたのでしょう。

閑話休題。そんな身障者の生き方から感じられるのは、自分が、障害者って社会に気遣いながら控えめに生きていくものだ、という考え方を知らないうちに身につけているっぽいぞ、ということです。障がい者は我を張ってはいけない、なぜなら健常者や社会の世話になっているから、という強者の論理を、僕くらいの中年世代なんかは無意識に身につけていたりするものではないでしょうか。依存する者、依存される者という立場は固定されていると信じている。また、鹿野さんは呼吸器をつけながらもタバコを吸うからくれ、と要求する人ですが、これについても、介助側から「それはいけない」と拒否してタバコを吸わせないとすると、それはパターナリズムとなります。押し付けなんですね。そういった観点からも、障害者と健常者の関係はとても考えさせられるものですし、それを超えて、人と人との関係とはなにか、にまで繋がる問いにもなっているのでした。


といったところでも本書の導入部までではあるのですが、以下からは引用とそれへのコメントで書いていきます。



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 これは往々にしていえることですが、私たちの社会は、「かわいそうな障害者」や「分相応で控えめな弱者」に対しては、とてもやさしい面(温情)があるのですが、社会に対して毅然と主張してくる障害者や、弱者の枠をハミ出すような側面がかいま見えたとたん、平然と冷たくなる特質があります。こうした「あわれみの福祉観」というものから、私たちはなかなか自由になることができません。(p137)
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→この続き部分にもあるのですが、あわれみでみられているということは、なければないに越したことはない存在、という目でみられているということになります。これを解消するための試みをするためには、次に引用しますが、「障害の医学モデル」と「障害の社会モデル」という視座の違いが大きく関係してきます。



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 つまり、障害とは、病気やケガなどによって生じる医学的・生物学的な特質であり、障害の重さは、手帳の等級によって示されます。こうした考え方に代表されるような障害のとらえ方を、「障害の医学モデル(または、個人モデル)」といいます。(p139)

 つまり、障害者に「障害」をもたらしているのは、その人が持っている病気やケガのせいというよりは、それを考慮することなく営まれている社会のせいともいえるわけであり、こうした障害のとらえ方を「障害の社会モデル」といいます。(p140)
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→社会モデルの方は、社会が健常者のためだけに作られていることに問題を見出すものでしょう。点字ブロック、駅のエレベーター、スロープ、または手話を使える人が増えることなど、社会の側にあるバリアの解消のほうが大事だととらえています。そこには、健常者も障害者もその立場は本来フラットであるものなのだという人権尊重の考え方があります。



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 とはいえ、財政難を理由に、給付をしぶり、サービスをできるだけ抑制したがるのは行政のつねです。重度障害者が地域で「普通」に生活するためには、自ら声をあげて介護支給を「勝ち取る」という涙ぐましい努力をしなくてはならない点は、現在でも変わっていません。(p178)
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→世の中の現状維持の力ってとても強くて、そこで自分の権利を主張して認めてもらうためには、多大なエネルギーが必要になるものだということは、法律学の入門書にも書いてありました。仕組み上、そうならざるをえない世界なんです。そんな世界で、権利を「勝ち取って」きた障害者の人たちの努力、労力、そして気持ちの強さには頭が下がると同時に、自分もできるだけそっちの人間でありたく思うのでした。



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 あるのは、「価値のある人間・ない人間」という区別ではなく、「価値を見出せる能力のある人間・ない人間」という区別です。(p208)
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→脊髄性筋萎縮症の当事者である海老原宏美さんが2017年、長年の障害者自立を支える活動が評価されて表象された際に、小池都知事にあてた手紙のごく一部分がこの引用です。重度障害者が人目につくことで、彼等の存在意義とはなんだろう? という問いが生まれます。そうして考える機会を人々に与えているのだから、それだけでもまず存在価値がある、とする主張でした。そのうえでさらに存在価値を考えて答えを出していけると、さらに重度障害者の存在価値は高まるでしょう。ここには、相模原の事件へのカウンターの意味があります。p230にもあるのですが、障害者や老人を通して、人と人の繋がりを知れること、繋がり方が学べることってあります。そういったところにも、価値を見出せるか見出せないか、なんですね。



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 人は「誰かの(何かの)役に立つ」 ということを通して自分の存在価値を見いだす生き物なんじゃないか、という気がします。でも、役に立てる対象(困ってる人)がいなければ、「誰かの役に立つ」ということ自体ができないので、困っている人の存在というのも、社会に欠かせません。となると、「困ってるよ」ということ自体が、「誰かの役に立っている」ということになりますね。(p242)
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→これも、海老原宏美さんの言葉ですが、だからこそ、世の中には、困っている人と手を貸せる人の両方が必要だというのでした。ほんとそうだと思います。まあ、義務とかではないし、そうしないと肩身が狭くなるものだといけないのですけど、そういった手を貸す人と借りたい人が偏見にさらされないことは大切だろうなあと思うところでした。



他、困っている同志だとか、障害者当事者同士、障害者家族同士などでの相談会、家族会などでやっていることが「ピアカウンセリング」と呼ばれることを本書で知りました。ほんとうは、資格を持ったカウンセラーにも参加してもらうといいんですよ。でも、経済的な理由から、それは難しいのかもしれない。でも、介護の現場を経験している身としては、主張していきたいことだったりします。

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2025年07月14日

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ネタバレ

「こんな夜更けにバナナかよ」の著者による一冊。相模原の事件を冒頭に、障害者たちがどう生きているか、またどう自立生活を文字通り『勝ち取って』いったか、さらにはその制度に甘んじてしまういまの障害者/介助者世代への危機感も書かれている。わたしは自分がASD・うつ病のふたつの障害を持っており、(運良く)自活していることもあって、読みながら「この人は何をいいたいんだ?」とまだるっこしく思うこともあったが(本書に描かれる人たちはほとんどが身体の障害者、というのもあったかもしれない)、振り返ると、人と人との付き合いというものについて、丁寧に論を運んでいた感じがあった。
ニーズがないと「居ない」と思われる。それがいちばん刺さった文言だった。……ただ、それとはまたべつに、守られていなくても、あるいはたとえ「守られていて」いるとされる範疇にあっても、ひと/自分が閉塞感を感じたときそれを打破しようとすることを妨げない/られないことが全体に必要であり、また、実際の付き合いを大切にしていくことの重要性もひしひしと感じた。

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2024年01月04日

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『こんな夜更けにバナナかよ』の渡辺一史さんの著書。3章までは夜バナにもあった記載の要約的な側面も強いが、相模原の事件を踏まえて書かれているし4章障害・障がい表記問題や5章の海老原さんの話は面白かった。

何よりこの本がちくまプリマーにあることが大切な本。

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2022年12月04日

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筆者の渡辺一史さんは、「こんな夜更けにバナナかよ」の作者である。「こんな夜更けにバナナかよ」は、筋ジストロフィーを患う鹿野靖明さんと、彼が亡くなるまで、彼の介護者として関わった多くのボランティアの物語だ。私は、つい先月に読み、大いに心を動かされた本だ。
「こんな夜更けにバナナかよ」は2003年の発行。本書「なぜ人と人は支え合うのか」は、2018年の発行であり、"バナナ"から15年間が経過している。本書を書いた理由を、渡辺さんは、「それから15年の歳月が流れ、あらためて当時の体験を、もっと広い視野でとらえ返してみたいと思って取り組んだのが本書です。」という説明をしている。
第1章は、神奈川県相模原市で起きた「やまゆり園障害者殺傷事件」を取り上げ、植松被告の主張を実際の障害者の例をひきながら、丁寧に考察している。
第2章は、上記の鹿野さんおよび鹿野さんボランティアの人たちとの出会いを振り返っている。
第3章では、「"障害者が生きやすい社会"は誰のトクか?」と題して、障害者福祉の進展の歴史をさかのぼっている。
第4章では、障害者の表記の問題、「障害者」なのか「障がい者」なのか「障碍者」なのか、ということを、これも丁寧に検討している。
第5章は、総括として「なぜ人と人は支え合うのか」ということについての渡辺さんの現時点での考えが述べられている。それは、支え合うことによって(というか、もう少しシンプルに触れ合うことによって)、人は、また、人と人との関係は変り得るし、成長し合えるからということだと理解した。

渡辺さんは寡作の作家だ。
私の知っている渡辺さんの著作は、「こんな夜更けにバナナかよ」の後は、「北の無人駅から」と本書「人と人はなぜ支え合うのか」だけである。"バナナ"が2003年の発行なので、約20年間に3冊である。書いておられるものを読むと、決して多作にはなれない作家ということは分かるが、もう少し書いて欲しいな。

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2022年05月18日

Posted by ブクログ

筋ジストロフィーを患った重度の身体障害者と彼を支えるボランティアの生活を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』で2003年にノンフィクション作家としてデビューした著者の3作目(20年弱に渡る活動の中で著者が3作しかないというのも凄いが、それは著者の過去2作がどれだけ凄い作品であるかということの証明でもある)。

大泉洋の主演による2018年の映画化を受けて、改めて障害者について考えたいという著者の思いをベースに、2016年に発生した相模原での障害者施設の大量殺人事件で犯人が問うた「障害者の存在価値とは何か?(価値など存在しないのではないか?)」という命題が考え抜かれている。

本書の最終章ではこの命題に対するあざやかな回答として、「価値がないと考える人には、価値を見出す能力がないだけではないか」という考え方が示される。我々は単なる地形の隆起に過ぎない富士山に対して、勝手に価値を見出している。自然現象に限らず、芸術もその典型例であろう。価値とは先験的に存在するものではなく、それを解釈して見出す側がいて初めて存在する。物事から価値を見出すというのは人間存在における重要な思考の役割の1つであり、価値を見出せないのならば、自らの思考の浅はかさを呪った方が良いということだろう。

いたずらに結論を急ぐことなく、『こんな夜更けにバナナかよ』以降に著者が考え続けてきたことが、ゆっくりとした筆で語られることで、こちらの内面にも著者の思考が浸透してくる良書。

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2020年09月22日

Posted by ブクログ

重い障害を持つ人の世話をするコスト。そこに使われているお金は我々が払った税金なのか?…国にとってお金は作り出せるもの。需要に対して供給する。その流れを適正にするため通貨は発行されなければならない。徴税感の重さは障害者のせいではなく、政策の問題。政府は国民が幸せになるため政治を行わなければいけない。誰かに対して何かをする。幸福感はそこに生まれる。困っている人がいるから助けることもできる。一見何の役にも立たない大木が、そこにあるだけで威厳をみせる。存在するとは需要であり供給でもある。生きるとは支えあうこと。

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2025年05月11日

Posted by ブクログ

この星に生を受けたモノの1つとして、同じようにこの星に生きているたくさんのいろいろなモノ達と、どんな時もニュートラルな関係でつながりたいと思いました.......。

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2020年02月13日

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なぜ人と人は支え合うのかという大命題を解いていく。といっても答えは載っていない。ちくまプリマー新書だけに示唆的にいくつか障害者との事例を出したり、制度のことや「しょうがい」に当てる漢字についても取り上げている。ちょうど執筆時期(といっても5年かかっているらしいけど)と重なっていたこともあってか、津久井やまゆり園事件についても特に殺害を図った植松聖についても触れている。
私もかつて障害者の家で泊まり込み介助らしきことをやっていたから、渡辺さんと『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野さんとのつき合いの様子などは、当時のことを思い出し、うなずけたり懐かしく思うことが多かった。
「しょうがい」に当てる漢字については、私の今の認識は渡辺さんと似ていて、過剰に意識することなく使えばいいと思っている。何よりも障害者自身が、「障がい」という書き方をそれほど望んでいなかったとは。こういう似非配慮らしきものが世のなかと障害者をよけいに隔絶してしまうのだと思う。
それを思えば、植松さん障害者とかかわっていたわけで、その末の曲解であろうとも、それを障害者にやさしくとか口では言いながら、かかわることなく過ごしている人が非難するのってどうなのって思う。法治国家(?)の日本で人を殺したのだから刑は科されるものだろうけど、彼なりの実体験から導かれた障害者観は、間違った考えと一刀両断にできるものでもないと思う。……この件、この本の感想とは関係ちょっと脱線してしまった。
渡辺さんはたぶん考えはめぐらすけど答えはあえて出さない人のような気がした。答えを出すということは、言い換えれば決めてしまうことであり、その答えにとらわれてしまうと物事を見る目が不自由になってしまうと思う。優柔不断に思われがちだけど、そんなところに勝手にシンパシィを感じ、考えあぐねながら書いたであろう文章にやさしさを感じた。

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2019年08月03日

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