あらすじ
科学(science)──それはもともと「知ること」を意味する。哲学や宗教を包含した知的営みであった中世以前の科学は、やがてルネサンスの訪れを機に次第にその姿を変えていく。啓蒙主義、フランス革命、産業革命、そして世界大戦といった政治的・文化的出来事の影響を受けた科学は、社会的位置をたえず変化させながら「制度化」の道をたどってきたのだ。複雑にからみあうさまざまな社会的要素を解きほぐし、約400年にわたる西洋科学の変遷を明快にまとめた定評ある入門書。図版多数。
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Posted by ブクログ
科学の内容だけでなく、科学を取り巻く人々の考え方の変化や科学と国家の関係も幅広く知ることができ、非常に勉強になった。さらに異なる学説を紹介した上で、著者自身が正しいと思う学説とその理由をしっかり述べており、立体的な視点を得ることができた。唯一欠点があるとすれば、日本の科学のあり方について全く触れていないことだったが、それはまた別の書籍で読むことにしたい。
Posted by ブクログ
タイトル通り、科学の歴史をその社会背景や社会への影響の面から描いている。
ギリシャの科学思想は、紀元前6世紀のイオニアの自然哲学の出現に始まり、前4世紀のプラトンやアリストテレスが活躍したアテナイの黄金時代を経て、エジプトのプトレマイオス王朝の首都アレキサンドリアが中心となるヘレニズム時代が幕を閉じる期限後1世紀頃までの間に興隆した。
5世紀以降、東ローマ帝国の東方正教会から異端の烙印を押されたキリスト教徒たちは、難を逃れてササン朝ペルシア領内に移り、ギリシアの哲学とその著作をそこに伝えた。529年、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスは、異端者による哲学の教育を禁止する勅令を出し、ギリシャ最古の学校アカデメイアが閉鎖されると、ギリシア系学者もササン朝ペルシアに亡命した。7世紀にイスラムがこの地を占領すると、アラビア学者はカリフの庇護を受けてアラビア語への翻訳活動を進めた。
11世紀末までにイベリア半島や南イタリアのシチリア島を占拠していたイスラムが後退し、ヨーロッパ人がアラビア学問の拠点を掌握すると、これらの書物をラテン語に翻訳していった。13世紀には、トマス=アクィナスによってアリストテレス哲学とキリスト教教義が融合・体系化されて、スコラ哲学として知られるようになった。
イタリア・ルネサンスでは、各地に散在するギリシアやローマの原典が広範に収集され、厳密に研究された。東ローマ帝国がオスマン・トルコに滅ぼされると、コンスタンティノープルのギリシャ系学者がフィレンツェに亡命し、ギリシャ語の古写本も大量に持ち込まれた。
コペルニクスが「天球の回転について」を、ヴェサリウスが「人体の構造について」を出版した1543年から、ニュートンが「プリンキピア」を出版した1687年までを科学革命の時代とすることが多い。1543年は、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた年でもあった。フランシス・ベーコンは、印刷術、火薬、羅針盤という三大発明が世界を大きく変革したように、技術としての科学は自然と社会を変革する力となるという視座に立ち、アリストテレス以来強調されてきた演繹法に代わって、能動的に自然を操作して実験観察を行ない、それにより集積されたデータから公理を導き出す帰納法を強調した。ベーコンが強調した実験的手法は、18世紀以降に数学的手法と結びついた精密な定量的実験に適用されて大きな実りを結んだ。
キリスト教は、人間だけが神に似せて作られた特別の被造物であり、その他の自然は神が人間のために与えたものであると説いているため、人間が他の被造物を客観的に調べて研究の対象にするという主体と客体の分離が可能だった。混沌とした自然の中から法則性を発見することは、創造主の存在の必然性を明らかにし、神の計画の偉大さの認識を深めること、つまり信仰活動に他ならなかった。ケプラーやガリレオにとって神は偉大なる数学者であり、神が創造した自然は数学を使って読み取ることができると考えた。ボイル、デカルトなどは、数学者としてばかりでなく、偉大なる機械製作者とみなして自然を探求した。ピューリタンにとって、神の創造した本来の自然を研究することは、神の知恵と力と善を理解するための有力な手段とされた。観察や実験に基づいて自然をしっかり捉え、理性に従って考えるエートスは、新しい科学の精神と合致していた。
啓蒙主義は17世紀後半の名誉革命期のイギリスに始まるが、18世紀のフランスで大きな高まりを見せた。ベイコンやデカルトやニュートンが築いた近代科学の精神に触発されたフランスの哲学者たちは、科学革命が自然研究ばかりでなく、人間の全活動を変えつつあると信じた。啓蒙主義者たちは理性に根ざした新しい知識や考え方を一般民衆に啓蒙して、旧時代の不平等で不自由な政治形態、社会制度、宗教思想、慣習を打破し、変革しようとした。法は理性に基づいて万人が納得できる形で導かれた、永久不変の「自然法」であるべきだと考えられた。18世紀の啓蒙主義は、アメリカの独立宣言やフランス革命という政治的事件の引き金になった。
19世紀になると、科学者の増加と研究の肥大に伴って、科学は様々な専門分野に分化していき、サイエンティストの言葉も使われるようになった。教育・研究の制度化によって、専門的な科学教育を受けた人々がフルタイムでその専門領域の仕事を従事することによって生計を立てる職業化が成立した。19世紀後半には、産業界で活躍する職業科学者が大規模に登場した。1860年代以降のドイツ染料工業は、独自の高等教育制度の拡充、企業家による莫大な資本投下、産業研究の組織化に成功して世界を席巻し、現在の巨大工業の原型となった。
第一次世界大戦におけるガスによる兵士の死傷者は53万人、非戦闘員を含めると100万人近いと推定されている。広島と長崎に投下された原爆によって、21万人以上の命が奪われた。1986年に発生したチェルノブイリ原発の爆発火災事故によって700万人が被害を受け、12万5000人以上ががんなどで死亡した。