あらすじ
1998年9月13日、中田英寿はセリエA開幕戦で王者ユベントスを相手に
2ゴールをあげ、衝撃のデビューを果たした。
あれから20年――。自らがプレーしたイタリアの5クラブと全スタジアムを
訪ね、チームメイトや旧友と再会し、自身の人生を辿る一大紀行。
文・金子達仁
■Prologue プロローグ■
中田英寿との出会いと、20年目の旅
■Chapter1 PERUGIA 1998.7-2000.1■
ペルージャ 旅の始まり
■Chapter2 ROMA 2000.1-2001.6■
ローマ 栄光のとき
■Chapter3 PARMA 2001.7-2003.12■
パルマ 背番号10と葛藤の日々
■Chapter4 BOLOGNA 2004.1-2004.6■
ボローニャ 再出発
■Chapter5 FIORENTINA 2004.7-2005.8■
フィオレンティーナ 雌雄
■スペシャル対談■
中田英寿×バティストゥータ「サッカーは“言語”だ」
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
セリエAでの栄光と挫折。こうなってしまうよなぁ、中田の経歴からすると。ペルージャでの輝きとローマでの栄光。その光を纏ってさらなる高みへと行くはずだったんだけどなぁ、パルマでは。
パルマ在籍当時の自分のサッカー知識・情報量では、チーム状況とかが理解できずに、なんで上手くいかないんだろう、ってただただ不思議だった覚えがあるわ。
そこから居場所を求めて、チームを転々とするシーズンが続いて、引退しちゃったんだよなぁ。
読んでいて驚いてしまったのは、ペルージャやローマで歓迎されるのは当たり前と思っていたけど、そのほかのチームでも歓迎されていたこと。中田英寿の人間性もあることながら、それぞれのクラブで選手個人への尊敬があるからなんだろうなぁ、と思います。サッカー選手という、ある意味ではクラブの商品としての側面を持つけれど、それ以前に一人の人間なんだ、という当たり前の認識。
そういうことが素晴らしいし、そういうクラブで敬意をもたれている中田英寿という選手は、やはり素晴らしいのだな、と再確認。
個人的ハイライトは、どうしてもローマ対ユベントスのあの試合になりますね。バティとモンテッラが左右に開いて、どっちに出すのか?と思っていたら、ずどんとミドル。あの時のGKファン・デル・サールなんだよねぇ。スクデットとれないとかいろいろあって、彼フルハムで稲本と一緒にやるんだよね。で、その後マンUで復活と。
パルマ行かずに、ローマでCL出てたらその後どうなってたんだろうか。こればっかりはわからない、ほんとにわからない。
ただ、自分のやりたいサッカーをやれるチームを探してた、というのであればビッグクラブ・メガクラブに移籍大活躍というifではなさそうだ。
現在の手数少なく最短距離でゴールまで、のサッカーにはあってると思うんだけどね。CMFで君臨する姿とか想像できそうじゃない?