あらすじ
子供の絵はなぜいいの?絵はどうやって見てどう評価すればいいのか?美術批評家・椹木野衣は、どのようにつくられ、どんなふうに仕事をして生きているのか?美術批評の第一人者が、絵の見方と批評の作法をやさしく伝授し、批評の根となる人生を描く。著者初の書き下ろしエッセイ集。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
良き。すごく。
●芸術は、個が全責任を負って観ることができる
・観る人の心を動かすもの、が良い芸術であること。
・どんな絵に心が揺さぶられるかは、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。
・上手なだけの絵は、知識や技の痕跡は垣間見えても、直接、感性を呼び覚ます力、絵を観ることの喜びや哀しみ、怒りや晴れやかさがない作品も多くある。無残である。
・本当は、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのに、そのことに気づかないづかない。気づこうとしない。結局、怖いからだろう。誰でも、自分の心の中身を知るのは怖い。
●ストーリーと共感の罠
・感性の根拠が自分のなかではなく、作られた作品や、それを作った作者の側にあるように思い込んでしまう。しかし、芸術体験にとってこれほど不幸なことはない。
・作品を見るのに、オーディオガイドや、はなからストーリーを知りすぎる、なんてことは、本当に作品を観ていることになるのか。
・うまい絵、きれいな絵、ここちよい絵ほど、パッと観に判断しやすく、みなで価値を共有したって仕方がない。
Posted by ブクログ
エッセイ集ということで、テーマも美術だけではなく、音楽やツイッター、子育てまで幅広い。とはいえ、やはり冒頭の表題作や、鑑賞時の歩くスピードの重要性や基本的に美術は一人で見るもの、といった鑑賞の仕方に触れた一章が一番興味深かった。
Posted by ブクログ
美術批評家による随筆集。美術や音楽に関することから日常のくだらないことまで色々書いているけれど、特に印象に残ったのは次の2つ。
1つ目は、冒頭の「感性は感動しない」で書かれている、美術作品を「まとまり」として見るということ。絵や彫刻を見るとき、作品になにか始まりや終わりがあるんじゃなくて、目の前には当の作品という「かたまり」そのものだけがあって、それを総体として捉えるべきだとしている。そのときに感じるのはどんなくだらないことでもよいとのこと。作者がどういう背景で描いたものだとか、どういう技法を使っただとかは二の次であって、自分のそれまでの経験やそのときの感情(というこれらの総体もかたまり)が作品というかたまりをどう処理するかを感じよう、ということらしい。ただ、批評するときというのはこのかたまりとの出会いを言葉にする必要があるので、かたまりについて感じたことをじっくり醸成していく過程が必要だという。鑑賞する先にはその感動に集中し、アウトプットまでの間にそれらの感動を噛み砕け、という風にも受け取ることができる考え方で、面白いなと感じた。
2つ目は、音楽と美術の違いについて。上で書いたように、美術作品というのはモノとして存在するのであって、それは鑑賞者がいようがいまいが関係ない(だれかが作り終えた段階で既にモノになっている)。でも、音楽というのは「再生」されて初めて作品になるという。しかも、その再生のされ方は何でも良くて、プレイヤーで再生するとか、頭の中にメロディがこびりつくとかでも良く、鑑賞者が存在していて初めて成り立つようなアートであるという点で、美術との違いがあるということを強調している。
さらに、音楽そのものが「再生されたがっている」(そして音楽の中毒性というのもこの性質に根ざしている)という若干オカルトぽいことまで言っており、(音楽にそのような主体性があるかまでは確かめようがないけれど)言わんとしたいことはとてもわかる。とすると、本当のヒット曲というのは、ヒットチャートやYouTubeでの再生回数だけじゃ測れない気もする。仮に、曲がヒットする、ということが、如何に人をその曲の中毒症状に陥らせたかと同価とするのなら、もっと日常のどうでもいい場面で口ずさんでる意外な曲が、真のヒット曲の座を手に入れるのかもしれない。
Posted by ブクログ
率直というかなんというか、読んでいて心地の良い文章だなと思いました。喩えもとてもうまくて、こういう表現をする人はどんな風に育ってきたのかな、どんな学生時代を過ごしたのかなと、読み進むうちに興味が深まっていきました。
「眠りと執筆」や「憑依する音楽」など、感じてはいても普通は見逃してしまったり気づいたら見失ってしまっているような、感覚を言葉に留めているのがすごいなぁと思いました。自分の語彙が少ないのがもどかしいのですけれども。
Posted by ブクログ
日本語でない人の声の入った音楽が一番効率よく進むことについて「誰かと対話をしながら応答しているように感じるからかもしれません。」としたのは、私も多少の音楽や生活音がある環境でないと集中できない性質なので、なるほど!と思った。
Posted by ブクログ
美術館に行くことが多いのだが、
自分の受け止め方、鑑賞の仕方はこれでいいのだろうか、と自問することがある。
これは美術を愛好する人ならば、誰しも思うことなのではないだろうか。
よく言われることに、「感性を磨く」という言葉がある。
本書の著者は、岡本太郎の言葉を引いて、これを厳しく否定している。
見ることによって得られる体験は、あくまで見る側によるべきものであり、
それを作家側に委ねるべきではないと。
考えさせられることも多い書だった。
確かに最近、絵を観るのも惰性になっているなと思うところもあり。
でも、全般的には賛成はできないなとも思う。
美術作品の全部が全部、何かを感じさせるものでもなく、
そもそも明治期に輸入された「美術」という観念は、ごく最近のものであるということ。
人が作ったものである以上、まったく思いや思想がないとは言わないが、
すべてを自己表現の産物かのように受け止めるのはやりすぎな気もする。
そういう意味でいえば、自分は「美術」にはあまり興味がないことになるし、
どちらかといえば、そうした人々がどう営んできたかという歴史の方に関心が向いていることに気づかされた。
Posted by ブクログ
読書することは新たな視点を獲得することだ。
他人(著者)の視点を借りることができる体験なのだ。
そう改めて感じた1冊だった。
美術批評家の著者に芸術に関してのエッセイ。
芸術への接し方から、読書の際の本の選び方、著者の地元への想いや子育て観まで内容は多岐に渡る 。
個人的には芸術への接し方についての考察(見解)が目から鱗だった。
感性は磨くものではなく、うちに備わるものであり、芸術は作者の事情や付随する情報に捕らわれているうちは自由な見方を奪われた状態であるということ。
「感動」という便利で安易な言葉で片付けず、そのありかを探るのが批評であるということ。
そういう視点で見ると、自分に響く作品は多くなくていいし、また人と同じでなくていい。
自分の身体の動きに素直に芸術鑑賞をしたいと思った。