あらすじ
ペストが蔓延する十四世紀フィレンツェ。郊外に逃れた男女十人が面白おかしい話で迫りくる死の影を追い払おうと、十日のあいだ語りあう百の物語。最高の名訳でおくる不滅の大古典。全訳決定版、第一弾。
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デカメロン興味のあるみなさん、これを機会に一緒にどうでしょう!「#デカメロン」でお待ちします!
<これから始まる本書は『デカメロン』別名を『がオレット公』という。
本書では百の物語が十日の間に七人の淑女と三人の貴公子によって語られる。>(引用)
冒頭は著者ボッカッチョによる説明です。口調が「〇〇は人の常でございますが/〇〇できましょうか/報恩のほど/神様の思し召しで」というようなものなので、舞台が始まる前に幕の前で燕尾服の案内人(またはイタリアの
道化師姿でもいいかも)が口上を述べているような印象です。
要するにですね、ボッカッチョはかつて苦しんだことがあったけど、友人が楽しい話を聞かせてくれて立ち直れたんだよ、だから世の皆様にも面白い話をして御恩返しをしたいんだ、ってことを述べます。
題名の「デカメロン」はギリシャ語で「十日間」です。
まずは巻末に飛んで、翻訳者平川祐弘先生による「あとがき・解説」から先に読みました。これがとても内容が濃く、こだわりが詰まっている!
●14世紀のフィレンツェは最先端の都市国家。交易により世界と繋がっていた。特に芸術家の表現は、他の時代、他の地域とは一線を画する。(P492あたりでフィレンツェへの情熱を語ってます)『デカメロン』の話題は、国も宗教も多岐にわたる。ボッカッチョはフィレンツェに集まった世界中の物語を温めアレンジして語ったのだろう。
●『デカメロン』は世俗的物語、日本の『今昔物語』は宗教説話が多い。でも坊さん批判などの同じ点もあるよ。
●ちなみにボッカッチョの時代は日本では足利尊氏の頃。
●そんなフィレンツェでペストが大流行し、人口の2/3が死亡し、近隣都市は衰退した。こんな様子を見たら天然自然の生命力を爆発させずにはいられない。
●ボッカッチョはダンテの『神曲』の熱心な読者で理解者だった(講義も行ったくらい)。だからこそ『神曲』が存在しなければ『デカメロン』は書かれなかったであろう
●ダンテは詩人・人物の語りの深さ・才能溢れる/ボッカッチョは散文作家・作中人物の語りの軽さ・自由闊達。ダンテが興味を持たないことをボッカッチョは語った。
●『デカメロン』は不道徳とか神聖冒涜とか言われたこともある。でもボッカッチョは、宗教者の堕落頽廃よりも原理主義的徹底性が危険という認識。
●『デカメロン』各話の構成は、Aまとめ部分、B語り手紹介部分、C語り手導入部、D物語部分、Eその日の結び描写。
●翻訳のこと。
完訳のため、十人が語る物語は「である調」、他の部分(ナレーター的な部分というか)は「ですます調」などの工夫をした。
●冒頭の「別名を『ガレオット公』という」のガオレット公は、アーサー王伝説のグィニヴィア王妃と騎士ランスロットとの仲をとりもった人物の名前。「恋の仲立ちを」意味しています。でもグィネヴィア王妃と騎士ランスロットの不倫のせいで大騒動が起きまくるよね(^_^;)
●紳士淑女の語りのなかに、ところどころボッカッチョの考えだよね、と思われる記載もある。特に最年長で言い出しっぺのパンピーネアの言葉は、女性にしては力強かったりしてボッカッチョっぽい。
515ページからは翻訳ということについても詳しく語っています。
●どこまでイタリア語発音で書くか、日本語での読みやすさを取るか、など。でも言語発音に忠実すぎると「パリ」が「パリージ」になっちゃうんだよ、読者にわからないよね?(はい、わかりません(^_^;)
●日本人読者にとって、漢字は視覚的記憶に長く留まるけれど、表音記号だけのカタカナ記憶に留まらない。
●当時のイタリア語表記、発音のため小さい「ル」が使われていますが、私のレビューでは変換できないので大きい「ル」で書きます。例えば最初の寺院の「ノヴェルラ」の「ル」は小さい。でも私には発音ができないし、変換もできないので(^_^;)
●歴史においてその次代その次代のポリティカル・コレクトネスを言い立てる人たちがいた(今もいる)『デカメロン』『古事記』などでもおおらかな性的表記を批判されてきた。翻訳(現代語訳、古語のままの出版)とは、訳するだけでなく、倫理規範と問題もあった。だけどただただ言葉狩りしたり「性的だからダメ」だと、その内容や雰囲気を曲げてしまう。
⇒そんなことを踏まえて、この『デカメロン』を翻訳しているということ。まずは巻末に飛んで、翻訳者平
【第一日】
まずは人物や状況紹介。
1348年ペストが大流行したフィレンツェでの様子が語られる。ペストの感染力がどれだけ凄まじいか、それにより人間同士の絆も道徳も途絶えていったこと。怪しげな医療行為、詐欺のような薬販売も横行した。
感染していない人々は、集まって神の御心に従って暮らしたり、欲望のままに大騒ぎに明け暮れたり、町から脱出したり。
ある日「いとも尊きサンタ・マリーア・ノヴェルラ寺」に、七人の淑女が集まった。一番年上の女性パンピーネアが「田舎に地所がありますから、みんなでそこに避難しませんか」と提案する。七人は賛同して、しかし男性も必要だということで居合わせた(淑女たちの知り合い)の三人の紳士に同行を求めた。
屋敷につくと、それぞれが連れてきた召使いたちの役割と、十人の淑女紳士たちの間のルールが決まる。
毎日持ち回りで主宰者(女王・王と呼ぶ)になりましょう。
外部出入りは自由ですが、持って帰る話題は明るいことだけ。
午後の暑い時間帯は一人一つずつお話をしてみんなで拝聴して過ごしましょう。
ここで登場人物メモ。<>内は引用です。
●淑女
・パンピーネア<葡萄の若葉が繁茂するように命の力にあふれる>:一番年上。以下「パン姐さん」と記載。
・フィアンメッタ<火花を散らすような>
・フィロメーナ<歌の好きな>
・エミーリア<お世辞の上手な>
・ラウレッタ
・ネイーフィレ<まだうぶな>
・エリッサ
●紳士(上記七人の誰かに恋をしていたり、親戚だったりという関係)
・パンフィロ
・フィローストラト
・ディオネーオ
●召使、小間使い()はご主人の名前
・パルメーノ(ディオネーオ):執事、召使リーダー
・シリスコ(パンフィロ):会計
・ティンダロ(フィローストラト):紳士たちの身の回りのお世話
・ミージア(パン姐さん)、リチースカ(フィロメーナ):食事担当
・キメーラ(ラウレッタ)、ストラティーリア(フィアンメッタ):淑女のお部屋係
第一日目のお話()は話者
(パンフィロ・紳士)代書人チェッパレロ氏は、詐欺、偽証、スキャンダル、聖人罵倒、女好き酒好き、教会などに行ったこともなく、殺人まで関わったような悪漢だった。任地で死の床の懺悔では、その地の修道士に嘘八百並べ立てて騙くらかした。死んだ後には、あの悪漢が聖人として任じられまでしたんですよ。
果たして彼はそのまま天国に行ったんでしょうか?地獄の悪魔につかまったのでしょうかねえ?
(ネイーフィレ)キリスト教徒のジャノー氏はユダヤ教徒の友人アブラハムに改宗を勧めていた。アブラハムは「ローマに行ってキリスト教のお坊様を見てから決めます」という。ジュノーは「僧侶たちの堕落っぷりをみちゃったら、改宗は無理だろうなあ」と思った。
でもアブラハムは「坊様が率先してキリスト教を潰そうとするかのような振る舞いをしているのに、キリスト教は栄えるばかり。これはキリスト教こそが真実で、信仰の基礎だからに違いない」と判断して、キリスト教に改宗したのでしたとさ。
==「ユダヤ教だと地獄に行くから、キリスト教徒になりなさい」ってずいぶん思い上がってるなあ…、と思ったけど、そのキリスト教徒が坊主は生臭だってわかってるし、改宗理由も皮肉的だよね(^_^;)
(フィロメーナ)バビロニアのサルタンは、大金が入り用となり、ユダヤ人商人メルキデゼックを呼び寄せ「ユダヤ教、イスラム教、キリスト教のどれが一番真理なのだろう?」と疑問を投げかける。どの宗教と答えてもイチャモンつけて財産没収するつもりだったのだ。
しかしメルキデックは、「三つの指輪の物語」を比喩に出す。三つの宗教それぞれが神の戒律を伝える正当な派閥だと主張している。しかし神がだれに真理を授けたのかは、未だに解決されておりません。
サルタンはその賢い回答に感銘を受けて、終生の相談人とした。
==なるほど、この例えは昔から言われていることなのかな。うまいこというなあと思った。
(ディオネーオ・紳士)初の男性語り手、初の艶話。
人里離れた僧院で若い修道士が自室に女を連れ込み思いっきり楽しんだ。その様子を老修道院長に覗き見されてしまった。若い修道士は知恵を絞って、修道院長が女に誘惑される状況を作り上げた。そして「あなたもヤッたって知ってますよ?」って仄めかして罰を免れた。秘密を共用した二人は、それからもうまい具合に女を連れ込んで愉しんだみたい。
==「女が眼の前にいるってことはヤッて良いってこと」っていい気なもんだよねー。
(フィアンメッタ)フランス国王は愛想美しいと有名なモンフェラート公爵夫人の噂を聞いた。誉れ高い公爵は十字軍遠征中。国王としておもてなしさせたらヤれるじゃん、と公爵の屋敷に向かう。公爵夫人は国王の下心を見抜き、料理のすべてを牝鶏で作らせた。その心は「女とは、見かけは違っても中身は同じですよ」国王は公爵夫人の覚悟を目の当たりにして、醜聞にならないうちに立ち去ったのでした。
(エミーリア)こっちもやりこめ話。
フィレンツェで異端邪悪糾問を務める修道士は人が良く軽率な資産家から金を巻き上げてやろーと、言葉尻を捕らえて糾弾した。慌てた資産家は大金を出すこと、ミサに参列することで許してもらう。いくらお人好しだって自分が利用されてることは分かるので、数日後、愁傷な顔をして修道士たちの欺瞞を暴く…ようなことを仄めかして、残りの財産と命を護ったのでした。
(フィローストラト・紳士)これまたやりこめ話。
カン・デルラ・スカーラ様がお祭りを催すと聞いて芸人たちが集まってきた。だが急遽祭りは中止、芸人たちは手間賃を受け取って去っていった。しかしたった一人、ベルガミーノだけは何ももらえなかった。ここまで来て手ぶらで返されるとはと食いつないでいたベルガミーノは、たまたまスカーラ様と出会ったときに、ある例え話をする。聞いたスカーラ様はケチ心を反省したのでした。
(エリッサ)これもやりこめ話
キプロスで酷い目にあった貴婦人が、キプロス王に直訴した。でも臆病な王は何もできない。貴婦人は国王をシャッキっとさせる言葉をかける。国王はそれからしっかり者になりましたとさ。
(パン姐)70歳近いアルベルト医師は、うら若く美しい寡婦マルゲリーダに恋をした。毎日通って見るだけでしあわせしあわせ。老洛の恋はまわりに笑いものになる。マルゲリーダもアルベルト医師をからかった。でも老医師は堂々と自分の恋を言葉に出して、むしろマルゲリーダを恥じ入らせたのだった。
【第二日目】
今日の女王はフォロメーナ。物語の題目は「散々な悪運にさいなまれたが、予期に反して幸福な終りを迎えた人」
今日からディオネーオは一番最後に、題目に関わらず好きなことを話していいことに。最後に明るい話で締める役割です。
(ネイーフィレ)聖者と呼ばれたドイツ人が死に、ご遺体に触れたら奇跡が起きると言われた。フィレンツェからの観光客三人組は、ご遺体を見るために「足萎え」のふりをする。ご遺体に触れて治った演技もしたけど「あいつは不具者のフリした罰当たりだ」ってバレちゃった。その上泥棒扱いもされて、逮捕・拷問・死刑判決まで出ちゃった。なんとか市のご主君に助けてもらって故郷に帰れましたとさ、ヨカッタね。
(フィローストラト・紳士)若い商人リナルドは盗賊に身ぐるみ剥がれちゃった。半裸で辿り着いたのは、侯爵様に囲われている美しい寡婦の裏口だった。しかもその日急に侯爵が来られなくなったという使いが来たところ。寡婦は「侯爵様のためにお風呂も夕食も用意しているし、私もそのつもりになっちゃってるし、ねえ」ということで、リナルドと寡婦はベッドで一晩中お楽しみ。
盗賊も捕まってリナルドの盗まれたものは戻ってきた、たったひとつ、靴下留を除いてはね。
==多分寡婦のところに忘れたんですね。はっきり言わないけど分かるオチはオシャレ。
(パン姐)父の財産を付いだ三人の息子は放蕩三昧、あっという間に破産した。フィレンツェからイギリスに映って懸命に働いたので、またしても大金持ちに。イギリスには甥(遠い親族?)のアレッサンドロに任せて前にも増しての贅沢暮らし、またしても破産してしまった。
そのアレッサンドロ、国王と王子の諍いが勃発したイギリスを離れ、たまたま行きあった若き修道院長候補ご一行に加えてもらうことになった。すると宿屋での夜、修道院長候補から寝台に誘われて…、、そういうご関係をお望みなのかと思ったら、なんとこの院長候補、実は、実は…。
==艶っぽい話は紳士が提供してたんだけど、淑女ではパン姐さんがちょっとそれっぽい話題提供!
(ラウレッタ)資産家ランドルフォはキプロスに商売に行ったけど大失敗。仕方がないので海賊になってトルコ戦を襲って人財産築き上げた。故郷に帰ろうとしたら、今度は自分の船が襲われて海賊に捕まっちゃった。身一つで海に放り投げられ、浮いていた箱にしがみついてなんとかコルフ島(オデュッセウスも立ち寄った島だ)に辿り着いて、島の女性に助けてもらった。箱を見たらなんと宝石が!
(フィアンメッタ)馬を買い付けに来たアンドレウッチョだけど若くて考えなしなので大金持ってることがバレてシチリア美女に目をつけられちゃった。美女に呼び出されたアンドレウッチョは「俺のような若くて美男子はモテちゃうんだな☆」とのこのこ出かけていき、有り金奪われ身一つで放り出されてトイレ壺にも落っこちちゃった。
まったくすべてを無くしたアンドレウッチョ、墓荒らし一味の仲間になったが、今度は墓に閉じ込められた。他の墓荒らしがやってきた隙をついて逃げ出して、墓荒らしで手に入れた指輪だけを持ってなんとか故郷に戻れましたとさ。
==初の排泄物ネタは淑女フィアンメッタ 笑
(エミーリア)シチリア王に寵愛されたナポリ紳士カペーチェだが、シャルル一世がシチリア島と掌握したときに捕らえられた。淑女たる奥方べーリトラ夫人はなんとか逃げ出したが、無人島に漂流したときに幼い二人の息子も、召使いたちも、船も、海賊に奪われてしまった。べーリトラ夫人は立ち寄った船に救出され、貴婦人の召使となった。
それから20年、神はべーリトラ夫人はを見捨てず、二人の息子も、囚われていた夫、財産を取り戻すことができたのでした。しかし辛い日々はやっぱり辛い思い出として残ったでしょう。
==最初に「お世辞を言われていい気になるけど、運命の激変話を聞くと目が覚めますよね」って言います。それで人物紹介が「お世辞の上手なエミーリア」なのかな?
そしてすべてを失い無人島で野生の鹿と心を通わせ「ここで生涯を閉じる」と決めた姿は、ボロ服でも野性的で美しかっただろうなあと思った。
(パンフィロ・紳士)サルタンの娘のアラティエルは絶世の美女。ガルボ(モロッコ)の国王の后になるために航海に出たが漂流してしまった。
そこから四年間、あまりの美女のためになんと八人の男と結婚することに!アラティエルは最初は操を守ることを自分にも侍女にも課したけど、一度ヤッてみたら「こんな素敵なことなんでもっとはやくしなかったんだろう?」とノリノリに。
四年後彼女を知る者に保護され、二人で「ずーっと操を守ってました☆」って話を作り上げて、無事にガルボ国王の后になりましたとさ、八人の男と一万回は共寝したのにねえ。
==今までの中でも一番大っぴらな性のお話。美女が翻弄されて嘆くけど、それはそれとして楽しいことは楽しいことって渡っていくのが強かだなあ(それがテーマでもある)。日本のことわざで言えば「鬼のふんどしを洗う女」。しかも相手の男の質を全く落とさないところはあっぱれですらある 笑
この話を聞いきながら淑女たちから溜息がこぼれたけど「それは話が面白かっただけ?羨ましかったのかな?」
(エリッサ)フランス国王・皇太子から信認厚いグアルティエーリ伯爵だが、讒言により身に危険が迫り、幼い息子と娘だけを連れて逃げた(奥方とは死別)。乞食に身をやつし放浪していたが、息子と娘は賢い・やっぱり気品があるのでそれぞれの土地の貴族にもらわれていった。
それから20年ほどたち、伯爵の濡れ衣も晴れ名誉も地位も取り戻し、それぞれが幸せな結婚をしていた息子と娘とも再会しましたとさ。
(フィロメーナ)ジェノーヴァ商人ベルナボが貞淑で美人妻自慢をしたら、他の商人アンブルオージュオロが「それならお前の奥方を口説いてみせるぜ!」と賭けをした。そしてベルナボを欺きまるで奥方と通じたように見せかけた。ベルナボは激怒して召使に奥方を殺す命令を出す。憐れんだ召使(何気なく誠実な男で良いやつだ)は奥方を逃がした。
数年後、奥方は王の立ち会いのもと、自分にかけられた不名誉を晴らし、夫婦はもとに戻り、アンブルオージュオロは処刑された。
==留守する男たちにとっては「どうせ女房は俺達の留守に好きなこと(不倫)してるんだから、俺達だって旅先でお楽しみするのは当たり前だよなあ」って認識、つまりバレなきゃ女房の不倫は許容なのね。この時代の「崇拝者」「愛人」「バレたらまずい恋」の違いがよくわからないところはある(^_^;)
奥方は身一つで行きて成功して王のもとに出られるまでになる賢い女性なのに、こんな旦那のもとに戻ったのかというのはこの時代の女性の限界か(-_-;)
そして実際に拷問的処刑が行われたのもこの話が初かな。
(ディオネーオ・紳士)はい、彼が出てきたら艶話。
老判事リッカルドは若い美女バルトロメーアを妻に迎えた。とっても自慢なんだけどお勉強ばっかりの老人なので女心がわからない。当然寝所でも満足させられない。そんなバルトロメーアに恋したパガニーノが彼女を奪う。嘆くバルトロメーアだけど、若い男の精力に生きる歓び☆を知って、旦那のもとに帰ることを拒絶する。
【三日目】
今日の女王はネイーフィレ。このパン姐さんの別荘からちょっと場所移動することにした。
みんなが提供するお話の主題は「欲しかったものを手に入れた人、なくしたものを取り戻した人」
移動したお屋敷もとっても感じが良いのでみんな大満足。ネイさんいつのまにこんな手配したんだ!?やるなあ。
(フィローストラト・紳士)誉れ高いその尼僧院には、僧院長の尼さんと、尼さん八人がいた。みんな若くて美人。そんな女の園の話を聞いた若いマゼットは、唖の振りをして庭師として入り込む。尼さんたちは「唖なら安心よね☆」とばかりに、マゼットと「男の人とするお楽しみ☆」を試すことに!望んだことと言い、次から次に九人の尼さんのお相手をすることになったマゼットは、大満足ながらちょっと疲れても来た。
==今まで「坊さん」の堕落は書いてきた。ついに「尼さん」の堕落も。だって「出産もあったけど、尼僧院の奥に隠しておけば赤ちゃんの存在バレないし☆」って扱い(^_^;)
(パン姐)ロンゴバルド族のアジルルフ王は大変美しいテウデリンガを妃に迎えた。后を馬丁が熱烈に恋して、王の振りをして后と共寝した。王はそのことを知ってしまうが内々に処理しようとした。だが馬丁は王の仕掛けをかいくぐり自分が下手人だってバレなかった。そこで王は「犯人指定はしないから今後は控えろよ」と、分かる人にしかわからない言葉で丸く治めたのでした。
==男性の艶話に対して「淑女たちは顔を赤らめ…」ながらも積極的に自分たちも話をするようになってきたかな。
(フィロメーナ)ある貴婦人は、金はあるが毛皮職人のご主人では物足りなくて、若くて見栄えのする騎士に恋をした。騎士に近づくために、お人好しで頭の硬い修道士を利用することにした。首尾よく二人は愛人になって末永く励みましたとさ。
==このお話の結びでフィロさんは「素敵な夜を望むキリスト教徒たちの願いが叶いますように☆」という主への祈りを捧げる。紳士の艶話に触発されたか淑女も積極的になってきた!
都会では悲惨なペスト禍、でもここは長閑な田舎。ここにいる人達はただゆっくり日々を過ごすためだけに集まっている、という諸事情から、おおらかな人生讃歌の気分かな。
(パンフィロ・紳士)お人好しのプッチョは「敬虔に過ごせば天国に!」と信じている。奥さんのイザベッタはちょっとうんざり。その様子を察した若くて美男子の修道士フェリーチェは、ブッチョを奥さんの寝台から遠ざけて、自分がそこで楽しみましたとさ。
(エリッサ)金持で吝嗇のフランチェスコは、自分の妻の崇拝者である若者ジーマが持っている良馬を安値で取り上げようと画策する。うまくジーマを出し抜いたつもりのフランチェスコだけど、奥方の心はジーマのものになっちゃたのでした。まあ自分が差し向けたことだからねえ。
(フィアンメッタ)リッチャルドは、フィリッペルロの妻カテルラが欲しくなった。夫を熱愛するカテルラを騙して彼女と共寝した。怒り悲しんだカテルラをリッチャルドは重ねて重ねて愛撫したので、カルテラも夫よりリッチャルドが良くなりましたとさ。
==ここでも話の結びにフィアンさんの「神様わたしたちにもこんな愛の楽しみをくださいませ」というあけっぴろげなお祈り出終わります。
(エミーリア)騎士テダルトは、恋するエルメリリーナ夫人の寝所に入ることに成功した。愛を確かめあったのに、夫人はそれっきり会ってくれなくなった。失意でフィレンツェを去ったテダルドが数年後フィレンツェに戻って驚いた。自分が死んだことになっていて、犯人としてエルメリリーナ夫人の夫のアルドブランディーノが逮捕されて死刑判決も出ている(多分拷問取り調べで嘘の自白した)。テダルトは知恵を絞り、真犯人を挙げアルドブランディーノ氏を助け、エルメリリーナ夫人の自分への愛も知ったのでした。
==かなりの長文で坊さん批判をしてます。「自分たちは不道徳なことをしているのに、市民にはいい加減なことばかり言って騙しやがって!」ボッカッチョの恨みか(^_^;)
その割には騎士の言い分が「一度私に心を捧げたのだからあなたは私のものです。その私からあなたを引き離すのは、あなた自身が強奪者です」という相当「いい加減なこと言って自説を通して」なんだけど 笑
(ラウレッタ)トスカーナの僧院長は女好き。金持百姓フェロンドの美人おかみさんに目を付けた。おかみさんが、フェロンドの度を越すほどの焼き餅に困っていると知った僧院長は一計を案じた。おかみさんに「一度旦那さんを煉獄に落とし、焼き餅焼きの罪を反省したら、生き返らせてみせます。そのかわり、あなたの愛を私に捧げてください。あなたの誇るべき身体と心の美しさを私に捧げてください。だいたい旦那さんが煉獄に言っている間に務めるべきことを私がヤッて差し上げるのです」とかなんとか丸め込む。そしてフェロンドに仮死薬を飲ませて、真っ暗な地下墓地に監禁し「私は煉獄の遣いだ〜、嫉妬深いという罪を悔い改めよ〜」と脅しつけ、その間おかみさんと共寝した。やがてフェロンドを現世に戻したけど、おかみさんはすっかり僧院長の身体と心のお勤めから離れられなくなっていましたとさ☆
==この時代「聖人」のいうことは絶対で、手八丁口八丁でこれは神の御心だ〜といったら本当にそうだって信じるんだろうなあ(^_^;)
(ネイーフィレ)フランスのイスナール伯爵お抱え医師の娘のジレットは、伯爵の息子ベルトランを熱烈に愛していた。
このジレットが、自分のできうる力すべてを使って身分違いを乗り越え、ベルトランの尊敬される正妻となるまでの波乱万丈物語。
この時代の身分違いは激しく、女が仕事を持ったり移動することも難しい。ジレットは、医師としての腕も確か。自分の目的を果たすために一直線だけど、結果的にみんなを助けてる。
これはすごい女性だなあ。…物語のまんまで受け取って良いんだよね。
(ディオネーオ・紳士)チュニジアのカプサの町にアリベックというたいそう美しい14歳になる娘さんがいた。まわりのキリスト教徒をみて「自分も神様にお仕えしたいなあ」と思った。砂漠の向こうに隠遁修行の聖者様がいらっしゃると聞いたアリベックは家を出ててくてくてくてく歩いてった。聖者の中の一人は、この降って湧いたような色っぽい美少女をどのようにしてモノにするかを考えた。「男の中には悪魔がいます。ほら、私の中心から悪魔が盛り上がってきたでしょう。これを女が持っている地獄にお仕入れて鎮めることこそが聖なるお勤めなのです!!」とかなんとか…
繰り返すうちにアリベックのほうが味を覚え「そろそろ聖者様の悪魔を私の地獄に入れなければいけないのではないでしょうか〜」などというように。
==えええ(^▽^;) なんか漫画の絵柄が思い浮かぶようだわ。デカメロンの頃も、現在も、幼い少女(デカメロンの頃は14歳で結婚・出産当たり前だったかもしれないけど)をそうとは気が付かせずに美味しくいただきたいなあ☆っていうのは同じなのね(^_^;)
Posted by ブクログ
最近『源氏物語』(KADOKAWAビギナーズクラシックス版)を読んだ時にも思ったのだが、当時の人々がどれだけその作品を熱中して読み込んだかを想像するのも楽しい。
「長い」とか、「登場人物が多くて覚えられない」とか言う人の気持ちも十分わかるのだが、TVもない、インターネットもない、ゲームもない、ましてやSF小説とか推理小説みたいな他ジャンルもまだ確立されていない時代に、時間を忘れられるようなフィクションに対して、「話が長いなぁ」なんて思うだろうか?むしろ何度も読み返したに違いない。何度も読み返すのだから登場人物が覚えられないなんてこともありえない。言語も時代も価値観も違う物語を、時を超えて自分のような人間が、当時の人々と同じように楽しめていることに興奮する。
さて、ここから本書の内容について語るのだが、読み進めていると『カンタベリー物語』っぽいなぁと思ってしまった。これはまさに、元ネタよりも先にオマージュ作品を見てしまったからであり、『カンタベリー物語』が好きな自分としては安心して読み進められるという確証が得られた。むしろ、『カンタベリー物語』よりも、作品としての完成度は高いと感じた。人が交互に自分の好きな物語を次々と語るのだが、その繋ぎの言葉もしっかりと考えられているのが『デカメロン』。『カンタベリー物語』も繋ぎのセリフがあるが、今話した人とかその話した内容にも言及して、「面白かったね」みたいな感想も書いている『デカメロン』ほどには丁寧ではなかった記憶がある。
それにしても、男女の恋愛、不倫話がほとんどで、無性にむらむらもしてくる。3日目の第10話(上巻最後の話)が個人的にはお気に入りだ。
Posted by ブクログ
ペストが流行する14世紀のフィレンツェで、10人の紳士淑女が語る、18禁多めな百物語。上巻は30話まで。
1人1話ずつで1日に10話、10日で100話となる計算。
1日目は機知に富む話が多く、何となく日本昔ばなしを連想した。2日目以降はその日ごとにテーマが設けられ、お題に沿った話が語られるが、次第に猥談味が濃くなっていく。3日目になるとほとんどの話にエロティックな要素がある。冒険譚や貴種流離譚などの内容も豊富で、どの話も面白い。海賊に捕まってどうこうというものも多く、アラビアンナイトなども連想されるが、ファンタジーな要素はない。
個人的なお気に入りは、運命の不思議を感じる第二日第六話、第七話、第八話、第九話。恋愛ミステリーな第三日第七話。とにかく本書を読んで強く感じたことは、淫靡なエロ話は度が過ぎると笑い話になり、さらに突き詰めると人生訓になるのだな、と。
ボッカッチョはダンテを敬ったことで有名で、本作にも影響が強く出ている。「神曲」の訳者である平川祐弘によって21世紀に入ってから翻訳された本書にはそのあたりの注釈が詳しく、他訳に対するアドバンテージがあるのでは(他訳は読んでないけど)。
Posted by ブクログ
一つ一つの話が楽しんで読める。キリスト教の権威やペストの流行などの歴史的背景を踏まえて読むとさらに思うところがあり、歴史の教科書だけだはわからない当時を雰囲気を垣間見れているのではないかと想像すると、感慨深い。
Posted by ブクログ
世界史でボッカチョを習うまでは、デカメロンと聞けば私には「少年隊」しか思い浮かびませんでした(ほとんどのかたの頭に?が浮かぶことでしょう)。
ボッカチョは世界史ではルネサンス期の文学者として登場しますね。そして、本デカメロンは、ペストで人口の2/3が死に絶えたフィレンツェで男女10人が10日間にわたりとっておきの話を披露するというものです。
全体に渡り艶話が多いのが特徴。とりわけ出家した修道士が性欲むき出しであれやこれやといそしむ話や、連れ合いが居る身なのに「真実の愛」とか何とかでもう手八丁口八丁で合体しちゃう話とか。700年弱前に完成した作品ですが、今読んでも大分ストレートだなあ、とたじろぐ描写です・・・。
もちろんそれだけではなく、冒険談やとんち系の話もあります。私の上巻(1日目から3日目までの30話)マイベストはとんち系の話です。1日目第3話、ユダヤ人商人メルキゼデックが王様から、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教のどれが一番優れているかと問われ首尾よく返答し難を逃れる話(素直に素晴らしいオチです!)。そういう幅広いバラエティは読んでいて飽きが来ません。
ちなみに表紙の作者はボッティチェリ。『春(プリマヴェーラ)』や『ビーナスの誕生』が有名ですが、本作『ナスタージョ・デリ・オネスティの物語』は本『デカメロン』第4日に語られるお話。上中下巻を横に並べると一枚の絵になります。素敵。ちなみにプラド美術館収蔵だそうです。死ぬ前に一度行ってみたい美術館。ラス・メニーナスもあるし。
・・・
人間の多様性がよくわかる作品です。
日本文学でも類似の系統といえば、源氏物語、好色一代男、あるいは伊勢物語などが好みの方は楽しく読めるとおもいます。
Posted by ブクログ
出口さんがおすすめされていたので急遽購読。ペストが蔓延する中世のフィレンツェから、10人の淑女紳士が別荘地へと避難し、1人1日1話のお話を10日間行うというもの。まさにステイホーム状態。お話というのは、聖職者の恋愛、浮気や不倫、詐欺、敵を貶める策略、不義不忠といった下世話な内容ばかり。今で言うところの週刊誌ネタ。人生に役だつ箴言やありがたいお言葉があるかと思いきや、そんなものは全くなく、面白おかしく楽しく語っていて、ペスト禍にあるとは思えない。これは、そう言うものだとこちらも面白おかしく楽しむのが良い。今より宗教が大きな力を持っていた中世においても、みんなやることはやっているのだ。
この作品は良くダンテの神曲と対比されることが多いらしい。解説によると、ダンテはキリスト教の熱心な信徒であり、神曲の中では「神の栄光」「罪深き人間」「来世利益」などが真剣に語られている。一方、ボッカチオはダンテを尊敬しながらも、つい欲望に負けてやらかしてしまう人間らしさを肯定している。デカメロン出てくる人々は完璧な人ではなく、身近に存在するかのような(ダメ)人間ばかり。
面白いのは、100のお話しのいくつかと、デカメロン以降に書かれた作品のなかに似ているストーリがあること。日本でも井原西鶴の作品に良く似たものがあると言う(神父→お坊さん、騎士→サムライの違いはあるが)。井原西鶴がデカメロンを読んだわけはないので、洋の東西、時代を問わず、人間のすることも、人がくすりと笑ってしまう題材も、共通なんだなあと実感。
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話の内容は形骸化したカトリック体制への痛烈な皮肉が山盛り、また人の愚かしさがよく描かれ、現代人にも楽しんで読めるブラックコメディになっている。
訳注の多さや固有名詞のカタカナ表記の仕方、訳者による台詞や詩への追加など気になる点はあるものの、本文自体は読みやすく雰囲気の伝わる翻訳であると思う。下世話な隠喩について長々と解説を書かれると興を削がれるが、これは翻訳者の想定した読者に自分が合わないと諦め、訳注や解説は気になるところだけ読むことにした。
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ペストから逃れ、巣籠もりをするフィレンツェの10人の若者が、暇つぶしにそれぞれ1話づつ、10日間で100話の短い物語を語りあいます。
語られる話は宗教がらみか艶笑話、もしくはその両方が絡んだ小噺が多く、やはりイタリアはキリスト教国なのだな、エロは必須なのだなと感じました。
話の舞台はイタリア国内ほもちろん、フランスやイギリスはおろか、アフリカやアラブ圏にまでおよび、当時(14世紀!)のヨーロッパの世界観や多様性が感じられました。
長年に渡って繰り返された十字軍の失敗とか、当時の教会の腐敗とか、歴史的背景を勉強しなおして読んだ方が良いのでしょうが、難しいですよね。Wikiで調べるのがやっとです。
デカメロンはいくつかの翻訳本が出版されていますが、翻訳年が新しい平川祐弘先生訳の河出書房版を選びました。注釈や解説の充実ぶりが素晴らしいです。読書中、ずいぶんこれに助けられました。
上巻は1日目から3日目の3日間のお話しです。
女性の地位が恐ろしく低い中世のお話しですが、最初の3日間は女性が主導します。3日目の締めでは女王ネイーフィレが男性陣、特にフィローストラトに「皆様もわたしたちからなにかと道理をお習いになると良いと思います」とピシャリと言いきってます。カッコ良い。
当時の上流階級の、かなり進歩的な考えの人たちだったんでしょう。
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ペストから逃げて田舎で楽しいおしゃべり、という話。
上の半分まで読んで、ご馳走様、とい感じ。
(上流階級言葉と、訓話的なストーリーの繰り返しが
単調に思われた。)
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ペストが猖獗を極めた十四世紀フィレンツェ。恐怖が蔓延する市中から郊外に逃れた若い男女10人が、面白おかしい話で迫りくる死の影を追い払おうと、十日のあいだ変わるがわる語りあう百の物語。(裏表紙より)
まず、「デカ」はギリシャ語で「10」、「メロン」は「日」という意味だそうだ。(この本のことは前から知っていたのだが、長い間、結構真剣に(食べ物の)メロンが関係しているのだと思っていた笑)
さて、内容についてだが、あからさまな性的描写(とは言っても、そのものど直球に言及しているわけではないのでキツい下ネタと言ったほうがピッタリか)が多く、少し不愉快に感じたのでので評価は星3。よく言えば、生の寿ぎ? 勿論、本作が十四世紀に書かれたのだということを考慮に入れねば適切な評価というものは出来ないだろうが、やはり(同じ言うにしても)ベールに包んで表現して欲しかったというのが正直な感想である。
とはいえ、読んでいて愉快な話がとても多かった。登場してくる人物は多岐に渡り、バラエティ豊かである。印象に残ったのが、坊さん(キリスト教の僧侶)にロクな人がいないということである。女とイチャイチャしているような僧侶か、若しくは狡賢い人にいいように利用されるような愚鈍な僧侶かしかいないのである。日本でデカメロンに当たるような書物は今昔物語集のような気がするが(的外れだったらごめんなさい)、こんなにお坊さん(こちらは仏教の僧侶)はボロクソに描写されているのだろうか? 当時の社会で、よく焚書されなかったものだ。それとも、ペストの流行で教会の権威が堕ちていたということなのだろうか? また、何かにつけて女性は男性に劣っていると主張されるのが、目についた(昔の作品にはよく見られることだが)。このような社会では、女性の生き方は今とかなり違うだろうな、と想像した。