あらすじ
明治二十年代の半ば。雑木林と荒れ地ばかりの東京の外れで日々無為に過ごしていた高遠は、異様な書舗と巡りあう。本は墓のようなものだという主人が営む店の名は、書楼弔堂。古今東西の書物が集められたその店を、最後の浮世絵師月岡芳年や書生時代の泉鏡花など、迷える者たちが己のための一冊を求め〈探書〉に訪れる。変わりゆく時代の相克の中で本と人の繋がりを編み直す新シリーズ、第一弾!
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Posted by ブクログ
目次
・臨終(月岡芳年)
・発心(泉鏡花)
・方便(井上圓了)
・贖罪(岡田以蔵)
・闕書(巖谷小波)
・未完(高遠彬)
目次の後の括弧書きは、弔堂が本を売った相手。
最後の一人は、この本の語り手。
後々の自分のために、記しておく。
最近は読みたい本リストの巡りあわせにより、続々京極夏彦の本を読めるのが嬉しい。
どの本を読んでも、理解の範疇を超えるような膨大な知識や知見が披露され、それらを読むことがぞくぞくするほど楽しい。
ましてこのシリーズは、本屋が舞台なのである。
しかも、歴史上の人物たちが自分の人生に迷ったときに、「自分のための一冊」の本に巡りあう話なのだ。
本好きであり、歴史好きである私のために書かれた本だと思っても、あながち間違いではないような気がする。
実際に見てさわれるものが”実”であるのなら、本に書かれていることはすべて”虚”である。
というよりも、本来ないはずの”虚”は、文字で書かれることによって本という”実”になる。
読まれなければその本に書かれたことは”死んだもの”であり、読むべき人と出会うことによって成仏するのだと弔堂は言う。
人生を変えてもいいくらい面白い本と巡りあう。
しかし、もしかしたらもっと面白いものがあるかもしれない。
そう思ったらそれは「自分のための一冊」ではない。
もっと面白い本を探して、本を渉猟する。
必然的に本は集まってしまうのだという
だから本って増殖するのか!と膝を打つ思い。
『方便』で、高遠が弔堂に来ると、店の前に人力車がいる。
店に入ると、人力車を待たせている客というのが、どちらかというときゃしゃな作りなのにやけに存在感が大きい老人。
そして、身なりに反して話し方が伝法。
まるで勝海舟みたいじゃないのと思ったら、本当に勝先生でございました。
その次の『贖罪』にも、会話の中で出てきます。嬉しい。
勝先生は、天子様にも徳川様にもそれぞれの義があると考えた。
「凡て義であるのなら全部立ててしまえ。(中略)立てるものは立てたまま、切って良いものは切って、それから組み直す。勝先生は沢山の義を、もうひと枠大きな国と云う区切りの中に置き直し組み立て直そうとなされたのではありますまいか」
「一方で福澤先生はあっちもこっちも立てることはないとご判じになった。全部立てなければいいのだと考えられたのではありませぬかな」
なるほど。
二人の思想の根本の違いを、こんなに端的に書かれた言葉を読んだのは初めてだ。
勝先生は、それぞれの義を立てるにあたって、人が死なないよう最大限の尽力をなさった結果、それはかなわなかったわけで。
だから生涯、自分のことを嗤ってらしたのかと思った。
Posted by ブクログ
「書物はそれを記した人の生み出した
まやかしの現世、現世の屍
読む人がいるならばその屍は蘇る
文字と云う呪符を読み、言葉という呪文を誦む
読んだ人だけの現世が、幽霊として立ち上がる
その人だけの現世
人は自分だけのもうひとつの世界をば、懐に入れたくなる」
京極夏彦の本は何度か読もうと試みたが
長さと読みづらさで
挫折していました
本屋のお話であり、なんだかカッコいい本だったので惹かれて読んでみたのですが
思いのほか読みづらさもなく、
弔堂の常連になってしまったようです
「自分だけのもうひとつの世界」
まさに自分が本を読む理由が書かれていました
当然続きも読みますよ!
文庫でよみましたが
単行本で重さを感じながら
表紙を撫でながらまた読みたい気分
Posted by ブクログ
久しぶりに京極夏彦の本を手に取った。
こんなにも読みやすかっただろうかと思うほどに、
するりするりと読めてしまった。
人は1冊の本と出会えればいい、
そんな本にであえるのだろうかと考えてしまう。
毎回のゲストも読み進めるうちに驚きと納得をもってしまって、とても楽しんで読み終わってしまった。
4冊のシリーズの文庫版は2作目しかないので、
早く読みたい気持ちと他の本を探そうかと
思ってしまう自分がいる。
読書好きの人に読んでもらいたい作品だった。
Posted by ブクログ
魍魎の匣以来の京極夏彦さん。またまたどっぷりと浸かりました。足りない知識、いろいろ調べながら読んだので思いのほか時間が掛かりましたが物語は読みやすく、思いもかけない繋がりも出てきて、ますます本を読みたくなります。
弔堂の主曰く、ただ一冊、大切な大切な本を見付けられれば仕合わせとのこと。
私にとっての一冊に出会えるのだろうか?
その一冊から立ち上がる現世は果たして・・・・
誰も知らない。
Posted by ブクログ
夏なので、京極先生でも読むかな~ということで。
自宅書棚の京極堂シリーズを読み直すのも、
かなり分厚い為に気安く手を出せず、
未読だった弔堂シリーズに手をつけた。
いい表紙だなぁ…これが弔堂の入り口なんだね。
異質な存在感も匂いも感じるし、その戸を開けて入りたくなる。
舞台は明治20年代の半ば、東京の外れ。
明治といえば文明開化。四民平等。
今の私たちの生活に欠かせないアレコレが生まれたのもこの時代。
郵便局、鉄道、銀行…。
ただ、西洋の文化が流れ込み、精力的に新しい時代の波に乗るものも居れば、置いていかれるものも居る。
例えば、武家の者。
そんな高遠が、ナビゲーターのように読者を誘ってくれる。
高遠は時代の流れに惑っているだけなので、誘うつもりなど毛頭無いのだが。
高遠のセリフに「天狗の赤と村井の白」「岩谷天狗は薩摩、サンライスの村井は本拠が京都…僕の雇い主は駿河の出だ。うちの将軍と云うのは、あれは権現様のこと」とあるが、
「天狗の赤と村井の白」は実在する。
岩谷松平(別名を岩谷天狗)は鹿児島の実業家で、当時、紙巻煙草が流行りだした時に、彼も煙草製造を始めた。
赤い天狗をトレードマークにした口付きの「天狗煙草」だ。
そして、サンライスの村井とは京都に本拠を持った村井吉兵衛。
シンボルカラーは白。
国産初の両切り巻き煙草の「サンライス」を製造販売して、たばこ王と呼ばれたらしい。
二人は対照的で、何かにつけて比較されたらしい。
一方、高遠が勤めていた先は「将軍煙草商会」とある。
駿河の権現様と言えば徳川家康。
煙草が日本に伝来した当初、お上は禁煙令をしいていた。
すぐに禁煙令は解かれるのだけれど、「将軍煙草商会」なんて社名からして、しのぎを削る商家の岩谷と村井には到底敵いそうにない。
もしかして…と思い、続く為三が言う「医学の南江堂」と「漢書の松山堂」を検索してみたら、こちらも実在していた。
同じように、「川崎紫山」も実在し、『西南戦史』は代表作らしい。
「滑稽堂の秋山武右衛門」も実在した浮世絵の版元だ。
京極先生の変わらぬ博学多才ぶり。
私自身、知らぬことが多いが故に、調べながら読み進めることになる。
思わずにんまりしてしまう。
こういうのがまた楽しいのだ。
この後も、知られた名の者が続々と登場する。
それも現実の歴史上の背景を背負って登場するものだから、真実味が増し、あっという間に現実と虚構が入り交じる世界観に入り込んでしまうこととなる。
さて、いよいよ高遠が弔堂へ足を向ける。
やっと弔堂に足を踏み入れると、窓が無く、一定の間隔で幾つもの蝋燭が燈されている。
煤の色も透けているし、燈火もしっかりしており、高遠は、上等の和蝋燭だろうと思う。
そうなんですよね、和蝋燭って炎の柱が大きいのだ。
良い和蝋燭って煤も出にくくて、
芯の根元に溶けた蝋が綺麗に溜まって、
その熱い蒸気と周りの酸素を取り込んで、大きく凛とした炎がすっくと立ち上がる。
弔堂のその明かりが万燈会染みていると本文にはあったが、私の頭の中には、万燈会というより落語の死神のラストシーンのような映像が浮かんだ。
高遠も僅かな間だが、この燈火が遠くまでずっと続いているかのような錯覚にとらわれる。
すでに京極ワールドに落ちていたが、燈火の中を歩む高遠と共に、私もじわりじわりと、その世界の奥へと歩みを進める。
積み上がる本に平衡感覚を失って、見上げたままグラリと体が揺らぎそうだ。
こういうところ、本当に京極先生は上手い。
と、焦らしに焦らしてここでやっと、やっと、店主が登場する。
店主に「撓」(しおる)と呼ばれた小童の名前の響きが綺麗だと思ったのと、全く読めない漢字だったため調べたら、「みだす/みだれる/たわめる/たわむ」という意味を持つ漢字だった。
そこでやっと「不撓不屈」の「撓」であることに気付く。
この後直ぐに弔堂には物語の1人目の客人、浮世絵師の月岡芳年が訪れるのだが、
その前の店主と高遠のやり取りの、店主の言葉に、早くも私はやられてしまった。
「本は内容に価値があるのではございません。読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる。ーそちらの方に価値があるのでございます」
「立ち上がる現世(うつしよ)は、真実の現世ではございません。その人だけの現世でございますよ。だから人は、自分だけのもう一つの世界をば、懐に入れたくなる」
「読んで、何かを感得したとしても、もっと上があるやもしれぬ、次はもっと素晴らしいかもしれぬと思ってしまう。これぞその一冊と決め兼ねて、また次を探す。ですから本は、集まるものではなく集まってしまうものなのでございましょうな」
本自体の価値もあると思うけれど、極論なのだろうけれど、胸を掴まれてしまった。
そして訪れた絵師月岡芳年も、きっと手渡された書物に「これぞ己が為の一冊」と確信し、納得し、癒され、救われ、最後の時を過ごすに違いない。
月岡芳年でもなく、一個人、吉岡米次郎として接し、余計な事はあえて触れずに話を聞く。
そして芳年の帰った後、月岡芳年の背景について店主が高遠に語るシーン。
そこは京極先生のこと、史実に基づいた本当の話だ。
月岡芳年の無惨絵は有名。
けれど、そう呼ばれる作風ばかりを描いていたわけではなく、新しい技術にも果敢に挑んだ人気の絵師だった。
神経を病んでいたことも、仕事をする上で弟子に厳しかったことも、しかしながら面倒見もよくて弟子を大切にしていたことも、残されている。
勿論、死因も。
因みにウイリアムジェームズ氏の超常現象への定義や、著書The Varieties of Religious Experienceもだ。
そして芳年に手渡した書籍について語るとき、店主は、本を求めた芳年の真実を語る。
「だからあの方は、見えずとも読める。読めずとも理解できる。あの方だけの現世(うつしよ)が立ち上がるなら、それは読者です」
これには痺れてしまった。
何かに思い悩んでいる時なら、店主の言葉にウルウルしてしまいそうだな。。。
って、毎度の事ながら、私は入り込み過ぎだろうか 笑
『探書 弐 発心』で訪れるのは尾崎紅葉の弟子。
この弟子は、観音力に相対する陰の鬼神力にどうにも惹かれてならない己の内心に悩んで弔堂を訪れる。
師の著作の言葉や文章に観音力を求めて、師を尊敬し続けながらも、陰・怪に美しさを感じ惹かれ求めてしまう己が、師を貶めることにならないだろうかと思い詰めているのだ。
尾崎紅葉の弟子とは即ち、若き泉鏡花だ。
少し検索すると、
泉鏡花はこの世には超自然の力が働いていて、荒ぶる力の「鬼神力」と癒しの力の「観音力」として人間の前に現れる、という信仰を持っていた
との記事があった。
加えて、潔癖症であったことも、畠芋之助名義の話も。
弔堂店主は、例えばの話で、目の前に二筋の道を提示する。
右は平坦で短く真っ直ぐな道。
左は遠回りの凸凹した険しい道。
「目的地に着くことだけを目指すのならば、右が正解でございましょう。しかし道を行くことそのものが目的であるのなら、左こそが正解となりましょう」と弔堂は言う。
この言葉にも、救われる読者が居るように思える。
どんな形であれ、人は悩みや苦悩を抱える生き物で、それって他人からどう解かれようと、結局は己の内側から解決しなければ救われないのでは?と私は思う。
それに、悩みや苦悩の大小も、他人がとやかく言って決めつけるものではない。
弔堂のような本屋が、本当にあれば良いのに。
近頃「生きづらい」という言葉がよく聞かれるようになった。
きっと以前から存在していたのに、急にメディアが取り上げて使い出したんだろうね。
けれど多くのメディアが取り上げるそれは若者が多く、現実は若者に限らず、子供も、働き盛りの年代も、高齢者も、性別を問わず皆が抱える思いであるはず。
気軽に「生きづらい」というワードを出しすぎでは?と思うときも確かにある。
けれど、"何か"に追い詰められて、その"何か"に関しては打ち明けられる人もおらず、孤独だった場合、弔堂のような場所に救われる人は多いんじゃないかな。
そんなことをあーだこーだと思うのは、私が小煩いオバサン世代になったからだろうか。
『探書 参 方便』では、つい最近フォロワーさんとの間でお話を交わさせていただいた狐狗狸さんが登場人物達の話題としてあがったので、
一層前のめりになってしまった。
始めの客人は勝海舟だ。
安芳(やすよし)と改名したのを「"アホウ"と書いて"やすよし"だ」との本文に、うまいこと言うなぁと思ったが、
勝本人が実際、そのように自虐的に言っていたようだ。
「信心ってなあ信じる心じゃあねえ、心を信じることだ」
「ただ無闇に信じ込むだけなら、それはただの妄信だ、迷信だと云う。真の信心をするためには理を知れ」
「理を知り迷妄を棄却するためには哲学が要る」
これらは心に響いた。
それと、
「正すも学ぶも主体あってこそだな。その主体がねえから、何が正しく何が正しくないのか判らねえ。悪いとこまで倣っちまう。」
って言葉。
文章を読むと"そりゃぁそうでしょうよ"と思いそうだが、
人は時に自分という主体を失くして、○○が良いのだと全てにおいて何者かに傾倒してしまうものだ。
ただこれはあくまでも1人目の客人、勝海舟の語り部分。
主である弔堂の出番は、この後の真の客人である井上圓了が訪れてからだ。
(因みに井上圓了は狐狗狸さんの仕組みを科学的に説いた人)
私はこの『探書 参 方便』が一番好きだった。
哲学的でありながら読みやすく、自分の深いところに残る文章が沢山あった。
『探書 肆 贖罪』にある、中濱老人の「人は喰うてなんぼです。どんな境遇でも喰えるものがあって、それを喰うておれば、生きる」も、いい言葉だった。
時代も背景も別物だが、私の好きなカルテットというドラマに、「泣きながらご飯を食べたことのある人は生きていけます」(だったかな?)という松たか子のセリフがある。
脚本は坂元裕二さんなので、お好きな方は、どの作品でもみられる絶妙なセリフの掛け合いをよくご存知だと思う。
さて。
「あんなに大勢が死ななければ、世の中と云うのは変わらんものですか」
「死んで通す筋も、殺して通す筋も、ないですよ。いやいや、あっちゃいかん。…………人は生きてこそです。生きて、苦労して通して、それで通るなら、それは正しい筋だ。」
これも前者と同じく中濱老人の言葉だが、胸を打つ。
さて、この中濱が救いたいと、連れ歩いている男は誰なのか?
悲しい話で、泣けた。
二番目に好きだったのは『探書 伍 闕如』。
「道は、外れさえしなければいいのです。間違うことはございません。道は凡て繋がっているものなのです。」
「歩むことこそが人生でございます。ならば今いる場所は、常に出発点と心得ます。」
など、響く言葉が満載だ。
誰が言ったのか忘れてしまったが、
"Today is the first day of the rest of your life.
"
という好きな言葉がある。
今日という日は残りの人生の最初の日。
人は、いつだって何度だって再スタートできるのだ。
ラストの『探書 陸 未完』でも、考えさせられる言葉が並んでいた。
そして…きゃー!中禅寺!
京極堂こと中禅寺秋彦のお祖父様が登場!
京極先生の「後巷説百物語」などの百物語シリーズと、「姑獲鳥の夏」などの京極堂シリーズとの間を繋ぐのが弔堂シリーズなのかな?
私は百物語の方を読んでいないので分からないのだが。
そして、高遠もこの破暁をもって物語から去って行く。
色々な意味で、衝撃というか、ハッとさせられる一冊だったな。。。
破暁とは、夜明けの事。
次は炎昼なので、真夏の昼間。
その月は待宵なので、十五夜の前夜。夜というより夕暮れなのかな…。
弔堂の主の決め台詞は「どのようなご本をご所望ですか」なのだが、
前述してきた通り、客人は本を求める前にたっぷりと弔堂から精神のケアがなされるものだから、
その台詞を受け取る時分には、自らが求めるべき本をすっかり感じ取っている。
客人の、「…な本を。」という求めに応え、弔堂が数ある蔵書の中から書を差し出すという流れだ。
客人は弔堂と言葉を交わしながら、己が何を成し、何に迷い、何を求め、どちらを向いて歩もうとしているのかを、己の内側からの気付きによって本を求めるのだ。
弔堂が始めから客人に見合う本を勧めるのでは意味がない。
己で気付くことが大切なのだから。
本書は物語としても面白く、京極夏彦ファンとしても傑作間違いなしなうえ、
作中の数々の言葉に救われる読者も多いのではないかと思われる。
ネット記事で読んだ。
京極先生は、1文がページを跨がないようにしているのだとか。
「たとえば文がページをまたいだほうがいいというテクニックもあるんです。ただ今のところ、そういうハイテクニックが僕には使いこなせていないというだけです。」
と謙遜されての発言だったけれど。
こういう情報を得てから小説を読むと、また違った趣も感じられる。
夏だからって、ホラーは怖すぎて私には無理。
けれどちょっぴり不思議を味わいたい。
そんな思いから手に取った小説だったが、
文明開化や四民平等、義や倫理などが散りばめられた物語から、日本の歴史、戦争や人の生き様をも考えるに至り、この8月に読めて良かった。
Posted by ブクログ
自分にも、自分の1冊があるのかなぁ〜、と、思いをはせてしまいます
歴史と絡めたところも、面白く、自分も、その時代にいて、その場に参加しているような、そんな気持ちにさせてくれる1冊です
無駄な物はないのだな〜と、しみじみ思います
良い本です
Posted by ブクログ
京極夏彦さんは京極堂シリーズ(は途中まで)、今昔百鬼拾遺のシリーズなどを読んできましたが、この書楼弔堂シリーズも前から読んでみたかったんです。
江戸の町の書楼弔堂の亭主は「ただ一冊、大切な本を見つけられればその方の仕合わせ」と云っている本屋です。
しほるという小童がひとりいます。
高遠という弔堂の常連客が主人公で、探書 壱から探書 陸までの六話に渡って現れる客に弔堂の主人がその客に合った一冊の本を薦める話です。
以下ネタバレありますので、これから読まれる方はお気をつけください。
高遠の連れてくる客は臨終間際の絵師、月岡芳年。書生時代の泉鏡花。哲學館を創設し、後に妖怪博士と呼ばれた井上圓了。ジョン万次郎の連れで勝海舟に「名を捨てて生きろ」と云われた男、岡田以蔵。児童文学者となった巌谷小波。そして登場人物ではありませんが夏目金之助や尾崎紅葉、福沢諭吉などの名前も出てきます。
エンタメ度は他の作品より低いと思いますが、近代文学の好きな方は楽しめる作品なのではないでしょうか。
時代を超えた格調の高いビブリオミステリーで、私にはちょっと難易度が高い作品でした。
Posted by ブクログ
面白かったー!
明治20年代の東京。異様な本屋、書楼弔堂には無数の本が集められおり、己の一冊を求めて迷える人々が訪れる。
そこの主人は迷いを晴らし、その人のための本を紹介する。
まるで京極先生の説教を間近で聞いているような贅沢な気分になる本だった。
Posted by ブクログ
『世に無駄はない、世を無駄にする者がいるだけだ』
大切なことを見つけるor見出すのは、本人だけでは難しかったりするもので。
懐の深い人間になりたいものです。
Posted by ブクログ
初めて読んだ京極夏彦先生の作品。
表紙の「弔堂」はドールハウス⁉︎ 凄い。
六話収録。
この物語は’奇’ではあるが’怪’ではない。
明治二十年代の東京。「燈台みたいな変梃な」(p21)書舗を訪れる種々の客たち。
この客たちというのが普通の客ではないのだが、その正体は各話とも初めは伏せられており、その正体が明かされるまでのワクワク感が堪らない。
また、真名が伏せられている間の会話等に所々ヒントとなるような情報が散りばめられており、客が誰かを推理することも決して不可能ではない…というよりも詳しい人ならばすぐにピンと来るのかもしれないが。
どの話も好きだが、〈探書肆 贖罪〉が特に良い。「鯨を捕ったり金を採ったり」(p288)した中濱という男…こちらはまだわかりやすい。ではもう一人の男は誰?…え⁉︎
これはたまげました。
これらは勿論、京極先生による創作ではあるのだが、実際ほんとうにこんな出来事があったのではないだろうかと思わせられる凄味がある。
まるで夢幻のような小説。
1刷
2022.3.21
Posted by ブクログ
3階みっしり本で埋め尽くされてる空間はさぞかし圧巻だろう。是非とも訪れてみたい、心が踊る
しかしそこは本という墓を取り扱う墓場という
その本を必要とする人に売る(逢わせる)を弔うという
考えたこともなかった
そこは本の再生とか甦るとかではないのか
その本が誰かにとって生涯の1冊であっても、人生を変える1冊であっても、生きていく力をくれても、墓は墓のまま、現れるのは過去の、知識の幽霊。
だから弔いになるのか
こんな考え方もあるのか
舞台となった明治は激動の時代だ。文学、宗教、身分、国と身の回りのあらゆることが変化した
流れをつくる者、流れに乗る者、流れに逆らう者、流される者、たくさんの生き方や立場があって、それぞれが懊悩し決断し、壊して築いている
その時代で名を残した人物が各章で登場し、自分の1冊に出会うが、この人物は誰なんだとわくわくしながらページをめくった
こんな悩みがあっただろう、苦しみがあっただろう、でもその人物の真実ではない、京極夏彦世界の虚だ。
今回も虚の世界はとても楽しかった
それ以外の遊び心的なものも大いに楽しめた。
読書を娯楽として楽しめる時代と技術、作家の方々にありがとう
Posted by ブクログ
もし弔堂が行ける範囲に存在していたとして、私は辿り着けるのかどうか。辿り着けたとして、中に入れるかどうか。
本屋なので本来なら入れるし買えもするんだろうけど、尻込みしてしまうだろうなというのだけはわかる。でも、店主に「1冊」差し出されてみたい。
Posted by ブクログ
京極夏彦の作品の中では比較的薄い。
厚さは文庫でたったの2センチだ。
さて、時は文明開花:御一新から時のたった明治二十年代。
書楼弔堂(しょろう とむらいどう)という変わった屋号の本屋の物語。
そこにやってくるのは東洋大学の祖、井上圓了や泉鏡花と言った歴史に名を残す人々。
彼らがそこで出会った本は、彼らの人生をさらに高みへ連れていく。
「人が大人になるように、国も文化も大人にならなくてはいかん」(258頁)
「出来ることを出来る範囲で遣れ、出来ないならば大言壮語を吐くな、出来ると云っておいて遣り遂げられるなら、その時は威張っていないできちんと償え」(326頁)
私は管理職ですらない、表彰もされたことがないいたって普通の、つまり一般社員。
国の要職についているわけでもなければ、ウェブ上にだってどこかに影響力のある人間ではない。
けれども、人を育てる立場ではある。
自分のためだけではなく、誰かを育て未来をつなぐために、こうした言葉はたくさん自分の中に入れておきたい。
素晴らしい言葉に見合うような大人物になれずとも、私のような名もなき人々が歴史を、社会を作ってきたから。
本は不思議だ。
確かに読まれなければ死んでいる。
だが、ある日出会うべきして言葉は惹かれ合う。
この本屋が、私を読んだのかもしれない。
そういう意味では、私は確かに書楼弔堂に、行ったのだ。
Posted by ブクログ
ホラーが苦手なので、初・京極夏彦先生。これは本の話だったから読んでみた。明治時代の、架空の書店の話なのだが、蝋燭の光に照らされた書店の内部や、その主人、丁稚の少年しほるが、この世のものではない雰囲気を持って想像力を掻き立てる。
人が必要としている本はただ1冊、それ以外は皆死んだ本という主人が、本を必要な人に手渡し、生かすために営んでいる、弔堂。
高遠彬という、ご一新で武士の身分をなくした男が狂言回しとなって、物語を進めていく。
弔堂に縁を得てやってくるのは、明治時代の名だたる人たちばかり。一体これは誰だろう?と思いながら読むのも一興。
主人は蘊蓄が多いし、弔堂では多くを語るので、ほぼ会話。しほるの、ぬるいお茶でも欲しくなる冗長さに、ちょっと閉口しつつも、気がつけば500頁以上の分厚い本を読み切っていた。ちゃんと読めば、明治の雰囲気が味わえる、凝った文章になっている。
書影は文庫より単行本の方がずっといい。どうして変えちゃったんだろうな。
Posted by ブクログ
なんというか、主人公の気持ちが人間味溢れてて、一話毎に有名な人が出てきて、その人の人生の一端を弔堂が支えて、後のことは語らない、ってスタイルがすごい好きだった
Posted by ブクログ
ほんタメのあかりんが年末年始に読みたいシリーズであげていた。
すごーく分厚くて、言葉も難しくて、
時代背景に慣れるのにも一苦労だったけど、
その人のための人生の一冊を勧めてくれる弔堂の主人と、出てくる偉人たちのやりとり、思想や言葉にであうことができて、すごく心に響くところも多い。
日本という国の歴史や、偉人の人生をのぞかせてもらっているような、そんな気持ちになった。
難しいけど、よみすすめたい!ってなって
最後までなんとか読み切ることができました。
歴史に精通している人だと、さらに興味深く読めるのかもしれない。
わたしは好きだけど、にわかだったから、難しかったな。
岡田以蔵の話や、言葉や心のないけどある、ということについて話しているところがすごく好きでした。
Posted by ブクログ
明治二十年代、書楼弔堂に訪れた人が本を買っていく物語
登場人物は実在した後の偉人や、京極の他作品と関係のある人、架空の人物等様々
シリーズ1作目
コネで煙草製造販売業に就くも、風邪を結核と怪しんで休職して別居に移り住んだ男 高遠
元幕臣の嫡男であるものの、元服後は御一新があったために武士としての矜持もない
父親の遺産があるため、食いつなぐ分には普通に生活できる
風邪が治った後もダラダラと別居を続け、近所を散策していたときに書楼弔堂に邂逅する
「世界で一冊しかない自分だけの本」を求める店主が、いつの間にか集まった書籍を弔うために本を売っているという
そんな弔堂に訪れる人々の悩み
店主はそんなお客にどんな本を勧めるのか?
主な登場人物は高遠と他二人ぐらい
元僧侶である弔堂の主人
弔堂の丁稚 撓(しほる)は見た目は美童だが口が達者
他は店に訪れるお客
「後巷説百物語」の「風の神」からおよそ十五年後という舞台設定で
最後まで読めば、あのシリーズとの繋がりも……
史実を踏まえて虚構を愉しむ物語ではあるけれども
どこまでが史実なのか、歴史に詳しくない私にとっては判別が難しい
読み終わった後に調べてみて、そんなエピソードや後に判明した齟齬など、実際に存在する事を知る
・臨終
月岡芳年
最後の浮世絵師といわれる人物
主に残虐怪奇な無残絵が有名らしい
シリーズ開始初っ端に産女を出してくるあたりが京極なりのファンサービスかな
・発心
泉鏡花
デビュー当時の筆名が畠芋之助というのは本当のようだ
ただ、なぜそんな名前にしたのかは不明
本名からして耽美を感じるのに、何故にそんな芋っぽい名前にしたのかという不思議
・方便
井上円了
京極ファンからしたらこの人の名前はよく聞く
本人としては、怪力乱神を否定するために様々な怪異情報を収集していたけど、その網羅性と分類の適切さにより妖怪学の始祖とされている
となると、画図百鬼夜行がその本というのも納得
由良の関係者が登場するのも京極ファンとして嬉しい
巷説百物語シリーズ「風の神」、百鬼夜行シリーズ「陰摩羅鬼の瑕」を繋ぐシリーズだというのがよくわかる
・贖罪
ジョン万次郎
中濱といわれてもピンとこないけど、その来歴の違和感から想像すると該当者はそうなりますよね
そしてメインは岡田以蔵
岡田以蔵は明治になる前に処刑されたはずだけど
ジョン万次郎の護衛をしていたという記述も残っているという矛盾が基になっている
井上円了のときにも出てきた勝海舟の図らいと人となり
生きている人優先という考え
岡田以蔵は「生きている」人ですからねぇ
・闕如
巌谷小波
少年少女向けの「こがね丸」を発表した事で、児童文学の先駆者とされているようだけど、浅学の身のため聞き覚えがない
実は今で言うオタク的な収集癖があったともされるようだ
確かに、自分の好きな書籍のこだわりや執着の仕方が現代のオタクに通じるものがある
・未完
中禅寺輔
これまで実在の人物を出してきて、ここにきて百鬼夜行シリーズの中禅寺の祖父を出してくるとは
流石は京極先生、やってくれる!
物語としては、相変わらず暇な日々を過していた高遠が撓に頼まれて本の買い取りを手伝うことになる
その買い取り先が中野にある神社で、宮司をしているのは中禅寺輔だった
中禅寺輔は中禅寺秋彦の祖父なのですね
輔は父である洲斎が亡くなり、神社を嗣ぐため、妻と生まれたばかりの息子を残して一人実家に戻る
今は神社を継ぐために神職の勉強や修行をしているところ
買い取って欲しいという大量の本は洲斎が懇意にしていた戯作者菅丘李山の遺族から譲り受けたもの
菅丘李山は「巷説百物語」主人公の山岡百介の筆名
輔は神職を嗣ぐ決意をしたものの、陰陽師の在り方には否定的
所詮ペテン師の類いなのではないかという疑問
「迷信、まやかしは不要で滑稽なもの」と思っている
まぁ、この疑問に対しては今作でも随所で語られている言葉や百鬼夜行シリーズで京極堂が語る言葉が答えなのではなかろうか
「言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます」
「書き記してあるいんふぉるめーしょんにだけ価値があると思うなら、本など要りはしないのです。何方か詳しくご存じの方に話を聞けば、それで済んでしまう話でございましょう。墓は石塊、その下にあるのは骨片。そんなものに意味も価値もございますまい。石塊や骨片に価値を見出すのは、墓に参る人なのでございます。本も同じです。本は内容に価値があるのではなく、読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる――そちらの方に価値があるのでございます」
「心は、現世にはない。ないからと云って、心がない訳ではない。心はございます。“ない”けれど、“ある”のです」「“ない”ものを“ある”としなければ、私共は立ち行きません」
京極堂の憑き物落としにしても、実際はどうあれ、本人がそう思っているものというのが重要なんだよなぁ
思い込みにより、「ない」ものを「ある」ものとしながら、「ある」ものを「ない」とする事もできる
何とも哲学的ですなぁ
あと、この物語の一番大事なところは、人それぞれ人生の一冊に出会うまで探し続けるというところでしょうか
「本当に大切な本は、現世の一生を生きるのと同じ程の別の生を与えてくれるのでございますよ。ですから、その大切な本に巡り合うまで、人は探し続けるのです」
私もそこそこな冊数を読んできているけれども、果たして人生の一冊に出会っているのだろうか?
名刺代わりの10冊に挙げる事ができる作品はいくつかあるけど、その1冊あれば十分という本にはまだ出会えていない
というか、今後も出会える気がしないんだがなぁ……
もう、書楼弔堂に行くしかないっすねw
それにしても、巷説百物語シリーズと百鬼夜行シリーズを繋ぐ重要なシリーズとは最初に読んだときは驚いたなぁ
さらに、出版社が「どすこい」「南極(人)」を出している集英社というねギャップがありすぎでしょw
それにしても中禅寺秋彦は祖父に育てられたんだっけ?
で、敦子さんは奥さんの実家という、兄妹で別々の家で育てられたという
この辺の事情は明らかになってないんだけど、今後ちゃんと明かされるときが来るんだろうか?
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探書をめぐる明治初期の物語ですね。
まことさんの本棚レビューを見て、とても気になり直ぐに買い求めましたが、面白過ぎて読むのに時間がかかりました。
とにかく、ワクワクしながら堪能しました。
まことさん、ありがとうございます。
連作短編の六篇の探書です。
京極さんの本は、これが初読みです。
魑魅魍魎、怪奇、妖怪小説のイメージが強い方なのかなと、勝手に思い込んで敬遠していましたが、この本は違います。
確かに、その類いの話は出てきますが、「人は何故、怪を好むか?」の理路整然とした、京極さんのポリシーがよくわかる内容になっています。
近代文学に興味があって、三十才頃にこの時代の随筆を中心に読み漁った事があります。歴史小説や時代小説も同時にかなり読んだ年齢でした。
私の読んだ知識と(頭が悪いので、うろ覚えですが?)、かなりリンクして、京極堂さんの軽快でいて、知的な語りに魅力されながら、酔うように読み進めました。
京極堂さん、人気の秘密は色々あるように思いますが、なんとなくファンの気持ちがわかるような気がします。
まだ、一冊目なので、このシリーズを続けて読んでみたいですね。
京極堂さんの他の作品とリンクしている登場人物や事変がありますが、あまり気にせずに読めますから、まずはこのシリーズを探書してみたいです。
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京極夏彦の本を久しぶりに読む。この人の本を読むと、ただ文字をひたすら読むことが楽しいという気持ちを思い出す。本を読むこと、ただそれが楽しいという気持ち。
そして中禅寺さんが出てきたよ。次作も読まねば。
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明治時代の書店に通うようになった世捨て人、高遠が主と共に来店する客とのやり取り。主に客が当時の文豪だったり偉人なので正体が明かされる時、ワクワクして読めました。
短編連作ですが、最後の「未完」の
生には決着はない。だらだらと続くもの。という内容が印象的でした。何者にもなれず、人生未完成ならそれならそれでいいと言う主人に、少し救われた気持ちになりました。
また当時の人々の生活風俗がよくわかり、「丸善」など歴史ある書店も紹介され思いを馳せることができました。
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史実の著名人をモチーフにして、その人のための一冊を提示する書店の、売り方にそれぞれの作家への畏敬や救いのようなものを感じた。京極先生の本と文への愛がこれでもかと詰め込まれた小説だった。
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古本屋「弔堂」を営む店主が後に著名な人物と出会い、その人のためになる1冊の古書を薦めるやり取りが面白い。
「どの本も掛け替えのない喜びを与えてくれた大切な大切な本。1冊として無駄な本などない=略=本来持つべきある方を探している。(P255)」との信念はホンスキーの皆さんも同じ思いだろうと思う。
Posted by ブクログ
メモしておくのを忘れてしまったので、正確な言葉ではないけれど
本とは、既に死んでいるものである。
言葉は道具でしかないのだから、重いも軽いもなく、
ワードやエクセルを自在に使える使えないの違いみたいなものじゃないのかな。
早くて便利で確実だけど、淡白かもしれない。
どんな言葉を遣っても
そこに、強い意思や深い思考があるかどうか
自分でその言葉を遣おうとして遣ったのか
受け手に対して、適切に遣っているのか
そういうことが大事なんじゃないかなあ。
道具に慣れてしまうことはあるけど、
時々振り返ってみよう。
つづく。
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登場する人物やら舞台設定やらでちょっと堅苦しく感じはしたもののいやー面白い面白い。百鬼夜行シリーズとの繋がりもあるし京極夏彦ファンは読んで損はしないなぁ。
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だいぶ忘れての読み返し。
高遠さんは、どうなったんだろう、どこかでリンクはないのかな。
てゆーか、トリストラムシャンディかよ。たまたま最近読んだのですが、それ勧められちゃったのかよ。ま、人生色々曲がりくねって無駄そうでも、自分の好きなことに注いでいれば良いのですよね。
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【2024年40冊目】
概念を散りばめたような小説だった。特に何も特筆すべきことは起こらず、ただ淡々と過ぎる人々の日々の中に、書楼弔堂の主人がそっと本を渡して、その人が進むべき道に導いていく、といった感じ。ミステリーでもなく、なんと形容したら良いのかわからない小説だった。派手さもなく、ずっと凪いだような感じだった。
Posted by ブクログ
カウンセリング小説とでもいうのか、あらゆる本が揃う、異形の書店の店主が、客との対話、本の売り買いを通して、客が陥っている迷妄を祓うと言うような展開の連作集。客たちの多くは後の有名人で、彼らのちょっとしたトリビアが落ちに使われていたりするのも楽しい。
Posted by ブクログ
明治、東京を舞台に書店「書楼弔堂」の主人が、時代の変遷と共に翻弄される様々な人達(皆さんご存知、歴史上のあの文豪やあの絵師やあの偉人が登場!)
探し求める「本」と「人」を巡り合わせる物語。
六編目の登場人物が心憎いですなぁw