あらすじ
ロレンス畢生の論考にして20世紀の名著。「黙示録」は抑圧が生んだ、歪んだ自尊と復讐の書といわれる。自らを不当に迫害されていると考える弱者の、歪曲された優越意思と劣等感とを示すこの書は、西欧世界で長く人々の支配慾と権力慾を支えてきた。人には純粋な愛を求める個人的側面のほかに、つねに支配し支配される慾望を秘めた集団的側面があり、黙示録は、愛を説く新約聖書に密かに忍びこんでそれにこたえた、と著者は言う。この隠喩に満ちた晦渋な書を読み解き、現代人が他者を愛することの困難とその克服を切実に問う。巻頭に福田恆存「ロレンスの黙示録について」を収録。
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般若心経に匹敵する解題!
ロレンスの本文読む必要特に無し。恆存氏の解題を熟読吟味するだけでよし。この後書きは彼の終生にわたる主張のエッセンスである。あと、コリンウィルソン、「アウトサイダー」の後書きと彼の著作「人間この劇的なるもの」「芸術とは何か」を参考書として読めば、少なくとも(ロレンスの)ではなく、恆存氏の思考を辿ること容易になる。彼の主張自体はそんなに難しいものではない。ただ一種独特な文体、レトリックを駆使するから複雑に感じるだけ。この黙示録論は般若心経に匹敵する位、簡明且つ深淵な文章であると私は高く評価する。
Posted by ブクログ
読んでみましたけど、イマイチ消化しきれませんでした。私の力不足ですね。ロレンスの結論、すなわち、人間が自然(コスモス)の一部として生きるべき(ということだと思いますけど(^^;)ということがどういうことなのか、それとの集団的自我との関わりあいを現実においてどう対処すべきなのかがこれからの問題なのかなと思った次第です。
Posted by ブクログ
副題は「現代人は愛しうるか」だが、死を直前に執筆したロレンスの結論は「愛することはできない」という断言で思わず苦笑い。本論はニーチェの唱えるルサンチマン批判からの聖書読み直しであり、そこに潜む弱者の羨望や権威欲とキリスト教が排除してきたはずの異教性を喝破する。実際、キリストがユダを必要とするように旧訳的な志向を持つ黙示録は新訳に必要とされ、その歪な選民的集団自我は現代の私たちも変わらず持ちうるものなのだ。愛の隘路の問題にロレンスは答えない。が、福田恆存の優れた解説は僅かながら確かな道筋を残してくれている。
Posted by ブクログ
内容の概要を初めて知ったとき、人々を脅かして布教活動を行いやすくするための文句なのだろう、くらいにしか思っていなかった黙示録。
改めて指摘されると、虐げられていると感じている者の怨念や執念のようなものが纏わりついているような気がしてくる。黙示録の中で敵に復讐を企てているのだ。
おどろおどろしい印象なのは変わらないが、内容がここまで振り切れているためか、よく考えてみると大変に人間味溢れる正典なのではないかとも思えてくる。
Posted by ブクログ
1930年、D. H. ロレンス最後の著作とのこと。
本書の冒頭と最後で語られるところによると、ロレンスは少年時代から既に、キリスト教の「道徳臭」がイヤでたまらなかったようだ。この感覚はおそらく、19世紀末以降は普遍的にヨーロッパ人に共有された「時代の空気」であったろう。
ロレンスは「黙示録」はキリスト教の文脈にさえそぐわない、異教的で、破壊への情欲に満ちたシロモノだと断ずる。そもそも「黙示録」の著者とされるヨハネと「ヨハネ福音書」の著者とされる人物は別人だと主張する。「黙示録」ではもともと異教趣味に満ち、イエスの「愛」にまったくそぐわないような、強者への復讐の願望/怨恨にあふれた書物であり、しかも後代何人もの手によって著しく改変・補筆・削除されたものだという。
弱者ユダヤ人が復讐をもくろんだというテーマは、ほとんどニーチェ的であるが、本書の中にはニーチェのニの字も出てこない。
しかし私の興味を惹いたのは福音書についての考察ではなく、本書の最後に出てくる思想だった。
「この世に純粋な個人というものはなく、また何人といえども純粋に個人たりえない。大部分の人間は、もしありとしても、ごくかすかな個人性を所有しているにすぎぬ。彼等は単に集団的に生活行動し、集団的に思考感情を働かせているだけで、実際にはなんら個人的な情動も、感情も、思想ももちあわせていないのである。彼等は集団乃至は社会的な意識の断片にほかならない。」
「民主主義においては、弱いものいじめが権力にとってかわることはまさに必然なのだ。・・・畢竟、近代の民主主義は、各自がそれぞれの全体性を主張してやまぬ無限の摩擦し合う部分からなっているのだ。」(P207-210)
「個人、クリスト教徒、民主主義者は愛しえぬ」というペシミズムは強烈で、私もまた共感をさそわれるものだが、ロレンスが吐露したこの書物には思想的構築性はない。彼は何より文学者なのだ。「コスモス」を憧憬する彼の願いは、非常に良く理解できるものの、具体的な解決の糸口は見えない。
黙示録論そのものよりも、この書の最後に叩きつけられたペシミズムがすこぶる印象的であり、これをいかに受け取るかという難問が、読者を襲うだろう。
その意味ではとても刺激的な本だった。これに惚れ込んだ福田恆存の気持ちもわからないでもない。