あらすじ
精神障害やアルコール依存などを抱える人びとが、北海道浦河の地に共同住居と作業所〈べてるの家〉を営んで30年。べてるの家のベースにあるのは「苦労を取りもどす」こと――保護され代弁される存在としてしか生きることを許されなかった患者としての生を抜けだして、一人ひとりの悩みを、自らの抱える生きづらさを、苦労を語ることばを取りもどしていくこと。べてるの家を世に知らしめるきっかけとなった『悩む力』から8年。 浦河の仲間のなかに身をおき、数かぎりなく重ねられてきた問いかけと答えの中から生まれたドキュメント。
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Posted by ブクログ
最後まで読んでないけど、一応の目処というか、これ以上読み進めても無駄だなと、思ったので。
一応自分も統合失調症なわけで。
親亡き後、どうしようもなく死にたくなったら、べてるの家に駆け込むのもありかな?と思ったんだけど。
ちょっと住む世界が違いすぎる。
自分はほとんど幻聴はないんですよね。
家にいる時、またに誰か帰ってきたような音がして、見に行くと誰もいない。
そんなようなものです。
よく言う、幻聴があれしろこれしろということは、全くない。仮にあったとしてもフルシカトしますけどね。
でもべてるの家では、これが日常。
幻聴や暴力を受け入れてる。
それを研究して、何かあるんだろうか?
最後まで読めば何かつかめる?
かもしれないね。
でも爆発系からもう、付き合いきれない。
自分自身、親に暴力を振るうというのはあったんですよ。なにか思い通りにならないとキレるというね。
でも、江原啓之さんの本を読んで、「親に暴力を振るうのは甘え」とはっきり書かれていて、それからやめました。
甘える気持ちを捨てました。
だから止められるはずなんです。
でもべてるの家の当事者はやめられない。
そして関係者はそれを受け入れてる。
そこがもう、ついていけない。
そんなところにはすがれない。
やっぱり独りで生きていくしかないみたいです。
でもね、病状が重い人たちには、救いになると思いますよ。
べてるの家が意味無いとか、言うつもりもないし、思ってもいない。大いに価値があると思う。
ただ住む世界が違うというだけ。
11/3 追記
しばらくして、とりあえず最後まで読んでみた。
タイトルおかしいよね?
「治りませんように」
これ言ったら怒られるかもしれんが、
病気が現実逃避の手段になってないか?
ということだ。
日々の糧を得るために生きるのは、単調で苦しすぎるから、病気になることで回避している?
それは俺もそうだ。
統合失調症としての自分は、薬を飲むことでほぼ寛解状態となっている。
でも他の生きづらさがある。
それは薬ではよくならない。
さらに言うと、時間の経過とともに、確実に悪化してる。
だから近い将来、確実に働けなくなるだろう。
でも「べてるの家」がある限り、そこには救いがあるのかもしれない。
いつか働けなくなった時、いつかどうしようもなく死にたくなった時。
防波堤のような役割をするのではないかと、ひそかに期待している。
ひとつ生きる希望になったかもしれない。
Posted by ブクログ
統合失調症を理解するために手に取った。北海道のクリスチャン界では「べてるの家」はわりと有名なのではないかと思う。カトリックのうちの母も知っている。
患者さんたち(みんな統合失調症)のエピソードの中に、病院で同じ入院患者を刺し殺した人と、殺された人の家族のものがあった。重大な事件ではあるが、みんなそろって教会に集まって故人を偲び、被害者の父親はこのままべてるの家を続けて欲しいと訴える。お互いの苦しみが痛いほどわかるからこそ、責めることなく、必要なのはべてるの家のような居場所であることをみんなで再確認する。人はここまで寛大な気持ちでお互いを助け、守り合うことができるのかと驚いた(そして泣いた)。それは病気をとおして得る人間性なのではないかと思う。
Posted by ブクログ
精神障害者施設がべてるの家でのエピソードや理念が書かれている。手厚い就労支援と当事者研究を行うこの施設では、病気を治すことでなく病気と生きることを大切にしている。だからこその苦悩、豊かさを知ることができる1冊。
自分が病気になったときと同様に、精神障害者は病気を治したいと思っていて当然だと思っていた。しかし、そうではない。病気があるから今のその人や人間関係がある。治る不安もある。治らないという諦めもある。幸せに生きるということの意味を考えさせられる。進歩的でないことがポジティブな意味合いをもつようになる。
病院の、医者が主役にならない、患者を主役に、という考えもとても良い。べてるの家と病院が同じ方向を目指しているのが誰にとってもメリットだと思う。
Posted by ブクログ
べてるの本三冊目。べてるってすごい、べてるに行くと救われる、べてるは最先端の障がい者コミュニティ。こんな印象を持った二冊の後でのこの本。べてるの人の抱えた病、生きづらさが、重たかった。先日精神科医が患者に刺されてなくなるという痛ましい事件が起きたばかり。べてるでも患者同士の事件が起きていたのですね。その経緯とべてるの式の葬儀の章が胸に迫りました。また、「人間とは苦労するものであり、苦悩する存在なのだ」というべてるの世界観は、すべての人の生き方に大切な気付きを与えてくれるのではないかと思います。
Posted by ブクログ
北海道、浦河の精神病を抱えた人たちのコミューン、べてるの家の人々についての取材報告。
長年継続して取材してきたTVディレクターによる報告なんだけど、とても内容が濃くて感動もの。看護、介護福祉関係者は、必読だろうね。
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病気を自分の一部として付き合う。
つらいこと、大変なことでも物事の見方を変えて生きていく。
どんなつらく苦しいことも、だからこその自分がいる。
病気こそが自分の個性
自分が求めていることと方向が同じかもしれない
Posted by ブクログ
・アイメッセージ
言葉の土壌に、芽が出て、木になり、花が咲く。
・人間アレルギー
死に向きあってしまう。 日本に来た禅僧のネルケ師の話にそっくり。
・治さない
前にも後ろにも立たない、寄り添う立場の精神科医。
・苦労の哲学
何もかも正面から受け止めてきた人が、相談員になってそばにいる。
・しあわせにはならない
言葉は心から出てくるが、その心は自分の心だけでなく、他の人の心と響き合っている。 アウシュビッツの煙突から出る両親を焼く煙を見上げた少年の心が、時と場所を遠く離れて、別の人の口に「僕は幸せになりません」という言葉になる。
彼が結婚するとき、今度は自分の言葉となって耳によみがえる。
この世界は声、光、波、こころに充ちている。
Posted by ブクログ
今年のはじめに「降りていく生き方」ではじめて「べてるの家」に触れたけど、その最新刊っぽい。記載されている内容的には同じ(前著は横川さん、本書は斉藤さんと別の肩がかかれたためかもしれませんが)ような感じがした。
結局満足できる体・精神状態とは、決して100%でなくてもあるがままの自分を受け入れ、背の長に合わせた生き方をできることかどうかということですね。
人間は欲望の塊と言いつつも、いずれ体も老いてなくなってしまうんだから、せっかくの今を有意義に感じて過ごしたいですね。
Posted by ブクログ
犯人は精神病院に通院中だった、
ということを聞くと、
(精神病院の治療は、本当に正しいのだろうか)
(治療ではなく悪化させているんじゃ…)
と考えてたりしたので、
べてるの家の試みは、
考えさせられた。
最近、事件が起きる度に行われているような気がする、
「精神鑑定」の意味とか。
Posted by ブクログ
・幻聴さん、お客さん、自己病名、誤作動。
・強迫的な確認鉱がなぜ起きるのか。そうするのは「悩んでいる」、「疲れている」、「ひまで」、「さびしい」、「お金がない」か「おなかがすいた」とき。それぞれの頭文字をとった「な・つ・ひ・さ・お」は、べてるの家の名言としてたちまちメンバーの間に定着してしまった。
・私が声をかけ、そっけなくあしらわれたのはこの時期だった。病院の外来に「ぼくも行こうかな」といい、「あ、行ってください」と突き放されたとき、彼女はそこで私を罵倒しかねない自分を必死に抑えていたのだろう。一見落ち着いていたけれど、仮面の下は極度の緊張状態だったはずだ。
→中井久夫が統合失調症で一年とか固まってまったく動けず、「動くと世界が壊れると思っていた」と語ったと言っているような人は、きっとこういう洪水の中にいたんだ。
・「爆発のサイクル」。
病気や人間関係がもとで物事が思い通りにならないとイライラし、そのイライラを親にぶつける、親がいやがることをしてどんどん緊張関係を高め、その緊張のもとで爆発のエネルギーをためこむ、エネルギーが十分たまったところで、寿司買ってこい、などと無理難題を押し付け、反発を誘って爆発する、というものだった。爆発した瞬間はすっきりするが、あとにやってくるのは深い罪悪感で、その罪悪感から引きこもり、ふたたび物事がうまくいかずイライラするというサイクルが紹介された。
→人間関係のパターンなんだ。きっと。
・(奥さんの付箋)病気を生きること。その苦労を引き受けるということ。それは仕事や子育てとおなじようなやりがいをもたらしてくれるだろう。
→うつのお薬を飲んでいたのですけど、面白い表現で腑に落ちたと言っていました。奥さんのお姉さんが、どんな仕事も楽しめると言っていましたけれど、人生の課題は向き合えるというか、向き合うしかないというか。必ずそこから何か得られるものなんですね。たくましいというか、それは、人間の本質。