あらすじ
銀婚式の日、妻と共に若い日の思い出の地を訪れた初老のアシャーストの胸に去来するものは、かつて月光を浴びて花咲く林檎の樹の下で愛を誓った、神秘的なまでに美しい、野性の乙女ミーガンのおもかげ、かえらぬ青春の日の悔いだった……。美しく花ひらいた林檎の樹(望んでも到達することはできない理想郷)の眩ゆさを、哀愁をこめて甘美に奏でたロマンの香り高い作品。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
113P
ジョン・ゴールズワージー
(英語:John Galsworthy、1867年8月14日 - 1933年1月31日)は、イギリス(イングランド)のサリー州(現ロンドン市キングストン・アポン・テムズ王立特別区)出身の小説家、劇作家。日本では『林檎の樹』の著作で知られ、世界的には1906年から1921年の間に書かれた『フォーサイト家物語(英語版)』の作者として知られている。また、1921年に国際ペンクラブが発足すると、1923年から1933年にかけてその初代会長を務め、1932年にはラドヤード・キップリングに次いで、イギリス人として2人目となるノーベル文学賞を受賞したことで名高い。生まれ故郷であるキングストン・アポン・テムズにあるキングストン大学にはゴールズワージーの名前を冠した建物が所在する。1867年8月14日、イングランドサリー州のキングストン・アポン・テムズに、弁護士として生計を立てていた父ジョンと、母ブランシュ・ベイリー(Blanche Bailey)の裕福な家庭に生まれる。ハーロー校の後にオックスフォード大学で学ぶ。はじめは弁護士になるつもりだったが、法律にあまり興味が持てず、家業の船舶業を手伝いながら世界を旅する。この時期にオーストラリアのアデレードでジョゼフ・コンラッドと出会っている。
「「たしかに、君のいうとおりだ。しかし、それが騎士道に反する場合はどうする?」「ああ! 君はいかにもイングランド人らしいことをいう! イングランド人というものはね、感情というとすぐ肉体的なことを連想してショックをうける。彼らは情熱ときくとこわがるが、性欲ときくとなんとも思わない――そうだ、それをかくしておけさえすればね」」
—『林檎の木・小春日和』ジョン・ゴールズワージー著
「男で――五歳以上になれば――恋をしたことがないといえる者がいるだろうか? アシャーストはダンスを習った時に、自分のパートナーに淡い恋のようなものをおぼえたり、保母を慕ったり、休みでかえってきている少女たちに恋をしたりしたことがあった。どんな時でも、常に幾分かはなにか漠然としたあこがれを抱いていて、全然恋をしていなかったことはなかったに相違ない。しかし今度は全然事情がちがっていた。それには漠然としたところなど薬にしたくもなかった。それはまったく新しい感情で、一人前の男になったことを強く感じさせる、はげしい喜びをともなったものだった。このような野に咲いている一輪の花を指先にもち、それに唇を押しつけることができるなんて、そして、その花が喜びのあまりふるえているのを感じることができるなんて、なんという歓喜――なんという困惑であったろう? いったいどうしたらいいのであろうか――この次はどうやって彼女にあったらいいのだろう? 最初の愛撫は冷静な憐憫の情のこもったものだった。しかし次の愛撫はそんなわけには行くまい。彼の手にもえるような接吻をし、それを胸に強く押しあてたことによって、彼女が彼を愛していることがわかったのだから。ある種の人々は、愛されることによって粗野になり品がわるくなる。しかしまたある種の人々は、アシャーストのようになにか奇蹟でも起こったように感じて、心を動かされ、ひきつけられ、夢中になり、やさしい気持ちを抱き、ほとんど忘我の境にまで達するのである。」
—『林檎の木・小春日和』ジョン・ゴールズワージー著
「しかし朝食がすむと、メガンにあいたくてたまらなくなり、また、なにもかも台なしにしてしまうようなことをメガンがきいたのではないかという心配も起こってきて、そのふたつの気持ちが刻一刻と強いものになっていった。いまだに彼女が姿を現わさず、ちらりとさえその姿を見せないのは、なにか不気味な感じだった! そしてあの恋の詩、昨日の午後リンゴの木の下では、それを作ることがこの上なく重大で興味深いものに思われたのに、今ではそれが全然価値のないものに思われてきた。そこで彼は、その紙片をひきさくと、パイプに火をつけるこよりを作るために、まるめてしまった。メガンが彼の手をとって接吻するまでは、恋についてなにを知っていたといえるだろう? そして今は、なにもかも知りつくしているのだ。しかし恋の詩を作ることは、この上もなく退屈なことに思われた! 彼は本をとりに自分の寝室にあがっていったが、たちまち胸が早鐘のように打ちはじめてきた。それはメガンがベッドを整えているところを見てしまったからだった。彼はドアのところに立ったまま、じっと彼女をみつめていた。そのとき彼は、彼女が身をかがめて、昨日の夜できた彼の枕のくぼみに接吻しているのを見、突然喜びで心の乱れるのをおぼえた。このあいらしい献身的な愛の行為を見てしまったことを、どうやって彼女に知らせたらいいだろう? しかし、もしこのままこっそりと立ち去ってしまい、彼女がその物音をきいたとしたら、事態はいっそうわるいものになるにちがいない。メガンは枕を手にとると、彼の頬のあとをこわしてしまうのが惜しくてならないというように、それを抱きかかえたまま立っていたが、次の瞬間、その枕を下におとし、くるりとこちらをふり向いた。」
—『林檎の木・小春日和』ジョン・ゴールズワージー著
「その時アシャーストは、メガンが枕に接吻している姿を思い出して、突然感情の高ぶってくるのをおぼえた。彼は彼女のところに歩みよった。彼はメガンの眼に接吻しながら、奇妙な興奮を感じて、心の中でつぶやいた。「とうとうやった! 昨日は――ともかくも――あらゆることが突然だったのだ。だが、今こそ――ぼくはやってのけたのだ!」メガンが額に接吻されるままになっていたので、彼はさらに唇を下のほうにもってゆき、とうとう彼女の唇にふれた。恋人同志としての本格的な最初の接吻――それは、奇妙な、おどろくべき、ほとんどあどけないといってもいいような接吻だった――だが、その接吻によって、どちらがもっとも心をかき乱されたであろうか?」
—『林檎の木・小春日和』ジョン・ゴールズワージー著
「アシャーストは、だれにも邪魔されずにそこを横切って、小川の上の斜面に出た。そこからは岩山になっていて、岩のころがっている頂上までつづいていた。そのあたりは、一面に咲き乱れているブルーベルで煙っているように見え、二十本ばかりの野生のリンゴの花が、今をさかりと咲き誇っていた。彼は草の上に身を横たえた。あの一面に咲き乱れている目もさめるようなキンポウゲと、金色をおびたオークをもつ野原の美しいながめから、灰色の岩山の下にただよっている霊妙な美しさへの変化は、アシャーストの心を、一種の驚異の思いで充たすのだった。ながれ行く水の音と、カッコウの歌声をのぞいては、なにひとつとして同じものはなかった。彼は長いことそこに横になって、野生リンゴの木がブルーベルの上に影をおとし、二、三匹の蜂があたりにのこっている時刻まで、次第に移動して行く陽の光をながめていた。彼は朝の接吻のことを思いうかべ、今夜のリンゴの木の下のことに思いをはせると、なにか狂おしいような気持ちになるのだった。」
—『林檎の木・小春日和』ジョン・ゴールズワージー著
「「ぼくの理解している範囲内では、正統派の宗教の背後には、常に報酬という観念があるのです――よい行いをすれば、それにたいしてどのような報酬が得られるか、というように、結局、一種の恩恵を請い求めているにすぎないのです。そういったものは、全部単なる恐怖心から生まれたものだと思いますね」 彼女はソファに腰をおろして、糸でこま結びを作っているところだったが、さっと顔をあげて、「それは、もっとずっと深いものだと思いますわ」といった。 アシャーストは、またしても彼女との議論に勝ちたい気持ちにかられた。「あなたは、そう思っているでしょう。しかし、『報酬』を求めたいという気持ちは、私たちのだれもがもっているいちばん根深いものではないでしょうか。その本質をみきわめるのは、ひどくむずかしいと思いますが」 彼女は当惑したように眉をしかめた。「私にはよくわかりませんわ」 彼は片意地になって言葉をつづけた。「まあ、考えてごらんなさい。いちばん信心深いといわれているのは、人生というものが、かならずしもその要求の全部を満たしてはくれないと考えている人たちではないでしょうか。報酬などというものを求めず、善行それ自体が目的だというのなら、ぼくもその価値を認めますがね」」
—『林檎の木・小春日和』ジョン・ゴールズワージー著
Posted by ブクログ
表現がきれいで場景の美しさに惹きこまれます。
読む前にレビューをいくつか見て、主人公がとてもひどい男なのかと思いながら読んでいましたが、私はそんなに悪い人間とは思いませんでした。結果だけ見れば悲劇が起こってしまったけれど、別の選択をしていても果たして…? 心理描写もうまく、回りくどさや無駄がない。それなのに主人公の心情がよく伝わってくる。
外国文学にしてはかなり読みやすかったです。
Posted by ブクログ
まさに傑作!
現代においても色あせないテーマ設定に主人公の苦悩の描き方が抜群に上手い!
ラストは山川方夫の『夏の葬列』を思わせる素晴らしい急展開だね~(こう書くとオチがバレてしまいそうだけど)。
ちなみに国際ペンクラブの初代会長です。
Posted by ブクログ
昭和56年のこの新潮文庫(カヴァーは違っていたけれど)を読んだのが初めてだったと思う。月光を浴びて花咲く林檎の樹、その下で愛を誓う……、私にはこれ以上ないほどの愛の誓いに思われた。誓いは悲しくも果たされることがない。そのことがわかってもなお、林檎の樹は、その物語は、私にとって美しいもののように感じられた。私は若かったのだろうか……。
Posted by ブクログ
今頃初めて読みました。字体も小さく古い作品なので馴染めるかなと思いましたが、読んでみると主人公の心情が分かりやすくて読みやすかったです。せつない内容ではあるけれど、当時の雰囲気や哀愁なども感じられて好みの作品でした。
Posted by ブクログ
妻との旅行で立ち寄ったとある田舎で、男は若かった頃の恋を思い出す。そのように回想として始まる物語。
これは…
なんといっても田舎娘のミーガンが可愛らしい!主人公のシーツをくんかくんかしていた彼女にメロメロです(笑)声を出して笑ってしまいました。
時に情熱的に、時にいじらしく、
心を捕らえて話さない彼女の不思議な魅力に惚れてしまいます。都会に出てきて主人公を探す場面の悲壮感、胸がギリギリと痛むようでした。
ミーガンが素晴らしく愛らしい女性であるだけに、身勝手な主人公にはイライラしてしまいます。彼の気持ちは分かるけど、やっぱり自分本意の言い訳でしかないんですよね。
全編、主人公の語りではありますが、彼に感情移入するのではなく、ミーガンというひとりの女性の恋物語と捉えると、もしかしたら良かったのかもしれません。
Posted by ブクログ
美しく、悲しく、甘酸っぱい、林檎の匂いが漂ってくる物語。
遠くまで主人公を探すミーガン、林檎の木の下でただずむミーガン。
最期は、ハムレットのオーフィリアのようだった。
Posted by ブクログ
身勝手な男と純粋な女性の恋愛小説、と言ってしまえばそれまでですが、風景の描写や気持ちの揺れが細やかに描かれていて、何度となく読みたくなる本です。
Posted by ブクログ
若き日の過ちと過ぎ去った青春。
青年の揺れ動く恋心を描いた作品。
彼女の最期を聞いて、彼は何を思ったのか。
淡く切ない悲恋の物語を、詩的な文章が美しさを際立たせている。
この無常な結末は″飽満と倦怠に苦しむ近代人の悲哀を語っている″という解説の言葉に頷ける。
この小説のテーマ、シンボルである″黄金なる林檎の樹″の元ネタ、ギリシャ悲劇の『ヒッポリュトス』も読んでみたい。
Posted by ブクログ
年老いた男の、銀婚式の日の話。
林檎の木と、過去の自分と、素敵な女性の話。
神話に描かれるひとつの愛をモチーフとしてそのテーマにそって書かれた作品。
そんな銀婚式も、あるのかもしれない。
Posted by ブクログ
ジョン・ゴールズワージー(1867 -1933)による、美しい一幅の絵のような物語である。
銀婚式を迎える日、初老のフランク・アシャーストは妻を伴い、思い出の地デヴォンシャーを訪れる。
目的地の手前の美しい田舎の風景に妻が目を留め、スケッチを始めたとき、アシャーストはふと、若き日の恋を思い出す。そう、それはまさにこの地だった。
林檎の樹の下で、神秘的な美しい少女、ミーガンと、彼は恋をしたのだ。
ウェールズ出身の農場の娘と、上流階級の前途洋々たる青年。
およそ身分違いの恋だが、娘の美しさ、純真さ、素朴さに彼はときめいた。林檎の樹の下で交わした甘やかな接吻は、この娘とともにこの先の人生を生きることを、彼に誓わせた。
だが、その恋はもちろん、成就しなかった。
隣にいる妻は、ミーガンではないからだ。
カッコウやヒバリの歌。藍色の闇に浮かぶ月。桃色の蕾の中にたった1つだけ咲いた真っ白い林檎の花。少女のほつれ髪。
農場の豊かな風景の中、黒い長い睫毛の美少女は異界のもののように美しかった。
少女もまた、愛のまなざしを注いでくれた。それは天にも昇る心地だった。
この物語は、ギリシャ神話のオマージュでもある。
黄金なる林檎の樹
美しく流るる歌姫の声
(『エウリピデスのヒッポリュトス』(マーレイ(1866-1957)))
本作の冒頭に引かれたこの節は、英国古典学者マーレイがギリシャ悲劇『ヒッポリュトス』を意訳した作品から採られている。
林檎の樹はゼウスの妻ヘラのもので、ヘラは大切なこの樹を遠くの島に植え、3人の歌姫に守らせていた。誰も林檎を取ることはおろか、近寄ることすらできなかった。ある意味、理想郷の象徴である。
また、『ヒッポリュトス』の中で、主人公の王子ヒッポリュトスは義理の母の邪恋を却け、愛の女神アフロディテの怒りを買っている。これも本作の1つのモチーフになっている。
ある種、ギリシャ神話の近代への移し替えを試みたような印象である。
自然の中の生きものや風景、ミーガンの容貌や物腰など、個々の描写は非常に美しく、また悲恋に終わるロマンティックな物語なのだが、どこかちぐはぐな感じが残る。
それはまるで、泰西名画のざっくりとした複製を思わせる。美しいがどこか作り物めいているのだ。
美しい娘と愛を誓いながら、その娘を身勝手にも捨ててしまう。
それ自体は古代でも近代でも現代でもあることだろう。
しかし「近代的」で「常識的」な「紳士」が、思い出の地を偶然通りかかるまで、そのことをすっかり忘れているなどということがあるものだろうか? 若き日の彼の心の揺れが丁寧に描き込まれているだけに、そこに取って付けたような嘘くささが生まれる。
ここで引き合いに出すのが適切かどうかはわからないが、『舞姫』を書いた森鴎外は、確かに「エリス」を捨てたのだと思う。身勝手な豊太郎に我が身をなぞらえ、エリスを狂女になったと書いた鴎外は、薄情のそしりは免れないかもしれないが、エリスを忘れはしなかったろう。狂女として描きはしても、自殺したとは書かなかった。これはまったく勝手な想像だが、自らの身勝手さを思えば、嘘でも死んだとは書けなかったのではないか。
対して、この作品でミーガンは、帰らぬ恋人を待ち、まるで夢のように自死を選んでしまう。キリスト教では自殺は罪である。墓地に葬られることを拒まれた彼女の墓は、十字路の脇にある。哀れな魂が眠る小さな墓。不謹慎な言い方だがロマンティックである。
これもまた勝手な想像だが、ゴールズワージーは「ミーガン」に会ったことすらなかったのではないか。田舎娘に不実な恋を仕掛け、捨てたことなどもちろんなかった。もし本当にそんなことをしていれば、こんなロマンティックな仕上がりにはならないように思うのだ。だとすればこの娘は麗しい古代そのものの象徴なのか。冷淡な言い方をすれば、何だか都合のよい駒のようだ。
古代への憧れ。近代の「自我」。それがうまく噛み合っていないように私には感じられた。発表当時の人々はこの物語を楽しんだのだろうか。川端康成はこの物語を愛したのだという。描写の美しさを思うと、そういうものかとも思うが、どうにも据わりが悪い思いが拭いきれずにいる。
Posted by ブクログ
燃えさかるほどの、無垢で純粋な愛。
愛を守るため神話の中に生きるのか
罪悪を背負いながら現実で生きてゆくのか。
美しいままであった彼女は永遠ともいえる。
神話の中のような世界への憧れ、のようなものを感じた。
ただ、所詮キリスト教徒でない私には本当には理解できないのじゃないか、なんて。
Posted by ブクログ
ひと夏の恋ならぬ、ひと春の恋。初老のアシャーストは銀婚式の日に思い出の地に立ち、若き日を回想する。
夢と現実とどちらかの選択を迫られた時、多くの人間は現実を選ぶ。たとえその夢がどんなに美しかろうとも、夢の中では生きられないことを知っているからだ。
イギリスデボンシャーのムーア(荒原地帯)の春が香り立つようだった。恋に落ちる二人と同じくらいに、春を謳歌する植物や生き物に存在感がある。バーネットの「秘密の花園」に似ているなと思ったら、あの物語の舞台もイギリスのムーアなのだ。たしか私がムーアを初めて知ったのは「秘密の花園」の中だった。
作者のゴールズワージーは1932年にノーベル文学賞を受賞しているとのことで、他の作品も読んでみたい。
Posted by ブクログ
いつか自分も通った道。
若気の至りといえばそれまでだけど、今思えば苦くも美しい思い出。
事の顛末に過ぎ去った日々を振り返っても、何かを感じても何も思うことはないのではと思うのは、かつて若さを盾にしていた身勝手なわたしだけかな。