【感想・ネタバレ】贈る言葉のレビュー

あらすじ

さまざまな夢と未来への志向をいだきながら学窓を飛び立ったはずなのに、ただ倦怠と惰性をしか見いだせなくなっている十年後の今日の、限りない挫折感を吐露した「十年の後」、“愛の観念”に固執するあまり、ついに結ばれることなく訣別してしまった、過去の恋人に語りかける抒情的作品「贈る言葉」。戦後世代の青春の苦悩を真摯に浮彫りにした、芥川賞受賞作家の中編二編。

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Posted by ブクログ

団塊世代の叔父が「学生時代、柴田翔の『贈る言葉』に出てくるような女性と付き合って苦労したよ」と言った。叔父は、友人に「オマエの彼女にそっくりな女子学生が描かれているぞ」と教えられて『贈る言葉』を読んだという。

『贈る言葉』のページを開くと、とても暗い恋愛が描かれている。
どうしてこんなに暗いのだろうか?ボンクラ頭を使って、あれこれ推測してみる。
女性のことはよくわからないが、男性の恋愛感情=性愛感情である。そして、性愛感情の源は性欲である。問題点は、普通、男性の性欲が不特定多数の女性に向かうことである。男性の浮気心は、女性を悩ませている。
主人公「ぼく」は、友人「I」の読書会で前方に座っている女の子を見てムラムラと劣情を催したり、「君」の承諾を得ないで下着に手をかけて拒否されて恥をかいたりするから、「ぼく」は普通の男性かと思ったら、その後、「ぼく」は二人が納得し合ったこと以外は決して何事もしないと固く決心する。さらに、「ぼく」は初体験の相手の女性は「君」しかいないと頑なに決め込み、お茶の水女子大学卒の「R」の誘惑を受け流す。ただでさえそれほど易しくない性欲の処理の機会を、敢えて「ぼく」は潰すとは、どうしたのか?
頭が良い「ぼく」は、私にはよくわからない理屈を言う。「ぼく」が恋愛感情=性愛感情=性欲を素直に認めずに、自分をごまかすように理屈をこねているから、自ずと「君」へのアプローチが歪になり、「ぼく」に応える「君」も変に理屈っぽくなる。それが、「ぼく」と「君」の恋愛を暗くしていると思う。
始めは「君」が冷たい人に思えたが、実はそうではなく、「ぼく」の煮え切らない態度が、次第に「君」を諦めの境地に追い込んでいくように思う。「君」は「ぼく」を待っていたように思える。

恋愛は「岸辺のない海」を漂うようなもの、「海図のない航海」をするようなものである。わけを知っているつもりでも、実際の恋愛において途方に暮れる。「ぼく」もそうだろうが、青春時代に恋愛で苦悩して精神の幅と深みを増すこともあるようだから、「恋愛」は捨てたものではない。

ここから、「ぼく」と「君」について、もう少し細かく見ます。バカな話をくり返します。

世間ではよくあることだが、「ぼく」は「君」の承諾を得ないで「君」の下着に手をかけて拒まれてしまい、恥かしいから猛烈に反省する。

<ただ、ぼくは、一度君から拒否されたことを、二度くりかえそうとはしなかった。自尊心のためではない。ぼくは、二人が納得し合ったこと以外は、何事も、決してするまいと強く決心していたのだ。ぼくは、あの頃は、どうして、あんなにまで自分の決心に忠実であることが、可能だったのだろうか。>

「自尊心のためではない」と言うが、「ぼく」は自尊心が高いから、恥をかいたことに懲りて「一度君から拒否されたことを、二度くりかえそうとはしない」「二人が納得し合ったこと以外は、何事も、決してするまい」と性的禁忌を強める。そして恋愛(性欲)感情は、「障碍や禁忌がかえって恋愛(性愛)感情の昂揚をもたらす」から、「ぼく」の「恋愛(性愛)感情」は昂進する。やがて「ぼく」は、性的禁忌の強化と恋愛(性愛)感情の昂揚との板ばさみになって心身共に消耗していく。
それから、「どうして、あんなにまで自分の決心に忠実であることが、可能だったのだろうか」と言うが、それは「ぼく」と「君」が同年齢である(未確認)ことによる「ライバル意識」、「意地の張り合い」の影響もあるだろう。これらは、同年齢のペアの恋愛がうまく行かない場合の大きな原因になる。

そのような状況においても、「ぼく」は「畜生!」「うおっ、うおっ!」「うー、もやもやする。もう我慢ができん」と即物的に性欲を露わにする男子東大生たちを軽蔑する。そして、お茶の水女子大学を卒業した「R」の誘惑を断って、「R」に恥をかかせる。
「ぼく」が「あんなにまで自分の決心(性的禁忌の強化)に忠実であること」、つまり「君」の承諾を得て下着に手をかけようと努めるのは、スジが通っているようだが、滑稽であり、ウソのように見える。
「ぼく」が「一度君から拒否されたことを、二度くりかえそうとはしなかった」のは、同年齢の「ライバル意識」「意地の張り合い」だけでなく、「性的禁忌」の強化と「恋愛(性愛)感情」の昂揚の板ばさみで疲弊している「ぼく」が、これ以上自分にダメージを与えたくないという防衛意識もあるのではないか?さらに、「君」に拒否されても「君」の下着を剥ぎ取るくらいの熱情と度胸が「ぼく」には不足しているのだろうか?

一方、「君」の承諾を得て下着に手をかけようと苦慮を重ねる「ぼく」に向かって、「君」は「あなたは男だからわからない。女は男の二倍も四倍も勉強しなければならない。そうでないと、世間は女を認めてくれない」と異次元の言葉で応じる。「ぼく」は、建前は、「自立しようとする女性、男性と対等に生きようとする女性」に理解を示すが、本音は、はぐらかされてシラケた気持になるだろう。
こうして、二人に残るのは惰性のような性欲だけ。「ぼくらには、もう、行くところも、することもな」くなり、二人は納得し合って一軒の旅館に入る。

<君はあの時、何も言わず棒のように寝て、身体をぼくにまかし、・・・君の顔にあったのは、不安とか、怖れとかの人間的な感情ではなく、ただ投げ遣りになったものの頑さだけだった。そして、ぼくも、・・・自分の初めての性的体験はこの女とでなければならないという頑な決心に追い立てられて、君に向かって行った。>

私は、「君」の女心がよくわからない。投げやり気味だが、「君」が「ぼく」に身を任せるのは、まだ「君」が「ぼく」を好いているからだろうが、それだけでなく、そこは理性と知恵を兼ね備えた「君」ゆえ、「未経験」という重荷を早く降ろしたい、それなら慣れ親しんでいる「ぼく」が相手なら初体験の恐怖は少ない、という心算があるのではないか?
「ぼく」についても、よくわからない。後で「君」が「あっ、今になってから、こんなに……」と反応するほど、旅館で「ぼく」は直ぐに果てずに頑張ったわけだが、普通、それは初体験の男性にとって難しいのではないか?「自分の初めての性的体験はこの女とでなければならない」と決めている「ぼく」とは別人のようだ。

ともかく、「行くところも、することもな」くなってもなお、惰性的に「君」を旅館に連れ込み、マグロのように転がっている「君」に行為を続ける「ぼく」を「君」は冷笑している、と「ぼく」は後で感じる。
また、「君」が「何も言わず棒のように寝て」いたのは、「君」は「自立しようとする女性、男性と対等に生きようとする女性」だから男性に心身をコントロールされたくない気持ち、同年齢の「ライバル意識」「意地の張り合い」かもしれない。

事ここに至って、二人の関係は終りに近づく。

「君」の立場になって見ると、「君」はわかっているだろうが、女性は受け身である。「君」は「ぼく」を待っていたのだろう。責任は、煮え切らない態度の「ぼく」にあるだろう。
しかし、わけ知り顔の「I」が忠告するように、「ぼく」が「君」を普通の女の子として優しく遇してやればうまく行っただろうか?それは「君」には通用しないだろう。
「ぼく」が「君」を普通の女の子として優しく遇したら、自意識過剰の「君」は侮辱されたと感じ、「自立しようとする女性、男性と対等に生きようとする女性」の侮辱と怒るだろう。 同年齢の「ライバル意識」、「意地の張り合い」も刺激するだろう。結局、「君」に相応しい男性は、「君」の自意識過剰を刺激しないように「君」の本来の女らしさを引き出してくれる、経験豊富な中年男性だろうか?

話がわからなくなったところで、お終いにします。

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【付録】

恋愛(性愛)感情について

小浜逸郎氏は『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』の「第4章 人を愛するとはどういうことか」で次のように述べる。

<なぜ人間は、恋愛的な情緒にかくも揺さぶられるのか。ショーペンハウアーは、この事情について、次のように考えた。恋愛が人々の心を撹乱するのは、それが種の存続というきわめてシリアスな関心にかかわることだからで、当事者である個体は性の相手の選択を自分の快楽の満足のためと思っているが、それはじつは個体の意識的な理解を超えた自然の意志によって植えつけられた本能に基づく妄想なのだ。彼は、あらゆる恋愛はどんなに霊妙さを装っていても、性本能の特殊化され、個別化された姿にすぎないとした上で、しかしそれはほとんどすべての人間の努力の究極の目標であるとして、性愛がいかに現実の世界で重要な役割を演じているかについて、まことに生き生きと書いている。>

<人間自身は自覚していないが、性愛はやはり「本能」の一種であって、そこには個体の意志を超えた自然の意志が強く働いている。ただし、人間の場合は個体しての性への関心があまりに強いために、この自然の意志は、「種族の保存を目的として自分は恋愛する」というような意識としては現れず、「美しい人との同一化のもたらす幸福感情」という純粋に個体的な「妄想」の形で現れるのだ、とショーペンハウアーは言い切る。たしかに、性愛が、個体の意識や理性の統御を超えた力として働く理由は、これによってうまく説明されている。
恋愛の情動や欲望の自然の源は、たしかに生殖による種族の維持の本能というところにあるに違いないが、人が実際に生殖の意志とはほとんど無縁に見える恋愛感情にかくも胸を焦がすというそのこと、またそれによって、ショーペンハウアーが指摘する通りの狂気じみた人生の混乱が巻き起されるというそのこと自体は、こうした外側からの根拠づけによってどう宥めようもない、人間に特有な実存的な有り様なのである。>

ショーペンハウアーによれば、恋愛(性愛)感情における「胸を焦がす」「狂気じみた人生の混乱が巻き起される」という現象は、「外側からの根拠づけ」つまり理屈によってどうにかなるものでもない、「人間に特有な実存的な有り様」である。恋愛(性愛)感情は、「性本能」「生殖による種族の維持の本能」に基づくが、この自然の意志は、「種族の保存を目的として自分は恋愛する」というような意識としては現れず、「美しい人との同一化のもたらす幸福感情」という純粋に個体的な「妄想」の形で現れる、とショーペンハウアーは考える。
恋愛(性愛)感情が「美しい人との同一化のもたらす幸福感情」という「妄想」の形で現れる、という指摘は面白い。主人公「ぼく」が初体験の相手の女性は「君」しかいないと頑なに決め込んでいることは「妄想」になる。

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2026年09月27日

Posted by ブクログ

【本の内容】
あの時、あの場所で、ぼくの想いはどこまで君に伝わっただろう。

そして君の願いを、ぼくはどれだけ受け止められただろう。

時を経てなお、ぼくは繰り返し問いかける。

あんなにも濃密な時を共有しながら、今はもうそばにいない君に-。

学生運動に席巻された熱く激しい時代、理想を求めるほどに傷ついていった若者たち。

その無垢さ未熟さ痛ましさに捧げられた、永遠のレクイエム。

[ 目次 ]


[ POP ]
柴田翔。

1960年代、70年代に青春を過ごした人たちにとって、この名前は、ある特別な輝きがあるだろう。

圧倒的な反響を呼んだ64年の芥川賞作品『されど われらが日々――』(文春文庫)をはじめとした小説には、学生運動の時代の若者たちの青春と挫折の日々が克明に描かれ、ひりひりする読後感がある。

本書は『されど――』に続く第2小説集だ。

ここには「自由」「純粋」といった観念をひたむきに追い求め、その観念にがんじがらめになったあの青春がある。

「純粋」を希求しながら、一方で、自らの内から突き上げてくる衝動を持て余し、のたうちまわったあの青春がある。

ミリオンセラー文庫だったが、この数年は品切れ状態。

それが新装版でよみがえった。

解説は「柴田翔は青春のバイブルでした」「いかに生きるべきか……この単純な問いかけに対する、答えにならない答えが柴田翔の作品の中にはあった」という作家の小池真理子さん。

ひたむきに何かを求めていた小池さんの青春時代と柴田作品が、独特な和音を奏でている。

[ おすすめ度 ]

☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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2014年08月24日

Posted by ブクログ

異性とつき合うのも学生運動をするのもなにか意味付けを求めようとする不器用な青春時代。懐かしさがこみ上げてきた。10.5.1

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2010年05月02日

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