あらすじ
あの有名な画家――その最後の作品を知っていますか?
ルネサンス、バロック、印象派……もう、そんな西洋絵画の解説は聞き飽きた。知りたいのは「画家は、何を描いてきたか」、そして「最後に何を描いたか」。彼らにとって、絵を描くことは目的だったのか、それとも手段だったのか―。ボッティチェリからゴヤ、ゴッホまで、15人の画家の「絶筆」の謎に迫る。
*電子版では、絵画はすべてカラーで収載しております。
[内容]
第1部 画家と神──宗教・神話を描く
I ボッティチェリ『誹謗』──官能を呼び起こせし者は、消し去り方も知る
II ラファエロ『キリストの変容』──バロックを先取りして向かった先
III ティツィアーノ『ピエタ』──「幸せな画家」は老衰を知らず
IV エル・グレコ『ラオコーン』──新しすぎた「あのギリシャ人」
V ルーベンス『無題』──「画家の王」が到達した世界
第2部 画家と王──宮廷を描く
I ベラスケス『青いドレスのマルガリータ』──運命を映し出すリアリズム
II ヴァン・ダイク『ウィレム二世とメアリ・ヘンリエッタ』──実物よりも美しく
III ゴヤ『俺はまだ学ぶぞ』──俗欲を求め、心の闇を見る
IV ダヴィッド『ヴィーナスに武器を解かれた軍神マルス』──英雄なくして絵は描けず
V ヴィジェ=ルブラン『婦人の肖像』──天寿を全うした「アントワネットの画家」
第3部 画家と民──市民社会を描く
I ブリューゲル『処刑台の上のかささぎ』──描かれたもの以上の真実
II フェルメール『ヴァージナルの前に座る女』──その画家、最後までミステリアス
III ホガース『ホガース家の六人の使用人』──諷刺画家の心根はあたたかい
IV ミレー『鳥の巣狩り』──農民の現実を描いた革新者
V ゴッホ『カラスのむれとぶ麦畑』──誰にも見えない世界を描く
関連画家年表
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Posted by ブクログ
990円
ボッティチェリ、ティツィアーノ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ、ミレー、
ボッティチェリも同性愛だったのか
絶筆(ぜっぴつ)とは、筆を止めて書くのをやめること、およびその人が生前に最後に書き残した文章や絵画のことです。
今はニューヨークが中心の現代アートが始まったのはロンドンだから現代アートという視点で言うとイギリスは良いんだけど、古典的な美術で言うとやっぱりこういうイメージがあるから、ロンドンではなくカトリック国家で一番の都会であるパリを拠点にしたかったのかもしれない。パリは現代アートもちゃんと面白くて古典と現代のバランスが良いんだよね。
ベルナール・ビュッフェって日本人に大人気で、静岡にベルナール・ビュッフェの作品しかない美術館があるらしいけど、私からしたらじゃあ何故、佐伯祐三はベルナール・ビュッフェ程日本人に人気がないのか謎なんだけど。簡単に外国人を有難がるなよ。ベルナール・ビュッフェの人気の理由はパリ描写だって言ってたけど、佐伯祐三のパリ描写も神がかってるやんけ。
中野 京子
(なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。
「小説を純文学とエンターテインメントに分けたり、音楽をクラシックとポピュラーで区別したりと、人間は芸術にまで権威付けを必要とするらしい。もちろん美術も例外ではない。 絵画のヒエラルキーは、かつては主題を拠りどころとしていた。十七 ~十九世紀のアカデミー(公的美術組織)が決めた格付けによれば、最高位が「歴史画(神話画・宗教画を含む)」、次いで「肖像画」「風俗画」「静物画」「風景画」の順だという。アカデミーの一員となって自作の価値を高めたい画家にとっては、歴史画家と評価されるか風景画家と見做されるかでは、その後の出世や収入に大きな開きがでる。そこでヴィジェ ルブランのように、得意分野(彼女の場合は肖像画)ではなく歴史画で審査を受けてアカデミー入りする例も少なくなかった。 歴史画がもっとも上位に置かれた理由は、その主題についての知識と理解、効果的な彩色、多数の人物の配置や的確な動きを伴う画面構成など、幅広い教養と技量が必要と考えられたからだ。逆に言えば、格下の主題にそれは必要無しという決めつけでもある。また構成力を云々するわりには、発注者が画面の人物の数を指定する場合もよくあった(登場人物の数で絵の値段が変わったため)。人間中心主義の西洋思想においては、風景画の誕生もかなり遅れた。いろいろ矛盾を含んでいるのだ。そのため時代が下って購入者層が拡大し、画家もまたジャンル分け不能な作品(抽象画など)を生み出すにつれ、主題による格付けは説得力を失ってゆく。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「二千点とも二千五百点とも言われる油彩画を量産したルーベンス工房を例にとろう。親方たるルーベンスが発注者と相談した上で構想を練って下絵を描き、その下絵にオーケーが出てからいよいよ取りかかる。共同制作者や助手たちがそれぞれの得意分野(人物、動物、植物、建造物など)を分担してある程度まで完成させると、最後の仕上げにまたルーベンスが絵筆をふるった。彼は自分が実際に描いた部分の割合によって作品の値段を変えることもあり(良心的販売?)、発注者も納得した上で購入していた。 もしルーベンスが現代に生きていたら、いったいどんな絵を描いていたのだろう? もしかすると絵ではなく、ハリウッドの映画監督になってヒット作を連打していたかもしれない。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「最初期のキリスト教絵画は、古代ローマ帝国に迫害されていた三世紀ころ、カタコンベ(地下墓地)で誕生した。迫害者に気づかれぬよう、信徒同士でのみ通じる象徴的記号や寓意的人物像が描かれた。たとえば「魚」。初期キリスト教におけるシンボルは十字架ではなく魚で、イエスその人を指した。ギリシャ語の「魚( =イクトゥス)」が「イエス・キリスト・神の・子・救い主」の頭文字に重なるからだ。やがてキリスト教が国教として公認されると、絵も地下から表へ出てくる。ローマ皇帝の庇護を受けた教会・修道院・聖堂などが各地に建てられ、内部が宗教画で飾られる。ほとんどの人が文字を読めなかったので、キリスト教の教義を知らしむるのに絵はもっとも有効だった。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「 本作はもちろん「誹謗」への許しがたい怒りだが、なぜボッティチェリがこれを描いたか、つまりボッティチェリがここで描いている誹謗とは何か。それについては解釈が三つある。一つは、本人にかけられた同性愛疑惑、もう一つは、サヴォナローラに心酔してメディチ家を裏切ったとの中傷、最後はサヴォナローラ自身に対する誹謗。どれなのかはまだ定説がない。ただ確かなのは──くり返すが──女性ヌードの激変だ。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「レオナルドは謎めいた『モナリザ』の、ミケランジェロは迫力ある壁画群の、そしてラファエロは『小椅子の聖母』をはじめとした清らかな聖母像の画家として知られる。まるで互いに互いを引き立たせあっているのではないかと思うほど、三人の個性は生き方から作品までことごとく違っているが、ともに生前から一貫して著名であり、おおぜいの有力者をパトロンに持ち、さまざまな仕事に従事した。いずれも教会と関係が深かったので、後世に残る宗教画の傑作も多い(レオナルドは『最後の晩餐』、ミケランジェロは『最後の審判』、ラファエロは『サン・シストの聖母』)。これまた主題選択や表現、方向性や魅力も全く違って興味深い。 育ち方も違う。レオナルドは、公証人だった父の庶子として生まれ、祖父に預けられてほとんど教育を受けず野放しだった。彼の柔軟な思考はこの自由な少年期のおかげとされる。当時の庶子は法律で公証人にこそなれなかったが、それ以外の差別はほとんどなく、チェーザレ・ボルジアやクレメンス七世といった権力者も庶子だ。一方ミケランジェロは名家の出で、父親が法律学校へ行かせようとしたのに頑として譲らず、自分でこれと決めた彫刻の道へ突き進む。ラファエロはウルビーノの宮廷画家にして詩人だった父や後見人などのおかげで貴族的で洗練されたマナーやラテン語を身につけ、上流階級へ自然に溶け込むことができた。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「時代の変遷によって、画家への評価が変わることはよくある。ボッティチェリやエル・グレコなどは生前人気があったのにその後は数世紀も忘れ去られるし、ゴッホやゴーギャンは生きている間ほとんど絵が売れなかった。その点、ルネサンス三巨匠は、死後もずっと名声を保っているが、それでもその重要度に関して言えば、現代ならレオナルドとミケランジェロが神格化されていて、ラファエロへの評価はそうとう低下している。レオナルドのような深みに欠け、ミケランジェロのような力強さが無い、というのがよく聞く批判であろう。 そういえばかつてモーツァルトも、ベートーヴェンやヴァーグナーに比べて軽すぎる、などと貶められていた。今そんなことを言う者は誰もいない。要するに評価はあくまで「その時代の」評価にすぎない。いくらでもまた変わり得る。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「さて、ラファエロだが、彼の描く聖母の甘美さ、三十七歳という早すぎる死、十代のころのロマンティックな自画像、そして数々の恋のエピソードとあいまって、「花開く前に斃れた、永遠に未完の青年芸術家」とイメージされがちだが、それは全然違う。彼はバロック時代以前の単独工房としては最大の、つまりレオナルドやミケランジェロを遥かに凌ぐ、五十名もの弟子や助手を擁する大工房の経営者にして、イタリアばかりでなくヨーロッパ中に名声を轟かせた画家であった。先述した二人のパトロン教皇の肖像画も受注しているし、建築や室内装飾の分野でも有名だった。同じく若死にしたモーツァルトがそうであったように、ラファエロも未完どころか自己の芸術を究め尽くしていたことは、肖像画『バルダッサーレ・カスティリオーネ』一点だけでも証明されていよう。 何より、十九世紀前半までの西洋美術史においては、三巨匠中のトップとされたのがラファエロだった。ルネサンス絵画の端麗典雅とは即ちラファエロ作品のことであり、ルネサンスはラファエロの死でもって一五二〇年に終わったとされる。彼の遺骸がローマのパンテオンに埋葬されている事実が、その栄光を物語っていよう。なぜならパンテオンは王侯貴族の墓所だからだ。 ラファエロの絵画は、死後四百年にわたりイタリア、フランス、イギリス、ロシアなどのアカデミー(教育的役割を担った、王立また公立の芸術専門組織)のお手本であり続けた。彼の円満・中庸・明晰・優雅が、「美によって高きところを目指す」芸術の理想として、画学生らに教えられたのである。かつてピカソが、「わたしは子どもの頃もうラファエロのようにデッサンできた」と豪語したが、それは伝統的なアカデミーの技法をすでにマスターした、という意味に他ならない。ラファエロの権威がいかに絶大だったかがわかる。 しかし芸術がもはや上流階級の独占物でなくなった近代以降、ラファエロの静謐で予定調和の画面は庶民感情に訴えなくなってしまう。新しい時代は、美と聖性の一体化など理解できない。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「レオナルド六十七歳、ミケランジェロ八十九歳と比べると、ラファエロの三十六年間の人生(三十七歳の誕生日に死去とされる)はいかにも短すぎる。死因も不明だ。同時代人がラファエロの過労について記しているので、長年の無理が祟っていたのは確かだ。おまけに女遊びの烈しさは誰もが認めるところで、多忙な仕事の合間に複数の恋人とベッドを共にしていた。ストレス解消のはずが、新たな疲労の蓄積になったのかもしれない。もともと弱っていた体に熱病が襲い、治療ミス(瀉血のしすぎ)も加わっての急死という説に説得力がある。 性病説については、寝ついて二週間ほどでみまかっているため、仮に罹っていたにせよ死因ではなかろう。モーツァルトと同じ毒殺説のほうがまだ信憑性が高い。ヴァチカンからの仕事には大金が動くし、枢機卿になろうとしていたのがほんとうなら、敵はどれほど多かったことか。政治の中枢に近づけば、芸術家でも命の危険はありえた。パトロンのレオ十世も、ラファエロの死の翌年に急死しており、毒殺説が有力だ(数年前に暗殺未遂もあった)。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「世に認められず、また金銭や地位によって報われない画家こそ本物だ、というようなロマン主義的芸術家像を至上とする研究者たちにとっては、ティツィアーノやルーベンスのように生前は王侯貴族御用達で、庶民の嗜好とかけ離れた絢爛たる大画面の絵を制作し、現実主義に徹して高額報酬を要求し、死後も大人気の画家など、気に喰わないのであろう。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「ティツィアーノはカール五世、フェリペ二世と、親子二代にわたるスペインの宮廷画家でもあったが、しかし彼がヴェネツィアを離れることはなく(そこがベラスケスの立場とは違う)、はるかに自由を享受した。ヨーロッパ各国の王侯貴族、富裕層、教会からの注文はもちろん、勲章やら名誉称号が雨あられと降り注いだから、一人の王に生活丸ごと頼って仕える必要はなかったのだ。アイディア満載 これほどの大画家になると、肖像画、宗教画、神話画と、代表的ジャンルにそれぞれ複数の傑作を残している(チャイコフスキーがオペラ、交響曲、協奏曲、バレエ音楽など全てを網羅したように)。中でもティツィアーノの神話画は、バロックに決定的方向付けを与えた。 当時、上流階級は競って「書斎文化」というべきものを推進していた。書斎は単に本を読んだり孤独や思索に耽る場ではなく、美術品のコレクションルームともなった。主人の私的空間であるからして、飾られる絵画は自ずとエロティックな香りが望まれ、ギリシャ・ローマ神話が主題に選ばれた。ティツィアーノ作品が愛好されたのは、彼の裸婦がまるで生身のような肌を持っていたばかりではなく、神話における各挿話や登場人物に独特の工夫が凝らされ、謎とそれを読み解く楽しさにあふれ、知的欲求をも満足させてくれたからだ。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「スペインの代表的宗教画家として有名なエル・グレコは、本名をドメニコス・テオトコプーロスといい、ギリシャ人だった。自作にはその本名でサインしていたにもかかわらず、一般にはエル・グレコで通っている。 グレコとはイタリア語で「ギリシャ人」、エルはスペイン語の男性定冠詞(ドイツ語の der、英語の theにあたる)で、「あのギリシャ人」というほどの意味合いだ。同時代人から、描く絵と同じく本人も変わり者、などと言われていたが、異国語同士の組み合わせによるこの通称もまた、いささか奇妙な印象を与える。 なぜイタリア語が入っているかと言えば、スペインに定住する前、十年近くイタリアで暮らしていたからだ。画風が変わっていると思われたのは、当時まだスペインでは知られていなかったマニエリスム(歪んだプロポーションを特徴とする)様式を取り入れたのが一因である。変わり者と見做されたのは、激情的だったことと、己を天才と信じ、プライドが極端に高かったこと、仕事の報酬額に関して注文主と揉め、何度も訴訟沙汰になったことなどが挙げられよう。 しかしグレコ作品の唯一無二の個性(誰が見てもすぐグレコとわかる)は、ギリシャ、イタリア、スペインの融合に、本人の強烈なキャラクターが注がれて化学反応を起こしたおかげなのは間違いない。ドメニコス・テオトコプーロスがもし祖国を捨てなかったら、西洋美術史にエル・グレコの名はもちろん、ドメニコスの名前が刻印されることもなかったろう。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「画家で外交官で経営者、どれも大成功──この空前絶後ともいうべき存在に、驚嘆しない者はいないだろう。おまけに作品の評価も売買値も人気も、生前から現代に至るまで全く変わらない。もちろん陰口はある。「肉屋のルーベンス」だの「芝居がかった絵」だのと……。 前者は、彼の描く女性ヌードに「お肉」がたっぷり付いているとの揶揄である。メタボに見えてしまうが、ルーベンスの好みだから仕方あるまい(逆に彼が現代日本の若い女性を見れば、栄養失調と誤解するだろう)。とはいえ当時の異国人にとってもルーベンスの美女はやはり少し肥え過ぎだったらしく、それを指摘された彼がこう言い返している、「フランドルの女は餌が違う」。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「そして四十四歳、フランスから初仕事がやってくる。故アンリ四世妃にして、現国王ルイ十三世の母后マリーが、リュクサンブールに二十枚(『マリー・ド・メディシス( =メディチのフランス語読み)の生涯』連作)を納入せよというのだ。二十年以上も昔、フィレンツェで彼女の結婚式に列席したのを思い出したであろう。ルーベンスは何度もパリへ出かけて条件をつめた。とにかくこれは工房あげての大仕事で、何があっても最優先せねばならない。皆が燃えた。 結果は周知のとおり、ルーベンスの力技を世界に向けて知らしめることになった。現在ルーヴル美術館の「ルーベンスの間」に、マリーの生涯を描いたシリーズ二十一枚と肖像画を含めて二十四枚がずらりと並び、圧巻の一言。凡庸で美しくもないどころか何の功績もない王妃の半生を粉飾するためルーベンスがやったのは、華々しい神話世界へ彼女を組み入れ、その中で、自らの超絶技巧を披瀝することだった(拙著『はじめてのルーヴル』参照)。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「マリーの仕事をしている最中に、十二年間の休戦協定が終わった。アルブレヒト大公は永続的平和を願って交渉するが、ハプスブルクに国を蹂躙されるのはもう御免だと、ネーデルラント(後のオランダ)は独立に向けての戦争を再開した。 ルーベンスにまた新たな仕事が入る。交渉の過程でアルブレヒトが亡くなったため、大公妃イサベルはルーベンスに外交官として働いてほしいというのだ。こうして一六二四年から三一年にかけて、彼はマドリッド、パリ、ロンドン、ロッテルダム、デルフト、アムステルダム、ユトレヒト、ハーグと飛び回り、敵国の密使とも接触するなど重要な役割を果たした。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「一方、宮廷画家のほうははるかに長く命脈を保つ。いったん曲を作れば大人数の聴衆を前に演奏することで収入が確保できる音楽家と違い、絵画は一点ものなので相当の高値がつかない限り生活の糧とならない。薄利多売するにしても、それだけの市場は十九世紀半ばをすぎるまで生まれなかった。結果として、優秀な画家は宮廷への道を選んだ。 さて、その宮廷画家だが、時代により国によって、また君主と画家の関係によってさまざまで、必ずしもこれという定形があるわけではない。時代を追っていくつか見てゆこう。 ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼は戦争でイタリアにおけるパトロンを失ったが、その才能を見込んだフランスのフランソワ一世に庇護され、パリ郊外に小さな城を与えられて、晩年の三年間を悠々自適で送ることができた。すでに身体が不自由になっていたため新作は描けなかったものの、宮廷行事にアイディアを出すなどして王を満足させた。これも宮廷画家の特殊例といえよう。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「ベラスケスは一五九九年、スペイン南西部セビーリャで生まれた。父親の職業ははっきりしない。祖父母がポルトガルからやって来たことはわかっている。後年ベラスケスが宮廷で出世するにつれ、祖父は下級貴族だったと言われるようになるが、近年の研究ではおそらく商人、それどころか社会的に差別を受けていたコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ人)説が有力だ。もしこれがほんとうなら、ベラスケスは出自を絶対に隠し通さねばならないと思ったはずで、自己を語らなかった大きな理由になりえるだろう。そしてまた彼が、社会的地位や立場が何であれ、そんなものを突き抜けた先の人間性を常に見据えた理由もそこにあるのかもしれない。 いずれにせよ、ベラスケスの生家が裕福だったとは思えない。長男の彼は十歳で工房の徒弟に出されている。わずか数ヵ月で音をあげたが、それは師が無教養すぎたかららしい。翌年、また別の工房へ六年契約で送りこまれる。今度はうまくゆく。多くの知識人や聖職者と交流のある師匠パチェーコは、画家としては凡庸でも学はあり、絵画技法の本を書いて出版し、弟子の個性を潰さない指導力を備えていた。ベラスケスはこの知的な環境で、才能をぐんぐん伸ばしてゆく。 十七歳で早くも親方となり、画家組合に加入。十八歳でパチェーコの娘(十五歳)と結婚、十九歳で子持ちになる。この子も母親と変わらぬ年齢で結婚したので、ベラスケスは三十三歳にしてもう娘婿を持つ身だ。現代と違い、独り立ちの年齢は驚くほど早い。シェークスピアの晩年がベラスケスの青年期に重なっている。『ロミオとジュリエット』のジュリエットが十三歳だったことを思い起こしてほしい。今とは全く異なる世界が拡がっていた。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「その一つが奴隷制度。国が富むためには必須と当然視され、公共の奴隷市場では牛馬と同じく人間が売買されていた。後にベラスケスは宮廷でさまざまな奴隷を目にすることになる。中でも黒人、巨人症、小人症、超肥満体、知的障害などを抱えた「慰み者」と呼ばれる道化たちは、肉体労働専門の奴隷と違い、衣食住にはそうとうに配慮されていたが、ひとりの人間とは見做されていなかった。宮廷人から日常を活気づかせるペットのように扱われ、からかわれ、小突かれ、笑われるのが仕事だった。 ベラスケスは『セバスティアン・デ・モーラ』など、小人症の奴隷の肖像を何枚も描いている。軟骨無形成症によって絶えず痛みに苦しむ彼らのありのままの姿を、いっさいの粉飾無しに、冷徹なまでのリアリズムで抉り出した傑作の数々だ。脳水腫でほとんど知的活動の無理な者もいれば、顔面麻痺で歪んだ者、知性はあるのに肉体に裏切られた怒りを両目に湛えた者もいる。どんな姿であれ、しかしそこにはやはり人間として犯しがたい尊厳が表現されている。矮小な体に閉じ込められた彼らの魂に触れる術を、ベラスケスは知っていた。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「 援助者の紹介でベラスケスがフェリペ四世の肖像を初めて描いたのは、二十四歳の時。王とは年齢が近く、六歳下だった。容貌に恵まれなかったフェリペは、わざとらしい美化もしないのに君主たる威厳を写し出す、この若者の驚異の才能にいっぺんで魅了され、ただちに宮廷画家に任命した。この後、ベラスケス以外の宮廷画家に自分の肖像は描かせなかったほどだ。 ベラスケス一家はマドリッドへ移り住む。その後の人生は、文字通り宮廷画家としてのそれだ。マドリッド市内の広い自邸の他に、王宮にもアトリエが用意され、高給で遇され、官吏としてどんどん高い役職につき、最終的には王室配室長という、宮廷官吏最高位にまで上りつめている。二度の長期イタリア旅行も許され、貴族にのみ与えられるサンチャゴ勲章まで授与された。王の愛顧はひとかたならず、アトリエでベラスケスが落とした絵筆を王自らが拾い上げた──ティツィアーノとカール五世の場合とそっくり同じ──逸話まで残されている。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「 身分の低い、教育もない男がと、周りの嫉妬は並大抵でなく、ベラスケスが慎重の上にも慎重に振る舞い、与えられた役職に常に全力で取り組んだのは当然として、もともと何ごとにも真摯な姿勢の彼は、敵に足をすくわれるような言動は決してしなかった。長い宮廷勤めでただの一度も失敗していない。 だが画家として、幸せだったのだろうか? あまり笑わない人間だったし、感情を露わにすることもなかったが、恵まれた環境には満足していただろう。ふと疑問を感じた瞬間があったとしたら、それは二十九歳でルーベンスと会った時かもしれない。「王の画家にして、画家の王」と称賛されていたルーベンスは、フランドルの外交官としてスペインを訪れ、その華麗な筆さばきをも披露して宮廷をどよめかせた。この時五十一歳。誰か一人の王に縛られるということはなく、おおぜいの権力者をパトロンに持ち、自由にヨーロッパ中を廻り、大工房を経営して人気作品を量産していた。諸国からの注文が引きも切らず、好きに描いた絵でも完成するそばから売れていた。もちろんヌード画もだ。ルーベンス描く豊満なヌードは王侯貴族の垂涎の的だった。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「その後ヴァン・ダイクはジェームズ一世の招きでイギリスに数ヵ月滞在した後、イタリアへ向かう。イタリアは芸術の宝庫なので、この後も何世紀にもわたって、画家や彫刻家は言うに及ばず作家(ゲーテ、スタンダール etc.)も音楽家(モーツァルト、メンデルスゾーン etc.)も霊感を受けに足を運んでいる。ヴァン・ダイクの滞在は足掛け六年に及び、拠点はジェノバに置きつつ、頻繁にイタリア各地を巡った。常に最高級の衣服を身にまとい、優雅な振る舞いと贅沢な暮らしぶりで、周囲からは何代も続く貴族の出と間違えられていた。妬む者は、「鼻持ちならないほど気取っていた」と評するが、仮にそうだったとしても、仕事や研究をなおざりにはしていない。肖像画の注文仕事をしつつ、イタリアの巨匠たち、中でもティツィアーノに大きな感銘を受け、華麗な色彩感覚を学んだ。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「イギリスは美術後進国で、その上プロテスタント国だ。教会を飾る大プロジェクトは無いに等しく、王宮や貴族の館もイタリアやフランドルに比べると地味で装飾が少ない。イギリス人の下手な画家を教え、芸術的刺戟の少ない環境で、自分は肖像専門へと小さくまとまってしまうかもしれない(こうした葛藤は、明治期に日本へ招聘された、少なからぬ数のお雇い外国人の想いに似ているのではないか)。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「フランシスコ・デ・ゴヤは、一七四六年、スペインの辺鄙な村の貧しい職人の子として生まれた。ドイツの文豪ゲーテより三年早いだけである。共に八十歳を超える長命で生没年がほぼ重なるにもかかわらず、ゴヤはまるでゲーテより半世紀も前に誕生し、逝去した年よりさらに一世紀も長く生き続けたかのように思えてしまう。 それほどに作品のイメージが時代を超えているのは、おそらくゴヤという人間の矛盾に満ちた性格と、激動期のスペインとの強烈な化学反応ゆえであろう。この国では、ヨーロッパ全体が近代社会へ脱皮しつつある中、宗教裁判所が時代遅れの権力を振るい続け(まだ異端審問が続いていた)、政治社会においては中世的封建制のなごりが色濃く残されていた。宮廷と庶民の世界の落差は、他のどの国よりも大きかった。 そのどちらの世界も熟知していたゴヤの、油彩画五百点、版画三百点、デッサン類九百点という膨大な作品群には、地べたを這うように生きる農民をはじめ、最高権力者の国王まで、また獣のように殺しあう人間たちから、優美な恋愛模様までが、画面上で等価に描かれる。作風も感覚的なロココ風あり、内面を覗き見るベラスケス風あり、荒々しいバロック風あり、透徹したリアリズムと異様な暴力性の合体があり、悪夢のごとき幻想があり、ついには現代とも串刺しになった人間心理が焙りだされ、ゴヤは偉大な画家の仲間入りを果たしたのだった。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「今に名を残す画家の多くは、子どものころから並外れた才能の片鱗を示し、若いうちにもうある程度の地位についている。しかしゴヤは遅咲きの花であった。 田舎の工房で十三歳から四年間の修業を終え、十六歳でいちおう職業画家になって生地の教会の聖遺物箱扉絵(消失)などを制作したが、特段の評判は得ていない。十七歳の時と二十歳の時、首都マドリッドへ出て、画家の登竜門たるアカデミー奨学試験を受ける。二度とも不合格。やむなく私費でイタリアを廻り、同地でパルマの美術コンクールにも応募して、ここでも落選。故郷へもどって細々と仕事を続けた。すでに二十七歳になっていた。 猛烈な負けず嫌いで野心家のゴヤが次にしたことは、出世目当ての結婚だ。同郷の宮廷画家バイェウの妹(二十六歳だったから、当時の女性としては晩婚)を妻にし、その伝手でやっと中央との関係を掴む。王室タペストリー工場のカルトン(下絵)画家になったのだ。城や貴族の館を飾るタペストリーの需要は多く、ゴヤは明るく華やかなカルトンを量産した。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「変わり目は四十六歳にやって来た。 もともと肉体は牡牛のごとく頑健だったが、ある日原因不明の重病に陥り、痙攣と頭痛で一時は死の淵までゆく。やっと危機を脱した時、ゴヤの聴覚は完全に失われていた(この直後の自画像は、人生半ばで同じく聾になったベートーヴェンの顔つきを髣髴とさせる)。 後になってみれば、それはまるで神の意志であったかに思える。慢心ではち切れんばかりのゴヤに対し、これ以降の人生はひたすら目で見ることに専念せよと、神が命じたかのように。 無音の国の住人となったゴヤは、確かにそれまで以上に見る目を研ぎ澄ませたが、それでも俗世の垢を落とすことはない。美しいアルバ侯爵夫人と恋に落ち、大臣ゴドイのためとはいえスペインでは禁じられていたヌード(『裸のマハ』)を密かに描きあげる。煩わしい絵画部長職は全聾を理由に退きながら、首席宮廷画家の地位は恭しく引き受け、友人宛に得々と書く、「王侯は君の友ゴヤに夢中だよ」。王立アカデミー院長に立候補して落選し、腹を立てる。ヌードを描いたのがばれて異端審問所に呼ばれれば、八方手をまわしてお咎め無しに持ち込む……。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「遠縁にロココの人気画家ブーシェをもち、家族の友人にも芸術家の多いダヴィッドは、早くから絵で身をたてると決めていたが、なかなかローマ賞(アカデミーが主催する新人試験)に合格できなかった。最初に落ちた時は、自信の鼻を挫かれて自殺を企ったという。間違いなく父親の激しやすい性格を受け継いでいる。 二十七歳でようやく受賞し、イタリアへ留学。当時もうドイツ人美術史家ヴィンケルマンの『古代美術史』は仏訳され、ダヴィッドも決定的影響を受けていた。ヴィンケルマンが説いたのは、時代や民族を超えた「美」が存在すること、そしてその理想美の完成形はギリシャ古代芸術であり、現代の画家や彫刻家はそれを手本にしなければならない、というものだった。ダヴィッドは三年間のイタリア滞在で、ギリシャ・ローマ彫刻やポンペイの発掘品、イタリア絵画を徹底的に研究し、改めてヴィンケルマン理論に深く納得、また自分の進むべき道に確信を抱いて帰国した。 この後ダヴィッドが率いることになる新古典派の作品が、どれも感情や感覚を排して理性と荘厳を前面に押し出し、人物の姿形も個性よりむしろ理想化された無表情が優先され、彫像のごとく静止したポーズを取り、全体に力強い単純さが貫かれているのはそのためだ。移ろいやすい現実を描く風俗画・風景画・肖像画より、歴史画(神話画や宗教画を含む)こそが「高貴なジャンル」であるとする絵画主題のヒエラルキーが、ダヴィッドによっていっそう強化されることとなった。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「ただしブリューゲルの時代には、まだ風俗画が絵画の主題として確立したとまでは言えない。突出した画家がそうであるように、ブリューゲルはひとり特別の存在だった。日常生活への取材の範囲が拡がり、風俗画専門の画家がおおぜいあらわれ、一大ジャンルとして発展したのは、何といっても十七世紀オランダにおいてである。「オランダ人は生まれついての画家」と言われるほどの絵画好き。小型の風俗画で安価ならば、狭い室内を花と同じ感覚で飾りたい。そうした人々の望みに応じて風俗画家の数が爆発的に増大する。彼らは薄利多売で絵を描きまくり、売りまくった。専門は細分化し、生涯、帆船なら帆船一筋、花なら花だけ、すごいのはスケートシーンだけを描く画家もいた。隣国からの旅行者が、「ここではパン屋や農家にまで絵を飾っていて仰天した」と記している。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「ヤンは兄より才能があり、花の画家として大成功をおさめた。あだ名も「花のブリューゲル」。ルーベンスと親交を結び、彼に家族肖像を描いてもらっている。共同作品も数多い。その息子ヤン二世(ブリューゲルの孫)となると、もう十七世紀人だ。第 2部で触れたように、彼はヴァン・ダイクと共同工房を開いた。詩人でもあり、父ヤンのコピーを大量に産んだことで知られる。さらにその息子アブラハムはナポリに定住し、静物画家として人気を博した。ヤン二世には妹がいて、ネーデルラント総督の宮廷画家ダフィット・テニールス二世と結婚している。息子テニールス三世(ブリューゲルの曾孫)も画家になったが、あいにく凡庸だったらしい。 バッハ家同様、代が下るにつれ先細りとなるのは致し方ない。しかしそれでも始祖の死から数えても百五十年ほど、子孫は美術史に名を残し続けた。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「ピーテル・ブリューゲルの前半生は全く知られていない。姓はブリューゲル村出身というところからきたとされる。ダ・ヴィンチ村のレオナルドと同じだ。ただしフランドル地方にはブリューゲルという村が複数あり、はっきりここと特定されるに至ってはいない。 生地が不明の上、生年月日もわからなければ両親の職業もわからない。後年、「農民画家ブリューゲル」と呼ばれるようになったのは、農民たちの風俗を主題にした作品が多かったからで、農民出身という意味ではない。とはいえこれだけ研究が進んでも何も記録が見つからないのだから、親が中・上層階級に属していたり、組合に属する画家だった可能性はほとんどない。末端の職人か、ほんとうに農民だったかもしれない。 ブリューゲルの名が確認できるのは、一五四五年ころ。どんないきさつからかは不明だが、国際都市アントワープへ移住して、クック・ヴァン・アールスト工房に入門している(後年、師クックの娘と結婚)。クックはイタリア語の建築学の本を翻訳するなどの教養人だったので、弟子は大いに感化されたに違いない。クックが死去した翌年の一五五一年、ブリューゲルは聖ルカ組合に親方登録した。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「多いといえば、絵画好きの国民だけあって画家の数も大変なもので、最盛期にはアムステルダムだけで七百人もいたというから驚く。作品数自体も目を瞠るほどで、試算によれば一六〇〇~一八〇〇年の間に五百万から一千万点も制作されたらしい。 王侯や教会といった大口発注者がいないので、ほとんどが市民の好みにあった小型風俗画だ。値段も安い。必然的に競争は苛烈となり、船の画家、花の画家、雪景色の画家といったように、それぞれ細かく専門化してゆく。二足の草鞋を履く者も多く、画商や宿屋を兼任した。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「三十代半ばのミレーにようやく転機が訪れる。王(ルイ・フィリップ)を追い出した共和派の新政府が、これまでの王侯貴族好みのアカデミック絵画を特別扱いしなくなり、ミレーの『箕をふるう人』を国家買い上げとしたばかりか、さらに新作の注文もくれた。同年、パリにコレラが流行し、一家はルソーの勧めでバルビゾン村へ一時避難。やがてそこがすっかり気に入り、以降、死ぬまで定住することになる。 こうして我々のよく知るミレーらしい作品が、次々生み出されてゆく。美しくも厳しい自然と、そこで糧を得る人間の単調で苛酷な労働、信仰に支えられた日々のつましい暮らし、そして温かみのある手でこねられた粘土細工のような人物像……。そこには都会人が見たがる理想化された農村の姿はない。コローが風景画の革新者だったように、ミレーもまた農民画の革新者だった。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「しかし本物は残る。ミレー作品は上流階級にもじわじわと支持者を増やし、価格は吊り上ってゆく。バルビゾンに暮らし始めてしばらくは油彩一点がわずか五〇フランだったのに、三年後に小品でも二〇〇フラン、さらにその六年後には六〇〇フランとなり、サロンで『羊飼いの少女』が一等になったり、一八六七年の第二回パリ万博では会場の一室丸々ミレー展示室という特別待遇を受け(この時『晩鐘』が絶賛される)、ついにはレジオン・ドヌール勲章まで授与される。苦労が報われた晩年といえる。先述したように糟糠の妻に報い、子どもたちにも囲まれて愛に満ちた一生だった。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
「フィンセント・ファン・ゴッホをフランス人と誤解している人は少なくない。陽光降り注ぐ南仏アルルのひまわり群が、彼の名前と分かちがたく結びついているせいだろう。だがゴッホが生まれたのは、海抜ゼロメートルの低地が拡がる寒冷な北国の、空がのしかかるように重い陰鬱な風景の中だった。 渡仏後の彼の作品があれほどに明るいのも、またその明るさが底知れぬ暗さに通じるのも、北にルーツを持つゆえに違いない。 印象派の画家の中で、ゴッホほど多く伝記が書かれ、書簡集が各国語に翻訳され、映画化され小説化され舞台化された例はない。強烈な色合いと独特のタッチが魅力のその作品はもちろん、破滅的な生きざまやストイックな芸術観に、近・現代人が惹かれ続けてきた証だ。 ゴッホは一八五三年三月、ベルギー国境に近いオランダの小村で、敬虔なカルヴァン派の牧師の第二子として生まれた。フィンセントという名はブレダの高名な牧師だった祖父の名であり、且つまた、一年前の同月同日に生まれてすぐ亡くなった、兄の名でもある。つまり父は夭折した長男の名をそのまま次男に付けたのだ。子どもにしてみれば、自分は兄の身代わりなのかと──たとえ漠然とであれ──感じたとしておかしくない。」
—『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著
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15名の画家たちの名画と「絶筆」で彼らの生き様を探る。
第一部 画家と神ー宗教・神話を描く
I ボッティチェリ『誹謗』II ラファエロ『キリストの変容』
III ティツィアーノ『ピエタ』IV エル・グレコ『ラオコーン』
V ルーベンス『無題』
第二部 画家と王ー宮廷を描く
I ベラスケス『青いドレスのマルガリータ』
II ヴァン・ダイク『ウィレム二世とメアリ・ヘンリエッタ』
III ゴヤ『俺はまだ学ぶぞ』
IV ダヴィッド『ヴィーナスに武器を解かれた軍神マルス』
V ヴィジェ=ルブラン『婦人の肖像』
第三部 画家と民ー市民社会を描く
I ブリューゲル『処刑台の上のカササギ』
II フェルメール『ヴァージナルの前に座る女』
III ホガ-ス『ホガース家の六人の使用人』
IV ミレー『鳥の巣狩り』V ゴッホ『カラスのむれとぶ麦畑』
関連画家年表有り。
「絶筆」というより最晩年の作品も・・・だが、所謂彼等の
名画や幾つかの作品と共に示されると、画家の生涯や遍歴が
浮かび上がってくる。彼らは「何を描いてきたか」。
画家となり、簡略ながらも詳しい生涯。
画家になった者たち・・・何故画家になったのか?生活?栄誉?
その生い立ちは様々でも、それぞれが歴史に名を残した事実。
画家たちの視線・・・何を捉えたのか?何を描いたのか?
神話や信仰、依頼人たちの望み、描かねばならなかった事情。
そして等しく死は訪れる。
宮廷に捉わる、主君の代替わり、絵画の流行の変遷、戦争、
革命等、時代の荒波の揉まれ、最期の時に辿り着く。
「絶筆」はその画家の生き様の終着点。
信仰に捉われ、絶頂期とはほど遠い絵を残した、ラファエロ。
権力欲に捉われ、死ぬまで画家の強靭な姿を残した、ゴヤ。
死の直前まで手元に置いたという、穏やかな顔の使用人たちの
ホガースの油彩画は驚き。彼の油彩画をもっと見たくなりました。
多作の著者の作品の中でも、特に満足感高し!
手元に置いて何度も読みたいです。
Posted by ブクログ
歴史の教科書ではその時代の最後にちょこっと
芸術史が入ってきてそのときに名前を覚える画家たち。
しかし本書を読むと一人一人その歴史の中で翻弄され
生き残るにはかなりの苦労をしていることが分かります。
時代によって、主題も、聖書→神話画、肖像画→
日常的な絵画、とテーマも変わっていくため
本書では「画家と神」「画家と王」「画家と民」と
項目が分けられており、最後になにを描いたか、が
取り上げられています。
時代の要求に合わせられなかったり、絶筆なのかと
驚くほどにまったく能力が衰えていなかったり、
逆に全盛期ほどの能力はもうその絵には見られなかったり…。
個人的には80歳を超えたゴヤの自画像、タイトルは
「俺はまだ学ぶぞ」がとても印象に残りました。
Posted by ブクログ
中野京子さんの文章は硬いのに、画家への愛と賞賛に溢れていてとても読んでいて熱くなる。
題材としてはゴッホが一番面白かった。これほどまでに書簡が訳されたり、小説、舞台、映画になった画家はいないと書かれていて、いままで考えたことがなかったけれど確かにピカソやダヴィンチ、日本の画家よりもゴッホ本人にもスポットがあたってるのは興味深い。幸福な黄色。
その人自身が豊かで優雅で努力を怠らず自己肯定感があると、作品にも反映される。逆に、何をやってもダメだったり人としては悪漢だからこそ、作品が味わい深いものになる。もっと美術館に行きたくなる!
Posted by ブクログ
どの画家も 全盛期には
美術史にのこる名作を描いてますから
晩年になっても すごい・・・
とは限らない
凄い絵を描き続けた人
つまらなくなった人
画風を変えたひと
人生最後に残した作品
見ごたえありました
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それぞれの画家を絵を通して深く知ることができる内容。
各画家の人生の変化、時代に応じて、作品も変化しており、その様子までわかる。
面白い。
手元に置いておき、機会がある都度見返して楽しめる。
Posted by ブクログ
これもまた、筆者の傾向かが現れてます。中野さんは絵を物語にして読ませてくれるので、分かりやすくて大好きなのですが、よく出てくるのはスペインハプスブルグ家と印象派かなぁ。いや、いいんですけどね。私は私でもっとしっかり分野開拓していきたいと思いました。
Posted by ブクログ
常識なんだろうが、知らないことがたくさん知れた。
・19世紀前半までの評価はルネッサンス3大巨匠の中で、圧倒的にラファエロがトップだった。→ 自分の感覚では、1.レオナルドダヴィンチ2.ミケランジェロ3.ラファエロだったが → やっとラファエロ前派という名前の意味が理解できた。
・ルーベンスの天才、何をやっても優秀で、外交官としても活躍。経済人としでも大成功。大げさな絵柄から破天荒な人なのかと勝手に思っていたが、かなり優等生で、バランスのとれた性格ということに意外さを感じた。
・ゴヤの俗物性質の中に、後期黒い家にあるような真のアーティスト性があること。(これは知っていたが改めて気づいた)
・ミレーが何度もサロンに落ちたこと。政府が変わってアカデミックな絵画を特別扱いしなくなってチャンスがおとづれたこと。
Posted by ブクログ
ゴッホより普通にラッセンが好き。
そんな人もゴッホがどんな想いで絵を描いたのか、どんな人生を送ってきたのかを知れば、ゴッホのほうが好きになるかもしれない。
後世に名画を残した画家が、人生の最後にどんな絵を描いたのか。
それを元に画家の心境や時代背景の変化を読み解く一冊です。
絶筆作品だけでなく、教科書にも絶対のってる人気絶頂のころの作品を詳細な解説とともに比較することで、絶筆に至るまでにどんな変遷を送ったのかを解説しています。
たとえばゴッホ。
「アルルの跳ね橋」とか、黄色を中心とした明るい色調の農村風景が知られていますが、絶筆となる「カラスのむれとぶ麦畑」は、なにもない麦畑にカラスの群が飛び交う風景を描いた作品。観ているだけですごーく不安になります。
アルルではようやく作家活動に希望を見いだせたのに、その後、友人のゴーギャンに愛想を尽かされ、自堕落生活一直線。女性にも逃げられ(かっれの場合、今に始まったことではないが)、酒とクスリにおぼれたうえに最期はピストル自殺。
そんな中でかかれた絶筆作品は、これまで培った技法や色調(やっぱり黄色が大好き)を駆使しつつ、不安感がMAXに込められたものになっています。
取り上げられた作家に共通していえるのは、どれだけ人生が変化しようと、彼らは一貫して絵を描き続けた、ということ。
画家の人となりとか逸話とかで、その絵の価値が変わることはないし、名がはいつみても名画だ。
だが、画家の人生や、その絵に込められた想いを理解することができれば、その絵を鑑賞するときの深みが増す(ワインと同じだ)。
ラッセンさんのほうがどんな人生を送ってきたのかは知らないが、美術館にいったときに作者の系譜をちゃんと読もう、頑張って図録も買おう、そんなモチベーションをあげてくれる一冊です。
Posted by ブクログ
当然なのかもしれないが、死の間際まで絶好調だった人は少ない。画家はその作品で隆盛が語られるものだが、やはり死の間際にはなかなか傑作を残せる人は少ない、と感じた。寂しくはあるけれど、人間とはそういうもので、後生があーだこーだいうのは間違っているのかもしれない。
最後のページにある年表が良かった。誰と誰が同時代に生きていたのかが、一目で分かる。ヴァンダイクとベラスケスの対比がとても面白かった。またゴヤの執着、生きることに対してなのか、人間に対してなのか、分からないけれど、とりあえず、執着には凄味を感じる。
Posted by ブクログ
成功した画家達は最後に何を描いたのか。
画家達が人生の終わりにさしかかり、どのような心境の変化に至ったか。
絶頂期の作品と比較しながら、その画家の歴史を辿ってそれを紐解く一冊。
取り上げられている画家達は下記。
ルネサンスからはボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノ、
北方ルネサンスからはブリューゲル、マニエリスムからはエルグレコ、
バロックからはルーベンス、ベラスケス、フェルメール、ヴァンタイク、
ロココからはホガース、ヴィジェ・ルブラン、新古典主義からはダヴィット、
ロマン主義からはゴヤ、ホガース、写実主義からはミレー、そして後期印象派からはゴッホ。
画家それぞれ、貧困や、自らの性格が災いして苦労したり、ゴッホやフェルメールのように夭折してしまったり。ゴヤのように、人格に問題があってもしぶとく生き抜いて最後に新境地に挑戦したり。
また逆にルーベンスのように(中野さんは、ルーベンスのことを他の本でも「天からえこひいきされた人物」と述べている)仕事の才能にも家族にも恵まれ、幸せな人生を最後まで全うするものもいたり。
そしてその人生を経て、終盤でどんな絵を描いたのか。
その道筋が一人一人描かれていて、こういう視点も面白いな、と思った。
今回気になった画家はこちらの人格の良さそうな3人。
まずは、当時では珍しい女性画家のヴィジェ・ルブラン。
女性が芸術の分野で活躍するのには苦労したようだが、自らの美貌を武器に自画像を沢山描いて、その画力をプロモーションした。
晩年も家族に支えられ幸せに過ごしたという。
次に、ルネサンスの三大巨匠として知られるラファエロ。
先輩達の技術を吸収しようとする素直さと、優雅な物腰で、最後まで愛される画家だったという。
ラファエロ。ファンになりそうです。
そして、イギリスのホガース。
知らない画家でした。音楽と絵画が長らく不毛地帯だったイギリスにようやく現れた画家。
人物の個性を描き分ける観察力が武器。愛する妻と愛犬と、幸せに暮らした。
中野さんは本当に色んな切り口から西洋美術を語ってくれる人。
しかも、個人の感情を極力抑えて客観的に述べているところも、読みやすいポイント。