あらすじ
学校では知識は教えるけれど知識の獲得のしかたはあまり教えてくれない。メモのとり方、カードの利用法、原稿の書き方など基本的技術の訓練不足が研究能力の低下をもたらすと考える著者は、長年にわたる模索の体験と共同討論の中から確信をえて、創造的な知的生産を行なうための実践的技術についての提案を試みる。
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情報と共に生きる上で必要な「知的生産の技術」が、この本には詰まっています。
1969年に出版された本のため、章によっては、現代にそぐわないものもあります。そのような章は、現在と比較して読むと非常に面白いです。
現代にそぐわない章として、「ペンからタイプライターへ」の章があります。漢字が打てないタイプライターでどうにか手紙を書こうとする努力が記されています。現在のWebやパソコンの普及した社会のありがたさが身に沁みました。
反対に、現代でもそのまま参考にできる章もあります。
特に、「読書」の章は非常に参考になりました。一度読んだ本を積んでおく「つん読法」など、知的生産をするための読書の技術が書かれています。
日々の暮らしのなかで情報と関わるすべての人に読んでもらいたい一冊です。
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Posted by ブクログ
名著ということで少し前に買っていた。置いていたが気になってふと読んだ。
知的生産とは、頭を働かせて新しいことを人にわかる形で提出すること。そして、そのやり方を教わらないので、自分なりの技術を持っていない人が多い。それを考えていこうというのが主題。
フィールドワークのごとく日常の発見をカードに書き、それを後で見て複数のカードの関連をみて、自分の関心を理解したり新たな発想を得たりすることが人間らしさをもたらす。仕事ではこの流れは定着していたが、それを日常に広げていくと、視野が広くなり物事の前提から捉えるような視座の高い思考ができるようになりそう。下手な旅なんかより、カードを使った日常の記録とその振り返りの方がよっぽど自分探しだと思った。こういうのをしていると、好きな領域が分かっていきキャリアの歩み方にも良い影響がありそう。
カードは一旦買ってみたので試す
Posted by ブクログ
大変ためになった。Twitterでおすすめの本としてツイートされていたのを見て購入。
会社のデータ整理が下手で、いつもどのデータがどこにあるか探し出すのに時間がかかる。パソコンなど普及してない時代にかかれたものだが、現代においても使える思想が多い。本を読んで考えた内容をもとに、フォルダ整理してみようと思う。ひらがなタイプライターなど新しい試みをされた著者の貪欲な精神を見習い、AIなどを積極的に使ってみようと思った。知的生産の活かし方は無限大な気がして、早く仕事に活かしてみたいなと、楽しみな気持ちになった。
Posted by ブクログ
> かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら─情報─を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ...今日おこなわれている読書論のほとんどすべてが、読書の「たのしみ」を中心に展開しているのは、注目してよいことだとおもう。今日、読書はおもに知的消費としてとらえられているのである。(知的生産とは)
> あらゆる現象に対する、あくことなき好奇心、知識欲、包容力。そういうものにあこれていたのである。そのあこがれから、わたしたちはわたしたちなりに、手帳に書くことがらの、内容と形式とを開発していった。私たちの手帳は、単なる実用メモではなかったし、また、日常生活の記録でもなかったのだ。(ダ=ヴィンチの手帳)
本書はおもに読書とメモを手段として、そのような活動を著者がどのように知的生産に繋げているかを記述する。共感するところが多い。
> 読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。(創造的読書)
読書を、情報の収集と整理を通じて、読み手の思考を開発する手段としてわかりやすく紹介している。それらの活動を生産にいかに繋げられるかは各人の能力の差によるのだろうが、時代によらない普遍的な頭の使い方をうまく表現していると感じた。
Posted by ブクログ
方法論として読むと内容が古すぎるけど、知的生産に関する昔のエッセイだと思うとかなり面白かった。理論的には現代にも通じるものはあるし、手法も使えそうな部分はあるっちゃある。
著者が挙げている問題はPCやインターネットの普及によってかなり解消されたと思うけど、どうだろう。
Posted by ブクログ
カード1枚に1件の情報、書いたり、貼ったり、コピーしたり。メタ情報、メタメタ情報、作成・活用した頃が懐かしいです! アナログ時代の情報の整理と活用、デジタル時代でも基本は同じだと思います!
本居宣長は、書棚からあかりをつけずに必要な本を取り出すことができたと。アナログ時代の整理の究極と思います。梅棹忠夫(2010.7.3没、享年90)著 「知的生産の技術」、1969.7発行、20歳の時に読んだ本です。メモ帳、手帳、日記、手紙、読書、切り抜き・・・、1頁1項目、規格化(ノートからカードへ)。アナログ時代の情報整理の集大成は、この本に尽きると思っています。そして、その考え方は、今も全然色あせていないと思っています。
梅棹忠夫(1920.6.13~2010.7.3、享年90)「知的生産の技術」、1969.7発行。内容は:①発見の手帳 ②ノートからカードへ ③カードとその使い方 ④切り抜きと規格化 ⑤整理と事務 ⑥読書 ⑦ペンからタイプライターへ ⑧手紙 ⑨日記と記録 ⑩原稿 ⑪文章 ミスターアナログと勝手に命名させていただいています(^-^) 梅棹忠夫先生。当時はアナログの情報化時代、今はデジタルの情報化時代。変わらないモノと変ったモノがわかります。情報アンテナの指向と整理の仕方は同じ気がします。
Posted by ブクログ
著者は、知的生産とは、「頭を働かせて何か新しい情報を人にわかる形で明らかにすることである」と定義している。
知的生産は一般的には、個性的・個人的営みであり、普遍性がなく公開不可能なものであると受け止められがちであるが、実際はその反対で、皆同じような工夫や失敗をしており、技術と呼ぶに足る客観性・普遍性をもっている。
具体的には、著者が独自に開発したカードを活用することによって、「読む」という行為(日常の発見、新聞記事、ファイリング、読書など)から、いかに新たな情報を生産するか、ということを紹介し、一方でまた、「書く」という行為(日記や文章の書き方など)では、いかにわかりやすく自分の考えをまとめるか、ということを著者発明のカードはもちろんのこと、タイプライター、原稿用紙など、その他のツールの活用法を、実例を挙げながら述べている。
情報社会のもとでは、「いかに読み、いかに生き、いかに考えるか」を絶えず試行錯誤していく行動力を持つことこそ、知的生産の技術を磨く上で最も肝要である。
本書は1969年初版であり、今日のIT社会から見ると、活用するツールがやや古いと感じる点はあるものの、本質的な肝は変わらず、多くの情報が氾濫する現代社会でも十分通用する「技術」であると感じた。受験生当時使っていた京大カードの発明者が著者であると、今更ながらに知った。「読書力(齋藤孝)」の中で述べられている「線を引きながら読む」と本書の「傍線をひく」という箇所が重なっている部分があり、大変印象に残った。
Posted by ブクログ
1969年に書かれた、京大の大学教授が書いた、「知的生産」の技術の本。
マメだな…というのが第一印象。
自分の発見や考えを、規格化したカードに記載して、それを材料として整理、分類して論理としてまとめ上げる方法をとっている。
よく、グループワークなどで用いられるKJ法を日頃からこなしているイメージ。
ここまで几帳面なこと、できないよ…。
そして、コンピュータが全く普及していない時代背景があるからこそ、面白い記載もある。
「垂直式ファイリングシステム」が整理に一番適している、と書かれている。これは、キャビネットに耳のあるファイルを入れて、そこに書類を整理していくやり方だが、ペーパーレスが叫ばれるいま、こんなことをやったら卒倒ものだろう。また、「できることなら、いまの漢字かなまじり文を、そのままタイプすることができれば、それにこしたことはないのである。それができないから苦労するのである。」と書かれている。当時はタイプライターすら貴重品で、手書きが主流だった。なんと、書き言葉をローマ字やひらがなだけに統一しようとする人すらいたのだから驚きである。
しかし同時に、技術の発展に自分たちがいかに毒されているかも思い知った。こうした情報整理術ができることも、当時の知識人を知識人たらしめていた理由だったのだと思う。しかし、Windowsのエクスプローラーがあれば、ファイル整理なんてなんのそのだし、outlookやら teamsさえあればスケジュール管理やタスク管理なんて楽勝。officeさえあれば文書の規格化だって簡単。ましてやタイプで漢字ひらがな混じり文を打つのなんて当たり前。こうした「情報整理」が簡単にできるようになったからこそ、逆に自分たちの情報一つ一つに向き合う姿勢が蔑ろになっているのかもしれない。もしかしたら、我々がPC上でやっているのは、整理ではなく、単なる整頓なのかもしれない。だからと言って、昔のように手書きに戻ることなんてさらさらないが。
読書は線を引いて二度読む、参考になります。
Posted by ブクログ
まえがきに1969年とあり、今とマッチしない知的生産術も多い。しかし後半の「手紙」「日記と記録」「文章」の生産術については、いかに自身の生活でのつれづれなる考えをまとめ発信するか苦心しているので、とても参考になった。
Posted by ブクログ
中野明氏の『IT全史』を過去に読んだ際、梅棹忠夫氏の『文明の生体史観』を参考書籍として挙げており、梅棹氏を多大にリスペクトしていたことから、いつか梅棹氏の著作を読んでみたいと思い、代表作のひとつと言われる本書をまず購入。
本書は、知的生産(=人間の知的活動が、新しい情報の生産に向けられること)の考え方から方法論に至るまでのエッセイである。
1960年代に書かれたことから、現代の書評の多くに書かれているように、具体的な方法論、とりわけ紙のカードやファイリング、タイプライタなどの活用法に関する内容自体は、デジタル全盛の現代においてはあまり役には立たないだろう。
しかしながら、著者自身も冒頭でハウツーものを書くつもりは全くなかったと述べているように、本書の価値は「○○をやれば誰でも知的生産ができる!」的な、巷にあふれる陳腐なハウツー本のような表層的なところにはない。
著者は、知的生産の定義を「頭を働かせて何か新しい事柄(情報)を人に分かる形で提出すること」としており、そのための技術的方法論について、「知的消費」や「知的生産以外のものの生産」と対比しながら実体験も含めたうえで持論を展開している。
このような、いわば「情報処理論」について今から50年以上前の時代(第1次オイルショック以前)に述べているのは、来るべき情報化時代を予見し、情報のフローとストックをどのように知的生産活動に活かせば次なる時代を生き抜いていくことができるのかという問題を、持論を述べたうえで読者にも考えさせたいからであろう。
改めて、著者の先見の明には敬服するばかりである。
本書がデジタル真っ盛りの令和の時代になっても読み継がれているのは、やはり「情報処理に対する本質・普遍性」を説いているからにほかならない。
著者は知的生産の技術の要点を「日常の知的活動に伴う"情緒的乱流"を取り除くこと」とし、ひいては"精神の層流状態"を確保する技術だとしている。
取得した情報を、同サイズのカードに記録する方法やそれらを決められた方法でファイリングする方法について述べられているが、これはインプットされた情報を単に整理するためだけの技法ではない。
デジタル全盛の現代と道具・技法は異なっていても、著者が実践している方法は、いわば「情報処理の標準化」ということができ、これを徹底していくことで、知的生産活動における情緒的乱流(欲しい情報が見つからない等によるイライラ・モヤモヤ)を取り除くことができるというのである。
デジタル時代であってもフォーマットやプロセス(ネットワーク分野ではプロトコル)の規格化・標準化は当然のように行われている。なぜなら、扱う情報がアナログだろうがデジタルだろうが、情報処理が滞ってしまえば迅速かつ質の高い生産活動が困難になるからだ。
著者は本書を個人の知的生産活動のために著したとしているが、組織の活動についても学ぶべき点は多い。
特筆すべきは、著者は(記録する目的で利用する)コンピュータもカードも、それらは「忘却の装置」であると断定していることである。
知的生産活動で入手した情報は、いつでも検索・参照できるように標準化された形で外部の記憶装置に記録する時点で、頭の中に記憶する必要はないというのである。つまり、頭の中、ノートへのメモ書き、新聞の切り抜きをスクラップしたものなど、一時的な保存領域に様々な形式で格納されている情報を、情報処理用語でいうところの外部記憶装置に標準化した形でストアする。そしてその結果、雑多な情報を整理・記憶するために満たされた(頭の中の)ワーキングメモリを忘却することで解放し、別の知的生産活動に有効利用していく、と考えると分かりやすい。
この考察は、近年の認知科学による効果的な勉強に関する研究でも実証され、また外山滋比古氏の大ベストセラー『思考の整理学』で述べられている忘却の重要性にも通じており、まだコンピュータが一般的に使われていない時代の考察であることを考えると驚嘆に値する。
カードを利用した情報の記録法については、著者は「歴史を現在化する技術」であり「時間を均質化する技術」であるとも述べている。
これは、「生産性の向上目的による情報の標準化」などという漠然としてかつ浅薄な言葉よりも、よほど簡にして要を得た、本質を突く言葉だといえよう。
標準化され記述領域が限定されたカード(本書ではB6サイズの京大型カード)について、著者はカードを使うことによる情報の有限化とその恐怖に対する超克の必要性にも言及しており、これら実体験を伴う考察は、有限化に伴う強い制約があるがゆえに、かえってアイデアを広げていくことができると提唱している、千葉雅也氏の『勉強法の哲学』の記述とも符合する。
また本書では、整理と整頓についても言及しており、当時はこれらの言葉の違いを誰も教えないと指摘したうえで、「整理は機能の秩序の問題」であり、「整頓は形式の秩序の問題」としている。
つまり、整頓は見栄えをよくすることで、整理はどこに何があるのかを明確にすることだということができ、これは情報についても、そして現代においても当てはまる指摘である。
さらに本書では、いわゆる読書法についても言及している。
著者曰く、読書とは「著者の思想を正確に理解するとともに、自分の思想を開発し育成すること」としている。より砕けた表現では、「本を出汁にして自分なりの考えを育てる」というのである。自分の思想を開発し育成するための本を出汁と表現するところは、いかにも梅棹氏らしいと感じる。
特に学術分野における本については、何かを「言うために読む」のではなく、むしろ「言わないために読む」とも述べている。
つまり、論文における参考文献に多くの著作が列挙されていたとしても、それらは既に公になった内容であり、それらについて述べても論文を書く意味はなく、むしろ自分の論文で既知の研究内容について言及しないために、すなわち自分の考えに新規性があるかどうかを確かめるために文献を読むというのである。
この見解から、引用した文献が少ないことを恥じることはないと著者は断じており、論文の草稿を書いた際に参考文献が少ないと指導教官から指摘された経験がある自分としては、非常に勇気をもらえる言葉であった。
本の前半は、知的気活動から得られた情報の整理や読書など、情報のインプットに主眼が置かれていたが、後半は、タイプライタの有効性から始まり、手紙、日記と記録、原稿、文章についてなど、情報のアウトプットやライティングの考え方について述べられている。
特に、日記と記録については、「時間を異にした”自分”という”他人”との文通である」という言葉は含蓄に富み、電子メールやチャットによるコミュニケーションが普及した現代における日々の仕事にも役立つ。
また、ワープロが無かった当時において、アウトプットを標準化するにはタイプライタに頼るしかなかったということが、著者のタイプライタへの執念ともいえる試行錯誤の描写でよく理解できた。逆説的に、さまざまなシーンでアウトプットの標準化や効率化が熱望されていたからこそ、1980年代にワープロ専用機が爆発的に普及し、後にPCが普及した際も日本語ワープロソフトと日本語変換プログラムが併せて売れたのだと、ようやく納得できた。
最後に、著者は日本の国語教育について私見を述べている。
日本の教育現場における国語の授業は、国文学の授業と混同されていると問題提起し、文章を書く教育は、文学とは別で切り出した方が良いのではないかと提案している。さらに、文章の問題は、情報工学の問題として考え、工学部に情報工学や言語工学なりの学科を作り、その出身者が担当すべきと述べている。
後に、工学部には情報工学科や言語工学科が誕生することになるのだが、これらの学科はコンピュータ科学と密接に関連した形で発展してしまったため、広義の情報に基づいてどのように分かりやすい文章を書くか、などを追究するものではなくなった。
しかしながら、「学校の国語の授業で”文章を書く教育”に時間が割かれていない」という事実は、令和の現代まで続いているのも事実である。
読書をせず文章も書かない若者を嘆く論調は多いが、本書が著された時代から半世紀が過ぎても解決していないということは、根深い問題なのかもしれないと考えさせられる。
とにかく、情報化時代の到来や情報産業の勃興を1960年代から予見していた著者だからこその問題提起といえよう。
ちなみに著者の文章にはひらがなが多いが、アウトプットの効率化を真剣に考えたうえで、漢字交じりの文章は非効率であるという主張からであるということが後半に述べており合点がいった。また、本書のタイトル決めの際にもいろいろと腐心されたようで、かの湯川秀樹氏の助言により"技術"をテーマにして、それまでに書き溜めたエッセイを再構成しながら書き著したとされるが、"技法"ではなく"技術"としたところにこだわりが感じられる。
本書は、タイトルから効率的・効果的な知的生産の方法について述べられたハウツー本を連想させるが、あくまで”知的生産に対する著者なりの考え方”が述べられるに留まり、あとは読者の試行錯誤にゆだねられている。
そして何より(当然ではあるが)、本書で述べられている方法論を実践するためには、既に何らかの情報インプット活動がなされていることが前提である。
それだけに、著者が定義するところのアウトプット活動を実践するためには、一般の読者にとってはハードルが高いかもしれないが、学術系のみならず、近年探究学習を実践している学校やビジネス現場においても、本書の考え方や方法論は役に立つであろう。
今後は、本書を折に触れて再読しながら梅棹氏の他の多くの著作も熟読していきたい。そして何かを学ぶ際は、先入観や既成概念に囚われずに時代を超えた普遍性を追究した梅棹氏を、我が心の師(私淑)として仰いでいきたいと思える一冊であった。
Posted by ブクログ
学校ではあまり教えてくれないが知的生産に必要なこと~メモの取り方、カードの作成の仕方と活用法、読書法、日記と記録、文章の書き方など~について、梅棹忠夫先生がまとめた本。
まだワープロも一般に普及する前の1969年発行だが、"京大型カード"の利用法や、将来"情報科"のような科目が必要だということなど、著者の先見の明に驚くばかり。
Posted by ブクログ
50年以上前の本だが、今でも参考になることがたくさん書いてある。そしてそれはどれもすぐに実践しやすいもの。そして、自分自身が新しいことを学んでいる、いま、このタイミングで読んで良かった。子どもにも読んでもらいたい一冊。
Posted by ブクログ
おもしろかった。
昨今のハウツー本のご先祖さまみたいな本。1969年刊。
1ページ目から「ひらがな多いな!」と思ったけれど、ひらがなタイプライターが日本にやっと3台だけある時代らしい。
手書きからタイプライターに移行できた喜びが伝わってくる。
学校に「情報科」という科目を置くようになるのでは、と予見されている。
京大カードの使い方が知りたかったんだけれど、もっとずいぶん広い範囲における話だった。
とりあえず
・日付と見出しをつけよ
・一項目一枚
・書いて終わりではない、並べよ
というのは分かった。
Posted by ブクログ
知的生産の技術とはどういうことかを深掘りするために読みました。
印象に残ったの2つ
①整理の本質
整理とは、綺麗に並べる・収納すること。否、それは整理ではなく整頓。本来の意味は、必要なものが必要な時に取り出せる状態になっているか?ということ。そしてあり場所が決めることが整理の1歩目。
今までの自分は整理では無く、整頓して満足していたことを実感しました。手段の目的化を情報整理の面から得られることができました。
②他人に見せる書き方
筆者は「文章は俳句のように書け」と習ったそうですが、読んで分からないような文章では意味がないことを述べています。短くシンプルにまとめることも大切ですが、まずは分かりやすいか?読者が一回で頭に入れられるか?が優先なのかと思いました。
この本1969年出版とのことですが、その時代にこの内容が書かれていることに驚きました。本質は変わっていないと思います。
これまでは履歴書や職務経歴書、論文など一定層しか文章を書いて伝えることはしなかったです。
しかしSNSで誰もが発信できるようになった今、誰にでも必要不可欠な技術だと思います。
Posted by ブクログ
「知的生産」(人によって捉え方の違う言葉だと思う)何かをつくりだす、あるいは研究する技術について「考察」された本。
古い本で現代では解決されている問題(タイプライターなど)についても語られているのだが、
人の抱える悩みはいつの時代も同じなんだと、気付きを得られる部分も多かった。
例)整理と整頓の違い など
「創造することを突き詰めた人の意見」として参考になる。
昔を知るという意味では「ローマ字国字論」の話も面白かった。
若い頃自分もやっていた。
若い頃、この場合は中学校時代と高校・大学生の頃、それぞれ形式や内容は違うが、自分もやっていたじゃないか、という思いがまず出てきました。中学校時代に使っていた用紙は、B4版の茶色く色づいた質の悪いわら半紙だった。碑文谷図書館(目黒区)でノートやメモ代わりに買って使っていた。。値段は覚えていない。何でも書きなぐったことは覚えている。授業中は、黒板の授業内容をノートに書き写すことよりも、先生が話した授業内容を一言ことも漏らさず(ここで・・・と冗談を言う)などということや、生徒たちの反応、周りの雰囲気など、克明に速記し勉強していた?
高校・大学生の頃は、日常のこまごましたことを大学ノート(萬:よろずと銘打った)に記入していた。
そんなことを思い浮かべながら、楽しく読まさせてもらいました。
Posted by ブクログ
知的活動の技術の考察エッセイ
メモのとり方、カードの利用法、整理の仕方、読書論、印字方法、手紙、日記、原稿や文章の書き方について。
現在では既に様々なノウハウやツールができているが、当時のそれにまつわる過程が窺えるのが興味深い。
Posted by ブクログ
情報をインプットし、アウトプットすることについて述べた本。キーワードは、京大型カード、整理、読書、タイプライター、文章など。
本書で扱っている範囲は、『考える技術・書く技術』 (板坂元/著)と同じだが、本書の方が、問題提起が多く、より啓蒙的である。
この本はハウツーものではない。問題に目を向けさせ、読者自身でその問題を解決するように促すのが目的だ。そのことは本書の「まえがき」に明確に書かれている。
よんでいただいたらわかることだが、この本は、いわゆるハウ・ツーものではない。この本をよんで、たちまち知的生産の技術がマスターできる、などとかんがえてもらっては、こまる。研究のしかたや、勉強のコツがかいてある、とおもわれてもこまる。そういうことは、自分でかんがえてください。この本の役わりは、議論のタネをまいて、刺戟剤を提供するだけである。
(中略)
知的生産の技術について、いちばんかんじんな点はなにかといえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。(p20)
本書が書かれたのは1969年。もう半世紀以上も前なので、ここで挙げられている問題のほとんどは、テクノロジーの進歩によって解決している。特に、書く、印刷するなどの問題は、パソコン、スマホなどの電子機器の普及によって鮮やかに解決されている。
よって、本書の価値は発行当時と比べ、だいぶ下がっている。現代人がこれから本書を読む価値があるかと言えば目的による。
「知的生産の技術」を身に付けようとするのであれば不要だろう。自分なりの「知的生産の技術」を考えたいのであれば、ヒントが得られるかもしれないので読む価値がある。
私のお勧めは、楽しみのための読書だ。昭和の知識人の戦いの一コマを、垣間見るためであれば十分に読む価値はある。近ごろの新書に比べると内容は濃い。ローマ字国字論、ひらがなタイプライターの開発など、興味深い話も多い。
楽しみのための読書なら、本書の価値は変わることがないだろう。50年以上も、版を重ねているのもその証拠だ。
読書の技術では、「読む」と「見る」を峻別していたのが印象的だった。
本は、「はじめからおわりまで読む」ものである。はじめからおわりまで読んだ本についてだけ「よんだ」という。ななめよみで一部分だけ読んだ場合には「みた」ということにしている。そして、「みた」だけの本については、批評をつつしむ。しかし、世の中には「みた」だけで本がかたられることが少なくないようである。新聞や雑誌の批評・引用・紹介の中には、とうてい全部を読んだうえでなされたとは信じがたいものが出てくる。なかには、その本でのべられていることの正反対が「紹介」されたり「引用」されたりする。(p101-102を編集)
最後に、このレビューは、本書を「はじめからおわりまで」読んで書いたことを付け加えておく。
Posted by ブクログ
内容は、時代が時代だけに半分くらいは古びて今はもうどうでも良い(タイプライターとか)
ただ、本質的に学び、考え、出力するという大きな一連の流れとしては普遍性がありそう。
Posted by ブクログ
最近の情報整理本も、結局はこの本と大差ないことが書かれている。
古い本ではあるが、現在における、PC、スマホやiPad等での情報整理に置き換えれば、まだ読む価値があるかも知れない。
Posted by ブクログ
本質的なところはおもしろい。ロストテクノロジー的な話も多いが、カードを使った情報整理は見直されるべきかも。インターネット時代、AI時代に適応した版が読みたい。
Posted by ブクログ
規格化と標準化が必要。
乱雑な規格だと分類が整理できない。
切り抜きなど現代ではアナログな方式ではありますが、紙書類があふれてしまう人は試す価値があります。
Posted by ブクログ
・表面上の技術は今の時代もっと適しているやり方があるとは思うが、考え方という意味で学びは多い。
社会人になりたての者に是非読んでもらいたい。
・この様な考え方を今から50年以上前に持っている人がいた事に驚く。
Posted by ブクログ
●一分野マスター読書「情報収集・活用」13冊目。メモは京大式カードに書く、1枚に一項目というのは有用そう。ただ記録はノートを使いたいので「カードを使う」こと以外を活かそうと思う。読書記録は著者にとっての大事なところではなく、自分にとって面白いことを記入するというのは、自分の頭で考えるというのを意識しないとだと感じた。
Posted by ブクログ
知的生産への敬意。梅棹先生でさえ物忘れをして何度でも【大発見】をしてしまう、だからカードでの整理が必要、との話に安堵する。
デジタル化の時代、どう情報を整理すべきか。
Posted by ブクログ
時代を越えて参考になる!と手放しでは言い難く、さすがにデジタルに取って代わられた部分も多い。
カードという単位で情報を管理する考え方は大変すばらしいものと賛同はできるが。
タイプライターで頑張っているところなどは微笑ましく読める。
日本人が手紙を書かなくなったのは内容第一主義で形式を否定してしまったからではないか、
特別な才能のない普通の人間にとっての情報交換手段として手紙が復権するには、形式を再建するしかないと書いていて、
これは「お世話になっております」のビジネスメールを完全に予見していると思って感動した。
Posted by ブクログ
本を読んでいると、知識が定着していないことに気がついた。最近は、メモを取り定着しやすいように心がけていたがなかなか上手くいかない。本書は、同じような悩みをもつ人が問題点を認識するのに役立つだろう。
そもそも、私が無意識に求めていたことは、著者の言う、「追随的読書や批判的読書ではなく、創造的読書の方法」だと思った。本書には、知的生産の技術、その中でも整理についての技法がしっかりと書かれており、整理することの重要性を再認識した。
現在ではIT技術の発展により、Eメール等が普及しており、この本が書かれた当初の環境と大きく異なっている。それでも、著者の考え方が通用しない訳でなく、この考え方を基に、新しい技術を取り入れていくことで有効に活用できるのではと思う。
「独学大全」や「ライティングの哲学」等とあわせて読みたい一冊である。
Posted by ブクログ
現代における反知性主義の起源をアメリカにおけるキリスト教の変遷を軸に読み解く書。
ニューイングランドにおけるピューリタニズムの運営上の変遷を基盤として起こったアメリカの独立戦争。
独立宣言にも代表されるように、そこから根付いていった「特権を認めない」という形でのラディカルな平等への熱狂が反知性主義へとつながると筆者は主張する。
本来の反知性主義とは既存体制に対して別軸を打ち立てることによる建設的で知性を要求する行為であるはずが、反知性主義が大衆化することで既存体制を破壊することだけが目的と化している事態を憂慮している点では私は筆者と考えを一にする。
本書は、オルテガ・イ・ガセットが「大衆の反逆」にて憂いた「ヨーロッパのアメリカ化」についてその歴史的成立について考察した本であると位置づけられよう。
大衆的反知性主義が世界的なうねりとなり、経済的貧困と格差が顕在化してきた日本においても目立つようになってきている。
多くの人に教養と知性が共有され、本質的な反知性主義が運用されるまでには時間がかかりそうだ。
Posted by ブクログ
学校は知識は教えるけれど、知識の獲得の方法はあまり教えない、という部分に共感。
学びの場において、学びの方法について教えることに関して、疑問を持つ先生は多いのかもしれない。
しかし、中学になったとき、高校になったとき、それぞれの教科担任が、習得方法を伝えることで、学びが定着しやすいと思う。成績の良い子は頭が良いだけではなく、学び方を知っている。
本書では、知的生産の技術をマスター出来ると思われては困る。刺激を受け、自分でいろいろ考えて、実行し、試行錯誤して、自分なりの知的生産の技術を編み出してもらいたい、という願いが書かれていた。
考え、実行し、改善し、オリジナルな技術を発見することが、知性習得において欠くことが出来ない行為だと、改めて1969年出版の本から学んだ。
Posted by ブクログ
日本では知識は教えるが知識獲得の方法やましてや知的生産の技術は大学ですら教えないということで、筆者のその技術をエッセイ風に書き記したもの。
情報を記録、整理する方法、読書、日記、原稿の書き方などを解説。
ネットのない時代なので使っているツールについてはやや内容が古いが、
「情報×知的処理→知的生産」など、概念は今でも十分通用するし、
未だにできていない人がほとんどと思いました。
必ず読む必要があるわけではないが時間があればどうぞ。
それにしても京大型カードの存在に京大にいた時は全く気づきませんでした。
周囲の同級生も誰も使っていなかったと思います。