【感想・ネタバレ】知的生産の技術のレビュー

情報と共に生きる上で必要な「知的生産の技術」が、この本には詰まっています。
1969年に出版された本のため、章によっては、現代にそぐわないものもあります。そのような章は、現在と比較して読むと非常に面白いです。
現代にそぐわない章として、「ペンからタイプライターへ」の章があります。漢字が打てないタイプライターでどうにか手紙を書こうとする努力が記されています。現在のWebやパソコンの普及した社会のありがたさが身に沁みました。
反対に、現代でもそのまま参考にできる章もあります。
特に、「読書」の章は非常に参考になりました。一度読んだ本を積んでおく「つん読法」など、知的生産をするための読書の技術が書かれています。
日々の暮らしのなかで情報と関わるすべての人に読んでもらいたい一冊です。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 カード1枚に1件の情報、書いたり、貼ったり、コピーしたり。メタ情報、メタメタ情報、作成・活用した頃が懐かしいです! アナログ時代の情報の整理と活用、デジタル時代でも基本は同じだと思います!
 本居宣長は、書棚からあかりをつけずに必要な本を取り出すことができたと。アナログ時代の整理の究極と思います。梅棹忠夫(2010.7.3没、享年90)著  「知的生産の技術」、1969.7発行、20歳の時に読んだ本です。メモ帳、手帳、日記、手紙、読書、切り抜き・・・、1頁1項目、規格化(ノートからカードへ)。アナログ時代の情報整理の集大成は、この本に尽きると思っています。そして、その考え方は、今も全然色あせていないと思っています。
 梅棹忠夫(1920.6.13~2010.7.3、享年90)「知的生産の技術」、1969.7発行。内容は:①発見の手帳 ②ノートからカードへ ③カードとその使い方 ④切り抜きと規格化 ⑤整理と事務 ⑥読書 ⑦ペンからタイプライターへ ⑧手紙 ⑨日記と記録 ⑩原稿 ⑪文章  ミスターアナログと勝手に命名させていただいています(^-^) 梅棹忠夫先生。当時はアナログの情報化時代、今はデジタルの情報化時代。変わらないモノと変ったモノがわかります。情報アンテナの指向と整理の仕方は同じ気がします。

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2020年03月14日

Posted by ブクログ

ネタバレ

中野明氏の『IT全史』を過去に読んだ際、梅棹忠夫氏の『文明の生体史観』を参考書籍として挙げており、梅棹氏を多大にリスペクトしていたことから、いつか梅棹氏の著作を読んでみたいと思い、代表作のひとつと言われる本書をまず購入。

本書は、知的生産(=人間の知的活動が、新しい情報の生産に向けられること)の考え方から方法論に至るまでのエッセイである。
1960年代に書かれたことから、現代の書評の多くに書かれているように、具体的な方法論、とりわけ紙のカードやファイリング、タイプライタなどの活用法に関する内容自体は、デジタル全盛の現代においてはあまり役には立たないだろう。
しかしながら、著者自身も冒頭でハウツーものを書くつもりは全くなかったと述べているように、本書の価値は「○○をやれば誰でも知的生産ができる!」的な、巷にあふれる陳腐なハウツー本のような表層的なところにはない。

著者は、知的生産の定義を「頭を働かせて何か新しい事柄(情報)を人に分かる形で提出すること」としており、そのための技術的方法論について、「知的消費」や「知的生産以外のものの生産」と対比しながら実体験も含めたうえで持論を展開している。
このような、いわば「情報処理論」について今から50年以上前の時代(第1次オイルショック以前)に述べているのは、来るべき情報化時代を予見し、情報のフローとストックをどのように知的生産活動に活かせば次なる時代を生き抜いていくことができるのかという問題を、持論を述べたうえで読者にも考えさせたいからであろう。
改めて、著者の先見の明には敬服するばかりである。

本書がデジタル真っ盛りの令和の時代になっても読み継がれているのは、やはり「情報処理に対する本質・普遍性」を説いているからにほかならない。
著者は知的生産の技術の要点を「日常の知的活動に伴う"情緒的乱流"を取り除くこと」とし、ひいては"精神の層流状態"を確保する技術だとしている。
取得した情報を、同サイズのカードに記録する方法やそれらを決められた方法でファイリングする方法について述べられているが、これはインプットされた情報を単に整理するためだけの技法ではない。
デジタル全盛の現代と道具・技法は異なっていても、著者が実践している方法は、いわば「情報処理の標準化」ということができ、これを徹底していくことで、知的生産活動における情緒的乱流(欲しい情報が見つからない等によるイライラ・モヤモヤ)を取り除くことができるというのである。

デジタル時代であってもフォーマットやプロセス(ネットワーク分野ではプロトコル)の規格化・標準化は当然のように行われている。なぜなら、扱う情報がアナログだろうがデジタルだろうが、情報処理が滞ってしまえば迅速かつ質の高い生産活動が困難になるからだ。
著者は本書を個人の知的生産活動のために著したとしているが、組織の活動についても学ぶべき点は多い。

特筆すべきは、著者は(記録する目的で利用する)コンピュータもカードも、それらは「忘却の装置」であると断定していることである。
知的生産活動で入手した情報は、いつでも検索・参照できるように標準化された形で外部の記憶装置に記録する時点で、頭の中に記憶する必要はないというのである。つまり、頭の中、ノートへのメモ書き、新聞の切り抜きをスクラップしたものなど、一時的な保存領域に様々な形式で格納されている情報を、情報処理用語でいうところの外部記憶装置に標準化した形でストアする。そしてその結果、雑多な情報を整理・記憶するために満たされた(頭の中の)ワーキングメモリを忘却することで解放し、別の知的生産活動に有効利用していく、と考えると分かりやすい。
この考察は、近年の認知科学による効果的な勉強に関する研究でも実証され、また外山滋比古氏の大ベストセラー『思考の整理学』で述べられている忘却の重要性にも通じており、まだコンピュータが一般的に使われていない時代の考察であることを考えると驚嘆に値する。

カードを利用した情報の記録法については、著者は「歴史を現在化する技術」であり「時間を均質化する技術」であるとも述べている。
これは、「生産性の向上目的による情報の標準化」などという漠然としてかつ浅薄な言葉よりも、よほど簡にして要を得た、本質を突く言葉だといえよう。
標準化され記述領域が限定されたカード(本書ではB6サイズの京大型カード)について、著者はカードを使うことによる情報の有限化とその恐怖に対する超克の必要性にも言及しており、これら実体験を伴う考察は、有限化に伴う強い制約があるがゆえに、かえってアイデアを広げていくことができると提唱している、千葉雅也氏の『勉強法の哲学』の記述とも符合する。

また本書では、整理と整頓についても言及しており、当時はこれらの言葉の違いを誰も教えないと指摘したうえで、「整理は機能の秩序の問題」であり、「整頓は形式の秩序の問題」としている。
つまり、整頓は見栄えをよくすることで、整理はどこに何があるのかを明確にすることだということができ、これは情報についても、そして現代においても当てはまる指摘である。

さらに本書では、いわゆる読書法についても言及している。
著者曰く、読書とは「著者の思想を正確に理解するとともに、自分の思想を開発し育成すること」としている。より砕けた表現では、「本を出汁にして自分なりの考えを育てる」というのである。自分の思想を開発し育成するための本を出汁と表現するところは、いかにも梅棹氏らしいと感じる。
特に学術分野における本については、何かを「言うために読む」のではなく、むしろ「言わないために読む」とも述べている。
つまり、論文における参考文献に多くの著作が列挙されていたとしても、それらは既に公になった内容であり、それらについて述べても論文を書く意味はなく、むしろ自分の論文で既知の研究内容について言及しないために、すなわち自分の考えに新規性があるかどうかを確かめるために文献を読むというのである。
この見解から、引用した文献が少ないことを恥じることはないと著者は断じており、論文の草稿を書いた際に参考文献が少ないと指導教官から指摘された経験がある自分としては、非常に勇気をもらえる言葉であった。

本の前半は、知的気活動から得られた情報の整理や読書など、情報のインプットに主眼が置かれていたが、後半は、タイプライタの有効性から始まり、手紙、日記と記録、原稿、文章についてなど、情報のアウトプットやライティングの考え方について述べられている。
特に、日記と記録については、「時間を異にした”自分”という”他人”との文通である」という言葉は含蓄に富み、電子メールやチャットによるコミュニケーションが普及した現代における日々の仕事にも役立つ。
また、ワープロが無かった当時において、アウトプットを標準化するにはタイプライタに頼るしかなかったということが、著者のタイプライタへの執念ともいえる試行錯誤の描写でよく理解できた。逆説的に、さまざまなシーンでアウトプットの標準化や効率化が熱望されていたからこそ、1980年代にワープロ専用機が爆発的に普及し、後にPCが普及した際も日本語ワープロソフトと日本語変換プログラムが併せて売れたのだと、ようやく納得できた。

最後に、著者は日本の国語教育について私見を述べている。
日本の教育現場における国語の授業は、国文学の授業と混同されていると問題提起し、文章を書く教育は、文学とは別で切り出した方が良いのではないかと提案している。さらに、文章の問題は、情報工学の問題として考え、工学部に情報工学や言語工学なりの学科を作り、その出身者が担当すべきと述べている。
後に、工学部には情報工学科や言語工学科が誕生することになるのだが、これらの学科はコンピュータ科学と密接に関連した形で発展してしまったため、広義の情報に基づいてどのように分かりやすい文章を書くか、などを追究するものではなくなった。
しかしながら、「学校の国語の授業で”文章を書く教育”に時間が割かれていない」という事実は、令和の現代まで続いているのも事実である。
読書をせず文章も書かない若者を嘆く論調は多いが、本書が著された時代から半世紀が過ぎても解決していないということは、根深い問題なのかもしれないと考えさせられる。
とにかく、情報化時代の到来や情報産業の勃興を1960年代から予見していた著者だからこその問題提起といえよう。

ちなみに著者の文章にはひらがなが多いが、アウトプットの効率化を真剣に考えたうえで、漢字交じりの文章は非効率であるという主張からであるということが後半に述べており合点がいった。また、本書のタイトル決めの際にもいろいろと腐心されたようで、かの湯川秀樹氏の助言により"技術"をテーマにして、それまでに書き溜めたエッセイを再構成しながら書き著したとされるが、"技法"ではなく"技術"としたところにこだわりが感じられる。

本書は、タイトルから効率的・効果的な知的生産の方法について述べられたハウツー本を連想させるが、あくまで”知的生産に対する著者なりの考え方”が述べられるに留まり、あとは読者の試行錯誤にゆだねられている。
そして何より(当然ではあるが)、本書で述べられている方法論を実践するためには、既に何らかの情報インプット活動がなされていることが前提である。
それだけに、著者が定義するところのアウトプット活動を実践するためには、一般の読者にとってはハードルが高いかもしれないが、学術系のみならず、近年探究学習を実践している学校やビジネス現場においても、本書の考え方や方法論は役に立つであろう。

今後は、本書を折に触れて再読しながら梅棹氏の他の多くの著作も熟読していきたい。そして何かを学ぶ際は、先入観や既成概念に囚われずに時代を超えた普遍性を追究した梅棹氏を、我が心の師(私淑)として仰いでいきたいと思える一冊であった。

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2024年05月04日

Posted by ブクログ

ネタバレ

非常に有名な本。なのでカードを使った整理法は知っている状態で読んだ。
学んだのは「規格を統一する」ということ。新聞記事のスクラップをするきに、どんな大きさの新聞記事も同じ大きさの紙に貼り付けることで、全て同じ大きさになる。これで規格の統一ができる。
カードにまとめるときも、余白がもったいないなんか考えず1カードに1つの内容。
これが大事だなあと感じました。

後半はタイプライターの話。
アルファベットで入力できる言語の国はタイプライターにより情報の高速な出力が可能だ。
それに対して、日本語はかな漢字まじりなので、タイプライターでローマ字で日本語を書く・ひらがな(カタカナ)タイプライターを使う、などの工夫をしているという紹介である。

日本語は本書刊行時の技術ではタイプライターでかな漢字まじりの文を書くのは不可能であると考えられていたのだ。そのためカタカナですべて書こう・ローマ字にしよう・いやまったく違う日本語表記体系を作ろうなんていう運動がおきた。
技術の進歩によりリアルタイムで漢字に変換して編集もできるようになって、過去のこんな運動は歴史に埋もれてしまった。
そんな文字入力の歴史も分かる本だった。

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2020年11月23日

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