あらすじ
やかましいほどにリーダー論、リーダーシップ論がにぎやかである。いまの日本社会に閉塞感を感じている人はとくに、大きく社会を変えてくれるような強いリーダーを求めている。しかし、右肩下がりの縮小社会へと歩み出した日本で本当に必要とされているのは、登山でしんがりを務めるように後ろから皆を支えていける、または互いに助け合えるような、フォロアーシップ精神にあふれた人である。そしてもっとも大切なことは、いつでもリーダーの代わりが担えるように、誰もが準備を怠らないようにすることであると著者は説く。人口減少と高齢化社会という日本の課題に立ち向かうためには、市民としてどのような心もちであるべきかについて考察した一冊である。
鷲田清一(わしだ・きよかず)1949年、京都生まれ。哲学者。京都市立芸術大学学長。大阪大学名誉教授。せんだいメディアテーク館長。専門は臨床哲学・倫理学。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。関西大学文学部教授、大阪大学教授、同大学文学部長、総長、大谷大学教授をへて現職。著書に『分散する理性』『モードの迷宮』(以上2冊でサントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(読売文学賞)、『「待つ」ということ』、『哲学の使い方』など多数。2004年、紫綬褒章受章。
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Posted by ブクログ
しんがりの思想 鷲田清一
1章 成長とは別の途
成長の予感が安心をもたらす社会、縮小へとなかなか反転できないしゃかいというのは、実は未来をあなどる社会ではないだろうか。
柳田邦男 80年前、貧困と病による自殺の急増を見て思ったのは「説くにも忍びざる孤立感」というもの
顔にも貧窮が苛烈であったとき、それでも人々は協力して救済に当たった。つまり共同防貧の仕組みがあった。ところが
「われわれの生活が思い思いになって、衣でもも焼苦渋でもまたその生産でも、個人の考えが次第にククに分かれるようになった時代が来ると、災害には共通のものがおいおいと少なく、貧は孤立であり、したがってその防御も独力でならぬよう傾いてくる 」
「孤立貧こそ社会病」
自立と独立
独立は一人で生きていくこと。つまり非依存
自立は相互依存がある仕組みのなかで一人で生きていくこと。誰かがリスクを負っても他の誰かが助けて全体でリスクを減らそうと試みること。
「われわれは公民として病みかつかつ貧しいのであった」 柳田邦男
この傾向は明治からあった。福沢諭吉は明治初期に政府の文明化政策の目を見張る成果にもたれかかり、次第に依存体質になっていく民の姿を憂い、私立(民間の独立)の必要性を訴えかけた。
福沢は国民こそ本来、国の権限の源であるのに、相変わらず政府を拝んでいる。学校や鉄道ができても人民はそれを一国の文明の象徴として誇るべきなのに、かえって政府に私恩に記し、ますます賜に依頼するの心を増すのみ。人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るもただに無用の長物のみならず、かへって人民の心を退縮セシムル具となるべきだ。
独立の気迫がないとますます依存体質になると説いた。
国家は人民が起こした商社みたいなものであって、そこで国民は商社の主人(政府を作る)であり、かつ商社の客である。普段は客であってもいいが、もし政府の命令が信用できないものであったなら如何なく議論し、政府の間違いをついて、民権を回復するべきである。つまり客ではなく主に帰れと。
東日本大震災 首相の無能さへの非難は本質的にはその人たちを選んだ自分たちにも責任があるのではないかという問い。
私たちに求められているのは、政治というサービスの消費者ではなく、社会を担う。受け身ではない市民としての振る舞いではないのか。
右肩下がりの時代をどうソフトランディングさせるか。何が本当に大切でなにを捨てるべきか考える時代になった。
二章 サービス社会と市民性の衰弱