あらすじ
第2次世界大戦の敗北により、人心・国土とも荒廃したドイツ。その復興を担ったのが、73歳で首相に就任、14年間その座にあったアデナウアーである。戦前、ケルン市長として活躍した彼だが、ナチに迫害され引退。戦後、保守政党を率い、「復古」「反動」のレッテルを貼られながらも、常に自国のナショナリズムを懐疑し、米仏など「西側結合」に邁進、ユダヤ人との「和解」にも挑んだ。「国父」と呼ばれる保守政治家の生涯。
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Posted by ブクログ
アデナウアー
現代ドイツを創った政治家
著:板橋 拓己
中公新書 2266
四か国によって分断占領された、ドイツ第三帝国は、まさに冷戦の出発点となった
戦後のドイツの方向性を決めたのは、アデナウアーであり、西側とともに生き抜くことを選択する
日本でいう吉田茂が、西ドイツのアデナウアーである
亡くなったときに、国葬となったことでも、戦後のドイツをささえたことでも、二人は似ていると思いました
また、西ドイツは、戦後の奇蹟の経済復興、西側への軍事、および、経済圏への参画など、驚くほど、日本と似通っています。
アデナウアーはその道筋を作り、戦後の復興にドイツを導いた首相だったのです
気になったのは、以下です。
コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー(1876.01.05~1967.04.19)
ドイツ帝国のケルン市に生まれた
ケルンのカトリックは、他のドイツ地域のカトリックと比べると保守色が弱く、リベラルで社会改良志向が強かった
1919年06月 第1次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約が結ばれた
フランスはアルザス・ロレーヌ地域を奪還するととも、ケルン市を含む、ラインラント分離構想を画策した
このとき、ケルン市長となっていた、アデナウアーは、苦心惨憺の上、ラインラントをドイツに押しとどめる
ことに成功した
1920年代 アデナウアーは、ケルン市の近代化を推し進めていく
ただ、そのやり方が強引であること、近代化のために多額の投資をしたことで反感をかった
アデアウアーの手法
①懸案事項について、徹底的に調べ上げ、議論に備えること
②相手に最後まで話をさせること
政治で成功する秘訣は、「最後まで座って居られること」というのが彼の持論であった
1933年~1945年 ナチスとの闘い
アデナウアは、ナチスと全面的に衝突する
ケルン市長の定職
住居を差し押さえられ、俸給停止、銀行口座も封鎖される
仮収容所に押し込められた彼は、全体主義下で「人間的な感情を完全に失った」人間を、あらためて実感する
アデナウアーはこの苦難の時期を何とか息抜き、自宅で終戦を迎えることができた
1945年アデナウアは、アメリカによって、ケルン市長へ復職するも、イギリスのために、罷免されてしまう
失望したアデナウアの心は、ケルンから離れ、中央政界へと向けられていく、本書は、そのことがドイツにとって幸運であったとのべている
物質主義と権力崇拝の蔓延が行きつく果てとして、ナチズムとスターリニズムを同一の範疇に位置付けている
アデナウアーは、個人主義、人格主義を掲げている西側諸国との連携を選択することとなる
1947年 モスクワ外相会議、ロンドン外相会議の決裂にて、ドイツの東西分断が確定的となる
この時以来、西側諸国は、ドイツ中央政府の樹立を諦め、米英仏占領地区の西側ドイツだけで国家を創設する
方向となった
1948年 ボンに、11の州議会から、65名の代表を集めて、憲法制定会議が開かれる
その議長となったのが、アデナウアーであった
1949年 ドイツ基本法として、議会評議会によって採択され、5月に布告された
基本法の根幹理念は、自由民主主義、連邦制、社会国家の3点である
08.14 第1回連邦議会選挙が行われ、09.07 暫定首都となった、ボンで連邦議会、連邦参議院が招集され
アデナウアー初代首相に推薦され、09.15 に首相になる
1949年~1962年 アデナウア連立政権
ザールランド問題
ドイツ再軍備
スターリン・ノート
東ドイツの民衆蜂起と、ソ連軍の武力鎮圧
NATO加盟
ジュネーブ首脳会談
ソ連から9600名の戦時捕虜の帰還交渉
ハルシュタイン・ドクトリン 東ドイツの孤立化
ルクセンブルク補償協定 イスラエル・ユダヤとの和解
イスラエルは、西ドイツとの和解によって、中東紛争を生き残ることができた
戦後、奇蹟の復興
1961年ベルリンの壁
1967年 アデナウアー死去、国葬
目次
はじめに
序章 ドイツとアデナウアー―「西欧化」の推進者
第1章 「破局の時代」のなかで―第二帝政からナチ体制まで
第2章 占領と分断―第二次世界大戦後の四年間
第3章 アデナウアー外交の展開―「西側結合」の模索
第4章 「宰相民主主義」の時代―一九四九~六三年
終章 アデナウアー政治の遺産
あとがき
参考文献
アデナウアー略年譜
ISBN:9784121022660
出版社:中央公論新社
判型:新書
ページ数:256ページ
定価:820円(本体)
2014年05月25日発行
Posted by ブクログ
アデナウアーについて名前しか知らない程度で本書を手に取りました。購入のきっかけは第二次世界大戦後のドイツの政治経済を勉強したかったこと。そのためには、まさにこの時期に西ドイツを率いたアデナウアーの本が一番いいのではないかと思い購入しましたが、期待は裏切りませんでした。
全般的に初心者にも読みやすく、アデナウアーの話だけでなく、敗戦後のドイツそのものの激動について興味深く読みました。
しかし本書を読む限りにおいてはアデナウアーという人はかなり独善的に感じました。ドイツに自由民主主義を定着させるという目標のために、議会民主主義は全然顧みなかったという、ある意味矛盾を抱えていて、しかし言い換えれば原理主義者ではなく、あくまで現実を見ながら妥協や取引を通じて自分の考える方向性を実現する、ということで政治家としては極めて有能だったのだろうなという印象は受けました。1つ不思議だったのは、ヒトラーという独裁者を経験したにもかかわらず、ドイツ人はアデナウアーという別の意味で独裁的な人物をトップに選んだこと。ただし本書にも書かれているようにドイツ人は経済復興に最大の関心を持ち政治はお任せ、という状況だったのもあるでしょうし、何より復興にはある程度強権的なリーダーがいなければ立ち行かない、ということで、まさに戦後のドイツ復興になくてはならない人物だったという印象を持ちました。
Posted by ブクログ
日本ではほぼ知られていなそう(自分も世界史でちょっとかじったのを覚えいるくらい)ただドイツにとっては、国の再建を担った人物で、戦後のドイツを語る際、アデナウアーを欠かすことはできない。
特に東西ドイツ統一よりも、西ヨーロッパ統合の道を優先した点が興味深い。普通なら国内の状況を優先しそうな気もするし、特に国の分断を放置することはかなりリスキーに思える、結果的には正しい道だっと評価できる。
Posted by ブクログ
私の中では「西ドイツの戦後の首相の1人」であるという認識しかなかった。
詳細は読むことをおすすめするが、彼の徹底した「反ソ主義」「間接民主主義」は眼を見張るものがある。「本当に」「何一つ」ソ連の言うことを信用しないのだ(若干民族主義の嫌いもある気はするが)。
ドイツの「臣民」の感覚を利用し、彼は西ドイツに民主政を根付かせることに成功した。
彼のドイツ再統一論は、逆説的ではあるが「東ドイツの存在を認めない」ことにある。彼の中には、ドイツ帝国の後継者たる西ドイツが「メーメル川までのドイツ」を回復することにが脳内にあったのだろう。しかし東ドイツが編入され、東ドイツを編入した西ドイツは、ポーランド政府とゲルリッツ条約(オーデルナイセ線)を追認する条約を結んだ。
彼は徹底した力の政治で西ドイツの「西欧化・西側へのドイツ」をつくり上げることに成功したし、その意味で私は戦後日本の復興と対比させながら読んだ。彼はヒトラー政権での戦争責任を政府としては認めたが、国民に対しては認めなかった。
「何事もタブーにしないこと」が重要なのであろうと思われた。
Posted by ブクログ
ドイツでは最も有名だが、日本ではあまり知られていないアデナウアーの業績と生涯について。
内容をおもに戦後の外交に的を絞ってあるので読みやすい。その人となりや思想はステレオタイプな記載しかないのでイマイチよくわからないが、新書サイズということを考えるとこれで十分か。
戦後ドイツの思想一般については読み応えのあるものは多いが、もしかしたらそれらと対比させて読むものなのかもしれない。
Posted by ブクログ
第2次世界大戦の敗北により、人心・国土とも荒 廃したドイツ。その復興を担ったのが、73歳で首 相に就任、14年間その座にあったアデナウアーで ある。戦前、ケルン市長として活躍した彼だが、 ナチに迫害され引退。戦後、保守政党を率い、 「復古」「反動」のレッテルを貼られながらも、 常に自国のナショナリズムを懐疑し、米仏などと の「西側結合」に邁進、ユダヤ人との「和解」に も挑んだ。「国父」と呼ばれる保守政治家の生 涯。
Posted by ブクログ
ケルン市長から西ドイツの初代首相となったアデナウアーの物語。
第一次大戦からナチズム、第二次大戦を経て冷戦に至るまでのドイツの、そしてヨーロッパのあり方を知る上でキーパーソンになる。
日本に照らして、全面講和、片面講和の論争、戦争責任論などについても考へさせられる。