あらすじ
三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはペアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。
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Posted by ブクログ
「天国篇」第三歌・第四歌についての記述。
生前、神への誓願を破った為に、天国で一番低い天球「月光天」に割り当てられた魂の一人、ピッカルダ・ドナーティ。
彼女を通して「足るを知る」事の幸福が、美しく描かれています。
ダンテから、より上天を望むかと問われて、ピッカルダはしばし微笑むと、初恋の火に燃える人のように嬉々として答えます。
「わたくしどもの意志は愛の力で静まるのでございます。
おかげでわたくしどもはいまが持つものしか所望せず、
ほかのものに渇きを覚えることはございません。」
(「天国篇」第三歌70行~72行)
しかしダンテは、天国の住人にも階級があることに疑問を感じます。
それに対して、天国の導き手であるベアトリーチェは、ダンテに説明しました。
「[天国で最も高い処を占める魂たちも]
いま現われた魂[ピッカルダ]たちと異なる天に
座を占めるわけではありません。」
(「天国篇」第四歌31行~32行 [ ]は評者。)
「皆が第一の天球を美しく飾り、
多かれ少なかれ永遠の聖息[みいき]を感じて、それに応じて
それぞれのうるわしい生を送っているのです。」
(同 34行~36行 ルビは[ ]に記入。)
つまり天国の高低は、ダンテに分かりやすく示すためのサイン・方便に過ぎず、天国に住む全ての魂は神の君臨する「至高天」で暮らしているのです。
発想を逆転させると「月光天」という最も低い定めも、むしろピッカルダたちの謙譲の美しさを引き立たせている、とも取れます。
ともあれピッカルダも、神の愛に包まれて満たされているのです。
Posted by ブクログ
目次より
・天国篇
・詩篇
天国篇はほぼ宗教論に終始していて、今までの映像的な描写は格段に少なくなり(挿絵も激減)、小難しいやり取りが続きます。
“君たちはおそらく
私を見失い、途方に暮れるにちがいない”
さて、地獄篇からの懸案事項、「キリスト以前に死んだ善人が地獄にいることの是非について」にとうとう回答が!
“その男の考えること、為す事はすべて
人間理性の及ぶかぎりでは優れている。
その生涯を通じ言説にも言動にも罪を犯したことがない。
その男が洗礼を受けず信仰もなくて死んだとする。
その彼を地獄に堕とすような正義はどこにあるのだ?
彼に信仰がないとしてもそのどこに罪があるのだ?”
“天の王国は熱烈な愛と熾烈な望みによって
掟が破られることを許すことがある。
それらが神意にうち勝つのだ。
人が人に勝つのと同然ではない。
神意が負けることを望むから勝つのだ。”
問いに対する答えがこれ。
熱烈な望みがあれば、掟をまげて天国に受け入れることもある。
ただし、それは人が神に勝ったというわけではなく、あくまでも神が受けいれようと思ったからだ、と。
つまり神の自在定規ってこと。
“そしておまえら現世の人間よ、判断はけっして迂闊に
下さぬがよい。神を見る我々の目にも
神に選ばれるべき人々の姿がみな映るわけではないのだ。”
そして神の決定に口を出すな、と。
アダムとイブが楽園を追われたのも、禁じられたリンゴを食べたからではなく、リンゴを食べることによって神と同等の存在になろうとした高慢のためにだというのには納得。
なるほどね。
地獄が非常に感覚に訴えるものであったのに対して、天国篇は論理的。
“人は感性で知覚されたものから
はじめて知性に適するものを学び取るからです。”
宗教って感覚的なものから始まるけれど、最終的には論理に向かう。
それはつまり、人間はそういうものだからだ。
…ということしかわからんかったわ、結局。
そして、天国で、一糸乱れぬポーズでうじゃうじゃといる天使がとても気持ち悪い。居心地が悪いと思う私は、とても罰当たりです。
自分らしさ=業ってことなのかな。
自分らしさ、人間らしさを捨てないと天国に行けないのであれば、人として生まれた意味は何なのだろう?
やっぱりもっと勉強しないとダメですか?
ちょっとしんどいな。