あらすじ
いつの日か、この日本で本物のウイスキーを造る――。大正7年、ひとりの日本人青年が単身スコットランドに渡った。竹鶴政孝、24歳。異国の地で、ウイスキー造りを学ぶ彼は、やがて生涯の伴侶となる女性リタと出会う。周囲の反対を押し切って結婚した二人。竹鶴は度重なる苦難にも負けず夢を追い、リタは夫を支え続けた。“日本のウイスキーの父”の情熱と夫婦の絆を描く。増補新装版。
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Posted by ブクログ
日本で最初の本格ウイスキーを作った男、竹鶴政孝の伝記小説。ミーハー枠。興味深いことが多くあった。
マッサンとリタののろけ本になっていない。ウイスキーの歴史をきちんと踏まえているので、非常に勉強になる本。
悪いが朝ドラは、話の展開がダラダラしているなー。と思う。しょうがないけどね。
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p25 日本最初の洋酒はジン
日本初の輸入西洋酒は明治三年のジンだった。酒の教養。
p27 一石=180㍑
日本人の年間白米消費量とほぼ一緒。日本酒でも使われるから知っておいてよい。
p40 竹鶴という苗字
広島の竹原の大地主の一角。塩田地主だった。先祖は岸本という苗字だったが、庭の竹林に鶴が巣を作ったという縁起(普通松に巣を作っても竹林には作らない)を担いで改名したらしい。
p43 兄弟
マッサンの兄弟。長兄は早稲田の商科をでてシンガポールでゴム栽培をした。次兄は九州帝大の工科を出て、北海道炭鉱汽船に入社した。弟は北野中学から慶応大学にすすんだ。実家の酒屋を継ごうとするのはマッサンしかいなかった。まぁ、マッサンも継がなかったけど、三男が跡継ぎになっていたのはそういう事情。
p49 池田勇人
マッサンの母校、忠海中学校の後輩には池田勇人がいる。のちにつながる。
p64 え?沈没?
マッサンが渡英した時の客船が途中で漁船に激突して、相手の船コナクリ号を沈めた。乗務員一命を除いて全員死亡したらしい。
なんか、凄いことをサラッと描写していて心に残った。当時は第一次大戦中で客船を出すのも大変だったようだ。ドイツの無制限潜水艦作戦もでていたしね。
p73 ウイスキーの歴史
歴史が書かれている部分。良い知識になる。酒税とともに地酒から世界の酒になっていた。酒税をかけて、大手業者の育成を図ろうとした当局の思惑とは裏腹に、密造者を増やすことになった。しかし、その密造のおかげで地域ごとの個性的なウイスキー文化が発展したともいえる。また、ブレンデットウイスキーにもつながる。1870年代後半にフランスでブドウが病気でワインやブランデーの生産量が落ち、代わりにウイスキーが全英・アメリカや英自治領に広がった。
p100 グレンリベットでの研修
知ってる蒸留所の名前が出てきてテンションあがる。
p141 日本の労働条件
マッサンはスコットランドの職工の姿を見て、日本の当時の労働条件に物申す。当時の日本は休日は月二回、有給もなく、労働者に余裕なんてなかった。それに対してスコットランドでは週休二日で、安息日は絶対働かず家族と過ごす。人として安定したあるべき姿があり、そういう社会を作ってこそ、本当のウイスキーを味わえるのだと感じた。ウイスキーを飲むにふさわしい飲み手を生み出すことも大事だと、先見性のある考えを持った。
p149 マッサン
政孝は大阪の会社では「まぁちゃん」と愛称されていた。それをリタも真似始めたが、日本では旦那をそうは呼ばないとして、せめて、マッサンと呼ぶようにさせた。
マッサンとリタが日本に来たときは第一次大戦後の戦後恐慌で、戦時景気に浮かれていた企業も軒並み事業縮小をしていた。なのでウイスキー事業も凍結だった。
p167 宣伝効果のため山崎がチョイスされた
政孝がウイスキー造をするために鳥井信二郎の寿屋に入社して、大阪周辺でウイスキー製造工場を建てることになった。その理由は「これからの時代はお客はんに工場見学に来てもらえるようやないと損や。宣伝に不利なんや。」というものだった。他の候補地では、佃、小林、枚方、吹田などがあった。
p177 酒税は租税の三分の一もあった
明治になって日本でも酒税を作り、自家醸造や零細企業を締め出した。明治33年には租税収入の三分の一を占めた。
酒税は造石制度で、作った酒に課税される。しかしウイスキーは貯蔵して、販売するころには蒸発して液量が減少するから損をすることになる。政孝はこの制度改正にも尽力して、スコットランドの制度を役人に教えた。
p184 サントリーの名前
由来は、主力商品だった赤玉ポートワインの赤(太陽)の鳥井から文字った。これを国産初のウイスキー「白札サントリー」につけた。
p192 ビール
寿屋がビールに手を出したのは、ウイスキーの補てん用の商品としてだった。しかし、安さを売りに出してカスケードビール・オラガビールを東京中心に売り出したが、関東は安さよりも高いものを見栄で買う性質だから、予想外に売れなかった。
p196 退社
退社のエピソード。商人と技術者の思想の違いが、鳥井と竹鶴をすれ違いさせたかな。
p201 リンゴの名産地
竹鶴が独立した北海道余市はリンゴの名産地(あと鰊)。竹鶴はウイスキー作りの副業としてリンゴジュースも作った。があまり売れなかった。
p228 完璧症なリタ
リタは日本料理を本格的に覚えたし、努力家の完璧しょうだった。畳職人が目安で二時間で終わるといったのに、あと少しで終わらなかったのを咎めたり、有名な完璧おばさんだったらしい。
p229 塩辛はこう作れ
イカの塩辛はいかの筋が気になる。それはイカの身を縦に切っているから。横向きに切ってつくれば筋がなく作れる。リタの発見、研究努力。
p235 ニッカ
ニッカは大日本果汁からきた。リンゴジュース屋さんでもあったんだもんね。
p242 戦時下の売り上げ
第二次大戦中、ウイスキーは好況だった。酒は生産減少傾向だったから、酒の物価が高かった。ウイスキーは貯蔵するので生産量のダメージをあまり受けなかった。
p244 戦時中の男女関係
戦時中は男女でいちゃつくのは不謹慎だった。そういう不合理な考え方は政孝は嫌いだった。ここでもイギリス留学で得た教養が発揮されている。
p321 勲章
昭和44年、政孝にウイスキー造りの功労者に勲四等叙勲の申し入れがあった。しかし、断った。ビール会社社長は勲三等をもらっている。もし私が勲四等を受ければ
その後のウイスキー功労者も勲四等で決まってしまう。業界のために断るという。
その後、勲三等で再打診を受けて、受勲した。
p333 酒好きが作ったから、良い文化ができた
解説の一節。金儲けのための外国技術の導入はよくあることである。しかし、そこには冷たいビジネスライクな感情しか生まれず、温かみのある文化はできない。
ウイスキーを作ったのが、一日一本のウイスキーを飲んだ竹鶴正孝でよかった。酒好きだからこだわったものを作ってくれた。それに、ウイスキーを飲む風土をつくることも考えていたのも偉い。
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完全にミーハーで読んだ本だけど、本当に良い作品だった。
サントリーのウイスキー工場にはいったので、ちゃんと余市にも宮城峡にも行こうと思います。
Posted by ブクログ
「人生を懸けて何かを成し遂げる」
ひとつひとつの決断を、エゴであろうとも全力に、前向きに、全ては国産本格ウイスキーの為に。自分の夢の為に。
初めてのんだウイスキーは、コンビニのグレンウイスキーだった。ただの罰ゲーム用のお酒。そんな学生時代、ゼミの先生に連れていってもらった木屋町サンボアで、山崎18年をショットで飲む先生を見てかっこいいと思った。
試しに無理してかった山崎12年を家で真似して飲んでみた。衝撃。
ウイスキーと出会いもう10年。
この時も今後お世話になるだろう樽がどこかで眠ってるのだろう。
いまの日々の努力が、10年後、12年後、30年後に活きてくるはず。
そんな人間同士の日々をヴァッティングしてボトリング、どこかのバーで花ひらく時を夢みて、1日1日を過ごして行きたいと思う。