あらすじ
北の夏、海辺の街で男はバラックにすむ女に出会った。二人がひきうけなければならない試練とは―にがさと痛みの彼方に生の輝きをみつめつづけながら生き急いだ作家・佐藤泰志がのこした唯一の長篇小説にして代表作。青春の夢と残酷を結晶させた伝説的名作が二〇年をへて甦る。
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Posted by ブクログ
自らのための備忘録
函館市文学館の佐藤泰志コーナーに展示されていた、彼の中学生の時に書いた作文を見て、是非とも読んでみたい!と思ったら、「そこのみにて光輝く」に聞き覚えがあって、そういえば家のアマプラで見たマサキッスの出ていた映画だったと思いました。そこで映画をもう一度見直して、それから本書を読みました。
映画と原作の違いについては、映画のところでも書きましたが、拓司のイメージは菅田将暉とはかけ離れている人物のはずなのに、どうしても映画を先に見てしまったので、人物のイメージが映画の配役に引っ張られてしまいました。また、千夏も原作を読むと池脇千鶴というよりは、もう少し大人びた女性のイメージでした。但し、主人公達夫は綾野剛でぴったりだと感じました。
先に映画を見たせいで、第一部の「そこのみにて光輝く」を読み終えた時、あれ? これで終わり? と思い、いかに自分が映画の後追いをしようとしていたのかと感じてしまいました。こんなことでは「読書」したとは言えないと反省しました。
映画は映画で脚本も素晴らしかったのですが、そうは言っても、やはり2時間で表現できることには限界があり、原作の渇いた文章が、達夫の危うい存在自体を描き出しているのには感服しました。
映画のところでも書きましたが、取ってつけたような山の事故のトラウマなど、達夫の存在そのものの危うさに比べれば何ということもないと感じました。
私にとっては、本書で初めて出逢った「和江」の存在が素晴らしいと感じました。達夫は、(綾野剛が演じていることもあって)こちらから声をかけた女は必ず落とせると思っている節があって、昭和はそうだったかも知れないけど、令和の若者なら「断られたらどーしよー」などと思ってしまうのではないかなどとつまらないことを考えながら読みました。
映画では火野正平が演じていた松本ですが、原作の松本は、私自身がちょっと付き合ってみたくなるような魅力的な人物でした。
佐藤泰志は、今までどうして知らなかったのかと思うほど好きになった作家なので、これからは、先に原作を読み、それから映画を見ていこうと思いました。
Posted by ブクログ
三浦哲郎以外の作家をひさしぶりに読んだ。
そのせいかはじめのほうは文章に澱みを感じた。
作品世界に入り込む前だからというのももちろんある。
ただ第二章から一気に駆け抜けるように読めた。出てくる人がとにかくいいな。全員いい。女性には甘美な魅力が詰まっており、男性には若さと実年齢の狭間で揺れているような、それこそ心を感じる。
問題もあるはずなのだけれど、こんな小説に死ぬほど憧れる。
Posted by ブクログ
2.5年前に映画を見た。以下感想を引用。
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はらわたが切り裂かれるように痛い映像だ。主人公の達夫は、自罰的にぼんくらな生活を送っている。やんちゃな拓児に出会い、貧困と介護(父のオナニー手伝いまで)に疲労する千夏と出逢う。体を売っている店もばれ、情夫がいることもばれ、それでも互いの傷に惹かれあい。生活を立て直そうとするのにこんなにも身動きがとれない。
浜辺の朝日のシーンなど映像の美しさももちろんだが、脚本の鋭さも。「女の顔して」「もとから女ですけど」とか、発破の作業中に部下をひとり死なせてしまったと告白する達夫に、「だから自分みたいなのと付き合うんだね」と言ってしまう千夏とか。
原作者は春樹と同年代、中上健次の嫉妬被害を受けたとか。春樹の孤独よりも佐藤泰志の孤独に共感をおぼえる。
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以上、引用。ところで生年を調べてみた。佐藤は1949年生まれ。
1900生……足穂。
1909生……太宰。
1925生……三島。
1928生……澁澤。
1934生……筒井。
1935生……大江。
1941生……宮崎駿。
1946生……中上。
1948生……森山良子、笑福亭鶴光、たかの友梨、鈴木宗男、都はるみ、五木ひろし、いしだあゆみ、加藤典洋、沢田研二、大瀧詠一、角野卓造、きたろう、井上陽水、あがた森魚、糸井重里、舛添要一、谷村新司、錦野旦。
1949生……佐藤、春樹、高野悦子、野家啓一、亀山郁夫、加奈崎芳太郎(古井戸!)、市村正親、武田鉄矢、風間杜夫、萩尾望都、岸部四郎、間寛平、川上健一、芦原すなお、矢沢永吉、堀内孝雄、北村薫。
1950生……でんでん、伊集院静、竹宮惠子、友川かずき、志村けん、奥田瑛二、三上寛、舘ひろし、和田アキ子、原田千枝子、いがらしゆみこ、矢代亜紀、大和田獏、佐藤良明、梅沢富美男、由美かおる、遠藤ミチロウ、生島ヒロシ、奈美悦。
1952生……村上龍。中島らも。
1953生……森田童子。
1958生……わが父。
1960生……わが母。
1983生……私。妻。
2016生……娘。
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見比べた結論を言えば、中上に父母を重ねて見ていたのは、随分な間違いだった。
また、中島らもは意外と若手だった。
らもにとっての兄貴が佐藤で、佐藤および春樹にとっての兄貴が中上。
こう考えてみれば、大江がここ5年ほど新作を発表していないのもむべなるかな。
大江および宮崎駿が「ヤメルヤメルサギで作品の価値を保つ」戦略を採るのも、まあ。
私が直接触れる父母は意外と、憧れる作家たちと隔絶しているのだなあ、と驚き。
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いってみればわが父母が成人し独立したころに、主に社会を作っていたのが、戦後数年生まれの人々だ。
僕の父母にとって、中上、沢田研二、春樹、萩尾望都、村上龍、らも、らは兄や姉であり得たのである。
かくして得た世代感覚は、また更新しつつ保ちつつ、していこう。
高野悦子やら森田童子やらの残したアクチュアルな言葉は、忘れがたい。
ところで本作の感想を再度記すが。
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「そこのみにて光輝く」は青春の終わり際の輝き。
《荒れた心が四箇、ひしめきあっている》《どうでもいい、あいつはもう俺の友達だ、そう決めた》《こんな女でいいの》《どんな女だ、今さら遅い》《あたしの家族……。何でもないわ、そのくらい》
端正な言葉づかいが生む抒情に、つい涙腺に来てしまう。
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「滴る陽のしずくにも」は終わった青春への挽歌。
子も産まれ家族を持っても、自分を持て余す(と達夫は拓児を観察するが、実は自分自身のことだ)。
青春を再現するように女と寝たり、自分の数年後のような松本と出会ったり(反復のモチーフ)する中で、続く世代の中間にいる自分を想う。
《本当は、あんたは満たされていないだろう》《まるで取り残されたように感じた》《心はきまった。俺は松本と共に山へ行く。もう、ここへは来ない》《やあ、といって結婚して、じゃあ、といって別れた。それだけだよ》《波打ち際のナオと、今ここにいる達夫とのあいだの距離に、彼ら(拓児も松本も、彼の前の女房も、千夏も義母も、夫の転属先にいる妹も、死んだ両親も)はそれぞれの姿で、確かにいた》
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決して近くはないが、なぜか「ファイブ・イージー・ピーセス」を連想したりもした。
スカした綾野剛と、じりじりぎらぎらなジャック・ニコルソンと、どちらでも脳内再生できる。
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青春にどっぷりではいられない、しかし完全に割り切った大人というわけでもない、こんなに自分の現在にしっくりくる小説だとは。
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ところで中上を引き合いに出して語る人がいて、気持ちはわからなくもない。
確かに中上の初期は似ていなくもない、路地とか部落とかいう文脈も。
しかし本作と較べることで、むしろ中上が意識的に自伝を神話化=文学化していたことがわかった。
Posted by ブクログ
函館のサムライ部落で、格差社会の底辺で暮らしながらも、女千夏には、芯の強い輝きを見出し、男が引かれていく。映画版の拓児役の菅田将暉が好演。ねっとりとした筆致で、通い合うものを描く。6たび芥川賞の候補になった。小林信彦も宇江佐真理も村上春樹も賞に縁がなく終わった。
Posted by ブクログ
時代は70年代頃か。舞台はおそらく函館。衰退する地方都市の陰鬱な空気が漂う。
造船所を退職した達夫は、パチンコ屋で出会った拓児という男を介して、最底辺の暮らしを営む一家と出会う。認知症で動けないが性欲だけは衰えない父の相手をする長女の千夏と、達夫は恋に落ちる。千夏の元夫の暴力にも耐え、千夏と結婚する。拓児からは兄と慕われる。義父の死によって負担から解放された一家は、達夫と千夏の間に娘もでき、裕福ではないながらも、平穏で幸せを見据えられるようになる。
水産加工場で退屈な日々を送る達夫は、拓児がつれてきた松本という男に誘われて、鉱山で働くことを決意する。半年は妻子の元を離れなければならない。拓児は傷害罪で服役してしまった。それでも一家は淡々と、未来へと進んで行く。
どぎつい状況から抜け出す第一部。
平穏なまま未来へ進む第二部。
衰退する街を含め、悪いことがないわけではないが、以前と比べれば確実によくなっている手応えがある。
Posted by ブクログ
数年前に、映画化されて話題になっていたのを知っておりまして、それで読んでみよう、と思い手に取った次第です。映画の方は、まだ未見です。池脇千鶴、凄い好きなんですよね、、、映画の「ジョゼと虎と魚たち」が、ホンマにもう、大好きで仕方ないのですよね。おっといきなり話がそれているじゃん。いかんいかん。
で、ある程度読み進めていた状態で「ふーむなるほどねえ、こんな感じなんだねえ」と思いながら、なんとなく、小説の最後の方の部分をチラッと見ましたら。すげえビックリしました。
「この小説、1985年の作品なんだ!!」
と、そこで初めて知りまして。
映画化されたのが、結構最近だった記憶があったので、てっきり、2000年以降になって、書かれた作品だと思ったのです。まさか、1985年とは!ビックリだ。ホンマにビックリしました。
読み進めていて、全然、「この作品、えらく古臭いなあ、、、」って思い、全然感じなかったんですよ。携帯電話は出ないよね。パソコンも出てこないねえ。くらいは感じたので、てっきり、2000年代に書かれた、1970~80年ごろ?を舞台にした、作品なのだろうなあ、くらいに思いながら、読んでいたのです。まさか、マジで、まあまあ昔に書かれた作品だとは。全く、分からなかった、、、
そういう意味では、不思議に思ったのは「ある作品が、古臭いと感じるか?抜群に新しいと感じるか?の違いは、いったい何処で感じれば良いのか?」という事を教えてくれた作品ですね。不思議です。自分には、マジで、この作品が1985年に書かれたものだとは、全く、分りませんでした。
これが、映画や、漫画や、音楽だったとしたら、ある程度、分かると思うんですよね。ある程度、ですが。
「ああ、なんとなく、映像が古い気がする。なんとなく、絵が、古い気がする。音が、昔っぽい気がする。昔の作品だな。多分、多分だけど」
というのが、わかりやすい、気がするのです。でも、小説で。完全に、字だけを相手にして、その作品が、いつの時代に書かれたものか?ということを、大体でも把握すること。それは、可能なのや否や?と、思ったのですよねえ。
小説としては、こういう、ジメッとした感じ、嫌いではないです。うむ。日本の小説。という感じ。ただ、不思議なのは、個人的な受け止め方ですが、決して、絶望に振り切れていない感じを、読んでいて感じた事。間違いなく、こう、現実的には悲惨な境遇であろうし、人生ままならぬ、、、という物語の進行具合ではあるものの、なんだろう。決してこう、ドン詰まり感は、ない。
「そこのみにて光輝く」
というのは、
「其処のみ」なのか?
「底のみ」なのか?
どっちだ?と思いつつ、なんだろう。決して滑稽ではない、不思議な、明るさを、感じる作品なのだなあ。そう思うんですよね。
Posted by ブクログ
行きたかったのに映画を見そびれたので、まず小説から読もうと手にとった。
映画の予告動画を見ての印象を持って読み始めたのだが
どうも映画のあらすじと比較すると、映画は結構設定を変えているようだ。
全体に漂う倦怠感は心地よく感じる部分もあり
注意深く具体的な名称を出さないが、分かる人にははっきりとわかる
町の描写もあるが
けして自分の知っている函館の姿ではなかった。
共感出来る人物も個人的には出てこず、
あまり最後まで入り込んで読めないままに終わってしまった。
強いて言えば松本が気になった程度。
原作どおりで、二部まで描いてくれるなら映画も興味があるのだが
そうでもなさそうな気もして映画を見るのにも少し二の足を踏んでいる。