あらすじ
北の夏、海辺の街で男はバラックにすむ女に出会った。二人がひきうけなければならない試練とは―にがさと痛みの彼方に生の輝きをみつめつづけながら生き急いだ作家・佐藤泰志がのこした唯一の長篇小説にして代表作。青春の夢と残酷を結晶させた伝説的名作が二〇年をへて甦る。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
やるせない、すくいようがないようでいながら不思議と清貧的なさわやかさがある小説だった。しっとりと読み応えのある小説らしい小説だった。
特に第二部「滴る陽のしずくにも」のほうがよかった。それはたぶん、気だるく無頼に生きていた達夫が、結婚し子どもをもってそれなりに生きている様子が描かれていたから。独り身が好き勝手に生きることなど簡単で、結婚したりして守るものができても守りながら自分を捨てずに生きている達夫の姿がよかった。
義弟の拓児を介して出会った松本と達夫のやりとりがなおよかった。どちらも世のなかがどういうものかを感覚的に知っている男どうしという感じで。そう、男のなかには若いうちから実体験がなくても、自分をしっかりもちながら感覚的に世のなかとうまく折り合いをつけていける人がいるものだ。
Posted by ブクログ
自らのための備忘録
函館市文学館の佐藤泰志コーナーに展示されていた、彼の中学生の時に書いた作文を見て、是非とも読んでみたい!と思ったら、「そこのみにて光輝く」に聞き覚えがあって、そういえば家のアマプラで見たマサキッスの出ていた映画だったと思いました。そこで映画をもう一度見直して、それから本書を読みました。
映画と原作の違いについては、映画のところでも書きましたが、拓司のイメージは菅田将暉とはかけ離れている人物のはずなのに、どうしても映画を先に見てしまったので、人物のイメージが映画の配役に引っ張られてしまいました。また、千夏も原作を読むと池脇千鶴というよりは、もう少し大人びた女性のイメージでした。但し、主人公達夫は綾野剛でぴったりだと感じました。
先に映画を見たせいで、第一部の「そこのみにて光輝く」を読み終えた時、あれ? これで終わり? と思い、いかに自分が映画の後追いをしようとしていたのかと感じてしまいました。こんなことでは「読書」したとは言えないと反省しました。
映画は映画で脚本も素晴らしかったのですが、そうは言っても、やはり2時間で表現できることには限界があり、原作の渇いた文章が、達夫の危うい存在自体を描き出しているのには感服しました。
映画のところでも書きましたが、取ってつけたような山の事故のトラウマなど、達夫の存在そのものの危うさに比べれば何ということもないと感じました。
私にとっては、本書で初めて出逢った「和江」の存在が素晴らしいと感じました。達夫は、(綾野剛が演じていることもあって)こちらから声をかけた女は必ず落とせると思っている節があって、昭和はそうだったかも知れないけど、令和の若者なら「断られたらどーしよー」などと思ってしまうのではないかなどとつまらないことを考えながら読みました。
映画では火野正平が演じていた松本ですが、原作の松本は、私自身がちょっと付き合ってみたくなるような魅力的な人物でした。
佐藤泰志は、今までどうして知らなかったのかと思うほど好きになった作家なので、これからは、先に原作を読み、それから映画を見ていこうと思いました。
Posted by ブクログ
三浦哲郎以外の作家をひさしぶりに読んだ。
そのせいかはじめのほうは文章に澱みを感じた。
作品世界に入り込む前だからというのももちろんある。
ただ第二章から一気に駆け抜けるように読めた。出てくる人がとにかくいいな。全員いい。女性には甘美な魅力が詰まっており、男性には若さと実年齢の狭間で揺れているような、それこそ心を感じる。
問題もあるはずなのだけれど、こんな小説に死ぬほど憧れる。
Posted by ブクログ
海岸沿いの北方の小さな街での孤独な男が百円ライターがきっかけで出会う貧困と堕落した家族との物語
この小説は2部構成になっており1部は造船会社でリストラに会って間もない孤独で無職の達夫と貧乏暮らしでバラック小屋に住んでいる拓児と姉千夏と母親、痴呆の父親の4人家族に出会って何故かこの家族に惹かれてゆく達夫、特に娼婦である千夏に愛情を抱き初める、千夏は離婚暦があり夜の仕事で疲れ果て家族だけの為に生きていると割り切っているが達夫の事が気になり始める。
そんな二人の心からの遣り取りが夏の海岸と相まって実に鮮やかに描かれている。まさに”そこのみにて輝く”のは社会的にはちっぽけな存在である千夏と達夫の小さな愛です。
2部では二人が結婚しつつましくも暖かい家族を築いてゆく、弟拓児にも慕われ、平和で単調な生活にある時から達夫は水晶を掘る山仕事に興味を持ち始める。
有名な作家ではありませんが、この小説は人と人の出会い、心の深層にあるもの、その描写が実に鮮明で輝いている。登場人物や背景に読者をぐっと惹きつける魅力が有ります。
Posted by ブクログ
作家が表現したいことがどんなにいびつなものでも、情理を尽くして語ることで、小説を小説たらしめることができるのだなぁ、と思う。
主人公のスカシ具合とか、読みづらい短文の連続とか、世界のとらえ方は私の知っている世界とは違うが、この小説には読ませる何かがある。
それが何かが言えないところが、小説を小説たらしめているものの証明だと思う。
これこれ、これが良いのよ、みたいなものが言えてしまうというのは、かえって小説らしさから遠ざかると思う。
ゆえに、この小説は、実に、小説らしい、小説の存在意義の塊、みたいな小説だと思う。
Posted by ブクログ
2.5年前に映画を見た。以下感想を引用。
@
はらわたが切り裂かれるように痛い映像だ。主人公の達夫は、自罰的にぼんくらな生活を送っている。やんちゃな拓児に出会い、貧困と介護(父のオナニー手伝いまで)に疲労する千夏と出逢う。体を売っている店もばれ、情夫がいることもばれ、それでも互いの傷に惹かれあい。生活を立て直そうとするのにこんなにも身動きがとれない。
浜辺の朝日のシーンなど映像の美しさももちろんだが、脚本の鋭さも。「女の顔して」「もとから女ですけど」とか、発破の作業中に部下をひとり死なせてしまったと告白する達夫に、「だから自分みたいなのと付き合うんだね」と言ってしまう千夏とか。
原作者は春樹と同年代、中上健次の嫉妬被害を受けたとか。春樹の孤独よりも佐藤泰志の孤独に共感をおぼえる。
@
以上、引用。ところで生年を調べてみた。佐藤は1949年生まれ。
1900生……足穂。
1909生……太宰。
1925生……三島。
1928生……澁澤。
1934生……筒井。
1935生……大江。
1941生……宮崎駿。
1946生……中上。
1948生……森山良子、笑福亭鶴光、たかの友梨、鈴木宗男、都はるみ、五木ひろし、いしだあゆみ、加藤典洋、沢田研二、大瀧詠一、角野卓造、きたろう、井上陽水、あがた森魚、糸井重里、舛添要一、谷村新司、錦野旦。
1949生……佐藤、春樹、高野悦子、野家啓一、亀山郁夫、加奈崎芳太郎(古井戸!)、市村正親、武田鉄矢、風間杜夫、萩尾望都、岸部四郎、間寛平、川上健一、芦原すなお、矢沢永吉、堀内孝雄、北村薫。
1950生……でんでん、伊集院静、竹宮惠子、友川かずき、志村けん、奥田瑛二、三上寛、舘ひろし、和田アキ子、原田千枝子、いがらしゆみこ、矢代亜紀、大和田獏、佐藤良明、梅沢富美男、由美かおる、遠藤ミチロウ、生島ヒロシ、奈美悦。
1952生……村上龍。中島らも。
1953生……森田童子。
1958生……わが父。
1960生……わが母。
1983生……私。妻。
2016生……娘。
@
見比べた結論を言えば、中上に父母を重ねて見ていたのは、随分な間違いだった。
また、中島らもは意外と若手だった。
らもにとっての兄貴が佐藤で、佐藤および春樹にとっての兄貴が中上。
こう考えてみれば、大江がここ5年ほど新作を発表していないのもむべなるかな。
大江および宮崎駿が「ヤメルヤメルサギで作品の価値を保つ」戦略を採るのも、まあ。
私が直接触れる父母は意外と、憧れる作家たちと隔絶しているのだなあ、と驚き。
@
いってみればわが父母が成人し独立したころに、主に社会を作っていたのが、戦後数年生まれの人々だ。
僕の父母にとって、中上、沢田研二、春樹、萩尾望都、村上龍、らも、らは兄や姉であり得たのである。
かくして得た世代感覚は、また更新しつつ保ちつつ、していこう。
高野悦子やら森田童子やらの残したアクチュアルな言葉は、忘れがたい。
ところで本作の感想を再度記すが。
@
「そこのみにて光輝く」は青春の終わり際の輝き。
《荒れた心が四箇、ひしめきあっている》《どうでもいい、あいつはもう俺の友達だ、そう決めた》《こんな女でいいの》《どんな女だ、今さら遅い》《あたしの家族……。何でもないわ、そのくらい》
端正な言葉づかいが生む抒情に、つい涙腺に来てしまう。
@
「滴る陽のしずくにも」は終わった青春への挽歌。
子も産まれ家族を持っても、自分を持て余す(と達夫は拓児を観察するが、実は自分自身のことだ)。
青春を再現するように女と寝たり、自分の数年後のような松本と出会ったり(反復のモチーフ)する中で、続く世代の中間にいる自分を想う。
《本当は、あんたは満たされていないだろう》《まるで取り残されたように感じた》《心はきまった。俺は松本と共に山へ行く。もう、ここへは来ない》《やあ、といって結婚して、じゃあ、といって別れた。それだけだよ》《波打ち際のナオと、今ここにいる達夫とのあいだの距離に、彼ら(拓児も松本も、彼の前の女房も、千夏も義母も、夫の転属先にいる妹も、死んだ両親も)はそれぞれの姿で、確かにいた》
@
決して近くはないが、なぜか「ファイブ・イージー・ピーセス」を連想したりもした。
スカした綾野剛と、じりじりぎらぎらなジャック・ニコルソンと、どちらでも脳内再生できる。
@
青春にどっぷりではいられない、しかし完全に割り切った大人というわけでもない、こんなに自分の現在にしっくりくる小説だとは。
@
ところで中上を引き合いに出して語る人がいて、気持ちはわからなくもない。
確かに中上の初期は似ていなくもない、路地とか部落とかいう文脈も。
しかし本作と較べることで、むしろ中上が意識的に自伝を神話化=文学化していたことがわかった。
Posted by ブクログ
海炭市叙景で感じた文体の瑞々しさとは、
また少し違った眩さ溢れる作品。
一文の短さや、
出来事の始まりを回想で蘇らせることで、
特別な瞬間として装飾する方法や、
限りなく内的な移り変わりなはずなのに、
景色で語られるその心情やらが、
すべて抑制的なのに、
夏の光、冬の光、
生々しい底に?
もしくは底から?
薄くても差し込むその光が、
闇を浮かび上がらせながらも、
やはりその先の希望を影絵のように映し出す。
日常性と、非日常性。
安定性と、不安定性。
固定と、流動。
光と、闇。
そのなかに漂い続ける、
あなたと、わたし。
出会いに堕ちていくような一瞬が放つ、
潮の香りと波音に、
人間の本質を見る。
ずっと、薄い日差しのもと、
浜辺にいるようなのだ。
Posted by ブクログ
纏わりつくような閉塞感と退廃的な空気を感じるのに、不思議と嫌な感じは受けなかった。そこにしか行き場がなかった人達が、そこで家族を作る。
その気になれば、町を出ていくこともできたかもしれないのに。
外に光を求めずに、自らの中に光を見いだしたかったのか、そうせざるを得なかったのか。生きることのひたむきさを感じた。
2章での、とどまることを選んでも尚、新しいものを渇望し、揺れ動いている達夫の人間臭さも好きだった。
Posted by ブクログ
始めは文体に馴染めなく読み進めるのに苦労したが、段々と焦点があってくる感じがあり、半分くらいから最後までは一気に読めた。慣れるとこの文体が心地よかった。終始ヒリついた内容だったけど、嫌いじゃない。水々しい生々しい表現が非常に良い。嫌いじゃないけど嫌いな人もいるだろうな。オーバーフェンスもきみの鳥はうたえるも映画は見たので原作を読んでみようとおもった。
Posted by ブクログ
「とっつきにくい文章だなあ」というのが最初の印象。“文章が重い”とでも言えばいいか。
しかし、読んでいるうち、慣れてくる。
徐々に、心地よい温度に感じられてくる。
決して個性のある文章、文体ではないが、情景描写が徹底されている。いや、風景描写といったほうが相応しいかもしれない。絵を見せるような描写である。
この土地への作者の強い思いが、ここに表れていると思った。
私にとっては、魅力的な人物は出てこなかった。ある程度小説を読んでいる人なら、みたことのあるような登場人物たちである。
しかし、そんな人物同士が出逢ったときに生まれる物語は随一である。
人ではない、人と人の出逢の物語を書いている。
最後に。
松本の元妻は、特に登場させる必要はなかったんじゃないか。何か意図があったのだろうか。ちょっとわからなかった。
Posted by ブクログ
10年近く前に映画を観て、ずいぶん暗くて行き場の無い街と人々だな、と感じた。函館行きを前に佐藤泰志「海炭市叙景」を読み返したのに続き、こちらも読んだ。映画の物語は忘れていて千夏が魅力的だったことだけ覚えてる。小説の中でもおんなじだ。炭鉱、造船所、歓楽街、競輪場、刑務所、と楽しみにしている函館旅行がますます魅力的になるキーワードであふれているな。そんな情景を描くのが上手だし、さらに後半の松本に惹きつけられることに驚く。ほんの少しの描写で松本(および元妻)を魅力的に際立たさせる、相当の筆力だよ。もっと早く評価されるべき作家だったな。残念。
Posted by ブクログ
映画を先に見たので、登場人物全員に演者さんたちを重ねて読んでしまったのが、惜しかったなあと思った
こういうのって本と映画どちらが先がいいのだろう、、
それでもやはり、千夏は魅力的な女性だと思う
Posted by ブクログ
千夏と達夫の距離感も、達夫と拓児の距離感もすき。
映画観た後での原作だったから、結構キャラクターイメージが違ったなあ。拓児は、菅田将暉みたいにガリヒョロではない。
Posted by ブクログ
ずっと読みたかった佐藤泰志作品。終始暗鬱としているけど、ねばついていない独特な雰囲気。結末がまったく読めず、読み進めたい気持ちと読み進めるのが怖い気持ちがずっと介在していた。
達夫も拓児も千夏も、妹も松本も、全員が人に愛される要素がある人柄なのに、どうしてこうも一筋縄ではいかない世の中なんだろう。血の繋がりがなくても、家族、友人というのは一生をかけて大切にしたい、すべき存在だと改めて教わりました。
作中で、若さに対するこだわりみたいなのがちょくちょく垣間見れた気がするけど、著者の思想なのかな。年老いたこの家族の姿というはどうなるのか、想像したい。
Posted by ブクログ
第一部「そこのみにて光輝く」は息を張りつめたような若さがある。くっきりした登場人物像たちの描写がうまい。特に中心の「達夫」と「千夏」がいいなあ~暗さの中にキラキラしたものがある感じ。
「千夏」の弟「拓児」に誘われて「達夫」が訪ねた家は、開発に取り残されたようなちいさなバラック小屋だった。両親と姉弟が住んでいるその家は、生活・生きざままでもが壊れてすさんでいるようだった。しかし、そこには家族の強い矜持があったのだ、と思いいたる導入部に惹きつけられる。
若くてなにものかに飢えている「達夫」が「千夏」とそれからたどる恋の道筋はすごくいい感じだ!!
けれども、第二部「滴る陽のしずくにも」の二人のその後になると、おや?と思わされる。それは「千夏」があまりにも後ろに下がり過ぎて影薄い。伝法な「千夏」が普通に閉じ込められてしまったようだ、至極残念。
Posted by ブクログ
函館のサムライ部落で、格差社会の底辺で暮らしながらも、女千夏には、芯の強い輝きを見出し、男が引かれていく。映画版の拓児役の菅田将暉が好演。ねっとりとした筆致で、通い合うものを描く。6たび芥川賞の候補になった。小林信彦も宇江佐真理も村上春樹も賞に縁がなく終わった。
Posted by ブクログ
男と男、男と女。
ふとした出会いがかけがえのないものになる。
うらぶれた海辺の町で、流されるように生きていたおとこがえ、生を掴むまで。
しょっぱい風の中に、まばゆい光が満ちる。
Posted by ブクログ
我が故郷函館出身の、不遇の小説家。
正直、映画化などで再度脚光を浴びるまでその存在を知りませんでした。
小説の方では、映画でのエンディングのその先も描かれていますが、私は映画のほうがいい終わり方だったと思っています。二人の「光(未来への希望)」のピークで終わっているから。
Posted by ブクログ
時代は70年代頃か。舞台はおそらく函館。衰退する地方都市の陰鬱な空気が漂う。
造船所を退職した達夫は、パチンコ屋で出会った拓児という男を介して、最底辺の暮らしを営む一家と出会う。認知症で動けないが性欲だけは衰えない父の相手をする長女の千夏と、達夫は恋に落ちる。千夏の元夫の暴力にも耐え、千夏と結婚する。拓児からは兄と慕われる。義父の死によって負担から解放された一家は、達夫と千夏の間に娘もでき、裕福ではないながらも、平穏で幸せを見据えられるようになる。
水産加工場で退屈な日々を送る達夫は、拓児がつれてきた松本という男に誘われて、鉱山で働くことを決意する。半年は妻子の元を離れなければならない。拓児は傷害罪で服役してしまった。それでも一家は淡々と、未来へと進んで行く。
どぎつい状況から抜け出す第一部。
平穏なまま未来へ進む第二部。
衰退する街を含め、悪いことがないわけではないが、以前と比べれば確実によくなっている手応えがある。
Posted by ブクログ
海辺のその街で実際に登場人物たちが暮らしているかのように感じる。
それは、こういう人で、という説明はないのに、いつの間にか登場人物たちがそれぞれの個性を持ってわたしの中に存在しているからかもしれない。
そんなふうな描かれ方。
Posted by ブクログ
仕事を辞め、曖昧に生きていた達夫がパチンコ屋で出会った拓児。
百円ライターをあげた事がきっかけで拓児の住む家に行くことになる。そこはサムライ部落と言われるバラックだった。
深く関わらない方がいいと思っていた達夫だったが拓児の姉千夏に惹かれていく。
高齢の母、寝たきりの父と刑務所上がりの弟との暮らしの為に身体を売っていた千夏。
終始どんよりとした雰囲気だったが、言葉にしなくても惹かれあっていく達夫と千夏や、家族思いの拓児の無邪気さには引き込まれて行った。
閉鎖的な環境から抜け出したいのに抜け出せずに、だからと言ってやりたい事も解らずに、ただ歳をとって行く。
そういう大人を見て私も地元を離れた一人だ。
初作家さんだが、41歳の若さで自死されてしまっていることを知った。
他の作品と映画も観てみたい。
Posted by ブクログ
陽の当たらない『そこ』でそれぞれ生きる登場人物たち。
全体的に暗い雰囲気がずっと続きますし、決してハッピーエンドでもないですが読み終わった後何故か不思議と引きずることなくむしろ清々しい気分になりました。
結構生々しい描写があるので嫌いな人は嫌いかもしれません。
Posted by ブクログ
パチンコ屋で男と出会うところから始まる主人公の人生
話の展開はそれなりに楽しめました
内容はあまり書かないほうがいいと思いますが
もうちょっと続いてほしかったです
Posted by ブクログ
数年前に、映画化されて話題になっていたのを知っておりまして、それで読んでみよう、と思い手に取った次第です。映画の方は、まだ未見です。池脇千鶴、凄い好きなんですよね、、、映画の「ジョゼと虎と魚たち」が、ホンマにもう、大好きで仕方ないのですよね。おっといきなり話がそれているじゃん。いかんいかん。
で、ある程度読み進めていた状態で「ふーむなるほどねえ、こんな感じなんだねえ」と思いながら、なんとなく、小説の最後の方の部分をチラッと見ましたら。すげえビックリしました。
「この小説、1985年の作品なんだ!!」
と、そこで初めて知りまして。
映画化されたのが、結構最近だった記憶があったので、てっきり、2000年以降になって、書かれた作品だと思ったのです。まさか、1985年とは!ビックリだ。ホンマにビックリしました。
読み進めていて、全然、「この作品、えらく古臭いなあ、、、」って思い、全然感じなかったんですよ。携帯電話は出ないよね。パソコンも出てこないねえ。くらいは感じたので、てっきり、2000年代に書かれた、1970~80年ごろ?を舞台にした、作品なのだろうなあ、くらいに思いながら、読んでいたのです。まさか、マジで、まあまあ昔に書かれた作品だとは。全く、分からなかった、、、
そういう意味では、不思議に思ったのは「ある作品が、古臭いと感じるか?抜群に新しいと感じるか?の違いは、いったい何処で感じれば良いのか?」という事を教えてくれた作品ですね。不思議です。自分には、マジで、この作品が1985年に書かれたものだとは、全く、分りませんでした。
これが、映画や、漫画や、音楽だったとしたら、ある程度、分かると思うんですよね。ある程度、ですが。
「ああ、なんとなく、映像が古い気がする。なんとなく、絵が、古い気がする。音が、昔っぽい気がする。昔の作品だな。多分、多分だけど」
というのが、わかりやすい、気がするのです。でも、小説で。完全に、字だけを相手にして、その作品が、いつの時代に書かれたものか?ということを、大体でも把握すること。それは、可能なのや否や?と、思ったのですよねえ。
小説としては、こういう、ジメッとした感じ、嫌いではないです。うむ。日本の小説。という感じ。ただ、不思議なのは、個人的な受け止め方ですが、決して、絶望に振り切れていない感じを、読んでいて感じた事。間違いなく、こう、現実的には悲惨な境遇であろうし、人生ままならぬ、、、という物語の進行具合ではあるものの、なんだろう。決してこう、ドン詰まり感は、ない。
「そこのみにて光輝く」
というのは、
「其処のみ」なのか?
「底のみ」なのか?
どっちだ?と思いつつ、なんだろう。決して滑稽ではない、不思議な、明るさを、感じる作品なのだなあ。そう思うんですよね。
Posted by ブクログ
同名映画を観てから読んだ。これは映画の方が確実に良い。原作は1センテンスがかなり短めの文章で淡々とした印象。主人公の二人も映画のイメージが強く、少し淡白に感じてしまった。しかし、映画の続きと思われるストーリーも語られており、セットで悪くない。
Posted by ブクログ
久し振りに、こんな本を読んだかな。純文学作品なのだろうか。
大衆小説が読みなれているが、この作品はスラスラ読める。
しかし何が言いたいのか考えみると、どん底でも踏ん張って生きている家族に、色んな愛を忘れた男が介入していく物語。
その中で起こる事は、かなり現実的なのではないのだろうか。そう考えると、今の私の生活はかなり幸せなのだろうと思った。
Posted by ブクログ
ぬめぬめしている。腐った魚の死体がぷかぷかしている川の上に夕日が落ちるような、夏の夕方のべたべたした感じ。今よりマシになりたいと思ったら何かしら選んで嫌でも捨てていかなきゃいけないんだろうけど簡単に捨てられるものばっかりじゃないから捨てられないゴミが腐っていく。捨てたらもう見切りつけるしかないのにうだうだしてると今度自分が腐るな〜っていう小説だった。
Posted by ブクログ
行きたかったのに映画を見そびれたので、まず小説から読もうと手にとった。
映画の予告動画を見ての印象を持って読み始めたのだが
どうも映画のあらすじと比較すると、映画は結構設定を変えているようだ。
全体に漂う倦怠感は心地よく感じる部分もあり
注意深く具体的な名称を出さないが、分かる人にははっきりとわかる
町の描写もあるが
けして自分の知っている函館の姿ではなかった。
共感出来る人物も個人的には出てこず、
あまり最後まで入り込んで読めないままに終わってしまった。
強いて言えば松本が気になった程度。
原作どおりで、二部まで描いてくれるなら映画も興味があるのだが
そうでもなさそうな気もして映画を見るのにも少し二の足を踏んでいる。