あらすじ
真理の最高決定機関であるはずの理性が人間を欺く二枚舌をもつとしたら、一大事ではないだろうか。この理性の欺瞞性というショッキングな事実の発見こそが、カント哲学の出発点であった。彼の生涯を貫いた「内面のドラマ」に光をあて、哲学史上不朽の遺産である『純粋理性批判』を中心に、その哲学の核心を明快に読み解く。
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Posted by ブクログ
世界は存在しない!時間や空間はない!
相対性理論や量子論などが発見される前に脳の中の思考のみで宇宙の真理にたどり着いたカントがすごい。
カント曰く時間や空間はないものであるということだ。あるとも言えるしないとも言える。ただし絶対的な意味での時間や空間というものはない。 人間から見た時に初めて時間や空間というものがあると言える。 人間は時間と空間に縛られているのであたかも絶対的にあるものと思い全てを考えてしまう。この理性をカントは批判している。これが純粋理性批判である。
どうやって時間や空間がないものであるかを証明したかと言うと、
①もし時間が無限であるとすると、私たちが感じている今この瞬間というもの以前にも無限の時間が経過していることになる。無限の時間ということは一生たどり着くことのない時間という意味である。それなのに現在という完結した時間がある。そこに矛盾が生じる。 無限なのに辿り着いているからである。つまり時間は有限である。
②もし時間が有限(始まりがある)であるとすると、その始まり以前には空虚な時間があることになる。何もないところから何かが生じることになる。無から有が生ずることだ。 これはあり得ないことなので、それにより時間は無限であるということになる。
これにより時間は有限でもあるし無限でもあるという矛盾を生じる。時間があるものとして極地まで思考を飛ばすと矛盾を生じる。つまり時間はないのだ。
しかし人間は時間と空間があるものとして世界を認識してしまう。よって人間の理性というものが信用できないということをカントは発見した。
このように極地まで話題を持っていくと理性や言語そのものが矛盾を生じることになる。 日本から見れば北極は北の方角だがもし北極点まで行けばもう北という概念は成立し得ない。所詮言葉も人間が作り出したものなので万能ではないのだ。つまり絶対ではない。 北極点まで達した時点で北という言葉の存在が 怪しくなる。
カントは人間が三次元四次元までの世界に縛られていて、それより高次の次元については思いも至らないということに18世紀に気づいている。
アインシュタインは数学によって時間や空間が絶対的なものではないことをを発見し、カントは言葉によって時間や空間が絶対的なものでないことを発見した。
また、知性の種類を分解していくことによりダーウィンより先に進化論を発見していた。
Posted by ブクログ
ヒュームの著作と純粋理性批判を読みたくなった♪
カントがヒュームとルソーに大きなトリガーを得ていたなんて・・・どちらも自分の好きな思想・理論の持ち主だったので、なおさら衝撃的でした^^
因果律として捉えるメカニズムって、本当にア・プリオリなのでしょうか?ん~、純粋理性批判を読もう!(^_^)
Posted by ブクログ
ウィトゲンシュタイン以外の哲学も勉強していかなきゃなー、ってことでまずはカントから。
いや、他にも手は出しているんだけど、自分の思想的に近いところからまずは…。
入門、と名された本書で確かにわかりやすいとは思うんだけど、『純粋理性批判』の部分しか十分に理解できたと言えないかも。
カントの言う「純粋理性」とは、つまり私達は世界の何を正しく知れているのか?という問い。そもそも知覚などの感覚から得ている情報しか知り得ない以上、私達が外界の情報を何も歪めず知ること(認識すること)は出来ない。
これを難しく言うと「物自体」なんてワードが出てくるわけだな。時間や空間を前提に私達は物を認識できないのに、「物自体」はそれを超えた場所にあるかも知れない。「神」も同じように、仮の答えを出すことはできるかも知れないけれど、それはあくまで私達にとっての答え。計算式に使う前提が歪んでいるのに、どうしてそれが正しい答えと言えるのか?
こう考えるとウィトゲンシュタインの「世界の限界」は出発点は違えど、形式は似ている気がするね。
うん、まぁ2,3割くらいしか理解できなかったのでまた再挑戦だな。
Posted by ブクログ
通常「善」とされている諸々の徳はつねに相対的であり、この善意志を欠けば容易に悪徳に転じる。その証拠に、たとえば「勇敢」という徳も「沈着」という徳も、悪人――たとえば計画的殺人や銀行強盗――にとってはひとつの犯罪を首尾よく遂行するための不可欠の条件なのである。通念ではこれらすべての徳が「善」とされているのは、それらが通常はすでに(暗黙のうちに)善意志を前提にして考えられているからにほかならない。たとえば、わが身の危険をかえりみずに激流に飛び込んで人命を救助する行為を「勇敢」と称するとか、不時着した飛行機のスチュワーデスが乗客を適切に誘導したことを、「沈着」と称賛するように。すなわち、通常の徳は善意志込みで語られており、それゆえにこそ、またそれゆえにのみそれらは善なのである。このことからも、善意志がやはり徳を真に徳たらしめる条件であることがわかる。
ところで、カントは善意志というふくよかな概念を、一転して「義務」という厳しい概念でとらえる。したがって、カント倫理学の出発点をなす善意志は、ふくよかではあるが、同時にやっぱり厳格なのである。なぜそうするかというと、カントによれば善意志は義務という概念に凝縮しているからであるという。このことからも、カントのいう善意志は、よく口にされる安易な「善意」とは異なることがわかる。いわゆる「善意」には快感が前提され(「喜んで〜する」)、場合によってはそれが目的とされるのに対して、義務には少なくとも直接には快感は前提されないし、目的とされることもない(結果としての喜びや充実感をもたらすことはあるが)。この事情を理解するためには、ひとつの思考実験をしてみればよい。そして実験とは、事情をわかりやすくするために、極端なケースを想定して行われるのがよい。今の場合もそうである。なんの不自由も障害もない場合、善はひょっとして快感から実現されることもあるであろう。しかし、一切の利害を離れて、逆境にあってもなお(すなわち、場合によっては自分に災厄がおよび来たろうが)、善を実現するためには、少なくとも有限な人間にとっては、大なり小なり義務感(快感とは逆の感情)が前提され、それをもって臨む以外にはないのである。このことからも、善意志を義務の概念に還元するカントの意志は理解されうる。
われわれにでき、また為すべき唯一のことは、幸福になることではなく、ただ道徳性(徳)の研鑽によって幸福に値する人間になることである、と。道徳が答えられるのはそこまでである。もちろん、だからといって、道徳性が幸福を約束するわけではない。道徳性は意志に懸かっているが、幸福の実現性には意志を超えた無数のファクターが控えているからである。それゆえに、幸福は「希望」に属する問題であり、宗教に託される以外にないものである。そのとき、希望は「信仰」という意味になる。