【感想・ネタバレ】カント入門のレビュー

あらすじ

真理の最高決定機関であるはずの理性が人間を欺く二枚舌をもつとしたら、一大事ではないだろうか。この理性の欺瞞性というショッキングな事実の発見こそが、カント哲学の出発点であった。彼の生涯を貫いた「内面のドラマ」に光をあて、哲学史上不朽の遺産である『純粋理性批判』を中心に、その哲学の核心を明快に読み解く。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

人間の理性は究極のものについて問うように出来てるし、誰しもがそのように突き動かされるのに、その答えを出すことができないという理不尽な運命のもとにあるので、それを哲学者カントが解決したという話。カント哲学の始まりと、最後の宗教批判という本書のテーマまでは繋がっている。カントはとにかく難解で有名?なので本書を読んでおくのはありだと思う。

「空間と時間はわれわれの感性の本質的形式であり、またそもそもわれわれに対して対象が与えられ、その一般的制約が必然的に同時に現象としての感官の一切の客観の可能性のアプリオリな諸制約であり、それゆえこれらと合致しなければならない直観の受容性の本質的形式であるからだ」カント『純粋理性批判の無用論』


カントを何も知らないけど、これがなんのこと言ってるのか分かったなら本書は読まなくて大丈夫。私は本書を読まなかったらまだ理解できてなかったと思う。カント支持者のポパーでさえカントは難解すぎると苦言を呈するぐらいなので、当時から多くの誤読者を生み出し、論争に巻き込まれた。



究極の問いとは神はいるのかいないのか、死後の世界はあるのかないのか、自由による因果性はあるのかないのか、こういったもの。答えが出ないのになんで人間は究極について問うように出来ているのだろうか、カントはそう考えた。そこでまず、時間や空間は物それ自体の性質ではなく、人間の感性の本質的形式だと洞察した。平たく言うと時間空間は人間の思考上の道具みたいなもので、この道具により与えられた素材が、カテゴリー(本書108ページ)によって処理されて初めて、一定の意味ある意識が成立する。逆に言うと、この道具を当てることができない究極のもの、神とか魂とかただ想像するしかできない、現実世界に存在しないものに無理やり当てようとすると、神はいるともいないとも言えるような自己矛盾に陥ってしまう(自分の都合のいいように言えてしまう)。これが答えを出せなかった原因だった。これがアプリオリであると言われる。アプリオリとは人間にとって根源的であるという意味。神のおかげで人間の理性が働いているのではなく、また経験的にそのような能力を編み出したのではなく、最初から根源的にこの感性と知性の共同作業を行うことができる。このことを超越論的観念論と名付けた(ただしこの名称のせいでカントは物理的な物の実在性を否定し、それを単なる観念として放棄したと誤解されることになった)。

自由という究極について問うても自己矛盾に陥ってしまう。それでカントはある条件のときにのみ、人間は絶対的始め、究極である自由な決断を下すことができると洞察した。それは、〇〇のために良い人のように振舞うといった一切の報酬や打算を拒否した無条件の道徳的命令でしかありえなかった。この時にのみ人間は絶対的始めをである自由を行使することができるし、それはまるで神のようだった。絶対や究極といった単語はただ想像することしかできない、現実世界ではとらえることはできないのに対し、無条件の道徳的命令はなぜそれが無条件であるのか根拠は示せないが、とにかく人間が行使できる。人間が神のようだし、そこに道徳法則への尊敬の念が芽生える(158ページ)。

ここまで来ると、宗教がどういうものなのか分かる。カントは人種も性別も関係なく全人類が同じ様に感性と知性の共同作業をアプリオリに行い、また同時に全人類が無知であると洞察した。これは、全人間を尊敬するようになったルソー体験と呼ばれている(61ページ)。全人間を尊敬し、宗教とは道徳という条件を満たした場合にのみ宗教となる(216ページ)。神の存在を信じられるようになるのは、無条件の道徳法則によってのみ。死後の世界があると確信できるのは、現実世界ではいくら道徳的完成体を目指そうと不可能なので(〇〇のために道徳的に振舞うはアウト、しかしそれだと幸福と道徳の一致という道徳的完成体にはなれない)、それは死後、魂だけになって神のいる天国に行き、神の助力を得るときにのみ可能となることで。ここから、宗教にまつわる争いの解決の糸口が見える。宗教の争いはたいてい「うちの宗教だけが真の宗教であとはニセモノだ」と主張する宗教者が他宗教を恐怖や暴力、時には殺人によって迫害しだすときに起きる。しかしそれは「他人に迷惑をかけてはいけない」という全人類に共通で一番基本的な定言命法を破っている振る舞いであり、他の人間も尊敬しておらず、そのことによって自分こそ偽であることを露呈させている(石川文康『カントはこう考えた』)。彼らは神のためを思って人を殺してるようだが、殺人など道徳的完成体を目指しなさいと言ってる神への最大の侮辱行為だと分かる(宗教とは形而上学として全て平等であり、最初から特権的な地位にある宗教などない。全員が同じスタートラインに立っており、あとはどれだけ道徳的に研鑽できるかで差がつくだけ)。これこそまさに『単なる理性の限界内の宗教』でカントが批判した狂信であり、時空というものさしが通用しない神に対して思弁をたくましくした結果、自分の都合のいいように神を解釈してるのは『純粋理性批判』で指摘されたことだった。いくら宗教とはいえ批判を許さないと本当に宗教は人類にとって争いを生むだけの害でしかなくなる。全員が「うちの宗教こそ真だ!」と主張できるのだから。どれだけ神や偉い預言者を持ち出そうと、それだけで道徳的に正しいことにはならない。人間一人ひとりが自分の無条件道徳律に照らし合わせて、その神や預言者を敬っていいか判断しなければならない。たとえ神であろうと人間による批判は免れない(そのような検査は人物の威信など気にもとめない『純粋理性批判』B766,B767)(本書237ページ)。最後の審判ではなく、人間の審判に神や預言者は出頭しなければならない。これはとてつもない大逆転だ。これは一般的に「コペルニクス的転回」と呼ばれている。そして人間がどんな権威であろうと恐れず自分で考える、これが啓蒙。これができるためには言論の自由が認められなけらばならないが、安全が確保されない国では不可能だからだ。そして、人間理性に差はなく全員が間違い得るし無知であると洞察すれば、必ず他者の助けが必要になるのでお互いを信頼しあえるようになる。そのような言論の自由が認められた安全な国どうしが結束し合えば、永遠平和も夢ではないのではないか、これがカントの壮大な物語。逆に、他者を信頼せず自分は何でも分かっていると驕った人物が独裁者(理性への反逆)

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2026年04月11日

Posted by ブクログ

ネタバレ

世界は存在しない!時間や空間はない!

相対性理論や量子論などが発見される前に脳の中の思考のみで宇宙の真理にたどり着いたカントがすごい。

カント曰く時間や空間はないものであるということだ。あるとも言えるしないとも言える。ただし絶対的な意味での時間や空間というものはない。 人間から見た時に初めて時間や空間というものがあると言える。 人間は時間と空間に縛られているのであたかも絶対的にあるものと思い全てを考えてしまう。この理性をカントは批判している。これが純粋理性批判である。

どうやって時間や空間がないものであるかを証明したかと言うと、
①もし時間が無限であるとすると、私たちが感じている今この瞬間というもの以前にも無限の時間が経過していることになる。無限の時間ということは一生たどり着くことのない時間という意味である。それなのに現在という完結した時間がある。そこに矛盾が生じる。 無限なのに辿り着いているからである。つまり時間は有限である。
②もし時間が有限(始まりがある)であるとすると、その始まり以前には空虚な時間があることになる。何もないところから何かが生じることになる。無から有が生ずることだ。 これはあり得ないことなので、それにより時間は無限であるということになる。

これにより時間は有限でもあるし無限でもあるという矛盾を生じる。時間があるものとして極地まで思考を飛ばすと矛盾を生じる。つまり時間はないのだ。
しかし人間は時間と空間があるものとして世界を認識してしまう。よって人間の理性というものが信用できないということをカントは発見した。

このように極地まで話題を持っていくと理性や言語そのものが矛盾を生じることになる。 日本から見れば北極は北の方角だがもし北極点まで行けばもう北という概念は成立し得ない。所詮言葉も人間が作り出したものなので万能ではないのだ。つまり絶対ではない。 北極点まで達した時点で北という言葉の存在が 怪しくなる。

カントは人間が三次元四次元までの世界に縛られていて、それより高次の次元については思いも至らないということに18世紀に気づいている。

アインシュタインは数学によって時間や空間が絶対的なものではないことをを発見し、カントは言葉によって時間や空間が絶対的なものでないことを発見した。

また、知性の種類を分解していくことによりダーウィンより先に進化論を発見していた。

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2018年12月29日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ヒュームの著作と純粋理性批判を読みたくなった♪
カントがヒュームとルソーに大きなトリガーを得ていたなんて・・・どちらも自分の好きな思想・理論の持ち主だったので、なおさら衝撃的でした^^
因果律として捉えるメカニズムって、本当にア・プリオリなのでしょうか?ん~、純粋理性批判を読もう!(^_^)

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2015年04月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ウィトゲンシュタイン以外の哲学も勉強していかなきゃなー、ってことでまずはカントから。
いや、他にも手は出しているんだけど、自分の思想的に近いところからまずは…。

入門、と名された本書で確かにわかりやすいとは思うんだけど、『純粋理性批判』の部分しか十分に理解できたと言えないかも。

カントの言う「純粋理性」とは、つまり私達は世界の何を正しく知れているのか?という問い。そもそも知覚などの感覚から得ている情報しか知り得ない以上、私達が外界の情報を何も歪めず知ること(認識すること)は出来ない。
これを難しく言うと「物自体」なんてワードが出てくるわけだな。時間や空間を前提に私達は物を認識できないのに、「物自体」はそれを超えた場所にあるかも知れない。「神」も同じように、仮の答えを出すことはできるかも知れないけれど、それはあくまで私達にとっての答え。計算式に使う前提が歪んでいるのに、どうしてそれが正しい答えと言えるのか?

こう考えるとウィトゲンシュタインの「世界の限界」は出発点は違えど、形式は似ている気がするね。
うん、まぁ2,3割くらいしか理解できなかったのでまた再挑戦だな。

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2025年08月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 通常「善」とされている諸々の徳はつねに相対的であり、この善意志を欠けば容易に悪徳に転じる。その証拠に、たとえば「勇敢」という徳も「沈着」という徳も、悪人――たとえば計画的殺人や銀行強盗――にとってはひとつの犯罪を首尾よく遂行するための不可欠の条件なのである。通念ではこれらすべての徳が「善」とされているのは、それらが通常はすでに(暗黙のうちに)善意志を前提にして考えられているからにほかならない。たとえば、わが身の危険をかえりみずに激流に飛び込んで人命を救助する行為を「勇敢」と称するとか、不時着した飛行機のスチュワーデスが乗客を適切に誘導したことを、「沈着」と称賛するように。すなわち、通常の徳は善意志込みで語られており、それゆえにこそ、またそれゆえにのみそれらは善なのである。このことからも、善意志がやはり徳を真に徳たらしめる条件であることがわかる。

 ところで、カントは善意志というふくよかな概念を、一転して「義務」という厳しい概念でとらえる。したがって、カント倫理学の出発点をなす善意志は、ふくよかではあるが、同時にやっぱり厳格なのである。なぜそうするかというと、カントによれば善意志は義務という概念に凝縮しているからであるという。このことからも、カントのいう善意志は、よく口にされる安易な「善意」とは異なることがわかる。いわゆる「善意」には快感が前提され(「喜んで〜する」)、場合によってはそれが目的とされるのに対して、義務には少なくとも直接には快感は前提されないし、目的とされることもない(結果としての喜びや充実感をもたらすことはあるが)。この事情を理解するためには、ひとつの思考実験をしてみればよい。そして実験とは、事情をわかりやすくするために、極端なケースを想定して行われるのがよい。今の場合もそうである。なんの不自由も障害もない場合、善はひょっとして快感から実現されることもあるであろう。しかし、一切の利害を離れて、逆境にあってもなお(すなわち、場合によっては自分に災厄がおよび来たろうが)、善を実現するためには、少なくとも有限な人間にとっては、大なり小なり義務感(快感とは逆の感情)が前提され、それをもって臨む以外にはないのである。このことからも、善意志を義務の概念に還元するカントの意志は理解されうる。

 われわれにでき、また為すべき唯一のことは、幸福になることではなく、ただ道徳性(徳)の研鑽によって幸福に値する人間になることである、と。道徳が答えられるのはそこまでである。もちろん、だからといって、道徳性が幸福を約束するわけではない。道徳性は意志に懸かっているが、幸福の実現性には意志を超えた無数のファクターが控えているからである。それゆえに、幸福は「希望」に属する問題であり、宗教に託される以外にないものである。そのとき、希望は「信仰」という意味になる。

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2022年07月04日

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