【感想・ネタバレ】ミシェル・フーコー ――近代を裏から読むのレビュー

あらすじ

フーコーは、私たちが自明視する世界のありようを、全く違ったしかたで見せる。最高傑作『監獄の誕生』を糸口にフーコーの思考の強靱さと魅力を描き出す。正常と異常の区分を生み出す「知」の体系と結びつき、巧妙に作用する「権力」。そうした秩序が社会の隅々にまで浸透する近現代の先に何を見定めたのか。革命的入門書。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

・18世紀の犯罪
フーコー先生の指摘「18世紀の犯罪は従来のイメージと異なり、17世紀ほど暴力的なものではない」というのが、すごく興味深かったです。
具体的には、「飢えた赤貧の人々が暴走する形で起こっていた殺人や傷害など身体への危害を伴う犯罪が18世紀には減少し、また大規模な強盗団や武装した密輸団なども姿を消しつつあった。これらの犯罪は、人目を偲んだ少人数の巧妙な犯罪や職業的な悪党による詐欺や盗みへととって代わられつつあった(p79)」だそうです。
レミゼではパリでのテナルディエやパトロン・ミネットもまさにそうなので、ユゴー先生は当時のパリの犯罪について的確に描写しておられたんだなと思いました。

・犯罪構造の変化の理由(p80)
前項の犯罪の変化について、フーコー先生は取り締まる側(司法装置)が17世紀以降変容していたことに起因するのではと指摘されてるそうです。
それまでは司法装置は「暴力的な犯罪にそれを凌駕する力の行使で臨む」方法をとっていたそうですが、17世紀以降は多様で巧みな介入で犯罪に対応し始めたそうです。
具体的には「放浪の厳重な取り締まり(『狂気の歴史』に詳しいそうです)」「小さな違反を見逃さない方の網目の構築」「ポリスの装置の導入による、大掛かりな犯罪組織の追求と撲滅」などなそうです。このポリスについては、のちの章でまた詳しく解説がありました。
こうした司法の変化と社会自体の変化から、犯罪は「綿密に計算されたプロの小規模集団による、人目を忍んだ商品や金品の搾取」の方向に変わっていったという指摘でした。パトロン・ミネットですね。

・犯罪と刑罰
「処罰とは罪を犯した本人より、将来犯罪に走るかもしれない一般大衆に向けたもの」というベッカリーア先生の啓蒙主義的刑罰思想に、ふむふむ確かにと思いました。犯罪に対して刑罰が軽過ぎれば人々はチャンスを捉えて犯罪を繰り返し、逆に重すぎるなら「恣意的な権力行使」と非難され、また刑罰と犯罪の相関関係が傍目に分からなければ、同じ非難を受けたり抑止力を欠いたりする危険がある、とのことです。
刑罰の軽重についてはレミゼ第1部でのバルジャンも、「俺は確かに盗みという悪事はした、だが刑罰が重すぎる」と恨んでましたね。彼の場合は脱獄しまくったので刑期が伸びたんですが。

・ポリス(行政警察)
私もよくわかってない話なので、このテーマの書籍も読みたいです。
フランスの警察活動は1795年の「罪刑法典」に基づいて司法警察(Police judiciaire)と行政警察(Police administrative)の二つに分かれているそうです。1808年の治罪法制定により法律上の区分は廃止されたものの理論上は区分が維持され、現行のフランス刑事訴訟法でも両者は区別されているそうです。
行政警察活動は「道路交通の管理」「路上デモ活動の整理」「暴動鎮圧部隊の配置」、司法警察活動は「犯罪被疑者の追跡と逮捕」「司法調査の各局面での被疑者の尋問」「証拠の収集」「捜索令状の執行」だそうです。
レミゼの警部殿のされてるお仕事は主に司法警察のお仕事な気がしますが、よく分からないのでもっと勉強したいです。

『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』での話に戻ると、ポリスは「社会の隅々でくり広げられる日常生活のあらゆる場面、些細な出来事、闇にまぎれて姿を隠しかねない人々を、間断なくきめ細かに掌握するための装置」であり、その目的に適っていたのが規律のテクニックだそうです。
規律がポリスにとって最良の道具であり、王権が行政を通じて国土中に広めようとしたポリスの装置が、規律が一般化するための強力な回路になっていったんだそうです。
『監獄の誕生』によれば、ポリスは規律が普及する契機の一つに過ぎないそうです。家庭や学校、監獄、仕事場など様々な場所に規律が浸透していきましたが、それらのどれか特定の場だけが規律と同一視できるわけではないそうです。

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2025年07月16日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ダミアンの残酷な処刑風景 p冒頭

【記号としての刑罰】p97
『言葉と物』第3章「表象すること」第4節「二重化された表象」
刑罰は犯罪の記号、あるいは記号の中のシニフィアンと呼ばれる能記。刑罰を見れば人の頭の中で犯罪が思い浮かぶということは、犯罪とは刑罰という記号において意味されるもの、すなわちシニフェ(所記)である。

[古典主義時代末期、近代の入り口にあたる18世紀後半に存在した刑罰の3つの体系]p99
①時代遅れになりつつあった身体刑の体系。
②刑罰と犯罪を記号として結びつける啓蒙主義の体系。
③監獄。

【「統治性」の研究】p146
近代国家―ポリス―規律権力

【ディスクール】p154
国王封印状を求める嘆願書の中の呻きや悲嘆、浮浪者の数や状況を記録する文書、そして施療院に収容された者立ちについての報告、売春婦による治安当局への密告の記録、罪人の尋問調書も、こうした「知」の一部をなしているのだ。どうまとめたらいいのか分からないこれらの言葉の集まりを、フーコーはとくに「ディスクール(言説)」と呼ぶことがあった。

【国家理性】p162
国家理性とは、近代主権国家がキリスト教普遍帝国から自立を要求するための一つの表現であったことが分かる。

【生権力とは】p184
規律権力について調べを進める中で見出された、生をめぐる権力。この権力は、法を楯にして剣を振りかざし、死をちらつかせて被治者を脅すのではなく、生そのものに介入し、コントロールし、支配し、生きて生活する人間により多くのものを産み出させるような権力だった。⇔君主の絶対支配が握る生殺与奪権。
Cf. 金森修『<生政治>の哲学』

【フーリエ主義】p200
シャルル・フーリエ
「普遍の僭称」(とりわけブルジョワ的な尺度の規範)を反転させることで、既存の価値観が政治的な構築物であること、権力作用の結果であることを示した。

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2013年06月20日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 フランス現代思想家の入門書の中でも類書が最も多いのはミシェル・フーコーだろう。このことはそれだけフーコーの思想が注目されていると同時に、単純化や歪曲されて受容されていることの証左かも知れない。もちろん優れた先行研究があることを全否定するつもりは毛頭ない。
 本書が注目するのは、中盤の労作『監獄の誕生』だ。これをフーコーのひとつの到達点と見なし、議論を配置する。初期の『言葉と物』が認識構造を問うものだとすれば、周到な「まなざし」を丁寧に分析したのが『監獄の誕生』であり、それは後期の『性の歴史』へ展開・応用を予告する周到な準備でもある。通常『言葉と物』ないしは『性の歴史』が重宝されるという受容状況があるが、認識と実践が交差する『監獄の誕生』抜きには、フーコーの関心や実践(例えば「監獄情報グループ(GIP)」の立ち上げ)を理解することは不可能だ。
 権力はどこに存在するのか--。
 彼岸に存在するのではない。フーコーは可視化された権力よりも自ら服従していく規律権力こそが問題だと喝破した。読んでいてすがすがしい一冊だ。後に展開される統治性や生権力との関わりについても丁寧に著者は描写する。フーコーの権力論は、フーコー自身がその実存として関わったという経緯を情熱を込めて描く手法には感動さえ覚えてしまう。

 まなざしの網の目から抜け出すことは現実には不可能だろう。そしてひとつの網から抜け出したとしても十重二十重に再構成されるのが世の中の常なのかも知れない。しかしそうした不可避の権力性にどのように対峙し“続ける”ことが可能なのか。
 一見すると取り囲みに無力になってしまう自分が存在する。しかし著者が読み直すフーコーの足跡を辿ると希望を見出すことができる。フーコーの入門書はあまた存在するが、まずは本書を最初の一冊としてすすめたい。

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2012年04月15日

Posted by ブクログ

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やっと読み終わった…。1度目は????????2度目で???!!!。筆者は章ごとの概要を図示しながら読み進めてようやくフーコーの頭の中を少しだけ理解できました。本の帯には「入門書で感動したことがありますか?」と書かれているけど、この入門書の解説本がほしいくらい(笑)ただただ丁寧に読み進めていけば理解できない事は決してないので頑張って負けずに読み進めてほしい。後半の統治性・国家理性・生権力の行を理解出来たら完璧です!色々書いたけど、この本を読んでから『監獄の誕生』を読むと理解が格段に増しますよ!

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2011年10月21日

Posted by ブクログ

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 「現代思想入門(千葉雅也著)」「疾風怒濤精神分析入門(片岡一竹著)」「ミシェル・フーコー 自己から抜け出すための哲学(慎改康之著)」からの流れ読みだ。
 フーコーの思索への尊敬と親しみを感じている著者が学生に講義するように口語調で語られている。「フーコーは専門分野を持たず、永遠のアマチュアだった。(後略)」(39頁)、ここでは短いがフーコーへのアプローチの方法がさりげなく示唆されている。なるほど。
 フーコーの解らなさを深掘りすることで、世の中を見る新たな「眼」が得られるということだ。
  

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2022年06月22日

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